2009年7月26日日曜日

国宝・三十帖冊子の修復

三十帖冊子
(写真=2009年6月2日付日本経済新聞の記事、および『花洛・仁和寺』(総本山 仁和寺発行)から)

巻子本から冊子本への変革の歴史の解明を期待

2009年6月2日(火)付の日本経済新聞などで、京都・仁和寺所蔵「三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)」(国宝)が、京都府教育委員会によって修復されることが決まったと報じられました。

私にとって、以前から「三十帖冊子」は大変気になる存在でした。「三十帖冊子」は、実は中国文化圏で、書写・製作年代がわかる、最古の冊子本です。

「三十帖冊子」は、その内容と周辺資料から、空海が唐に留学した、延暦23年〔中国では貞元20年〕(804)から大同元年〔元和元年〕(806)の間に書写・製作されたものであることが、確実と見られています。若き空海が自ら書写した経典も、多数含まれています。

敦煌写本の中に冊子本も見られます。その中に、料紙や筆跡などから8世紀中葉のものと推測されるものがあります(『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』Or.8210/S.5478。池田温氏の推定による)。8世紀の盛唐期(玄宗の時代)には、冊子本が登場していたことが伺えます。

とはいえ、この敦煌写本の冊子本も、残念ながら書写・製作年代を具体的に絞り込むまでの手懸かりはありません。私たちは、中国の、西安(唐の都・長安)などの中心地域に、唐代の冊子本が多く残っているのではないか、と思いがちです。しかし、中心地域では、冊子本はもちろん、巻子本の写本も早くに失われてしまっています。

西域への窓口であった、西の辺境の敦煌と、海隔てた東方の日本に、唐代の写本や、それらに影響を受けた写本が、数多く残ることになりました。

それだけに、書写・製作年代が確実な「三十帖冊子」は、中国文化圏における初期の冊子本の姿を伝える、極めて貴重な書物と言えます。しかも、その分量は30帖、また内容も経典96部168巻、梵字真言・偈頌(げじゅ。詩)・讃・回向文(えこうぶん)など47種に及びます(内容については、『請来美術図録』の算定による)。
*「三十帖冊子」のように「粘葉装(でっちょうそう)」という装丁の冊子本は、1冊を1帖と数えます。
��「三十帖冊子」は、本来38帖でしたが、既に延喜18年(918)には、30帖となっていました。この間に散逸した『十地経(じゅうじきょう)』『十力経(じゅうりっきょう)』の2帖は、その後、幸運なことに仁和寺に納められました(38帖のうち、32帖を仁和寺が所蔵していることになります)。


日本経済新聞の記事によれば、修復は次のように行われるとのことです。
  表紙に使われている絹地が擦り切れ、欠損した部分に裏側から同じ絹の布を当てるほか、
  紙の一部にある虫食い穴を和紙で埋めて補修する。

表紙を中心に修復が行われるようです。

中国文化圏において冊子本が、「正式な」書物である巻子本に対して、個人用の、ノートに近いものであったことは、先の記事「大きさから見た巻物と冊子本」に書きました。「三十帖冊子」も、本紙には界線も引かれず、1頁の行数や1行の字数も一定しておらず、拙い書き手による書も見え、やはりノートに近いものと言えます。

ところが、その一方で、「三十帖冊子」の本紙は、紙の外側に紫に染めた平織(ひらおり)の絹、内側に白絹を貼った表紙(紫の絹を貼った帖もあります)で、包み込まれています。この表紙の右端には発装が取り付けられ、発装の中央にはが結び付けられています。

本紙を左から覆う表紙の上に、右から覆う表紙が重なり、紐で全体を結ぶ体裁となります。そして、多くの帖に、金字で外題が書かれています(もちろん楷書です)。
*藤本孝一氏によれば、この表紙は、2枚を底で貼り継いだものとのことです。

「三十帖冊子」は冊子本でありながら、巻子本に近い装丁となっているのです。この装丁は、長安で施されたものと考えられています(真保龍敞氏、中田勇次郎氏ら)。

表紙の絹の性質(糸の縒り・幅・密度など)、発装の形状、紐の組織やその糸の特徴などについて、詳細なデータが得られたならば、「三十帖冊子」の製作のために、どのような技術が駆使されたかが明らかになるでしょう。当時の中国の造本技術に、新たな光が当たるに相違ありません。

