2007年12月31日月曜日

村永清(仙覚万葉の会会長)企画・編『おがわまち万葉の歌めぐり』

おがわまち万葉の歌めぐり

万葉集と小川町への思いの結晶
��村永清企画・編『おがわまち万葉の歌めぐり』NPO法人仙覚万葉の会、88頁、2006年2月刊)

鎌倉時代の学僧・仙覚(せんがく)が、最初の本格的な万葉集注釈書を完成させた、埼玉県小川町の地で、『万葉集』に関する、新しい本が誕生しました。

68首の万葉秀歌に、簡潔な解説を加え、写真も添えた、手のひらサイズの美しい本です。写真は、全て小川町に関わるものです。

奈良の都から、はるかに遠い関東の風土の写真であるのに、1枚1枚の写真を見ていると、『万葉集』の世界が、心の中に広がってきます。

それは、1冊全体を貫く、『万葉集』への深い思いと、小川町への強い愛情が可能にした、奇跡と言えます。本書は、NPO法人仙覚万葉の会の、村永清さん、中谷功さんが先頭に立って、小川町の皆さんが、自分たちの力でまとめ上げたものです。

今、本書に取り上げられた68首の万葉秀歌を記した、「万葉モニュメント」(歌碑)が、、小川町のメイン・ストリートなどに建てられています。読者は、本書をポケットに入れて、緑と水の美しい、和紙の里・小川を訪れたくなるに違いありません。

私も、本書冒頭に、仙覚の和歌11首を紹介しました。理知と情緒が一体になって、独特の、冴え渡る世界を作り上げた仙覚の歌も、是非味わってみてください。


 昆陽の池の 葦間の水に 影冴えて 氷を添ふる 冬の夜の月
 (こやのいけの あしまのみづに かげさえて こほりをそふる ふゆのよのつき)

 〔訳〕昆陽の池の、葦の繁みの間々の水に、澄んだ白い光が映って、あたかも氷をそこに添えたかのように見せている冬の夜の月よ(昆陽の池は、摂津国の歌枕。今の兵庫県伊丹市の南部から尼崎市の北部にかけての一帯にあった池。奈良時代の僧・行基が造ったとも言われる)。


【目 次】
一 はじめに
二 仙覚万葉の里と散策のみち
三 万葉の時代区分と著名歌人
四 仙覚律師の和歌
五 万葉モニュメント
六 万葉モニュメントの選歌基準と選歌の経緯
七 おわりに


*本書は、流通経路に乗らない本でしたが、2007年で既に在庫切れとなっています。国立国会図書館、埼玉県立図書館、小川町立図書館で見ることができます。青山学院大学の私の研究室にも、置いてあります。
*村永さん、中谷さんのもとに、再版を切望する声がたくさん届いています。

2007年12月25日火曜日

青山学院大学情報(授業予告)

2008年度に、「万葉集と古代の巻物」というテーマに関連して、私は、次のような授業の開講を予定しています(ともに、渋谷の青山キャンパスにて開講)。

■「日本書物史における元明朝」(大学院・上代文学演習)〔金曜日午前。対象=大学院生〕

『万葉集』巻1・2の増補、『古事記』の完成、『風土記』編纂の下命、『王勃詩序(ほうぼつしじょ)』(正倉院蔵。継色紙に書かれた、初唐の詩人・王勃の序文集)の製作、長屋王による『大般若経』(600巻)の書写などが行われ、染織担当の官司も本格的な活動を開始し、日本古代の書物文化が一挙に花開いた、8世紀初頭の元明(げんめい)女帝の時代について、総合的に考察します。

■「古代書物の調査・研究」(学部・日本文学演習)〔火曜日午前。対象=3、4年生〕

巻子本の特質と歴史、またその調査方法について、画像や複製本を使いながら、具体的に解説します。その上で、受講者自身が、青山学院大学の所蔵する、日本古代の書物の複製本を、詳しく調べます。自分の目で見、自分の手で触れながら、巻子本の調査・研究の方法を、実践的に身に付けてもらいます。
1000年の時を経てきた、貴重な古代の仏教経典の断簡(実物。青山学院大学蔵)の調査も行う予定です。

青山学院大学


青山学院大学情報(入試)

私の所属する、青山学院大学の学生募集についての情報を、お知らせします。

��1)青山学院大学大学院文学研究科日本文学・日本語学専攻
(*詳細は、青山学院大学大学院入試・入学案内ホームページ参照)
①募集: 博士前期課程(秋入試・春入試〈今回〉あわせて6名)、および博士後期課程(2名)
②出願: 2008年1月11日(金)~16日(水)
③筆記試験・面接: 2008年2月22日(金)
(*2008年度入試から、筆記試験と面接を1日で行います)
④合格発表: 2008年3月1日(土)
※青山学院大学・大学院生・卒業生も、他大学・大学院生・卒業生も、全く同じ資格で受験できます。

(2)青山学院大学文学部日本文学科科目等履修生
(*詳細は、青山学院大学入試・入学案内の「科目等履修生」の項目参照)
①募集: 社会人等若干名(受験資格については、「募集要項」参照)
②出願: 2008年3月6日(木)・7日(金)
③選考日: 2008年3月13日(木)
④合格発表: 2008年3月17(月)


2007年12月23日日曜日

敦煌の竹

幡
(写真=スーザン・ウィットーフィールド博士の著書から。右が幡)

先の記事「竹の文化と巻物」で、竹の生育しない敦煌で発見された巻物に、竹の発装が、しばしば見えることを紹介しました。

多数の貴重な写本が発見された、敦煌・莫高窟の第17窟からは、写本の発装以外にも、加工された竹が、いくつか見つかっています。

それらは、現在、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に保管されています。その中には、博物館番号 LOAN:STEIN.481:1to3 の3本のように(Museum Number のボックスに LOAN:STEIN.481:1 と入力してください)、細く(最も長いもので、幅6㎜)、薄いものもあります。
(*ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の画像では、これらの厚さはわかりませんが、実際に調べてみたところ、敦煌写本の発装の厚さに近いことがわかりました。)

これらは、その長さ・幅から、巻物の発装ではないと思われます。あるいは、幡(ばん。旗)のような、仏教儀礼で用いられる用具の、一部であった可能性があります。

巻物に限らず、仏教文化に関わる、さまざまな要具を通じて、中国南方の竹の文化が、北方の砂漠地帯の敦煌に伝わっていたことが窺えます。

敦煌写本の巻物自体を詳しく研究することにあわせて、第17窟の遺物全体を見据えながら、巻物の装丁の、材料の供給源や技術など研究することも、今後重要な課題となるに相違ありません。


2007年12月20日木曜日

『文字のちから』書籍版

文字のちから(書籍版)


「文字のちから」、再び
��国文学編集部編『文字のちから』学燈社、2007年12月刊、194頁、1,890円〈税込〉)

今年8月に、雑誌『国文学』臨時増刊号として出版された「文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―」が、このたび、書籍として刊行されました(私の論文や翻訳も収めています)。

雑誌の時にも、一時在庫切れになるほど、好評を得ました。書籍となって、多くの読者の目に留まることを、心から願っております。

本書『文字のちから』は、日本文学に関する基礎的研究(写本・刊本に関する研究)の、分厚い研究の蓄積を踏まえながら、「文字」や「書物」の本質と歴史を考察したものです。

『万葉集』『源氏物語』から三島由紀夫にいたるまでの、日本を代表する文学作品について、「文字」や「書物」という視点からの、最新の研究も収録しています。「書物」としての、日本の文学作品への、わかりやすい手引きとなっています。

さらに、古筆学、国語学、文化史、書物史、写経研究、敦煌研究、美術工芸史、修復などの諸分野の、国内外の研究者や修復家たちが、それぞれに、「文字」や「書物」への道案内をしています。

私たちは、普段、文学作品を活字で読んでいます。しかし、写本や手稿の、手書き文字にまで立ち戻ると、活字からは想像もつかないような、生き生きとした、作者や書写者の息遣いが浮かび上がってきます。本書は、それを具体的に示しています。

そして、「古典」が、決して、命なき静止したものではなく、書写される度に、新たな命を得てゆく“生きもの”であることがわかります。

また、日本文化の基礎に平仮名があることは、誰もが考えることです。それでは、「平仮名」とは、どのような文字なのでしょうか。本書によれば、「平仮名」は、単に日本語の音を表すだけでなく、多様な字母・字形を併用したり、余白の美を重んじたりするなど、装飾性をその本質とする文字です。音節文字としては、極めて特異なものなのです。

(*本書に収められた論文の一つは、中世の古活字において、この「平仮名」の美と、活字の論理を両立させるために試みられた、目を見張るような工夫を、鮮やかに跡付けています。)

今日、ワープロ、パソコン、携帯電話が、急激に普及する中で、手書き文字の力強さが見直されています。今年一年の間に、多くの手書き文字関係の本が出版されましたが、本書は、古典の写本や、近代文学作品の手稿という、豊かな遺産と、その手堅い研究の蓄積があることとを、改めて、私たちに思い出させてくれます。

加えて、本書には、古筆学という新しい研究分野を打ち立てた、小松茂美先生のインタビューも収められています。研究と人生が一体となった、60年の歩みには圧倒されます。それだけに、小松先生の、現代の文字についての危機感の表明は、大変重いものがあります。

また、かつてないほどに、思い切って「国文学」に踏み込んで発言をされた、書家・石川九楊氏のインタビューも読み応えがあります。

2世紀から21世紀まで、営々と培われてきた、日本の文字文化と書物文化に、真正面から取り組んだのが、本書です。


【目 次】
〈インタビュー〉文字とはなにか―日本の文字文化を通じて(石川九楊)

文字の刻む歴史
政治システムとしての漢字(矢嶋泉)
かなの空間(文字と余白)―「香紙切」筆跡分類の場合(高城弘一)
古活字版のタイポグラフィー(鈴木広光)
梵字の宇宙(松枝到)
〈インタビュー〉古筆学に生きる(小松茂美)
〈エッセイ〉天恵―『万葉集』の文字との五十年(稲岡耕二)

写本の魅力と研究課題―古典をより深く味わうために
萬葉集―漢字とかなのコラボレーション(小川靖彦)
古今和歌集―定家と書写(浅田徹)
源氏物語―二つの源氏物語の相剋(定家本と河内本)(新美哲彦)
平家物語―共存する複数の「平家物語」(佐伯真一)
奥の細道―未完の古典(芭蕉の推敲)(金子俊之)
近代文学の手稿―三島由紀夫の場合(井上隆史)(*新資料紹介あり)
〈エッセイ〉写本との出会い(井上宗雄)

文字と写本を味わうための手引き
筆記具(小松大秀)
和紙と筆触―装幀に使われている書写料紙(吉野敏武)
敦煌写本とそのデジタル化・保存―国際敦煌プロジェクト(IDP)の活動(スーザン・ウィットフィールド)
奈良朝写経の字すがた(赤尾栄慶)
かなの字母とその変遷(矢田勉)
古筆切の世界(佐々木孝弘)
書物研究の学際的好機(レズリー・ハウザム)
グーテンベルクの活字を巡って―デジタル技術とHUMIプロジェクトについて
保存修復と修復家の私考(中塚博之)
図書館・美術館・博物館・文庫案内(五月女肇志)


【お詫び】
*私の論文「萬葉集―漢字とかなのコラボレーション」中に、2箇所の誤植があります。ご訂正いただければ、幸いです。
89頁下段 図2 翻刻1行目 (誤)ひとゝとをしけみ  (正)ひとことをしけみ
89頁下段 図3 翻刻2行目 (誤)こゝろはかりせき  (正)こゝろはかりはせき


竹の文化と巻物

発装
(写真=現代の巻物の表紙・発装・紐。発装は表紙の布に包まれています)

発装が示す巻物文化の形成と伝播

巻物の表紙の端には、表紙の破れやめくれを防ぐために、「発装(はっそう)」といわれる、細長い竹、または木を、貼り付けます。「」も、「発装」に巻き付けて、固定します。

この、表紙の端の、小さなパーツから、巻物文化に関する興味深い事実を、読み取ることができます。

敦煌写本の発装は、木製と言われていましたが、実際には、数多くの竹製の発装の例を見ることができます。竹を発装に用いることが普通である、日本の巻物を見慣れた目からすると、これは、当たり前のことのように見えます。しかし、そうではありません。

