2008年12月28日日曜日

蘇った古代メキシコの赤:「白田良子の世界」展

白田良子展

天然染料の力強さと優しさ

1959年に単身メキシコに渡り、現在、古代メキシコ(マヤ・アステカ)の染色の研究を進めている、白田良子(しらた・よしこ)さんという日本の女性研究家がいることを、日経新聞の別冊で知りました。

別冊は、その白田さんの復元した古代メキシコの染料を使った、白田さんの染織作品が、JICA横浜事務所の1・2階のギャラリーで、2008年12月11日(木)から12月22日(月)に展示されることを伝えていました。
 *主催:白田良子展実行委員会
   後援:メキシコ―日本アミーゴ会、JICA横浜国際センター

私は巻物の装丁への関心から、色や染織についての展示会には注意するようにしています。しかし、古代メキシコの染織は、中国文化圏の巻子本からは、はるかに遠い世界でしたので、研究上の関心からというよりは、軽い気持ちで展示会場を訪ねました。

しかし、実際に会場に足を運んでみると、目を瞠りました。まず2階に展示された、紫地に織られた藍色の魚の力強い色と姿の、強烈な印象が、心に残りました。その先には、メキシコの人々が、サボテンに寄生する、貝殻虫科のエンジムシから、コチニールという赤の染材を採取する方法について、図による詳細な説明がありました。

なお、コチニールを用いた赤は、日本には、戦国時代から桃山時代にかけて、南蛮船によってもたらされたようです。「猩々緋(しょうじょうひ)」と言われる鮮烈な赤は、このコチニールによって染められたものと言われています(以上、小笠原小枝氏による。小笠原氏の本には、東京国立博物館蔵「小早川秀明所用猩々緋羅紗地違鎌文様陣羽織」の写真が掲載されています)。私にとって、どちらかと言えば、馴染みの薄い赤でした。

改めて白田さんの作品を見て、その赤の鮮やかさに目を奪われました。それと同時に、その鮮やかなはずの赤が、それを確かに見ていたはずなのに、私に突出した印象を残していなかったことを、不思議に思いました。

��階の展示会場で、その秘密がわかったように思いました。「紫」(EL MUNDO MORADO)という作品に出会いました。コチニール、スオー、ログウッド、アカワル、刈安(かりやす)で染めた糸で、波状の模様を織り出した上品な作品です。深く濃い赤、暖かな赤、華やかな紅、落ち着いた紫などの多彩な赤系統の色、そこに黄色と黄緑・緑・青がアクセントを加えています。多彩な赤に、驚かずにはいられません。

そして、展示会場の隅のテーブルの上に、白田さんご自身が作られた、色見本が置かれていました。その中に、コチニールを5種類の媒染材によって染めた糸をまとめたページがありました。さらに、媒染材の濃度の違いによって、異なる色に染め上がった糸が、各4種類示されていました。

暗い赤から、華やかなピンク、鮮やかな赤、落ち着いた紫、灰色、黒まで、なんと20種類の、コチニールが生み出した色が、そこにはありました。

白田さんの赤を使った作品は、鮮やかな赤だけを用いるのではなく、多様な赤を交響させながら、一つの作品を織り上げていたのです。そして、時に強く、時に優しいそれら多様な赤の源は、コチニールという一つの染材であったのです。

天然染料に宿る、多様な色の可能性、そしてそれを引き出してゆく白田さんの技術に、深い感銘を受けました。遠いものと思っていた古代メキシコが、「色」を通じて、一挙に身近なものに感じられました。

染められた糸(白田良子展)

*パンフレットによれば、白田良子氏は、1929年北海道富良野市生まれ。1965年、U.F.M(メキシコ女子大)卒業。同年より、国立人類学歴史研究所(I..N.A.H.)職員。メキシコの遺跡・古い教会の修復に携わる。1982年から、メキシコ市郊外で染色の研究と実証に没頭、1994年にメキシコの天然染料についての研究を集大成した「メキシコの染織」(色見本)を出版。この頃からタペストリーと編み物の製作を始める。2006年、メキシコ政府文部省から褒章を受賞。
��今後も、白田氏の作品の展示会が開かれることと思います。またメキシコの天然染料に関する新著も出版される予定とのことです。

��第一次世界大戦以前から、日本とメキシコの間には様々な関わりがあります。メキシコの歴史についてもっと私たちは知る必要があるように思います。

��参考文献]
��.小笠原小枝『染と織の鑑賞基礎知識』至文堂、1998年


2008年12月18日木曜日

吉村克己『満身これ学究 古筆学の創始者、小松茂美の闘い』

満身これ学究・古筆学

原爆と学問と
��吉村克己『満身これ学究 古筆学の創始者、小松茂美の闘い』文藝春秋、四六判312頁、2008年12月刊、1,857円〈本体〉)

ルポライター・吉村克己氏による、古筆学者・小松茂美先生の評伝が刊行されました。完成に至るまで、5年余りの歳月をかけ、小松先生を中心に、先生に関わる人々からの120時間以上のインタビューを踏まえた誠実な書物です。312頁という読みやすい分量ですが、その1行1行の背後に、地道な取材や裏付け調査の跡が垣間見えます。

小松先生が、独力で「古筆学」という新しい学問を樹立するまでの苦闘は、今までに先生御自身も『平家納経の世界』(中公文庫)などで記されています。しかし、今回の吉村氏の書物は、小松茂美という古筆学者を支え続けた家族、支援者たち、教え子、理解者たちに光を当てました。