また、それは、なぜ「三十帖冊子」が冊子本でありながら、このような装丁を採ったのか、具体的に解明することにもなるでしょう。

そして、この「三十帖冊子」の装丁は、7・8世紀の中国文化圏における巻子本の装丁を知る重要な手懸かりでもあります。この時期に、巻子本の表紙に絹布が用いられたことは、「正倉院文書」などに記録されています。しかし、実際の遺品は、敦煌写本にも、古代の日本に輸入、または書写された巻子本にも、今のところ見出せないようです。

さらに、巻子本の紐も、記録には、さまざまな種類のものが見えるものの、7・8世紀に製作された実物は、ごくわずかしか現存していません。

今回の修復を機に、中国文化圏における、巻子本から冊子本への変革の歴史が明らかにされることを思うと、期待に心踊ります。
*なお、「三十帖冊子」は、成立当初から、内容・装丁の両方で、安定している部分と不安定な部分とがある上(中田勇次郎氏らによる)、複雑な伝来の歴史を経てきています。「書物」としての「三十帖冊子」の性質や歴史も、今回の修復で明らかになることでしょう。
[主な参考文献]
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.奈良国立博物館編『請来美術図録』奈良国立博物館、1967年
��.藤本孝一『古写本の姿』日本の美術第436号、至文堂、2002年
��.禿氏祐祥『三十帖策子に就て』六大新報社、1950年
��.真保龍敞「『三十帖策子』原型の輪郭について」『印度学仏教学研究』第15巻第1号、1966年12月
��.真保龍敞「三十帖策子の原初形態-伝教大師借覧の策子について-」『印度学仏教学研究』第18巻第1号、1969年12月
��.中田勇次郎「三十帖策子の書について」『国宝 三十帖策子 重要文化財 十地経策子〈原寸複製〉』解説、法蔵館、1977年


2009年7月17日金曜日

「文字でたどる江戸の旅」展(青梅市郷土博物館)

青梅市郷土博物館

江戸時代後期の文字と日記の文化

青梅市を散策した折に、興味深い展示会に出会いました。青梅市郷土博物館で行われている企画展「文字でたどる江戸の旅」です。

久保仙助、柳屋(小林)たみ、小嶋小三郎の道中日記が、翻刻と現代語訳を伴った写真版で展示されています(仙助の道中日記は、一部実物も展示されています)。

特に私の目を引いたのは、柳屋(小林)たみの道中日記です。商家出身の女性で、徳川斉荘(とくがわなりたか。尾張徳川家12代当主)にも仕えたたみの、嘉永2年(1849)4月27日から8月10日までの129日間におよぶ旅の記録です。

たみの旅は、日本橋から長野善光寺、京都・大阪、四国の琴平神社にも足を延ばし、伊勢神宮・名古屋〈主君の墓参〉を経て品川に戻る大旅行でした。記録は大福帳のような帳面に書かれています。

たみの道中日記は、旅先での体験やさまざまな人々との出会いを生き生きと記しています。柏餅などがおいしかったことを楽しそうに書いている記事などには、つい微笑してしまいます。

江戸時代後期の、旅の実際を伝える貴重な内容に加えて、その筆の美しさが目を惹きます。堂々とした、しかも柔らかな文字です。漢字もきちんとした崩し方で書いています。

商家の女性が、これほどまでに整った文字で、道中の出来事を丹念に書き記していることに、江戸後期の文字文化の高さを、改めて実感させられました。

加えてその文字に、この道中日記が、単に、その場かぎりの、自分ひとりのための覚書ではないという印象も受けました。他の人々や、後の人も見る「記録」として、この道中日記を綴っている、という意識が働いているように感じました。

青梅市郷土博物館は、青梅への愛情が強く感じられる博物館です。青梅の自然や産業についての展示から新たな知識が得られます。柿渋(かきしぶ。渋柿の実のタンニンから作る茶色の染料)を作る道具を初めて目にしました。

また、第二次世界大戦中に作られた年賀状など、当時の人々の生活や意識を伝える、興味深い資料もあります。近接した場所に保存されている重要文化財・旧宮崎家住宅とともに(古い農家独特の、囲炉裏の火による煤のにおいが懐かしく感じられました)、青梅に行く機会がある時には、必ず訪ねたい博物館です。

 企画展「文字でたどる江戸の旅」
 会場:青梅市郷土博物館
    〒198-0053 東京都青梅市駒木町1-684
 会期:2009年2月21日(土)~8月16日(日)
 開館時間:9時から17時
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
 入場料:無料
 ホームページ:http://www.city.ome.tokyo.jp/index.cfm/43,1351,160,193,html
 チラシ