竹が生育できるのは、年間の平均気温が10℃以上で、最寒月の平均温度がマイナス1℃以上の地域です。また竹が、天然更新(無性繁殖)によって生育を維持するためには、年間で1000㎜以上の降水量が必要です。特に温帯地域では、1ヶ月に100㎜以上の降水量が、年間で最低2ヶ月必要となります(以上は、内村悦三氏によります)。

敦煌では、夏の暑さは40℃を越して厳しいものの、冬はマイナス20℃に達し、また、雨は年に1、2回で、年間降水量は40㎜に止まり、さらに、間断なく、激しい西風が吹きつけます(池田温氏・大橋一章氏によります)。このような敦煌では、竹は育ちようもありません。

敦煌で発見された写本に、竹製の発装を数多く見ることができるということは、驚くべきことです。それは、①写本自体が、中国の中央部で製作されたものであること、または②敦煌で製作された写本であるとするならば、発装用の竹を、わざわざ中国南部から入手していたことを示しています。

もちろん、しなやかで強い竹は、発装の素材として、いかにもふさわしいものです。しかし、敦煌、さらに隋・唐の都のあった長安などで、もっと容易に手に入れることができる、適当な木材も、あったかもしれません。竹こそが、巻物の発装としてふさわしい、という意識が、巻物を製作する人々の間に、根強く存在していたように思われます。

(*内村悦三氏の「世界の竹の天然分布と生育型」の図では、長安(現・西安)は竹の生育地域からは、はずれています。)

「竹海」ということばがふさわしいほどに、竹が繁茂し、竹資源に恵まれた、中国南部では、豊かな竹の文化が育まれました。巻物の発装に竹を用いることも、南北朝時代(5~6世紀)、江南地方に都を置いた南朝において、確立された装丁形式であったのでしょう。

この装丁形式が、北朝に、また北朝から出た隋、これを継いだ唐の都・長安に、さらに、遠く、北方の砂漠地帯のオアシス都市・敦煌にまで及んだのです。

東方の古代日本も、この装丁形式を、意識的に踏襲したと考えられます。日本には、その気候・風土が、竹の生育に適しているという好条件もありました。

敦煌写本に見られる、数多くの竹の発装は、この装丁形式が、規範として、いかに尊重されていたかを示しています。そして、あるいは、竹の発装には、江南地方で花開いた文化への憧憬も、込められているのかもしれません。


*敦煌写本の発装に竹が用いられていることを、その頃、北京で仕事をしていた、かつての勤務先の大学の卒業生に話したところ、「竹の採れない北京では、絵に描いて、建物の壁にかけています。それは竹への強い憧憬を表現したものだと思います」ということでした。

[主な参考文献]
��.内村悦三編『竹の魅力と活用』創森社、2004年
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.大橋一章『【図説】敦煌 仏教美術の宝庫莫高窟』ふくろうの本、河出書房新社、2000年
��.〈DVD〉中国文化交流中心企画・制作『Oriental Bamboo Country 東方竹国』A TV Documentary、コニービジョン発売、コニービデオ販売、2003年


2007年12月16日日曜日

巻物用語事典(1)

巻物用語

巻子本各部の名称

��日本語の用語は、もっともわかりやすいものを掲げました。
��〈  〉は別称、〔  〕は中国語、[  ]は英語。
��#を付けたものは、IDP(国際敦煌プロジェクト)のデータベースで、敦煌写本の検索をする際に用いられている用語。

表 紙(ひょうし) 〈褾紙〉〔褾、首、包頭〕[Cover]
■巻首を保護する紙、または布。
紙の場合は、本紙より厚手の紙、または二枚重ねにした紙を用いた。仏教経典などの正式な書物では、多くの場合は、黄色に染められた。紫、紅、紺、縹、緑などに染めたもの、さらに金銀を散らしたものなど、極めて装飾性の高いものも作られた。布の場合は、羅、綾、錦が用いられ、後には緞子(どんす)も用いられた。

表紙は、当初、本紙を保護する機能的なものであったが、後には、一種の美術工芸品に発達した。
 

発 装(はっそう) 〈八双、押え竹〉〔天杆〕[#Stave, Retaining Rod]
■表紙のめくれや破れを防ぐために、その端に貼り付けられた細長い竹、または木。
敦煌写本では、竹と木の両方の例が見られる。日本では、ほとんどの場合、竹が用いられた。
早い時期の敦煌写本では、発装は、太く、表紙からはみ出していることもあったが、やがて非常に薄く、目立たない、しかし丈夫なものとなった。


(ひも) 〈巻紐、巻緒〉〔帯〕[#Braid, Band, Ribbon]
■巻子本を、くくるもの。
発装の中央付近の、本紙側に、切れ込みを入れて、これを通して発装に巻き付ける。巻き付け方には、いくつかのパターンがあった。

①絹の織紐(細長い織物。さまざまな色の糸で織られたもの、単色のものがある)、②色鮮やかに染めた絹布を袋状にして紐としたもの、③組紐が用いられた。

紐の種類・強度・色などは、その巻子本がどのように扱われていたかを知る、重要な手がかりである。時代を遡るほど、現存する紐の例は少ない。奈良時代の遺品は、ごくわずか。


外 題(げだい) 〔外題〕[Title, Cover Title]
■表紙の外側の端に書いた題(書名と第何巻かを書く)。
本文より大きな文字で書く。正式な書物の場合は、能筆の、「題師」と言われる専門家が書いた。

敦煌写経や奈良朝写経では、多くの場合、外題は、表紙に直接書かれた。後には、小さな細長い紙、または布(これを「題簽(だいせん)」という)に、外題を書いて、貼り付けるものも現れた。敦煌写経にも、紫紙の題簽に、金字で外題を書いた例が見える。


見返し(みかえし) [Endpaper, 絵: Frontispiece]
■表紙の内側の面。
当初、表紙の内側は、何も手が加えられなかったが、やがて、外側同様に黄色に染められ、さらに、外側の黄色、本紙の黄色との調和も考えられるようになった。

装飾性の高い巻子本では、見返しに、さまざまな装飾が施されたり、絵が描かれたりした。当初、余剰の空間であったものが、美意識を最も発揮させる空間となった。


本 紙(ほんし) [Paper]
■本文を書くために用いる紙。
正式な書物では、黄蘗(きはだ)で染めた麻紙(まし)を用いた。装飾性の強い巻子本では、紫、紅、紺、縹、緑などに染めた紙を用いたり、さまざまな色の紙を継いだり、金銀を散らしたり、下絵を描いたりした。

正式な書物では、紙一枚の縦・横の規格が定まっていた。

紙の継ぎ方は、巻首側を上とする(右手前)。糊代は、2~3mm。また紙数は、奈良朝写経では、20枚を標準としていた。


内 題(ないだい) 〈巻首題〉 〔内題、首題〕[Title of the Chapter]
■本文の最初に書かれた題(完全な書名と、何巻かを記すのが原則)。
本文の最初の1行を空けて書く。

なお、これに対応して、本文を書き終わった後に、1行空けて、「尾題(びだい)」を書く。内題(巻首題)を繰り返すのが、普通であるが、省略した形で記す場合もある。

正式な書物では、内題、尾題ともに、本文と同じ高さで書いた。後に、正式な書物以外では、内題、尾題を、本文よりも高く、または低く書くものも現れた。


界線(かいせん) 〈界〉〔辺または闌(四周の線)、界(中間の線)、辺準、解行、烏絲欄、朱絲欄〕[Guideline]
■本紙に、本文を書くために引かれた罫線。本紙の上部と下部に引いたものを「横界線」、その間に縦に引いたものを「縦界線」という。
上部の界線と下部の界線の間の寸法を、「界高(かいこう)」といい、隣り合った、縦の界線の間の寸法を、「界幅(かいふく)」という。正式な書物では、界高は、20㎝前後、界幅は、1.8~2.0㎝程度となる。この寸法は、木簡1枚の大きさを踏襲していると考えられている。

界高・界幅の寸法は、巻子本の種類や年代によって微妙に変化する。

多くの場合、界線は墨で引く。早い時期の巻子本では、濃い墨で、太く、おおらかに引いているが、後には、薄墨の、極めて細い線で、正確に、しかし目立たぬように引くようになる。

界線は、本紙が継がれた後で引かれた。

正式な書物では、界線を引くのが原則。それ以外の書物では、これを省略することもあった。平安時代以降の、日本の歌集の写本では、界線は次第に引かれなくなる。


(じく) 〔軸〕[Roller]
■表紙・本紙を巻きつけるために、本紙末尾に貼り付けられた木の棒。日本では、多くの場合、杉や檜を用いた。

早い時期の敦煌写本の軸は、1本の棒で、その全体、または両端を、赤、または黒の漆で塗っている(これを「棒軸」という)。小刀で削って、粗く円柱形にしたものもある。

巻子本が装飾性を強めるにつれ、軸棒(軸木)の両端に、「軸端(じくばな)」(「軸頭」(じくがしら、じくとう)とも)を嵌め込んだタイプの軸も現れた。

「軸端」には、紫檀(したん)、黒檀(こくたん)、花櫚(かりん)、白檀(びゃくだん)など、東南アジア産の、表面の美しい木材や、ガラス、瑪瑙(めのう)、水精(すいしょう)、瑠璃(るり)、金銅などが用いられた。奈良朝写経には、油に、赤、または白の絵具をまぜて塗った、「密陀軸(みっだじく)」も見られる。小さな「軸端」に、中国(そして日本)と東南アジアの交易の歴史を窺うこともできるのである。

さらに紫檀に、他の木材や螺鈿(らでん)を嵌め込んで文様を表したもの、草花などの絵を描いたものもある。

「軸端」の形には、撥型(トランペット型)、丸型(「頭切」(ず(ん)ぎり))、角型、八角型などがあった。「平家納経」には、五輪塔型、宝珠型など、それ自体で精緻な工芸品といえる、多彩な形の軸端を見ることができる。

軸の直径は、1㎝前後であった。現代の日本の、巻子本の複製本や、書作品の装丁に用いられるものに比べて、はるかに細く、繊細なものであった。


[主な参考文献]
��.小川靖彦「書物としての万葉集」『[必携]万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、
学燈社、2002年 (*敦煌写本の調査以前のものです。今回、調査結果を踏まえて、新たな情報を加えました。)
��.Fujieda, Akira. "The Tunhuang Manuscripts: A General Description." Zinbun 9(1996).
��.石田茂作『仏教考古学論攷』3(経典編)、思文閣出版、1977年
��.栗原治夫「奈良朝写経の製作手順」日本古文書学会編『日本古文書論集』3、吉川弘文館、1988年
��.頼富本宏・赤尾栄慶『写経の鑑賞基礎知識』至文堂、1994年
��.銭存訓『中国古代書籍史―竹帛に書す―』(宇都木章・沢谷昭次・竹之内信子・廣瀬洋子訳)、法政大学出版局、1980年
��.劉国鈞・劉如斯『中国書物物語』(松原弘道訳)、創林社、1983年
��.Du Weisheng. "A Short Description of Eight Dunhuang Forgeries in the National Library of China."Dunhuang Manuscripts Forgerieis. Ed. Susan Whitfield. London: The British Library, 2002.