「平家納経」を中心に、平安の美の世界に迫るために、従来の学問の枠組にとらわれずに、ありとあらゆる力を尽くして来られた先生の情熱と、その先生に深い共感を覚えて夢を託した人々の、熱い人間のドラマが描き出されています。

吉村氏は、先の著書『全員反対!だから売れる』(新潮社、2004年)で、技術者たちが、常識を超えた大胆なアイデアを、周囲の強い反対を受けながらも、粘り強い努力と少数の理解者の支援によって実現してゆく過程を、丁寧な取材によって明らかにしています。その底を流れるのは、“創造する”とはどういうことなのかという鋭い問いかけです。

本書『満身これ学究』も、創造的な学問とは何か、それはどのようにして生まれるのかという意識に貫かれています。それと同時に、小松先生が明らかにされた、日本文化の豊饒さを是非多くの人々に伝えたいという強い願いが込められています。「古筆」の世界への良き入門書でもあります。

ところで、吉村氏のきめ細かな取材は、原爆投下後の広島に関する、極めて貴重な記録をも残してくれました。第二章「国鉄とピカドン」で、国鉄職員であった小松先生が、御自身も被爆しながら、広島で目の当たりにした、地獄のような凄まじい光景には、言葉を失います(特に77~86頁)。また、その中で小松先生を始めとする国鉄職員の人々が、負傷者の救出のため、迅速に献身的に対処したことには、深い感動を覚えます。

救出を行って帰宅した翌日から、小松先生は40度の高熱に見舞われ、医師から死を宣告されます。奇跡的に生命を取り留める中で、日本の装飾経の中でもとりわけ美しい「平家納経」を一目見たいという情熱が留めようもなく湧きあがってきます。“命”と「学問」が結びついた瞬間です。

また、小松先生を支えてこられた丸夫人の、含蓄に富むお言葉は、本書にさらに清らかな光を添えています。

*今年、ドイツに対して行われた「絨毯攻撃」を、文学から論じた、W.G.ゼーバルトの『空襲と文学』の日本語訳が出版されたことも偶然とは思えません(白水社刊)。
��原爆投下の惨劇について、早くも1963年に、イギリスのイアン・キャンベル・フォークグループ(The Ian Campbell Folk Group)が、“The Sun is Burning[太陽は燃えている]”という哀しくも力強い歌を発表しています(The Folk Collection. Topic Record Ltd. 1999に収録されています)。また1964年には、サイモン・アンド・ガーファンクル(Simon & Garfunkel)のカヴァーが録音されています(Wednesday Morning, 3 A.M. [水曜の朝、午前3時] ソニー・ミュージック、2001)。是非、多くの日本人に聞いてもらいたいと思います。


2008年11月19日水曜日

下田歌子のゆかりの地にて

実践女子学園学校案内
(実践女子学園高等学校パンフレットより)

9月以来、いろいろなことがあり、ブログの更新ができずにいました。

2008年11月19日(水)、実践女子学園高等学校にて、高校一年生に模擬授業をして来ました。校内に、実践学園の創設者・下田歌子女史(1854~1936)についてのパネルや、書が展示されていることに、感銘を受けました。

下田女史は教育者であるとともに、歌人でもありました。高等学校でいただいた学校案内のパンフレットによれば、1882年(明治15)、29歳の時に、実践女子学園の前身である、私立桃夭学校を創立しています。

ドーラ・スクーンメーカー女史(1851~1934)が、青山学院の源流の一つとなる、女子小学校を1874年(明治7)に、寄宿学校「救世学校」を1875年(明治8)に創立し、1878年(明治11)には「救世学校」を「海岸女学校」と改め、築地に移転しています。

明治初期の若き女性たちの女子教育に傾けた情熱とバイタリティーには本当に驚かされます。

この下田女史ゆかりの実践女子学園高等学校で、「漢字に託した恋のこころ――『万葉集』入門――」というテーマの授業をしました。以前に、このブログで記事にした、「万葉集の文字法」のシリーズを高校生向けにアレンジしました。

同じ歌でも、漢字平仮名交り、『万葉集』の文字法、平仮名のみで書くとどれほど印象が違ってくるか、また同じ歌句でも、当てる漢字を変えるとその歌の発する力がどのように変わってくるかを、実際に文字に書いてみることを通して、考えてもらいました。

生徒の皆さんは、最初は緊張していたせいか、とても静かでした。途中で、「ひとりかも寝む」を様々な漢字で表記し、どの表記で歌をもらったら嬉しいかを聞いたところ、若い人たちらしい、ストレートな意見が出て、たちまち笑いの輪が広がりました。

『万葉集』の歌人たちが、歌に漢字でどのような姿を与えるかについて、どれほど苦心していたかを、少しでも伝えることができたのではないかと思います。

〈ことば〉に命を吹き込むこと、またその〈ことば〉に文字によって力ある姿を与えることの大切さを、若い人々に伝えてゆきたいと、改めて思いました。

そして、青山学院大学と、渋谷区にあるさまざまな学校や文化施設との交流が深まることを願っています。


��現在抱えている仕事が一段落しましたら、『万葉集』に関わる記事を再開します。今しばらくお待ちください。

2008年10月13日月曜日

「書物」の装い

表紙見本1表紙見本2
(写真=表紙を選ぶために作った見本)

