2011年3月24日木曜日

白河(福島県)を思う

白河小峰城
(写真=白河小峰城)

松平定信公と『万葉集』

2011年2月末に、私は初めて福島県白河市を訪ねました。白河関跡を見、また白河藩主であった松平定信公(1758〈宝暦8〉~1829〈文政12〉)の面影を偲びたいと思っての旅でした。

寛政の改革を推進した政治家として名高い定信公は、和歌・書画・造園などに造詣が深く、さらにはオランダの書物の収集に努め、西洋の銅版画にも詳しい文化人でした。

『万葉集』とも深い関わりがあります。六十代の半ばに、子孫のための戒めを記した『修行録』の中で、『源氏物語』を7部、『二十一代集』を2部、『八代集』を1部、『万葉集』を2部書写したと書かれています。

定信公が書写した『万葉集』の1部が現存しています。平安後期の11世紀後半に書写された元暦校本(げんりゃくこうほん)を書写したものです。全13冊、縦約13㎝、横約10㎝の、細字で記された愛らしい写本であることが、佐佐木信綱『万葉集事典』に紹介されています。

この写本は、塙保己一検校が並々ならぬ努力によって、元暦校本を影写(トレース)した本を親本としています。定信公は元暦校本の価値を十分に知っていたのでしょう。

実は定信公は、塙検校の和学講談所の設立に大きく関わっています。塙検校による、和学の講読所と文庫の創設の願い出を許可した幕府の老中は、他ならぬ定信公でした。そして、塙検校の求めに応じて、定信公はこの講読所を「温故(古)堂」と名づけました。

後にこの講読所と文庫の公的名称は「和学講談所」となり、幕府の準公設機関として、和学の研究、『群書類従』の出版などを大規模に展開して(元暦校本の影写もその一つです)、日本文化の継承と普及の上で重要な役割を果たしました。

定信公と、定信公を囲む多くの人々によって、江戸末期の19世紀初頭の学術と文化は大きな高まりを見せました。藤田覚氏によれば、定信公は武士の「義気」(義に富む心。正義を守る心)を育むものとして、学問と教育を重視しました。これによって起こった教育熱は、武士の間にとどまらず、庶民にも広がってゆきました。

定信公は白河藩の学術と文化の振興にも力を注ぎました。私は、白河の地に、定信公の思いが、今日にも生き生きと伝えられていることを強く感じました。定信公が白河藩で作らせた美しい陶磁器や織物などについて、白河市歴史民俗資料館で学びました。また、白河では、特産の工芸品(白河だるまなど)、菓子、料理などが、定信公によって始められたものとして、誇りをもって紹介されていました。

私が訪れた時には、ちょうど白河市本町町内会主催の「城下町白河 おひな様めぐり」が開催されていました。111箇所に、それぞれに違ったおひな様が飾られ、街全体が静かな華やぎに包まれていました。そして、何よりも深く感銘したのは、旅人が少しでもとまどっていると、進んで声をかけてくれる白河の人々の温かな歓待の心でした。

東北・関東地方を襲った巨大地震で、白河市も被害をこうむったことが伝えられています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、皆様にお見舞い申し上げます。白河市の復興を心の底から願ってやみません。
[参考文献]
��.藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』中公新書、中央公論新社、1993年、2003年(再版)
��.磯崎康彦『松平定信の生涯と芸術』ゆまに書房、2010年
��*文化人としての定信公に新たな光を当てた書物です)

��.白河市歴史民俗資料館編『図録 定信と庭園―南湖と大名庭園―』財団法人白河市都市整備会社、2001年、2006年(第2刷)
��*定信公の文化事業を知るための貴重な書物です。この書物に収められた論文、加藤純子「白河ゆかりの定信遺品紹介」からは、定信公の白河藩での産業と文化の振興を具体的に知ることができます)

��.太田善麿『塙保己一』人物叢書、吉川弘文館、1966年、1994年(新装版第2刷)
��.齋藤政雄「温故堂と和学講談所」温故学会編『塙保己一研究』ぺりかん社、1981年
��.佐佐木信綱『萬葉集事典』平凡社、1956年
��.小川靖彦「最古の冊子本萬葉集・元暦校本―その美・歴史的意義と塙保己一検校―」『温故叢誌』(温故学会発行)第64号、2010年11月


2011年3月22日火曜日

佐佐木信綱の震災の短歌

「悲しき太陽」

東北・関東地方を襲った巨大地震の被害の大きさに、ことばを失っています。
被害を受けられた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

私は都内の図書館で『万葉集』に関わる写本を閲覧している時に地震に遇い、その後長距離を歩いて帰宅しました。

日はたちまち暮れ、寒さと疲労に見舞われ、膨れあがる不安の中で思い起こしていたのが、国文学者で歌人の佐佐木信綱(ささきのぶつな)が1923年(大正12)9月の関東大震災の時に作った短歌でした。

この関東大震災によって、信綱は足掛け12年をかけてようやく完成目前にまで漕ぎ着けていた『校本万葉集』を火災によって失いました。印刷所で、表紙に金版(かなばん)を押すだけになっていた本体500部はもちろん、校合を行った調査結果や印刷用原稿、さらには『校本万葉集』の基礎資料となった貴重な写本・刊本の多くも焼失しました。信綱自身も茫然自失し、軽い脳貧血をおこして倒れました。

  空をひたす 炎の波の ただ中に 血の色なせり 悲しき太陽

  恐ろしみ あかしし朝の 目にしみて 芙蓉の花の 赤きもかなし

  蝋燭の 息づくもとに 親子ゐて 疲れ極まり いふ言もなし

  いかに堪へ いかさまにふるひ たつべきと 試の日は 我らにぞこし

  ちりと灰と うづまきあがる 中にして 雄々し都の 生るる声す(帝都復興)

 *『豊旗雲』(実業之日本社、1929年刊)所収より。
 *『天地人』(改造社、1936年)の本文に依る(一部の歌の抄出)。

2年後の1925年(大正14)、信綱は多くの人々の力に支えられながら、献身的な努力によって『校本万葉集』(全25冊)の再興を成し遂げます。人の持つ力を信じたく思います。