2007年12月7日金曜日

総合芸術としての巻子本

『源氏物語』に見える巻物の美

『源氏物語』の「梅枝(うめがえ)」の巻に、美しい巻子本(巻物)が登場します。兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)が、光源氏に贈った、秘蔵の『古今和歌集』は、次のように描写されています。

  延喜帝(えんぎのみかど)の、『古今和歌集』を、唐(から)の浅縹(あさはなだ)の紙を
  継ぎて、同じ色の濃き紋(もん)の綺(き)の表紙、同じき玉(たま)の軸、緂(だん)
  の唐組(からくみ)の紐(ひも)などなまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじ
  う書き尽くさせたまへる、 ……
(新編日本古典文学全集『源氏物語』③、421頁)

 書は、醍醐天皇ご自身。
 料紙は、中国製で、藍で染めた、薄青色の紙。
 表紙は、同じ青色ながら、より濃い色の模様のある、織物製。
 軸は、薄青色の玉の軸。
 (*「正倉院文書」では、「玉軸」は、ガラス製の軸を意味します。)
 紐は、白と、いろいろの色を交互に配した、唐組の組紐。
 (*「唐組」は、今日では、斜行の向きを、定期的に反転させて、菱形を連続させて組まれた
 組紐を言います。)

 そして、巻ごとに、書風が変化してゆきます。

薄青色を基調としながら、華やかな紐でアクセントを付けた、清楚で、優美な巻物の姿が、浮かび上がってきます。光源氏が「尽きせぬものかな(いつまでも興がつきませんね)」と、嘆声を上げたのも、もっともです。

古代の巻物は、①書の技術、②紙の技術(料紙・表紙の抄造と染色・装飾)、③軸の工芸的技術、④紐の染織技術、⑤それらを「書物」に仕上げる造本の技術、の交響楽であると言えます。そして、この交響楽を指揮するのが、その時代の美意識です。

巻物を研究するためには、巻物を構成するもの、ひとつひとつの技術を探究するとともに、それらが、全体として、どのような「書物」の姿を作り上げているのか、を考察することが大切となります。

次の記事では、「書物」としての巻物を構成する、各部分についての、簡単な解説を加えます。 描かれた巻物2



��主な参考文献]
��.河田貞「わが国上代の写経軸」『仏教芸術』162、毎日新聞社、1985年 (*「玉軸」について)
��.木下雅子『日本組紐古技法の研究』京都書院、1994年 (*「唐組」について)

2007年12月3日月曜日

万葉集本文のフォルム

万葉集のフォルム1

多層的な情報複合体

「書物」としての『万葉集』は、単純に歌を集めたものではありません。『万葉集』の紙面は、平安時代以降の歌集と比べると、かなり複雑なものとなっています。

【1】巻子本(巻物)としてのフォーマット

【2】歌集としてのフォーマット………これには、まず歌を分類する項目があります。次に、歌については、歌のみが収録されるのではなく、漢文で記された、歌に関わる情報も添えられます。しかも、その書式は、歌によって、さまざまです。

【3】注記………原資料からの注記、編者による注記、さらに後人(奈良時代、場合によって平安初期にまで及ぶ。複数の人々)による注記が、多様な形式で書き込まれています。

『万葉集』は、多層的な情報複合体となっています。

以下、『万葉集』原本の紙面に即して、簡単な解説を加えます。
(上の写真参照)

①内題(巻首題)【1】
・中国文化圏における、正式な「書物」である巻子本では、本文料紙の冒頭と末尾に、必ず書名と巻数を記します。初めの1行を空けて、2行目に巻首題(かんしゅだい)を書き、3行目から本文を始めます。本文が終わった後に、1行を空けて尾題(びだい)を書きます。


②部立(ぶだて)【2】
・歌の内容による分類。『万葉集』では、「雑歌(ぞうか)」「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」が、最も基本的な部立です。これらを、まとめて、「三大部立」と言います。


③標目(ひょうもく)【2】
・「標目」は、一般には、目じるしを意味します。万葉集研究では、巻1、巻2に見える、歌が制作された天皇代を示すものを指します。『万葉集』巻3以下には、置かれません。もちろん、『古今和歌集』以下の、平安時代の歌集にも見えません。「標題」と言う研究者もいます。

・「御宇」の「御」は、統治する意で、「宇」は、天地四方を意味します。「御宇」は、中華国家の皇帝による、全世界の支配を示すことばとして用いられ、日本では、『万葉集』以外では、外交文書に、多くの例を見ます。

・なお、天皇名は、「何宮御宇天皇代」と、宮号(きゅうごう。宮殿名)で示されます。

��*神武、綏靖、安寧、懿徳などの天皇名は、「漢風諡号(しごう)」(中国風の、贈り名)と言います。8世紀末に漢学者・淡海三船(おうみのみふね)が、撰びました。)

④下注(かちゅう)【3】
・標目や題詞などの下に、後人が、小字で書き入れた注記。写真では、標目の下に、天皇の尊称を書き入れています。『日本書紀』『続日本紀』などの正史には見えない、作者に関する伝記事項が書き込まれていることがあります。


⑤題詞(だいし)【2】
・歌の前に置かれた、a作者、b制作時期、c制作事情などを、漢文で記したもの。『万葉集』独特のものです。『古今和歌集』以降の歌集の、「詞書(ことばがき)」に当たりますが、「詞書」中には、作者名は記されません。作者名は、「位署(いしょ)」として、独立します。なお、「詞書」は、平仮名で書かれます。

・題詞には、詳細で、公式文書のような印象を与えるものから、ごく簡単で、メモ的なものまで、さまざまな書式があります。『古今和歌集』以下の勅撰和歌集の「詞書」の書式が、比較的統一されているのとは、異なります。


⑥歌本文【2】
・本来、歌本文は、漢字で書かれています。そして、『万葉集』原本では、句読点も、スペースも置かずに、書かれていたと推測されます。


⑦反歌頭書(はんかとうしょ)【2】
・多くの長歌には、短歌が伴っています。長歌と短歌それぞれに固有な表現力を引き出しながら、一つの表現世界を作り上げるという形式が、『万葉集』の時代には、好まれました。

・このような、複合的作品中の短歌を、「反歌(はんか)」と言い、その直前の行には、反歌であることを示す、「反歌頭書」が、置かれました。

・「反歌」と記すのが、一般的ですが、「短歌」と記す場合もあります。8世紀には、反歌頭書を置かない作品も、見られるようになります。


⑧左注(さちゅう)【3】
・歌本文の後に、原資料の筆録者、その巻の編者、さらには、後人によって記された、作者、制作日時、制作場所、制作事情などに関する考証や但し書き、また歌の出典などを記したもの。

・後人による左注は、歌本文の読み方を方向付けたり(それが、時として、その巻の編集時の意図と矛盾する場合もあります)、正史である『日本書紀』などとの間にリンクを張ったりしています。


⑨異伝(いでん)【3】
・後人によって書き入れられた、別資料に見える少異歌(ほとんど同じ歌でありながら、微妙に歌句の異なる歌)や、その歌と同時作の歌など。

・一首として全体が書き入れられる場合も、また、異同のある歌句の次に、割注で書き入れられる場合もあります。
(下の写真の、柿本人麻呂「近江荒都歌」〈巻1・29~31〉には、8箇所も異伝が書き入れられています)

万葉集のフォルム2


[主な参考文献]
��.東野治之『長屋王家木簡の研究』塙書房、1996年 (*「御宇」について)
��.山口博『王朝歌壇の研究―文武聖武光仁朝篇―』おうふう、1998年 (*「御宇」について)


2007年11月30日金曜日

アジサイの学舎にて

アジサイの校章

11月29日(木)に、千葉県立津田沼高等学校で、『万葉集』と書物について、お話する機会を得ました。高校2年生を対象とする、模擬授業・学部説明会に参加しました。

津田沼高校は、アジサイの花を校章としています。アジサイは、『万葉集』にも、2首詠まれています。

 あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ
 (あぢさゐの やへさくごとく やつよにを いませわがせこ みつつしのはむ)
                               (巻20・4448)橘諸兄
 〔訳〕アジサイが重なり合って咲くように、いつまでもいつもでも長生きしてください。
 わが君(宴の主人の、丹比国人〈たじひのくにひと〉)。アジサイを見るたびに、
 わが君のことを思いましょう。

珍しい、センスあふれる校章と思いました。

授業は、『万葉集』巻一巻頭の雄略天皇の歌のことばを、味わい、さらに巻子本という形態を手懸かりに、この歌が巻頭に置かれた意味を考えるものでした。やや欲張りすぎて、高校生には少し難しかったようです。

しかし、110分の間、静かに耳を傾け、私の質問についても、一生懸命考えてくれました。たった17句の歌のなかに、たくさんの意味が込められていることに驚いた、などの深い感想も聞かれました。

それにしても、中学生・高校生などの、若い人々が、古典に接する機会が減っていることを、改めて残念に思いました。

社会の動きが速くなる中、大人は、若い人々に、ついつい、明日の安定や、目に見える技術を、求めがちになっています。若い人々が、古典、文学、ことば、また文化を学ぶことの意義について、じっくり考えることが、できにくくなっているようです。

短い時間でしたが、津田沼高校の皆さんが、すこし立ち止まって、人間やことばについて、考えるきっかけとしてくれたならば、嬉しい限りです。 


2007年11月28日水曜日

万葉集巻一の読み手

持統天皇系皇統系図

声と文字の間
��この記事は「万葉集巻一の書記法(2)」に続きます)

『万葉集』巻1原撰部には、漢字の視覚的印象を大胆に利用した表記が見られます。先の記事「万葉集巻一の書記法(2)」では、筆録者が、その歌を「記憶」していたために、思い切った表記ができたことを、指摘しました。

それでは、「書物」としての巻1原撰部は、巻1原撰部成立まもない頃には、どのように読まれていたのでしょうか。

予備知識を持たずに、いきなり巻1原撰部を読むことは、できなかったと思います。巻1原撰部を読むためには、そこに収められている歌について、知識を持ち、それらの歌をある程度暗記をしていることが、必要であったでしょう。

一方、この頃の歌が、声に出して詠まれ、暗記されるものとしての性格を強く持っていたことも、先の記事「万葉集巻一の書記法(2)」に記しました。

しかし、たとえ、巻1原撰部に収められていた歌を暗記していたとしても、文字に習熟した上、漢字に関する充分な知識がない場合には、読むことは、著しく困難であったと思います。特異な表記を織り交ぜながら、連続していく漢字は、解読不能な暗号のように見えたことでしょう。

さらに、『万葉集』巻1原撰部は、単に秀歌を集めたものではなく、「書物」としての主張と、それを支える、組織立ったフォルム(形式)を持っています。巻1原撰部は、「標目」を立てて、天皇の治世ごとに、歌をまとめています。
(*『万葉集』のフォルムについては、別の記事でわかりやすく解説します。)

しかも、古代の、全ての天皇代を網羅するのではありません。まず、5世紀の雄略天皇の治世を冒頭に据えます。次に、一気に約170年の時間を飛び越え、舒明天皇、そしてその皇后・皇極天皇夫妻の治世を示します。以後、夫妻の血筋を引く、天智天皇、天武天皇、持統天皇の治世下の歌を、掲げてゆきます。

巻1原撰部は、雄略天皇を《始祖》と仰ぎ、舒明天皇を《父祖》として、持統天皇、そしてその皇孫(軽皇子。かるのみこ。後の文武天皇)に至る皇統の、輝かしい《歴史》を、歌によって示す「書物」となっています。

このような巻1原撰部の、「書物」としての主張にも注目するならば、巻1原撰部は、歌を記憶しているとともに、漢字の知識も充分に持ち、漢字本文を見れば、直ちに、細部まで正確に再生できる、専門的な読み手によって、宮廷の人々の前で、よどみなく、朗々と読み上げられた考えられます。

巧みな朗読者によって、巻1原撰部の歌が連続的に読み上げられてゆく中、聞き手たちは、《歴史》を共有し、舒明天皇から持統天皇・軽皇子に至る皇統の神聖さを、強く心に刻み付けたことでしょう。

そして、思い切った表記によって、中国の詩文集に匹敵するような格の高さを与えられた、「書物」としての巻1原撰部は、内裏の、天皇の文庫に置かれたかと、想像されます。

*文字と声とが重なり合う次元は、古代ローマの詩の場合にも考えられます。アウグストゥス帝時代に、詩人は、作品を秘書に口述筆記させた上で、さらに記憶の助けを借りながら(また秘書にプロンプターの役割もさせながら)、作品を朗誦しつつ、文字テキストを完成されたものに、練り上げてゆきました(ケネス・クィン氏)。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.小川靖彦「書物としての万葉集」『[必携]万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、学燈社、2002年11月
��.Quinn, Kenneth. "The Poet and His Audience in the Augustan Age."Aufstieg und Niedergang der römichen Welt Ⅱ, Principat, 30.1 (1981).