まもなく、私の著書『萬葉学史の研究』(第2刷)が刊行になります(10月17日頃に完成します)。第1刷の2005年12月の最初の入稿から刊行まで、1年以上の時間がかかりました。今、訂正と「補記」を加えた第2刷の刊行を目前にして、静かな感慨を覚えています。

「書物」を作る難しさを本当に味わいました。その中でも、楽しい思い出として残っているのは、第1刷刊行最終段階での、表紙の選定作業です。

『萬葉学史の研究』は、編集者と相談の上、上製本・クロス(布)表紙となりました。「書物」の装いは、その内容とも深く関わるものと、私は思っています。どのような装いがふさわしいか、自分の手元にある研究書や、図書館・書店の研究書を見て歩きました。

日本仏教学会編『仏教の生命観』(平楽寺書店)の、黒に銀字の、重厚でありながら鋭さを感じさせる表装や、小松茂美先生の著作集(旺文社)の落ち着きと華やぎを備えた緑に金字の表装に心惹かれるものがありました。

やがて、私の中で、濃い緑に銀字というイメージに絞られてきましたが、いざ実際にクロスを選ぶとなると、簡単なことではありませんでした。

担当の編集者だけが残った、夜の出版社で、私と編集者と製本担当者の3人で手分けをして、膨大なクロース見本帳から、イメージに近い布を選び出してゆきました。

最後に6種類のクロスが残りました。濃緑の3種類と、青みがかった濃緑の3種類です。そして、それぞれに微妙に布の織り方が違っていました。

しかし、夜に、蛍光灯の下、2時間近く見本帳を見ていると、どれも同じように見えてきます。判断がつかずにいると、見かねた編集者が、手際よく見本帳から、小片を切り出し、紙に貼り付けました。「もうこれ以上ここで見ても決まりません。家で、家族の皆さんと考えてください」とその紙を手渡してくれました。

それらの6枚の小片を何度も見て、基礎的研究からなる『萬葉学史の研究』には、より色の濃い、青みがかった濃緑の方がよいと判断しました。さらにその3種類から選ぶのにも、あれこれ考えました。1枚は現代風で華やかで繊細な織り、別の1枚はしっかりした重厚な織りでした。結局、その中間の両方の性質をほどよく兼ね備えた織りに落ち着きました(東京リネンFヤマト21 №113 №325-24)。

実際に仕上がった『萬葉学史の研究』を手にし、その装いが、最初にイメージしていたものよりも、はるかに手堅く、そして清々しいものとなったことを、本当に嬉しく思いました。

ささやかな経験でしたが、古代の「書物」の装いに込められた思いの深さを実感する良い機会でした。


*10月16日(木)に完成しました。まもなく書店の店頭に並ぶことと思います。

��デジタルカメラが故障してしまい、画像がアップできません。電源は入りますが、撮影モードにすると、液晶モニターに画像が写りません。製造会社で調べてもらったところ、高温多湿環境下での保管・使用により、デジタルカメラに搭載されたCCD内部の配線接合箇所が、外れているとのことでした。同社の製品で、このような故障については、無償で修理をしています。
��明日には、デジタルカメラが帰ってきます(修理は、3時間ほどで出来ます)。戻り次第、表紙見本の画像などを紹介します。


2008年9月14日日曜日

『萬葉学史の研究』第2刷、10月刊行

萬葉学史の研究

2007年9月以来品切れとなっていました、私の著書『萬葉学史の研究』(おうふう、2007年2月刊)の第2刷が、来たる10月前半に刊行されます。

誤植を訂正しました。また皆様から賜りました御教示・御意見に基づく修訂と補足、第1刷刊行後に気付いた先行研究についての補足も行いました。

「あとがき」の次に、6ページほどの「補記」として、修訂についての説明と、補足を記しました。
*「補記」が当初の予定より少し多くなりました。ただし、本書の論旨に関わり、詳細な議論が必要な問題や、御教示によって明らかになった新たに挑戦すべき研究課題については、改めて論文の形でお答えすることにさせていただきました。

現在、訂正と「補記」の校正が順調に進行中です。

150部の少部数出版となります。ご購入を希望される場合には、出版社の「おうふう」に、ご連絡ください(予約できます)。なお、重版は今回限りとなります。
おうふう
「おうふう」の本書『萬葉学史の研究』の紹介ページ
このブログ「万葉集と古代の巻物」での紹介(「豊饒な研究分野・万葉学史」〈目次もあります〉)

第1刷の「正誤表」を、このブログ「万葉集と古代の巻物」にアップする予定です。また第1刷ご購入の皆様には、「正誤表」と、「補記」のコピーをお送りしたく思っております(ご寄贈いたしまた皆さんには、お送りいたします)。


2008年9月9日火曜日

我が心ゆたにたゆたに(作者未詳):「心」の発見

ジュンサイ
(国分寺万葉植物園にて。5月)

私たち人間は、「心」の存在を、いつから意識し始めたのでしょうか。

歌の歴史の中では、「心」というものを見つめるようになるのは、『万葉集』において、それも比較的新しい時代(8世紀)の恋歌においてのようです。

巻7に収められた「出典不明歌」に、次のような歌があります。

吾情湯谷絶谷浮蓴辺毛奥毛依勝益士(巻7・1352)

我が心 ゆたにたゆたに 浮き蓴 辺にも沖にも 寄りかつましじ
(あがこころ ゆたにたゆたに うきぬなは へにもおきにも よりかつましじ)