2007年11月25日日曜日

万葉集巻一の書記法(2)

阿騎野の歌短歌

大胆な表記を支える「記憶」
��この記事は「万葉集巻一の書記法(1)」に続きます)

『万葉集』巻1原撰部には、漢字の視覚的印象を大胆に利用した表記が、しばしば見られます。

先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」では、中大兄の三山歌を例に挙げましたが、柿本人麻呂の、著名な歌である、阿騎野の歌の第三反歌・48番歌もそうです。上にその漢字本文を示しました。今日では、この歌は、


 ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

と、一般に、読み下されています。しかし、実は、この読み下し方も、一案に過ぎず、本当にどのように読み下せばよいのかは、わかっていません。

この歌では、極端なまでに、助詞・助動詞・活用語尾の類の表記を、省略しています。そして、「東野炎」「月西渡」と、東西の情景が、ダイナミックに対照させられ、この歌固有の、空間の広大さが、文字の上で、具体的に示されます。

漢字が、歌の〈ことば〉から大胆に離れているために、今日の万葉学の知識をもってしても、正確には、読み下せないのです。

このような表記が可能であった条件として、巻1原撰部が編集された時期には、歌が、声に出して詠まれるものとしての性格を、なお強く持っていたことが、考えられます。

声に出して詠まれた歌は、その場限りのものとして、消えてしまうのではなく、暗記され、必要な時に、繰り返し、読み上げられたことでしょう。

筆録者も、歌を暗記していたからこそ、安心して、思い切った表記ができたに相違ありません。

さらに、この条件に、「書物」としての巻子本の特徴が、重なりました。当時の「書物」のあり方によれば、巻1原撰部は、草稿として断片のままであったのではなく、巻子本に仕立てられたと思われます。

洋の東西を問わず、巻子本は、句読点も付けず、分かち書きもせずに、連続的に文字を記すものでした。それは、巻子本が、連続したひとまとまりの内容を、連続したままに記録することをめざしたメディア(媒体)であったからです(森縣氏)。

巻子本を読み、その内容を理解するためには、音読することが必要でした。巻子本という「書物」は、「声」と深く関わるものでした。

このような巻子本を、初めて読もうとする時、途中から読むことは、容易ではありません。巻子本は、本来、冒頭から末尾まで読み通さなければならないものです。

しかし、現代の「書物」と異なり、巻子本の数は多くありません。巻子本は、繰り返し読まれ、そこに記された文章は、暗誦できるほとに記憶されたことでしょう。その巻子本に習熟した読み手ならば、途中から読み始めることもできたでしょう。

巻子本は、「記憶」とも深く関わっていました。

巻1原撰部の編者は、このような巻子本の特徴にも支えられながら、大胆な表記を試み、それを歌の「書記法」と言えるものにまで、仕上げてゆきました。

それでは、このような巻1原撰部は、実際に、どのように読まれ、また扱われたのでしょうか。そこには、興味深い、文字と記憶の関わり方があるように思われます。私たちは、口誦と記載、または声と文字を対立的に捉えがちですが、その両方が重なり合う次元というものが、存在したようです。これについては、次の記事に、詳しく書きます。


*古代ギリシアでは、紀元前4世紀第2半期から、文学作品を記すパピルスに、句読点が現れますが、句読法が体系的なものに発達するのは、ローマのハドリアヌス帝時代(76~136)です(ルドルフ・フェイファー氏)。敦煌発見の漢文文献では、民間に通用していた写本には、句点も多く見られます(池田温氏)。しかし、正式な「書物」である仏典は、句点を施さないのが、原則でした。『摩訶般若波羅蜜経』巻第12(S.2133)などは、例外です。

[主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.森縣「書物の構造について」『汲古』第32号、汲古書院、1998年1月
��.Pheiffer, Rudolf. History of Classical Scholarship: From the Beginnig to the End of the Hellenistic Age. Oxford: Oxford University Press, 1968.
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年


2007年11月22日木曜日

万葉集巻一の書記法(1)

中大兄三山歌

漢字の表現力を用いた大胆な表記

『万葉集』は、やまと歌を漢字で書き記しています。『万葉集』の前後から、金石文・木簡などで、漢字を用いて、「日本語」を書き記すことが始まります。これらに比べて、『万葉集』の書記法は、極めて多彩で、複雑なものとなっています。

その中でも、もっとも複雑なものの一つが、巻1の書記法です。巻1は、『万葉集』20巻の中で、まず最初に成立した巻です。さらに、今日見る巻1の原形となった部分(原撰部。1番歌~53番歌)は、持統朝の末期から文武朝の初期に成立したと推定されます。

この巻1原撰部には、漢字と、その漢字が表す歌の〈ことば〉が、単純に対応していない例が、しばしば見られます。

例えば、上に掲げた中大兄(なかのおおえ。後の天智天皇)の三山歌(13~15番歌)の長歌の漢字本文が表している〈ことば〉を、平仮名で示すと次のようになります(上の写真と同じところで、改行してあります)。


 かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひ
 き かむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれ
 こそ うつせみも つまを あらそふらしき

 (香具山は、畝傍山を男らしいと思って、耳成山と争った。神の時代から、こうであるに違いない。
 むかしもこうで あるからこそ、今の世の人も、夫をめぐって、争いをするのに違いない。)


(*なお、この歌を筆録した、巻1原撰部の編者は、畝傍山を「雄男志」と表記していることから、二人の女性が、一人の男性を争ったことを詠んだ歌と解釈していたと考えられます。詳細は別の機会に記します。

上の2行目の「諍競」の2文字が、『あらそふ』(ここでは、連用形「あらそひ」)という1語を表しています。また4行目の「相挌」の2文字も、『あらそふ』の1語を表しています。「相」に対応する〈ことば〉は、ありません。

これらが、ともに「争」の文字で書かれていたならば、誰も迷うことなく、『あらそふ』と読み下すことができます。そうではなく、〈ことば〉と、直ちには対応しない、―一瞬どのように読み下せばよいのか、と戸惑うような漢字で、書き記されていることには、それなりの理由と、それを可能にする条件があったと思われます。

この三山歌を、文字に書き記したのは、作者の天智天皇ではありません。天智天皇の時代には、やまと歌を、漢字で書き記すことは、まだ行われていませんでした。

7世紀の末、初めて公的なやまと歌集を編集しようとした、巻1原撰部の編者は、口誦で伝えられて来た三山歌を収録するにあたり、ただ文字に起すのではなく、この歌に“漢字で記された歌”として、ふさわしい姿を与えようとしたのでしょう。

「諍競」は、『大宝積経』『法集経』『瑜伽師地論』などに見える仏典語で、煩悩による争いを表します。「挌」は、小島憲之氏によれば、「闘」と同じ意味です。「相」が添えられることで、互いに闘う意、打ち合う意となります。

これらの漢字は、香具山と耳成山が、ともに譲らず激しく争うさまを、強烈に印象付けるものとなっています。この歌の持っている力強さを、文字の上でも定着することを、編者はめざしたのでしょう。

そして、このような漢語的表記を駆使することで、「書物」としての巻1原撰部に、中国の詩文集と肩を並べるような、格の高さを与えようとしたのでしょう。

さらに、巻1原撰部が編集された時期には、こうした思い切った表記を、可能にするだけの条件がありました。これについては、次の記事で、詳しく記します。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.小島憲之「万葉用字考証実例(一)―原本系『玉篇』との関聯に於て―」『万葉集研究』第2集、塙書房、1973年


2007年11月15日木曜日

湘南の万葉学

湘南の万葉学

湘南の地は、『万葉集』と深い関わりがあります。「仙覚律師の踏みあと」「仙覚の万葉学と由阿」のふたつの記事で、その一端を紹介いたしましたが、この関わりは、あまり広くは知られていません。

是非、神奈川に住む皆さんを中心に、湘南における輝かしい万葉学の歴史を知っていただきたいと思い、3年前に、朝日カルチャーセンター・湘南で「湘南の万葉学を歩く―仙覚と由阿の踏みあとを訪ねて」という公開講座を開きました。

妙本寺、遊行寺の皆様のご協力も得ながら、仙覚と由阿ゆかりの地を、多くの参加者の皆さんとともに散策しました。本当に楽しい、秋の半日でした。

「仙覚律師の踏みあと」「仙覚の万葉学と由阿」のふたつの記事は、この時の印象を下地にしています。実際に、その地を訪ねてみると、たくさんの発見があります。足で歩き、その地の光と空気を感ずることの大切さを、改めて認識しました。

そして、何よりも、熱意あふれる皆さんとともに、先人たちの踏みあとを、生き生きと感じられたのが、最大の収穫でした。

この他、東国には、

 ・埼玉県小川町 (仙覚が『万葉集註釈』を完成)
 ・茨城県行方郡 (『万葉集註釈』に、この地の詳細な情報を記す。なお仙覚は常陸国生まれ)
 ・神奈川県南足柄市関本 (仙覚はこの地で、実地調査を行う)

など、仙覚に関わる土地が、まだまだあります。また、鎌倉には、由阿の歌の師・冷泉為相(れいぜい・ためすけ)ゆかりの地もあります。そして、もちろん、『万葉集』の東歌には多くの土地が詠まれています。

東国の万葉学ゆかりの地に住まう皆さんに、もっともっと万葉学や、『万葉集』について知っていただき、そして『万葉集』のサポーターになっていただきたいという思いを、ますます強くしております。


��湘南のゆかりの東歌から


 まかなしみ さ寝に我は行く 鎌倉の 美奈能瀬川に 潮満つなむか (巻14・3366)
 (まかなしみ さねにわはゆく かまくらの みなのせがはに しほみつなむか)

 *美奈能瀬川=鎌倉大仏の東を流れる稲瀬川。

2007年11月14日水曜日

仙覚の萬葉学と由阿(藤沢・遊行寺)

遊行寺に銀杏
(写真=遊行寺境内の銀杏の大樹)

湘南の明るさのなかで

JR・小田急藤沢駅から、北東に20分ほど歩くと、時宗総本山・遊行寺(清浄光寺)があります。遊行四代の呑海上人(どんかい・しょうにん)が開いた、この遊行寺の境内には、不思議な解放感があります。それは、海に近い、湘南の地特有の、光の明るさと、踊念仏の弾むような心持ちとが、生み出しているものなのでしょうか。

南北朝時代に、遊行寺に住まった由阿(ゆうあ)が、関東で育まれた、仙覚の万葉学を都に伝えることになります。

由阿が生まれたのは、仙覚が史料から姿を消してから18年後の、正応4年(1291)です。家系・出生地などは不明です。時宗のニ祖他阿真教上人(たあ・しんぎょう・しょうにん)の『他阿上人法語』の中に、青年時代の由阿が姿を見せます。

*高野修氏は、由阿が呑海上人に従って関東に下向し、「客衆」という制約の少ない身分で、和歌の研究に専念したと推測しています。

由阿は、時宗に深く帰依しつつ、和歌・連歌を学び、さらに『万葉集』について、研鑽を積みました。由阿の学芸を導いたのは、関東で過ごすことの多かった歌人・冷泉為相(れいぜい・ためすけ)であったと思われます。

『万葉集』についても、仙覚の注釈書『万葉集註釈』から多くを学ぶ一方、為相を通じて伝えられた仙覚の学説も学んだようです。

貞治5年(1366)、76歳の時に、由阿は、関白・二条良基(よしもと)の招きによって、都に上り、良基に『万葉集』を講義するという、栄えある機会を得ました。由阿は、長年の研究成果を『詞林采葉抄』(しりんさいようしょう)という書物にまとめ、良基に献上しました。

『万葉集』に見える地名・枕詞・難語について、平安後期以来の、都の歌学の成果と、仙覚の研究成果を集大成しつつ、故事を広く尋ね、細密な考証を加えた『詞林采葉抄』は、まさに「万葉ことば百科辞典」と言えるものです。

そして、この書を携えて上洛した由阿は、自分が、仙覚の万葉学の、唯一の正統な後継者であることを宣言しました。以後「仙覚・由阿の万葉学」は、都で燎原の火のように広がってゆきました。

*由阿は、本来、仙覚の万葉学の嫡流ではありませんでした。仙覚の学問や書物を受け継いだ人々は別にいたようです。

しかし、「仙覚・由阿の万葉学」からは、仙覚の万葉学に特徴的な、深遠で厳しく、しかし難解な哲学的性格は、失われてゆくことになりました。学問というものの歩みの不思議さが、思われます。
[主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.小島憲之「由阿・良基とその著書―中世萬葉学の一面―」『萬葉集大成』第2巻〈文献篇〉、1953年、1986年(新装復刊)
��.濱口博章『中世和歌の研究 資料と考証』新典社、1990年
��.祢田修然・高野修『遊行・藤沢歴代上人史―時宗七百年史―』白金叢書、松秀寺、1989年
��.高野修『時宗教団史―時衆の歴史と文化―』岩田書院、2003年

【案 内】
総本山 遊行寺(藤澤山無量光院 清浄光院〈とうたくさん・むりょうこういん・しょうじょうこういん〉)
 〒251-0001 神奈川県藤沢市西富1-8-1


*境内にある宝物館もお訪ねください。開館は日曜日の午前10時から午後4時までです。『詞林采葉抄』の写本が展示されることもあります。
��参道脇の真徳寺もご参拝ください。遊行寺の塔頭(たっちゅう。本寺境内にある小寺院)で、真光院を、真徳院は受け継いでいます。遠山元浩師によれば、真光院では、連歌を中心とする活発な文学活動が行われており、由阿もここに住した可能性があります。