〔訳〕私の心は、ゆったりとしたり、ゆらゆらと動揺したりする、浮き「ぬなわ」のよう……、岸の方にも、沖の方にも寄りつくことができないでしょう。
��ゆたに=ゆったりと。
��かつ=可能を表す。~できる。
��ましじ=否定的推量を表す。~しないであろう。


相手の男性の誘いを受け入れられず、そうかといって相手を拒絶することもできない自分の心を、沼の中ほどに浮いている「ぬなわ」(スイレン科ジュンサイ)に、たとえています。

この歌が、「我が心」を主語に立てていることに、注目したいと思います。自分の心を、外から見つめている眼が感じられます。そして、この歌は、「ゆたにたゆたに」や「辺にも沖にも」のように、対照的なことばを重ねることで、行くも戻るもできない、恋の心のあり様を鮮やかに描き出しています。

自分の意志の力ではどうすることもできない、「心」というものの不思議さが表現されています。

このように、自分の意志の力を超える「心」、その人の人格から離れて、それ自体で意志を持っているような「心」は、今日私たちの意識する「心」とは微妙に異なっています。あるいは“魂”と言った方が、近いかもしれません。

ところが、このような「心」を詠む歌は、『万葉集』では、初期の歌ではなく、むしろ、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)をはじめ、8世紀の女流歌人たちの歌の中で、登場するようになります。〔巻7・1352〕などの「出典不明歌」も、今日の研究では、8世紀の作と考えられています。

平城京の都市生活の中で育まれた、理知的な眼が、かえって古代的で、非合理な「心」なるものを探り当て、「我が心」「我が心かも」「我が心から」などの表現によって、これに明確な形を与えていったのでしょう。

といっても、〔巻7・1352〕の作者も、大伴坂上郎女も、孤独の中で、「心」というものについて思索を深めた、ということではなさそうです。

実は、相手を受け入れることと拒否することの間の心情を詠むこと自体は、初期万葉の歌にまで遡ることができます。

  梓弓 引かばまにままに 寄らめども 後の心を 知りかてぬかも(巻1・98)石川郎女
  (あづさゆみ ひかばまにまに よらめども のちのこころを しりかてぬかも)

及び腰で誘った久米禅師の歌に対して、石川郎女は、上の句では、あなたが誘ったならば従い靡きましょう、と禅師に期待を持たせながら、下の句では、禅師の心が本心かどうかわからないと言い、誘いを退けます。翻弄された禅師は、あわてて、「本心からだ」という誓いの歌を返します。

〔巻7・1352〕も、相手の男性の誘いを、たくみに、はぐらかした歌なのでしょう。誘いを退けながらも、相手への好意を伝える歌となっているように思います。

私は、この歌で読まれる「ぬなわ」、つまりジュンサイの葉の様子を、実際に眼にして、一層そう思うようになりました。ジュンサイという水草は、泥中に這う根茎から葉柄(ようへい)が出て、径10㎝ほどの楕円形の葉を水面に浮かべます。

その葉は、上の写真のように、たくさん、まとまって水面に浮かびます。それらは、普段はじっと動かず、静まり返っています。風が吹いたり、波が起こったりすると、一斉に動き始め、風や波が止むと、もとに戻るのでしょう。この情景に、“孤独の中で見つめられた、ひそやかな心象風景”といったものとは異なる力強さを、私は感じます。

自分ではどうすることもできない「心」というものは、8世紀の恋歌の贈答において、男性の歌を切り返すための、発想の一つとして発見されたのでした。


2008年9月1日月曜日

展覧会の図録についての提案

展覧会図録

観覧用の展示図録を

博物館や美術館で作品や文化遺産を見る時、重要なガイドとなるのが、展示図録です。以前の記事「展覧会のための必備アイテム」で、展示図録を観覧前に購入して、その写真と実物を比較しながら、気づいたことを、書き込むとよい、と書きました。

ところが、2004年頃から、展示図録が、国立の博物館を中心に、質量ともに充実したものとなり、手に持って観覧することが、難しくなってきています。

カラーの図版も豊富になり、しかも拡大写真なども多く含まれています。観覧後、自宅に帰って、今日見た作品を、もう一度じっくりと味わい、また文化遺産を、自分なりに研究するためには、大変有益な書物と言えます。

また最新の研究成果を記した、研究者の論文も収録されています。展示図録は、専門書や学術雑誌と並んで、最先端の研究成果が示された、必読の文献ともなっています。

しかし、その分、大きさは、A4判変形(縦30cm、横22.5センチメートル前後)が多くなり、ボリュームも400ページ前後となり、重さも、1.7㎏から2.0㎏近くにまでなっています。

このような図録を、展覧会場で持ち歩くことは、容易ではありません。持ち帰るのにも、一苦労です。とはいえ、展示図録ほど、その展覧会に出品された作品や文化遺産に即した資料はありません。

そこで、現在の詳細な展示図録に併せて、観覧用の薄手の図録(ないしパンフレット)を製作することを、博物館・美術館で展示図録の製作に関わる方々に、ご提案したく思います。

主な展示品のカラー写真と、展示品すべてについての簡単な解説を、薄手の1冊にまとめていただけると幸いです。
*写真は、新たに撮りなおす必要はありませんし、解説については、詳細な展示図録の「作品解説」や「釈文」などを別刷りして、1冊にまとめることもできるかと思います。