2007年11月8日木曜日

仙覚律師の踏みあと(鎌倉・妙本寺)

万葉集研究遺蹟碑文
(写真=万葉集研究遺蹟碑)

鎌倉の都の中の静寂

JR鎌倉駅東口から、ほど近いところに、日蓮宗の寺院・妙本寺(みょうほんじ)があります。緑豊かな、上り坂の、長い参道をしばらく進んでゆくと、視界が開け、祖師堂が目に飛び込んできます。

祖師堂の左の方に、写真のような石碑があることに、気づかれたでしょうか。石碑は、この地で、『万葉集』の研究にいそしんだ仙覚律師(せんがく・りっし)を顕彰するために、昭和5年(1930)に建立されたものです。

この「万葉集研究遺蹟碑」の脇の道を上ってゆくと、鎌倉将軍九条頼経(よりつね)の妻・竹御所(たけのごしょ。第二代将軍源頼家の娘、〔よし〕〈女偏に美〉子)の墓所があります。

この場所には、竹御所の菩提を弔うために、かつて「新釈迦堂」という、天台宗の寺院がありました。仙覚は、この「新釈迦堂」の住僧であったと思われます。

『万葉集』を、現代の私たちが読むことができるのは、『万葉集』が成立してから、1200年にわたって、この歌集を大切に思い、書写をし、また人に伝え、さらに研究に励んできた、たくさんの人々の力によります。

その中でも、最も大きな役割を果たしたのが、鎌倉時代の学僧・仙覚です。仙覚は、『万葉集』の貴重な写本12本を比較検討しつつ、最新の研究成果を盛り込んだ、『万葉集』の校訂本を完成しました。

もしこの校訂本が作られなかったならば、私たちは、『万葉集』の全貌を知ることができなかったかもしれません。というのも、現存する平安時代の写本、また仙覚の手を経ていない、鎌倉時代以後の写本で、20巻約4500首全てを、完全に伝えるものはないからです。

寛元4年(1246)12月22日に、44歳の仙覚は、「相州鎌倉比企谷新釈迦堂」で、最初の校訂本を書写し終えました(翌年に、最終的な点検をし完成)。以後、文永十年(1273)頃に没するまでに(この年、71歳)、より精度を高めた校訂本を何度も作成しました。

*寛元5年完成本の時点では、7本を比較しています。後に合計12本を見ることになります。

仙覚の生きた時代は、独裁体制を敷くことをめざした北条氏によって、政争の嵐が吹き荒れた時代でした。鎌倉の都の中にありながら、ひっそりと静まり返った、「新釈迦堂」の故地に立つと、激しい時代を、学問の道に生きた仙覚の静かな情熱が、今でも感じられるようです。
[主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年 (*巻末に仙覚略年譜を付けました)
��.井上通泰『萬葉集雑攷』明治書院、1932年 (*「新釈迦堂」についての詳しい考証がなされています)
��.久保田淳編『岩波日本古典文学辞典』岩波書店、2007年(「仙覚」「万葉集註釈」の項)

【案 内】
日蓮宗本山 比企谷 妙本寺 
 〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1-15-1

*「新釈迦堂」のあった場所は、石碑の脇の道を上ったところです。私は、初めて、妙本寺を訪ねた時、うかつにも、石碑を見ただけで帰ってしまいました。
��参拝を済ませましたら、寺務所を訪ねてみてください。志納金を納めれば、パンフレットをいただけると思います(ただし、最新の情報は未確認です)。


【碑 文】(文・井上通泰、書・菅虎雄)(*旧字体を、新字体に直してあります)


此地ハ比企谷新釈迦堂、即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル竹御所夫人ノ廟ノアリシ処ニテ当堂ノ供僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ実ニ其僧坊ナリ。今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適ニ堂ノ須弥壇ノ直下ニ当レリ。堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム。西方崖下ノ窟ハ仙覚等代々ノ供僧ノ埋骨処ナラザルカ。悉シクハ萬葉集新考附録雑攷ニ言ヘリ。昭和五年二月。宮中顧問官井上通泰撰

2007年11月6日火曜日

湯山賢一編『文化財学の課題』

文化財学の課題

和紙への新しいアプローチ
��湯山賢一編『文化財学の課題 和紙文化の継承』勉誠出版、254頁、3,200円〈本体〉)

『万葉集』の原本には、どのような紙が使われていたのでしょうか。それを知るためには、和紙、さらに中国紙や朝鮮半島の紙についての知識が必要になります。

これまでの、日本の書物の料紙についての研究では、経験をもとに、その材料を判断することが多かったように思います。ところが、文化財学を中心に、和紙への、新しい科学的、文化史的アプローチが始まっています。

その大きな成果の一つが、本書です。総本山醍醐寺に伝わる、膨大な紙の史料を基礎に、醍醐寺における聖教・文書の伝承のされ方、科学的方法(C染色液による材質の判定、顕微鏡による繊維の形の観察など)による文書の紙質の分析結果などが、鮮烈に示されます。

また、写経では、紙面を平滑にし、墨のにじみを最小限にするために打紙加工を必須としたのに対して、消息(手紙)では、むしろ墨のにじみや、連綿の濃淡が良しとされたことも、明らかにされています。消息が、書き手の息づかいを、紙面の上でも伝えようとするものであったことがわかります。

その他、広く、日本の和紙文化を展望する論も収録されています。『万葉集』の作製された、8世紀の光明皇后願経の料紙が、苧麻(ちょま。イラクサ科多年生草本。中国では主に南方で自生)約80%、雁皮(がんぴ。ジンチョウゲ科落葉低木。日本で自生)約20~25% からなるという事実には、想像力が刺激されます。

書誌学が培ってきた、きめ細かな観察方法と、文化財学の科学的、文化史的アプローチを併せ持つことが、これからの“書物学”に必要なことであると思います。


【目 次】
Ⅰ はじめに
 序言(湯山賢一)
Ⅱ 講演
 1 醍醐寺と紙文化(仲田順和)
 2 和紙に見る日本文化(湯山賢一)
 3 醍醐寺の文化財とその管理(長瀬福男)
Ⅲ 報告
 1 醍醐寺史料とその修理(池田寿)
 2 醍醐寺聖教とその料紙―特に楮紙打紙に注目して―(永村眞)
 3 中世における紙の流通(富田正弘)
 4 古代の製紙技術(大川昭典)
 5 書籍の修理―古文書―(鈴木裕)
 6 史料複本の作成(塚本和夫)
 7 史料情報の処理システム(熊本真理人)
Ⅳ 討論 日本の紙文化―文化財の保存と活用


2007年11月4日日曜日

西本願寺本万葉集の大きさ

西本願寺本万葉集(複製)
(写真=西本願寺本万葉集の複製〈青山学院大学図書館蔵〉)

西本願寺本の特別な大きさと金沢北条氏

今日、私たちが活字本で読む『万葉集』は、西本願寺本万葉集(財団法人石川文化事業団 お茶の水図書館所蔵)の漢字本文に拠っています。西本願寺本は、『万葉集』全20巻約4500首を、完全に保存する現存最古の写本です。

この西本願寺本は、鎌倉後期の書写と推測されています。鎌倉中期の万葉学者・仙覚(せんがく)が、文永3年(1266)に完成した校訂本の系統に属する、善本です。

*仙覚は、東国出身の、天台宗の学僧。建仁3年(1203)~文永10年(1273)頃。万葉集研究史に画期的業績を残しました。

西本願寺本は、20冊からなる冊子本です。その装丁は、「大和綴(やまととじ)」または「結びとじ」と言われるものです。表紙の上から、右端2箇所を、紐で結んで綴じています。昔のアルバムによく見られた装丁です。

ところで、注目したいのは、西本願寺本の大きさです。縦約32.1㎝、横約24.8㎝もあります。以前、この貴重な写本を、実際に見る機会を得ましたが、大きく、堂々としたその姿に、身の引き締まる思いがしたことを、今でも思い出します。

先の記事「大きさから見た巻物と冊子本」で述べましたように、中国文化圏における初期の冊子本は、巻物に比べてかなり小さいものでした。平安後期から、その冊子本の縦の寸法は、25~27㎝と、巻物と肩を並べるようになり、高い装飾性も持つに至ります。

『万葉集』の写本も、平安後期に、巻物から冊子本へと転換します。そして冊子本の『万葉集』は、巻物の『万葉集』の大きさを踏襲していました。

このように見てきますと、西本願寺本の大きさが、特別なものであることがわかります。本来、冊子本はハンディさを、その特徴としていますが、西本願寺本は、もはや机の上に置かなければ、閲読できません。

実は、この西本願寺本と、同じ装丁で、ほぼ同じ大きさの、『源氏物語』の写本が存在することが、山岸徳平氏・川瀬一馬氏によって、指摘されています。尾州家河内本源氏物語です。
縦31.8㎝、横25.8㎝という寸法です。

東国で『古今和歌集』『源氏物語』の研究を進めた古典学者・源親行(みなもとのちかゆき)は、『源氏物語』の校訂本を、建長7年(1255)に完成しました。3年後の正嘉2年に、鎌倉幕府随一の文化人・北条(金沢)実時は、早くもこれを書写させました。尾州家河内本源氏物語は、この実時本を、さらに金沢北条氏周辺で書写したもののようです。
(*尾州家河内本源氏物語には、北条実時の奥書があります。通説では、これを実時自筆と見て、尾州家河内本源氏物語を、実時が当時の能書に書写させたものとしています。しかし、この奥書には疑問があり、以上のような書き方をしました。今後の研究が必要です。)

そして、
① 仙覚と源親行と北条実時の間に、学問的文化的な交流があったこと。

② 尾州家河内本源氏物語が北条氏滅亡後、足利義満の手に渡った可能性があり(山岸氏・川瀬氏)、一方、西本願寺本も、一時、足利義満が所持していた、というように、両者の伝来が似ていること。

などの事実を考え合わせると、西本願寺本と尾州家河内本源氏物語が、ともに金沢北条氏が所蔵するものであったことが推測されます。

金沢北条氏の祖・実時は、熱心に古典の書写と研究を行いました。それは、決して個人的な趣味に止まるものではなく、「書物」によって、都の文化を、鎌倉に、体系的に移植することをめざすものでした。

西本願寺本の特別な大きさは、鎌倉における、新たな「古典文化」の誕生を、高らかに宣言するために、意図的に選び取られたものであったのでしょう。

��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.林勉「西本願寺本萬葉集 解題」『西本願寺本萬葉集(普及版) 巻第一』主婦の友社発行・おうふう発売、1993年 (*西本願寺本の原寸影印本で、その大きさを実際に体験できます)
��.山岸徳平『尾州家河内本源氏物語開題』尾張徳川黎明会、1935年
��.川瀬一馬『日本における 書籍蒐蔵の歴史』ぺりかん社、1999年
��.秋山虔・池田利夫「解題」『尾州家河内本源氏物語』第5巻、武蔵野書院、1978年
��.熊原政男「尾州家河内本源氏物語開題を読みて」関靖・熊原政男『金沢文庫本之研究』青裳書房、1981年
【西本願寺本の複製本】
①『西本願寺本萬葉集』主婦の友社、1984年 (*上の写真。原本と同じ装丁。本文はカラー)
②『西本願寺本萬葉集(普及版)』主婦の友社発行・おうふう発売、1993~1996年 (*洋装本。モノクロ)


2007年11月1日木曜日

大きさから見た巻物と冊子本

大きさから見た巻物と冊子本
(写真左より、肌色=『三十帖冊子』第一帖の大きさ、灰色=敦煌本『文心雕龍』の大きさ、黄色=敦煌本『大般涅槃経』の大きさ。右は岩波新書)

巻物と初期冊子本の姿の違い

今日、「書物」と言うと、私たちは、冊子本を思い浮かべます。そして、豪華本から文庫本まで、さまざまなタイプの冊子本を、目にしています。

この“常識”から、古い「書物」である巻物と、私たちが馴染んでいる冊子本とを、なんとなく同じようなものと考えがちです。ところが、冊子本は、洋の東西を問わず、巻物に、はるかに遅れて発明され、しかも初めは、巻物よりも格の低い書物として扱われました。

中国に残る、最も古い、紙の巻物は、3世紀中頃、または4世紀(晋代)に製作されたものと見られています。それに対して、冊子本が登場するのは、8世紀半ば(唐代)からです。