私が、展覧会で最も使いやすいと感じたのは、上の写真の右に挙げた、正倉院展の図録です。大きさはA4判、ボリュームは130ページほど、重さは0.6㎏弱です。手に持つには、0.8㎏程度が限度のようです。

展覧会では、列品一覧表も配られていますが、多くは簡単なものです。この列品一覧表と、詳細な展示図録の中間に位置するような図録があれば、書き込みをするのにも好都合ですし、書き込みをしないにしても、観覧者の、展示品に対する理解も一層深まるに相違ありません。

価格も低めに設定したならば、この薄手の図録が、さまざまな年齢層の観覧者の手にわたることになると思います。

なお、上の写真の左は、2005年・2006年に開催された、「没後30年高島野十郎展」の図録です。A4判(縦29.7cm、横210cm)に比べると、縦がやや短く(28.4cm)、横がやや長く(21.5cm)なっています。168ページで、0.8㎏ほどです。多くの場合、展示図録の表紙は、厚紙1枚でできていますが、この高島野十郎展の図録の表紙は、やや厚手の芯紙に、紙を貼ったものとなっています。

この展示図録は、画集のような印象を与えます。私の心に強く残る「書物」の一つとなりました。こうした工夫も、このような規模であるからこそ、可能なのでしょう。

博物館・美術館それぞれのセンスで装丁された、多彩な展示図録を想像すると、楽しくなります。


2008年8月29日金曜日

木版印刷の熟練の技

塙保己一の情熱を受け継ぐ印刷技術

毎年の夏、渋谷区の塙保己一史料館では、社団法人・温故学会主催の、《江戸時代の版木を摺ってみよう》という企画が催されます。江戸時代後期に実際に使われていた版木で、木版印刷を体験する、という大変貴重な機会を、温故学会が設けてくださっています。

2008年8月2日(土)に、私も初めて参加しました。今まで、木版印刷の和書を読む機会はありましたが、自分で印刷することは初めてです。木版印刷に必要とされる高い技術を実感し、工夫された道具に触れ、深い感銘を受けました。

今回は、山崎美成(やまざき・よししげ)編『御江戸図説集覧』(江戸の絵地図)に加えて、温故学会理事長代理・斎藤幸一氏の特別のご厚意で、塙保己一が刊行した、『元暦校本萬葉集』(げんりゃくこうほんまんようしゅう)巻1の版木の印刷も体験させてもらいました。

印刷の手順は、最初に版木に刷毛で墨を塗り、その上に和紙を載せ、バレンでこすって摺り上げるというもので、基本的には版画と同じです。

しかし、これが簡単ではないのです。特に、文字ばかりで、余白の多い『元暦校本萬葉集』の印刷には、難渋しました。

元暦校本1(写真1)

写真1は、私の失敗例です。右は、墨に濃淡ができています。木版印刷では、手早く刷り上げないと、和紙が水気を含み、皺になりやすくなります。急ぐあまり、全体に均等に墨を行き渡らせる前に、和紙を版木から、はがしてしまいました。

そこで、墨が薄かったのではと思い、たっぷりと墨を刷毛で版木に塗ったところ、今度は多すぎ。写真1の左のようになってしまいました。バレンでこすっているうちに、墨が噴き出してバレンを汚してしまい、慌てました。

このようになったら、墨が安定するために、無駄になる印刷を何回かすることになります。その時にも、多少刷毛で墨を塗ります。というのも、版木が乾いてしまうと、印刷が難しくなるからです。

元暦校本2(写真2)

何回か挑戦をして、ようやく刷り上げたのが、写真2の左です。私が所蔵している、昭和2年(1927)11月に、同じ版木から刊行されたもの(右)と比べると、まだ墨に濃淡があり、汚れも付いてしまっています。

平安時代後期(11世紀)の筆遣いを見事に再現した、保己一の版木の文字のやわらかさと力強さは、まったく表現できていません。同じ版木なのに、こうも違うものかと溜め息がでます。

絵中心の『御江戸図説集覧』が、やや容易でした。版木の全面に絵が細かく彫られて、余白が少ない分、均一に摺りやすくなっています。そして、江戸の印刷本の絵が、比較的単純な線で構成されていることに、以前から疑問を感じていましたが、素早く刷り上げなくてはならない木版には、この線こそがふさわしかったのだと思いました。

当日ご指導くださった斎藤氏を始め、温故学会の方々は、実に手際よく、そして美しく印刷し、見本をお示しくださいました。それは、一日ではまねることのできない、熟練の技であったのです。

また斎藤氏は、その技を支える道具について、興味深いお話もしてくださいました。バレンの竹の皮の表面の山が、印刷の仕上がりにとって重要であることや、木版印刷のバレンにちょうどよい幅の竹の皮を、わざわざ探し求めていることを伺いました。また、麻を紐状にして、固く巻いたバレンの本体も見せていただきました(この麻の堅さ、凹凸が木版印刷に適しているとのことです)。

刷毛や、印刷用の「練り墨(ねりずみ)」(普通の墨よりも濃く、ねばりがあります。普通の墨では印刷できません)も、専用のものを特注しているとのことです。道具についてのこだわりと細心の心配りが、美しい仕上がりを支えていることを知りました。

このような木版印刷の技が、今日まで伝えられてきていることは、大変貴重なことです。かけがえのない文化遺産と言えます。塙保己一の偉業を伝えるべく、この技を守ってこられた温故学会の皆様に、深い敬意を覚えて止みません。

そしてこの技は、《「印刷」とは何か》を考えるための重要な手がかりを、私たちに示してくれものです。
*以前、私は、印刷博物館の活字工房で、西洋の活版印刷の体験をしたことがあります。印刷できるように活字を組むためには、さまざまな微調整が必要で、「手で写した方が早い」と感じたことをよく覚えています。ここでも熟練の技を実感しました。

日本の木版印刷の“技”を、西洋の活版印刷、中国・朝鮮半島の活字印刷と比較しながら、総合的に研究し、その意義を、後世に伝えてゆけたならば、どんなに素晴らしいことでしょう。
*《江戸時代の版木を摺ってみよう》の企画は、7月末と8月初に催されています。7月に入ると募集が始まります。定員は各回とも20名で、無料です。小学生から年配の方まで参加しています。木版印刷の難しさと面白さを、是非多くの人に知ってほしいと思います。
��夏が近付くと、塙保己一史料館・温故学会のホームページに案内が出ます。


2008年8月19日火曜日

尾州家河内本源氏物語の展示

金沢北条氏に関わる大型本源氏物語

2008年8月29日(金)から9月28日(日)まで、名古屋市蓬左文庫にて、尾州家河内本源氏物語(重要文化財。23冊。名古屋市蓬左文庫所蔵)の展示が行われます。

 「展示 源氏物語千年紀『源氏物語』の世界」
 会場:名古屋市蓬左文庫展示室1でコーナー展示
 開場時間:10時~17時(入室は、16時30分まで)
 休館日:月曜日(祝日のときは直後の平日)
 観覧料:一般 1200円/ 高大生 700円/ 小中生 500円
  (蓬左文庫・徳川美術館共通料金)

先の記事「西本願寺本万葉集の大きさ」で書きましたように、私は、西本願寺本万葉集と尾州家河内本源氏物語が、装丁・書型、そして伝来において一致することから、ともに金沢北条氏の所蔵する写本であったと推測しました。

尾州家河内本源氏物語には、複製本があります。しかし、原本よりは、かなり縮小されたものになっています。今回の展示で、原本の質感を、改めて実感したいと思っています。

観覧に際して、以下の点に注目したいと思います。

① 尾州家河内本源氏物語の大きさ尾州家河内本源氏物語は、『源氏物語』の写本としては、極めて大きな書型になっています(この大きさが、西本願寺本万葉集と一致します)。
 尾州家河内本 大和綴(結びとじ) 縦31.8㎝  横25.8㎝
 陽明文庫本   綴葉装          15.7㎝   14.8㎝   〔鎌倉時代 14世紀〕
 飯島本      綴葉装         19.5㎝   15.0㎝   〔室町時代 15世紀〕

② 大きい書型ゆえのレイアウト、文字の大きさ、書風・字形、余白の使い方
なお、尾州家河内本では、1面11行となっています(西本願寺本万葉集では、1面8行)。

③ 大和綴じという装丁
紫・緑・白糸交り編みの真田の平紐と報告されている紐(秋山虔氏・池田利夫氏「解題」)も、注目されます。

④ 料紙の特徴
尾州家河内本源氏物語の料紙は、やや厚手の灰汁打をした斐紙(雁皮紙)、と報告されています(秋山虔氏・池田利夫氏「解題」)。やはり厚手の斐紙(雁皮紙)である、西本願寺本の料紙と比較してみたいところです。

⑤ 句点と声点(しょうてん。アクセント記号)
源親行(1188頃~建治・弘安〈1275~1288〉頃)の校訂本である「河内本」の諸本には、句点と声点が書き加えられています。『源氏物語』の本文は、本来句読点などの記号はなく、「かな」で連続的に書かれていました。親行は、句点と声点を書き加えることで、親行なりの本文解釈を示しました。

尾州家河内本源氏物語にも、句点と声点が書き加えられています。さらに、他の「河内本」の諸本とは異なり、意味の中止を「ゝ」(中央下)、終止を「」(右下)で区別しています。これらは、後の人の手によるものと考えられています(以上は、池田亀鑑氏による)。

ヨーロッパで、句読点が体系的なものに発達するのは、ローマのハドリアヌス帝時代(紀元76~136)です。この時代の古典学者ニカノル(Nicanor)が、ギリシア文学に句読点を施したとされています。日本でも、句読点の発達が、古典解釈と深く関わるものであったことがわかります。

⑥ 北条実時の奥書
「夢浮橋」巻末に、北条実時の奥書があります。その筆跡については、詳しい検討が必要と思われます。
 「正嘉二年五月六日(右ニ「以」)河州李部親行之本終一部書写之功畢   越州刺史平(花押)」

実物を前にして、この尾州家河内本源氏物語が、どのように書写され、読まれたかに思いをめぐらし―この写本は、もはや手に持って読むことはできなかったでしょう―、また書物の大きさが、どのような政治的・文化的意味を持ったかを、考えてみてはいかがでしょうか。
[尾州家河内本源氏物語に関する主な文献]
��.秋山虔・池田利夫「解題」『尾州家河内本 源氏物語』第5巻、武蔵野書院、1978年
��.池田亀鑑『源氏物語大成』第12冊〈研究篇〉、中央公論社、1985年(普及版)
��.池田利夫『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷―源光行一統年譜を中心に―』財団法人・日本古典文学会、1980年

��句読点について]
��.Peiffer, Rudolf. History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age. Oxford: Oxford University Press, 1968.