紀元前3000年頃に、エジプトで製作されたパピルスも、「書物」としては、もっぱら巻物に仕立てられました。そして、ギリシア・ローマで冊子本が普及するのは、紀元後3世紀から5世紀にかけてと考えられています。

巻物と冊子本との間の、「書物」としての格の違いを、明瞭に示すものが、それぞれの大きさです。中国の巻物の表紙の規格、そして中国文化圏の最初期の冊子本の大きさを、実際に紙に切ってみたのが、上の写真です。

(*わかりやすくするために、色違いにしましたが、それぞれの色は、原本の色とは関係ありません。)

①〔黄色い紙〕 敦煌写本『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』の表紙の規格 (約25×約15㎝)
・一群の『大般涅槃経』が、この規格に従っています。これは、比較的新しい、中国の巻物の表紙の規格のようです。ライオネル・ジャイルズ氏は、その一本を、7世紀の書写と見ています。

・謹厳な楷書で、1行17字詰めで書かれています。

②〔灰色の紙〕 敦煌写本『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』Or.8210/S.5478 (11.7×16.8㎝)
・『文心雕龍』は、文学評論書です。池田温氏は、この写本を、8世紀中葉に中国の中央で書写されたものと推測しています。現代の新書判と、ほぼ同じ大きさです。

・1頁10行、やわらかな行書・草書で書かれ、余白にはところどころ、習字をした跡があります。

(*詳しくは、国際敦煌プロジェクトの『文心雕龍』の画像をご覧ください。)

③〔肌色の紙〕  空海ら写『三十帖冊子』(国宝、京都・仁和寺蔵)の第一帖 (15.6×18.5㎝)
・『三十帖冊子』は、空海が中国に渡った時(804~806年)に書写した、仏教経典の写本です。中国文化圏で、書写年代の確実にわかる、最古の冊子本です。

・楷書の細字で、紙面を惜しむようにして、経文を書写していたり、行書・草書で力強く、自由に書いていたりします。

・なお、『三十帖冊子』には、第一帖などよりも、さらに小さい一群があります。空海真筆の第二十六帖は、13.6×14.3㎝で、文庫本を横にした大きさになります。

②③は、①に比べてかなり小さくなります。これらは、携帯に便利なサイズであったのでしょう。そして、②③での、本文の書写のされ方からは、これらが、個人用の、ノートに近いものであったことが窺えます。一方、「正式な」書物であった巻物は、謹厳で、堂々とした印象を与えます。

(*是非、御自分で、紙を切ってみて、これらの大きさを実感してください。)

中国文化圏では、唐の玄宗皇帝の時代(712~756年在位)から、僧侶や知識人の間で、冊子本が、個人の書物として普及していったようです。

*面白いことに、古代ローマでも、文学書の巻物の縦の寸法は、25~33㎝でした(ウィリアム・A・ジョンソン氏)。初期の羊皮紙冊子本(2~3世紀)も、14.5×11.5㎝から19×16.5㎝でした。初期の冊子本は、キリスト教の宣教師たちが、伝道のために携帯したものと推測する説もあります(マイケル・マコーミック氏)。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「書物としての萬葉集」『〔必携〕万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、学燈社、2002年11月
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.『国宝 三十帖策子・重要文化財 十地経策子〈原寸複製〉』法蔵館、1977年
��.Jonhson, William A. Bookrolls and Scribes in Oxyrhynchus. Tronto: University of Tronto, 2004. [ウィリアム・A・ジョンソン『オクシュリンコスの巻子本と筆写者』]
��.McCormick, Michael. "The Birth of the Codex and the Apostolic Life-style." Scriptorium 34 (1985). [マイケル・マコーミック「冊子本の誕生と使徒たちの生活スタイル」]


2007年10月27日土曜日

万葉集原本の1行文字数

万葉集原本の1行文字数

『万葉集』原本は1行16字詰めであったか

先の記事「万葉集原本のレイアウト」で、『万葉集』の原本が巻物であり、その本文が、界線(かいせん。罫線)に囲まれた枠中に書かれたことを推測しました。

果たして、『万葉集』原本は1行何字で書かれていたのでしょうか。それを推定するいくつかの手がかりがあります。

中国文化圏では、仏教経典・儒教経典・道教経典・法典・歴史書など正式な書物が、1行17字詰めで書かれたことを、まず想起したいと思います。その上で、次のような事実に注目したいと思います。

① 漢詩文集である『文選』の敦煌本では、本文は、1行15字または16字詰めで書かれています。これは、正式な書物の字詰めを意識しながら、最も格の高い経典類と区別をするためのものと思われます。

② 『万葉集』の最古の写本である桂本(平安中期写)の、漢字本文の字詰めも、1行15字から16字となっています(長歌は1行平均15.6字、短歌は1行平均14.6字)。

③ 『万葉集』に吸収された「柿本朝臣人麻呂之歌集」(通称「柿本朝臣人麻呂歌集」)に、「略体歌(りゃくたいか)」という特異な表記形式の歌があります。「略体歌」は、助詞助動詞などの表記を最低限にとどめて、漢文風に歌を記しています。この「略体歌」の最大文字数が、実に16字なのです。

��*上の写真は、『万葉集』巻十一に吸収された「略体歌」を、16字詰めで書いたものです。歌一首が、きれいに1行に収まります。巻11・2369~2380)

④ 万葉仮名を使って、一字一音で、短歌(31音)を書き記すと、1行15字詰めの場合は、3行書きとなり、しかも最後の1行は、1字だけということになります。

  安麻射可流比奈等毛之流久許己太
  久母之気伎孤悲可毛奈具流日毛奈
  久

        天離る 鄙とも著く ここだくも 繁き恋かも 和ぐる日もなく(巻19・4019)大伴家持
        (あまざかる ひなともしるく ここだくも しげきこひかも なぐるひもなく)


以上から、『万葉集』原本の1行の文字数は16字であったと推定できます。

極端に文字数の少ない「略体歌」は、やまと歌を漢詩風に記す、極めて実験的な表記でした。大胆な表記である分、読み下すのは容易ではありません。それは、写真の歌からもわかることと思います。

「略体歌」の表記は、『万葉集』の中でも、最も難しく、しかし魅惑に満ちたものです。その文字数を規定するものの一つに、意外にも、書物の「形式」的側面があったということは、面白いことです。

特異な「略体歌」の表記が、「柿本朝臣人麻呂歌集」という「書物」を作ることと、深く関わっていたことが窺えます。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「『萬葉集』原本のレイアウト―音読から黙読へ―」『青山学院大学文学部紀要』第47号、2006年1月
��.阿蘇瑞枝『増補改訂 柿本人麻呂論考』おうふう、1998年
(*「柿本朝臣人麻呂之歌集」に、「略体歌」「非略体歌」という二つの書式を認めたのが、阿蘇氏です。阿蘇氏は、早くに、「略体歌」と「非略体歌」を見分ける一つの目安として、16字という、一首の文字数に注目していました。阿蘇氏の捉え方は、“機械的”と見られることもありました。しかし、書物の「形式」ということに、注目するならば、この文字数には、意味があったことになります。)


2007年10月26日金曜日

わたつみの豊旗雲に(中大兄)

秋の月

月の美しい季節になりました。『万葉集』の月の歌として、まず思い出されるのは、中大兄(なかのおおえ。後の天智天皇)の歌です。

渡津海乃豊旗雲尓伊理比弥之今夜乃月夜清明己曾(巻1・15)

わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
(わたつみの とよはたくもに いりひみし こよひのつくよ さやけかりこそ)

〔訳〕海神の、大空を横切る旗雲に、入日を見た、その夜の月は、さやかであってほしい。

この歌は、斉明天皇7年(661)、天皇自身が軍を率いて、百済救援に向かう途中に立ち寄った播磨国の印南国原(明石から加古川にかけて)で、中大兄が詠んだ歌です。

旗雲は、瑞雲と考えられていました。この歌では、それを、「わたつみの豊旗雲」と、海神の霊威の表れと見ています。その雲に、日が沈むという荘厳な光景を、中大兄たち一行は目にしたのです。

「さやけかりこそ」の「こそ」は、希求を表しますが、この歌の場合、夕方の荘厳な光景に、その夜の月の明るさ、つまり夜の航海での、海神の加護を確信した上で、“さやかであってほしい”と願っています。

ところで、この歌で注目したいのは、漢字本文です。第三句の「入日見之」を、「伊理比弥之」と万葉仮名で書いています。普通ならば「入日見之」と書くところです。

一方、第五句は「清明己曾」と書いています。この表記は、多くの研究者を悩ませて来ました(ここでは「さやけかりこそ」と訓読しましたが、諸説あります)。この歌を文字に起した人は、どうしても「清明」という文字を使いたかったようです。

新日本古典文学大系は「清明」が、月の明るさを表すのに、仏典でしばしば用いられることばであることを指摘しています。また漢語の「清明」には、天下が平和に治まる意味もあります。

月の光の曇りない明るさと、航海の平安が約束されていることを、文字の上でも力強く表現するために、「清明」と書いたのでしょう。

第三句を「伊理比弥之」と万葉仮名で書いたのも、この「清明」という表記と関係していると思われます。もしここを「入日見之」と書いたならば、入日の鮮明なイメージが、月の「清明」なイメージを弱めてしまいます。

一首のイメージの中心が、月の明るさになるように、第三句をわざと万葉仮名にひらいたのでしょう。この歌を文字に起した人の意図に沿うように、訓読文を漢字仮名交じりで書くと、次のようになります。

渡津海の豊旗雲にいりひみし今夜の月夜清明かりこそ

『万葉集』巻一・巻二では、このように、歌一首全体を考えながら、あるところは、思い切って漢語的表記を用い、あるところは万葉仮名にひらくということが行われています。

この歌を文字に記したのは、中大兄自身ではありません。中大兄に頃には、まだ歌を文字で記すということは始まっていませんでした。歌を文字で書くようになる、天武・持統朝に、文字について、非常にセンスある人物が、一首に「文字の歌」としての姿を与えたのでしょう。

2007年10月20日土曜日

「平家納経」を見るために

平家納経
(写真=小松茂美氏『平家納経の研究』)

10月27日(土)から11月25日(日)まで、厳島神社宝物館で展示される予定の「平家納経」(『法華経』二十八品各1巻に、『無量義経』1巻、『観普賢経』1巻、『阿弥陀経』1巻、「紺紙金泥般若心経」1巻、平清盛の「願文」1巻の計33巻)は、日本の巻物(巻子本)文化の最高峰です。

��世紀以来の日本の巻物文化の技術の総決算であるとともに、新興勢力である平家ならではの、大胆な、新しい美への挑戦が行われています。

この「書と紙と色の交響楽」(小松茂美氏)を、さらに深く味わうためのポイントを紹介します。

何よりも大切なことは、写真ではわからない、色の美しさや、線の力強さを味わうことです。そのために、観覧前に、下に挙げた書物(特に1)で、「平家納経」についての知識をある程度得ておくとよいと思います。


(1)巻物の大きさに注目する
① 写真ではわからないのが、巻物の大きさです。特に、縦の寸法に注意してください。写真で見ていた時より、意外に小さいことに気付きます。

(2)見返し絵を見る
① 色の鮮やかさに注目します(写真は原本とかなり違うことがあります)。

② やまと絵では、「線」が命となります。人物を描く「線」の力強さ、柔らかさを十分に味わいましょう。

*羅刹女を女房姿で美しく描く、「涌出品(ゆじゅつほん)」と『観普賢経』との「線」の違いに注目してみても面白いと思います。

③ まとまりある情景を描く「序品(じょほん)」などでは、散る紅葉、流れる水などの細部の自然表現が、画面に時間の流れを作り出しています。中心的な人物を見た後、細部にも目を向けましょう。

(3)料紙を見る
① 巻物では、全体の「流れ」が大切になります。料紙の装飾(「引き染め」や「隈ぼかし」など)や下絵が変化してゆく様子に注意します。
*「引き染め」=刷毛で紙の表面を染める方法。刷く回数によって濃淡が出る。
��「隈ぼかし」=ところどころを刷毛で染め、周辺に水をかけてぼかすという技法。


② 金または銀で引かれた界線(罫線)を観察します。その細さ、一定の濃さに驚くと思います。縦の界線が、どこから引かれ、どこで収められているかを観察することも大切です。

③ 巻かれた部分からも貴重な情報が得られます。料紙の裏側の様子がわかります。また巻かれた状態の部分を、下から見ると、その料紙がどのように染められたかが、ある程度わかります。