��関連文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年 (*特に、第3部第1章)
��.小川靖彦「仙覚と源氏物語―中世における萬葉学と源氏学―」『むらさき』第44輯、2007年12月

名古屋市蓬左文庫のホームページ


2008年8月15日金曜日

「飯島春敬コレクション」の輝き

春敬の眼展
��写真=図録『春敬の眼―珠玉の飯島春敬コレクション―』(藤原定信筆『般若理趣経』の写真)、ポスト・カード(「豆色紙」、『金光明最勝王経』(平安時代写))、「展示一覧」)


文字史・書道史・書物史の宝庫

《「春敬の眼」展》

先の記事「書家・書道史家 飯島春敬氏の志」にて紹介しました、第60回毎日書道展特別展示「春敬の眼」―珠玉の飯島春敬コレクション―が、2008年7月9日(水)から8月3日(日)に、国立新美術館にて開催されました。

飯島春敬氏が、その審美眼と、書道史への深い造詣に基づいて蒐集された、「飯島春敬コレクション」のうち、約300点が展示されました。財団法人・日本書道美術院主催の「秀華書展」の特別展示で、その一部が、毎年公開されてきましたが、このように大きな規模での展示は初めてです。

展示を観覧して、日本のかな書の歴史を学ぶ上での、貴重な資料が体系的に集められていることに、改めて感銘を受けました。さらに、今回の展示は、日本・中国の写経、中国の拓本・法帖・明清の書・文房具(硯・墨・印材ほか)も出陳され、「飯島春敬コレクション」が、漢字文化圏の文字史・書道史・書物史、そして文化史を研究する上で、極めて貴重なコレクションであることを知りました。

《縹(はなだ)色の奈良朝写経》

その中でも、特に私の心に強く残りましたのは、日本と中国の写経です。

前期のみの展示でしたので、私は、実物観覧の機会を逃してしまいましたが、
[111]金塵色麻紙経(1幅。8世紀写)を、図録の鮮明なカラー写真で初めて眼にしました。

「正倉院文書」からは、奈良時代に、黄、赤、緑、青、茶、紫などの、さまざま染色紙が、写経の表紙本紙に使われていたことがわかります。その彩り豊かな世界には、驚きを禁じ得ません。

黄紙の写経は数多く現存しており、紫紙の写経や、青系統でも濃い色の紺紙の写経も、奈良国立博物館などに所蔵されています。しかし、これら以外の染色紙は、ごくわずかしか現存していません。

その貴重な遺品の一つが、[111]金塵色麻紙経です。その料紙が、藍染めの繊維をほぐして漉き上げ、金の砂子(塵)を撒いたものであることが、明らかにされています。

図版では、藍色は弱いものとなっていますが、その力強い書と繊細な界線とともに、この経典が製作された当時、どれほど高雅なものであったかが想像されます。奈良朝写経の多彩な美の世界を、直接伺わせてくれる貴重な資料です。

《個性的な平安写経》

さらに、今回眼を見張ったのは、平安時代の写経の、個性的な文字でした。[1]金剛般若経開題断簡(1幅。9世紀、空海筆)の、連綿させずに、1文字1文字を、柔らかく、そして力強く書く草書の魅力を知りました。

[125]般若理趣経(1巻。1150年、藤原定信筆)では、強い右肩上がりの、スピード感溢れる、独特の書体と、経文の間に差し挟まれた、大字の梵字が不思議な調和を見せます。[127]阿弥陀経(1巻。13世紀、藤原定家筆)は、定家様で書かれた漢字本文すべてに、片仮名で、読み仮名を付けています。つい経文を読み上げたくなる経巻です。

[125][127]などは、写経生や僧侶ではない、平安時代の優れた書き手たちが、どのように写経と向き合ったかを、生き生きと伝える、重要な資料と言えます。

《中国写経、源氏物語写本など》

「飯島春敬コレクション」には、南北朝から隋・唐代にかけての写経、犬養毅旧蔵の敦煌写経断簡(1巻に仕立てられている)なども含まれています。ガラスケース越しにも、時代とともに、料紙の性質が変化してゆく様子を観察することができます。

これらを、オーレル・スタインやポール・ペリオら蒐集の敦煌写経と、比較対照することが、今後重要な研究課題となることでしょう。

また、新聞やインターネットのニュースでも紹介されたように、今回の展示では、新出の『源氏物語』写本も出陳されました(54帖。室町時代写)。その本文が、『源氏物語』の本文研究に、どのような問題を投げかけることになるか、興味が持たれます。そして、実際に写本を眼にして、端麗な書であることに、感銘を受けました。その筆跡は、室町時代に、『源氏物語』がいかに大切に扱われていたかを、伝えてくれるものに思われました。

《「飯島春敬コレクション」の輝き》

このように、「飯島春敬コレクション」は、かけがえのない貴重な文化資料であり、文字史・書道史・書物史に関心を持つ者に、新たな研究課題を指し示すものです。「飯島春敬コレクション」は、今後ますます強い輝きを放つことでしょう。

飯島春敬氏の高い美意識と、深い学識、そして貴重な資料を多くの人々の目に触れさせたいという熱意に、改めて感動を覚えました。また、このコレクションを今日まで守ってこられた、財団法人・日本美術院理事長の飯島春美先生をはじめとする先生方のご尽力に、敬仰の念を懐きました。