*白い場合は刷毛染め、色がある場合は浸し染めの可能性があります。

(4)書を見る
① 一行一行の姿を見ます。技術の低い書写者の場合、一行は右へ左へと蛇行してしまいます。「平家納経」では、もちろんまっすぐな線を描いています。

② ひとつひとつの文字が全体でかもし出している雰囲気を味わいます。
*『観普賢経』では、小振りで、右に傾いた文字で書かれています。細い線を用い、繊細な印象を与えます。

巻物は、総合芸術と言えます。細部を丁寧に観察してゆくならば、その技術の高さ、そしてそれに支えられた美を、深く味わうことになるでしょう。

[主な参考文献]
��.小松茂美『図説 平家納経』戎光祥出版、2005(最も親しみやすい入門書。図版多数)
��.小松茂美『平家納経の世界』中公文庫、中央公論社、1995(後半は、小松先生の自伝)
��.小松茂美『平家納経の研究』研究編(上・下)、図録編、講談社、1976〔絶版〕(最も精緻な平家納経研究)
��.白畑よし『やまと絵』河原書店、1967〔絶版〕(136~142ページに、「平家納経」の見返し絵に描かれた情景についてのわかりやすい説明あり)


2007年10月19日金曜日

小川靖彦『萬葉学史の研究』

小川靖彦『萬葉学史の研究』

豊饒な研究分野・万葉学史
��小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年2月刊、636頁、15,750円〈税込〉)

『万葉集』には、平安時代以来1200年近い研究の歴史があります。今日、私たちが『万葉集』を読むことができるのは、この分厚い研究の歴史があるからです。

しかし、『万葉集』の研究の歴史は、素朴な段階から、現代の高度な研究に発展してきたという、単純なものではありません。今日の眼から見て、“誤り”と見えるものにも、実はきちんとした論理があります。

平安時代の古写本のレイアウト、現代とは異なる平安時代や中世における『万葉集』の訓読・注釈の方法などを、ひとつひとつ検討してゆくと、それらが、時代の知の構造や文化に深く根ざしていることがわかります。

また本書では、万葉学史に画期をもたらした、鎌倉時代の学僧仙覚の自筆書状を、新たに紹介しました。この1枚の書状から、北条実時を中心とした鎌倉文化人たちのネットワークの存在が浮かび上がりました。

万葉学史の研究は、歌集と政治との関わり、「古代」像の変貌、古典を取り巻く文化的ネットワーク、「思想」としての学問、「書物」というものが具現する聖性と権力、などの問題を解明する、実に豊饒な研究分野なのです。

��本書は、私の最初の著書です。1年をかけて、本書のもととなった、過去10年に書き継いで来た論文を、全て修訂しました。1冊の本を作ることの難しさと面白さを体験しました。
��貴重な資料の写真も、多数収録しています。

*本書は、9月末以来、在庫切れとなっていましたが、2008年10月前半に第2刷が刊行されることとなりました。

【目 次】
序章 萬葉学史の研究とは何か
第一部 萬葉集写本史の新しい視点
 第一章 題詞と歌の高下―レイアウトに見る平安時代の政治史・和歌史・文化史の中の古写本―
 第二章 巻子本から冊子本へ―冊子本萬葉集のページネーション―
第二部 日本語史・日本文学史のなかの萬葉集訓読
 第一章 〈訓み〉を踏まえた萬葉集歌の改変―『古今和歌集』の「萬葉歌」をめぐって―
 第二章 天暦古点の詩法
 第三章 かなの文化の中の萬葉集訓読―平安から中世へ―
 第四章 「よみ(訓み・読み)」の整定―『新古今和歌集』の「萬葉歌」をめぐって―
 第五章 統合される「よみ(訓み・読み)」―宗祇『萬葉抄』における萬葉集訓読―
第三部 仙覚の萬葉学―十三世紀における知の変革―
 第一章 仙覚書状(金沢文庫旧蔵名古屋市蓬左文庫蔵『斉民要術』紙背文書)について
      ―萬葉学者仙覚と北条実時との関わり―
 第二章 国文学研究資料館蔵『萬葉集註釈』(第二冊・智仁親王筆)
      ―『萬葉集註釈』の本文整定のための基礎資料―
 第三章 道理と文證―『萬葉集註釈』の知の形式―
 第四章 「心」と「詞」―萬葉集訓読の方法―
 第五章 方法としての「ことわり」―萬葉集歌注釈における理法と詩学―
第四部 仙覚の萬葉学の行方
 第一章 筑後入道寂意(源孝行)
      ―由阿による秘伝の系譜の創出(付、レガリアとしての仙覚寛元本萬葉集)―
 第二章 『萬葉集目安』(正式名称『萬葉集註釈』)―南北朝期に誕生した「新注釈」―
終章 萬葉学史の研究の課題
年表(Ⅰ平安時代の『萬葉集』写本年表、 Ⅱ仙覚略年譜)
原論文一覧
あとがき
索引(1萬葉集諸本、2書名(萬葉学史に関わる)、3人名(萬葉学史に関わる)、4研究者名)


2007年10月18日木曜日

大岡信『古典を読む 万葉集』

大岡信『古典を読む 万葉集』

『万葉集』への良き導き手
��大岡信『古典を読む 万葉集』岩波現代文庫、岩波書店、2007年9月刊、900円〈本体〉)

この10年の間に、『万葉集』についての良質の入門書が、書店の店頭から姿を消してしまいました。大岡信氏の『古典を読む 万葉集』が、岩波現代文庫の1冊として再刊されたことは、本当に喜ばしい出来事です。

『万葉集』の長い研究の歴史、成立、時代背景、文字(漢字)との関わり、『万葉集』の中の文学史など、今日の万葉集研究の基本を学ぶことができます(もちろん、本書の原書が出版された1985年から、万葉集研究はさらに複雑になっています。しかし、その基礎には、1980年代までの研究成果があります)。

その上で、現代詩人の視点から、『万葉集』の歌人たちのことばの森を探ってゆきます。柿本人麻呂の、大胆で、矛盾に満ちた、詩的冒険についての解読は、本書の圧巻です。

今回、本書を読み直して、大岡氏が、歌集(アンソロジー)を編むことの意義を繰り返し説いていることが改めて注意されました。『万葉集』の編者は、歌による物語作者でもあり、すぐれた批評家でもあったのです。

『万葉集』を、一部の「書物」として読むことが、今後ますます重要になるでしょう。


2007年10月16日火曜日

秋山の木の下隠り(鏡王女)

鏡王女墓から見る舒明陵
 (写真=鏡王女の墓から見る舒明陵〈正面奥の森〉)

『万葉集』には、心に残る秋の歌がたくさんあります。

秋山樹下逝水乃吾許益目御念従者(巻2・92)

秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益さめ 思ほすよりは
��あきやまの このしたがくり ゆくみずの あれこそまさめ おもほすよりは)


〔訳〕秋山の木の下をひそかに流れてゆく水が増すように、私はひそやかにあなたのことを思っています。その水の水量が「増す」という言葉ではありませんが、私の思いの方があなたのお思いに“勝る”のです。
(*古代語の「ます」は、“増す”も“勝る”も意味します。)


作者は鏡王女(かがみのおおきみ)。鏡王女は、その墓が舒明天皇陵の領域内に営まれていることなどから、舒明天皇の皇孫と考えられます。

鏡王女は、臣下の藤原鎌足と結婚します。皇族が臣下と結婚することは、この時代では異例中の異例のことです。鏡王女は、天皇家と鎌足家との間に血族的な繋がりを築くという重要な役割を、天智天皇に託されたのでしょう。鏡王女は、天智天皇にとって、最も気の置けない、そして信頼できる親族であったに違いありません。

この歌は、皇太子時代の天智天皇の歌、

  妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを
  (いもがいへも つぎてみましを やまとなる おほしまのねに いへもあらましを)

に応じたものです。“いつでも見ることができるように、山の上にあなたの家があってほしい”と、大胆な発想の歌に、鏡王女は、ひそやかな思いで応じました。

「秋山の木の下隠れ行く水の」という序詞は、色づいた山の木々、その下を人知れず流れている水(「忘れ水」)という、静かで、澄み切った秋の情景を、生き生きと浮かび上がらせます。それはまた、鏡王女自身の心に他なりません。相手の歌を、鮮やかに切り返す歌でありながら、この歌には、自己の心を見つめる目が確かに存在しています。

臣下の鎌足と結婚した鏡王女は、やがて古代最大の内乱である壬申の乱に巻き込まれてゆきます。このような歌を詠む鏡王女は、亡き鎌足の正妻として、賢明に、中立の立場を貫き通したのでしょう。乱に勝利した天武天皇は、病を得た鏡王女を見舞い、亡くなった後には、王女の祖父舒明天皇の眠る陵のすぐそばに、鏡王女を手厚く葬りました。

普通ならば、「鏡女王」とあるべきところを、『万葉集』は「鏡王女」と記しています。これは、『万葉集』の編者が、この女性への敬意を表すために特別にあつらえた称号であったのでしょう。

舒明天皇、鏡王女、そして大伴皇女の眠る、奈良県桜井忍阪のこの静かな谷は、まさに日本古代の「王家の谷」と言えます。

私が訪れた時には、この谷の田に、イノシシが遊んだ跡が残っていました(下の写真)。
王家の谷の猪


2007年10月12日金曜日

万葉集原本のレイアウト

万葉集原本のレイアウト

『万葉集』の成立した、7~8世紀の中国文化圏では、仏教経典・儒教経典・道教経典・法典・歴史書など正式な書物は、巻物に仕立てられました。そして、その巻物には決まりがありました。藤枝晃氏の研究によれば、それは①~⑤のようになります。

①縦1尺(南北朝時代の1尺で約27cm)の麻紙(まし。麻を原料とする紙)を用いる。
②専門の写経生が書写する。
③楷書で書く。
④1行17字詰め。
⑤上下にそれぞれ約3cmの余白をとり、横の界線(罫線のこと)を引く。これに、1.5~1.8cmばかりの間隔で、縦の界線を引く。

そして、敦煌写本や奈良朝写経などを調べると、本文のレイアウトにも次のような規則があったことがわかります。

⑥題と本文は同じ高さで書く。
⑦句読点やスペースは置かない。

『文選』などの詩文集の写本も、玄宗皇帝の時代の前までは、以上の決まりに準じています(ただし、1行の字数が経典とは異なり、15字または16字詰めです)。

��なお仏教関係の韻文では、句ごとにスペースを置くことがあります。しかし、中国古典籍ではスペース置かないことが厳しく守られます〈澁谷譽一郎氏の研究による〉。)

『万葉集』も、正式な書物に準ずる姿で製作されたと考えられます。以上の決まりに従って、『万葉集』原本のレイアウトを復元すると上の写真のようになります。

『万葉集』原本は表情は、活字の冊子本とはまったく異なるものになりました。



[主な参考文献]
��.小川靖彦「『萬葉集』原本のレイアウト―音読から黙読へ―」『青山学院大学文学部紀要』第47号、2006年1月
��.藤枝晃『文字の文化史』講談社学術文庫、1999年
��.藤枝晃『敦煌学とその周辺』対話講座なにわ塾叢書51、ブレーンセンター、1999年
��.澁谷譽一郎「敦煌所見韻文写本の書写形態を通して見た唐五代の一文藝状況」『藝文研究』№65、1994年3月
��*1の小川論文末尾の引用文献一覧から、4の澁谷論文が落ちていました。失礼致しました。)


2007年10月11日木曜日

展示情報(2007年10・11月)

2007年10月、11月には、『万葉集』関連の展示、古代の巻物の展示として以下のようなものがあります(書名は、博物館・美術館の名称に従っています。なお、この記事は随時、増補します)。

東京・五島美術館「秋の優品展 絵画・墨跡と李朝の陶芸」(2007年9月1日(土)~10月21日(日))
・光明皇后願経五月一日経 四分律蔵巻第四十(重要美術品)〔奈良・8世紀〕
・称徳天皇勅願一切経 十誦律 第三誦巻第十七(重要文化財)〔奈良・8世紀〕
・過去現在絵因果経断簡(益田家本) 耶舎長者出家願図〔奈良・8世紀〕(展示予定期間9月26日~10月21日)
��その他、『紫式部日記絵巻(五島本)』(国宝)も展示されます(10月13日~21日)。

○広島・厳島神社宝物館「特別展示」(2007年10月27日(土)~11月25日(日))
・平家納経(国宝)〔平安・長寛2年(1164)〕

東京国立博物館平常展
「仏教の興隆」
・仏説宝雨経 天平十二年五月一日光明皇后願経〔奈良・8世紀〕(9月19日~10月28日)
・文陀竭王経〔奈良・天平12年(740)〕(同上)
・中聖武切〔奈良・8世紀〕(同上)
国宝室
・秋萩帖(国宝)〔平安・11~12世紀〕(10月10日~11月4日)
��万葉歌が、草仮名で書写されています。

奈良国立博物館「第59回正倉院展」(2007年10月27日(土)~11月12日(月))
*昨年の情報を掲載していました。大変失礼いたしました。追記を御参照ください。

愛知・徳川美術館企画展「王朝美の精華―かなと料紙の競演―」(2007年10月6日(土)~11月4日(日))
��金沢本万葉集を書写した藤原定信(ふじわらのさだのぶ)の筆の石山切貫之集などが展示されています。力強い筆づかいの定信作品を数多く見ることができます。

○京都・仁和寺霊宝館「秋期名宝展」(10月1日(月)~11月23日(金))
��仁和寺霊宝館の名宝展では、中国文化圏で年代のわかる最古の冊子本である『三十帖冊子』(国宝。空海ら筆。平安・9世紀初頭)が2冊ほど展示されます。冊子本のはじまりの姿を知る絶好の機会です。今年の「秋期名宝展」で『三十帖冊子』の展示があるかどうかは、仁和寺霊宝館にご確認ください。
��『万葉集』の時代には、冊子本はまだ日本には伝わっていなかったことが実感できます。

いくつかの展示につきましては、わかりやすい解説記事を、このブログに掲載します。 


【追 記】

奈良国立博物館「第59回正倉院展」(2007年10月27日(土)~11月12日(月))

・四分律巻第十五(唐経) 1巻 聖語蔵2-6
・四分律巻第二十七(光明皇后御願経) 1巻 聖語蔵3-81
・須摩提経(称徳天皇勅願経) 1巻 聖語蔵4-74


*唐経と光明皇后御願経の『四分律』が出品されています。両者の、紙色や、筆勢の違いが注目されます。

展覧会ための必備アイテム

展覧会に必備のアイテム

展覧会は、古代の巻物を直接見ることのできる貴重な機会です。この秋も、古代の巻物があちらこちらの博物館・美術館で展示されます。

展覧会で、古代の巻物を味わうためのコツと道具を紹介します。

��1)展覧会の見方

・まず、展覧会でどのような文化遺産が展示されるか、その博物館・美術館のホームページで情報を得ます。その情報をもとに、しっかりと見ておきたいものを絞っておきます。

・展覧会場では、できるだけ軽装にします。観覧に必要な道具以外は、すべてコインロッカーかクロークに預けてしまいます。会場は暑いことが多いので、上着も預けた方がよいでしょう。脱いだ上着を持っていると、かなり邪魔になります。

・展示図録は、観覧する前に購入しておくのがコツです。図録の写真に、観察したことを書き込みます。写真の色は、大抵実物とは違っています。ひどい場合には、撮影のための照明で表面が反射して、よく見えないこともあります。
��*最近の東京国立博物館や京都国立博物館の展示図録は、異様にぶ厚く重いものになっています。あまり厚く重い場合には、観覧の後に購入する方がよいでしょう。)

・展覧会では、見たい巻物のあるコーナーに真直ぐ向かいます。多くの人は、入口の「挨拶」を丁寧に読み、順路通りに見ていますが、この見方をすると、見たい巻物のコーナーに着いた頃にはへとへとになってしまいます。
��*一般に、展覧会では入口付近のコーナーは大混雑ですが、終わりの方は大分すいているものです。なお「挨拶」は、図録にまったく同じ文章が載っています。)

・目当ての巻物のあるコーナーに着いたら、図録にメモを書き込みます。まず全体の印象。主観的な印象は、意外に大切です。次に、図録の写真と照合します。色が違う場合には、実際の色をメモしておきます。それから、細部を観察してゆきます。

・コーナーには、展示品の解説がありますが、これを写す必要はありません。普通は、図録に同じ文章が書かれています。展示会場で、解説だけを読んでいる人がたくさんいますが、大切なことは、「自分の目」で、巻物を見ることです。

・巻物は見るべきポイントがたくさんありますので、細部を観察するには、かなり時間を要します。ゆっくり見ていると、他の人の邪魔になってしまうことがあります。人が増えてきたら、観察するポイントを変えて、少し移動するようにします。体をほぐせますし、トラブルも避けられます。
��*巻物を見るポイントについては、別の記事で紹介します。)

��2)展覧会に必備のアイテム

・巻物に限らず、書物(冊子本)・絵巻物・掛け軸などを、展示会で細かく見るには、肉眼では限界があります。そこで、私は「至近焦点スコープ」(望遠鏡)を利用しています。これで、巻物の文字の美しさ、罫線(界線)の技術、料紙の様子、下絵の細部などを、はっきりと見ることができます。
��*上の写真の、ノートの左にあるのが、「至近焦点スコープ」です。ちなみに、私は、ヒルカインタナショナル社製の
  SpecWell M0616 (6倍) 〔写真左〕
  Specwell M1030 (10倍) 〔写真中央〕
を使っています(M1030 は45倍の顕微鏡として使うこともできます)。
最初は、M0616だけで充分です。さらに細部を見たくなった時に、M1030も揃えればよいでしょう。価格は、それぞれ、14,000円前後です。やや高価ですが、長く使えますので、決して高い買い物ではありません。
��*本当に驚くほどよく見えます。「至近焦点スコープ」で見ていると、隣の人が自分にも貸してほしいという目で訴えてくることが何回かありました。)

・小さいノートとプラスチック・ボードも必ず用意します(もちろん筆記用具も必要です)。図録がない場合もありますし、図録に書ききれない場合もあります。また展覧会場の照明が暗くて、図録の文字が読めないこともあります。

それでは、古代の巻物との良き出会いを、心よりお祈りいたします。


2007年10月9日火曜日

桂本万葉集を巻物にする

巻物の桂本万葉集

桂本万葉集の複製(写真版)を見ていると、巻物で味わいたくなります。

桂本では、漢字と平仮名が次々と変化するばかりではありません。料紙も、藍・白・白・淡紫・淡茶・淡藍・淡茶と色が変わってゆきます。その料紙には、鳥や蝶、萩・薄・笹などの植物が、金と銀で描かれています。

手軽に桂本を巻物として味わう方法をお伝えします。

①『桂本万葉集』(日本名筆選27、二玄社、1994)の2~57ページをカラーでコピーします。

②それぞれのページの写真の部分を切り取ります。
��*右側の白い部分を2cm幅で、糊代として残しておくことが大切です。)

③切り取った写真の、それぞれの縦の長さが同じになるように、カッターで仕上げます。
��*この時、文字や絵がうまくつながるように注意してください。)
��*縦の長さを揃える時に、写真を切り過ぎないようにしましょう。桂本の本来の縦の長さ27.0cmであることを念頭に置いておいてください。)

④切り取った写真をつなぎます。巻首に近い方が上になるようにしてつなぎます(これが、巻物の決まりです)。ですから、終わりの写真から、2cm幅の糊代に、一つ前の写真の左端を重ねて貼り付けてゆくというのがよいでしょう。

��*糊は、水気の遠いものがよいでしょう。文具店にあるスティックのりで充分です。)
��*勘で貼ってゆくと、ゆがんでゆきます。長い机のへりに、写真の下部を合わせながら貼ってゆくと、あまりゆがまずにすみます。)

⑤巻首の1枚まで貼ったら出来上がりです。

��*長いので、すでに貼り付けたところが、作業をするのに邪魔になります。非常にゆるく巻きながら、作業を進めるとよいでしょう。きつく巻いておくと、はみ出た糊で、思わぬところが貼り付いてしまうことがあります。)

表紙や軸を付けてもよいでしょう。簡単な表紙や軸ならば、東急ハンズで購入することができます(掛け軸用のを転用します)。

自分だけの「桂本万葉集」を、肩幅程度に開いてみてください。そして次に開いた部分を右手に巻き込んで、左手で持っている部分から、もう一度肩幅程度の長さを引き出してみてください。絵柄ががらっと変わることに驚くことでしょう。

今まで知らなかった『万葉集』の世界が目の前に広がってくるはずです。


2007年10月8日月曜日

小川町万葉灯籠まつり

万葉灯篭(中谷氏撮影)
(実行委員の中谷氏撮影)
鎌倉時代の万葉学者の仙覚(せんがく)律師が、『万葉集註釈』を完成させた埼玉県小川町で、「小川万葉灯籠まつり」が開催されます。

小川町は今、仙覚律師の顕彰と『万葉集』の普及に力を入れています。

日にち:平成19年10月20日(土)
場所 :埼玉県比企郡小川町 駅前通り(花水木通り)
主催 :小川町万葉灯籠まつり実行委員会(小川はつらつ商店会、仙覚万葉の会)
後援 :小川町、小川町教育委員会、小川町観光協会、小川町商工会
協力 :19団体
イベント:13時~21時
 ・万葉歌の朗唱(13時半から15時半)
 ・よさこい踊り(13時~15時)
 ・灯籠の点灯式(16時半~17時)
 ・パレード(17時~18時)
 ・万葉スタンプラリー(13時~17時)
 ・土曜夕市(16時~20時)

万葉歌の朗唱と、パレードでは、小川町の伝統工芸品である和紙で作った万葉時代の衣装を町の皆さんが着ます。

万葉灯籠は、和紙に、万葉歌を書き、その絵を描いたものです。すべて町の皆さんの手作りです。小学生も制作に参加しました。
��写真は、実行委員の中谷氏撮影の万葉灯籠です)

��私も縁あって、10月6日(土)に、小川町図書館で、「仙覚律師の業績と小川町」という話をさせていただきました。


2007年10月7日日曜日

桂本万葉集の美しさ(文字のちから)

國文學 文字のちから

『万葉集』の最古の写本は、桂本(かつらぼん。一巻。平安中期、源兼行(みなもとのかねゆき)筆。御物)です。桂本には、現代の活字本の『万葉集』にはない美しさがあります。

まずはその書です。平安時代の『万葉集』の写本は、歌を漢字で書いた後に(『万葉集』の歌は、本来すべて漢字で書かれています)、改行してその読み下しを平仮名で書きます。そして、その漢字と平仮名が美しい調和を見せるのです。

桂本では、兼行の得意とする、広い空間を使った、ねばりのある漢字につり合うように、回転部を大きくした、安定感ある平仮名が書かれます。

そして桂本は、巻物(巻子本。かんすぼん)です。巻物の特徴は、冒頭から末尾まで、切れ目なく連続してゆくところにあります。桂本では、漢字と平仮名が追いつ追われつしながら、それぞれの書体や字形を次々と変えてゆきます。漢字と平仮名が、時には同調し、時には反発し合いながら、さながら音楽のように展開してゆくことに、驚きを覚えずにはいられません。

巻物である桂本を味わうためには、一部分だけを見るのではなく、全体の「流れ」を感じることが大切になります。



詳しくは、以下を御覧ください。

・小川靖彦「萬葉集―漢字とかなのコラボレーション」(『國文學』平成19年8月臨時増刊号、特集・文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―、学燈社刊)

��この特集は、日本の文字の歴史、日本文学研究が積み重ねてきた写本研究の成果、デジタル技術を用いた最先端の文字研究、保存修復の現在などをわかりやすく紹介したものです。
��古筆学という新しい学問を打ち立てた小松茂美先生のインタビューもあります。
http://www.gakutousya.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=0160

http://kasamashoin.jp/2007/07/820077.html


【桂本の複製本】
①『御物 桂本』集英社、1976〔絶版〕(巻子本。料紙の色、下絵の色を復元)
②『平安 桂萬葉集』日本名跡叢刊99、二玄社、1986(冊子本。モノクロ。ただし、口絵に連続したカラー写真あり。一巻として桂本を味わえる)
③『桂万葉集』日本名筆選27、二玄社、1994(冊子本。カラー。断簡の写真も広く集める)


はじめに



この「万葉集と古代の巻物」では、日本最古の歌集『万葉集』についての情報と、私の研究成果を紹介します。また『万葉集』の原本は存在しません。成立当初、『万葉集』は巻物であったと思われます。巻物には、現在私たちが普段見慣れている冊子本とは違う世界が広がっています。巻物に関する情報やその見方についても、わかりやすくお伝えしたいと思っています。(写真は私の試作した巻物の『万葉集』です)