2008年8月9日土曜日

祈りの書・日比野五鳳氏の写経

昭和大納経展

東大寺昭和大納経―昭和の写経事業―

1980年(昭和55)、東大寺大仏殿の昭和大修理の落慶供養の折、新たに書写・制作された『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう。『華厳経』の正式名称)60巻が奉納されました。

「昭和大納経」と言われる、この経典の書写には、当時の第一線で活躍する書家たちが当たりました。見返し絵は、当時の画壇を代表する画家たちが制作しました。料紙・経篋(きょうばこ)を含め、昭和の芸術と技術を結集する、まさに一大プロジェクトでした。

この「昭和大納経」が、28年の時を経て、2008年に、大阪と東京で展示されました。大阪では、「伝統と創意」(’08日本書芸院展)の特別展観(4月22日~27日)〔社団法人・日本書芸院、読売新聞社、財団法人・全国書美術振興会主催〕、東京では、「日本の書展」の特別展観(5月24日~7月21日)〔財団法人・全国書美術振興会、財団法人・大倉文化財団・大倉集古館、共同通信社、社団法人・日本書芸院主催〕において、全60巻が出陳されました。

昭和の書を牽引してきた書家たちの写経は、それぞれに興味深いものでしたが、中でも、私は、日比野五鳳氏(ひびの・ごほう。1901〈明治34〉~85〈昭和62〉)の書写した、『華厳経』巻第47冒頭部(24行)に、強く心打たれました。

五鳳氏の写経を目にして、その清朗さに、まず驚きました。文字と余白の作り出す写経の空間が、どこまでも清らかで、そして明るさに満ちているのです。

私が普段なじんでいる「写経体」の文字と比較しながら、五鳳氏の文字を丁寧にたどってゆくと、その理由が少しわかってきたように思えました。

中国の唐代に完成し、日本でも奈良時代に習得された、写経専用の字体である「写経体」では、普通の楷書体よりも、扁平に文字を書きます。そして、横画を長く引くことで、文字にメリハリを与えます。また、起筆・収筆を強調して、強い装飾性を持たせます。

五鳳氏の写経の文字は、起筆・収筆の装飾性を、どこまでもそぎ落としています。肥痩もあまり目立ちません。そのため、一見すると、“素朴”な印象を与えます。

しかし、その線は、よく見ると、決して“枯れた”線ではありません。柔らかく自由に満ちた線です。とはいえ、自由奔放ということではなく、抑制すべきところはしっかりと抑制されています。内に力を蔵した線です。

また、五鳳氏の文字は、転折のところで、しばしば線と線とが離れています。謹直を旨とする「写経体」ではあまり見られないことです。その線と線の間の余白が、紙面全体に明るさをもたらしています。

五鳳氏の写経の文字には、五鳳氏独自の美意識が伺えます。しかし、その一方で、「写経」としての節度をあくまでも守り抜いていることにも、注目したいと思います。

「写経体」の基本である扁平な字体は守られています。字粒も揃っています。それだけではなく、よく見ると、横の字並びも、実に整然としています(線の柔らかさや自由さが、横の字並びが整然としていることを、すぐには感じさせないようになっていますが)。実は、これは容易なことではありません。

五鳳氏は、写経を通じて、自己の芸術を主張することをめざしたのではなく、まさに「写経」のために、自身の持てる技術の粋を注ぎ込んだのではないでしょうか。

そう思われてならないのは、この五鳳氏の写経の文字が、『華厳経』の内容と、深く関わっているからです。五鳳氏が書写した部分を含む、『華厳経』の「入法界品(にゅうほっかいぼん)」は、善財童子という少年が、53人の善知識(高徳の賢者)を訪ねて、教えを乞い、やがて仏となる物語です。

五鳳氏が書写した部分では、善財童子は、6番目の善知識・解脱長者(げだつちょうじゃ)から、「不可思議」な、菩薩の法門(真理の教え)を学び、菩薩の清い行いと、仏の境地を求める心とを身に付けます。そして、7番目の善知識・海幢比丘(かいどうびく。比丘は修行者)を訪ね、比丘とその周囲の人々の清浄で荘厳な様子を目にします。

前半では、「不可思議」の語が、繰り返し現れます。五鳳氏の写経では、「不可思議」の文字が、それぞれ微妙に違っています。機械的に、同じ字形で書くということはありません。「不可思議」、つまりことばで言い表したり、心で推量したりできない、菩薩の法門に対する、善財童子の感動が、空気の流れのように伝わってきます。

また後半では、海幢比丘の足元から出た長者と婆羅門(司祭者)たちが、宝物を空から降らせ、膝から出た刹利(せつり。王族・武士階級)と婆羅門たちが、悪を離れ、善を修めることと、その方法を説きます。その都度、一切衆生の歓喜に満ち溢れます。五鳳氏の書く「衆生歓喜充満十方」の文字は、どこまでも明るく、豊かで、衆生の喜びを、生き生きと伝えてやみません。

五鳳氏の書は、私たちを、『華厳経』の世界へと導いてくれます。それは、五鳳氏の、『華厳経』への深い理解と、清い祈りによるものでしょう。

五鳳氏の写経を静かに拝していると、氏の清浄な祈りの心に、直に触れるような思いがします。そして、文字が、祈りそのものであることを、実感します。

平城遷都1300年記念の折に、再び、この「昭和大納経」が展示され、多くの人の目に触れることを、心から願っています。
[日比野五鳳氏に関する文献]
��.小松茂美「不世出の書人・日比野五鳳」「私の一点にもう一点」『古筆逍遙』旺文社、1993年
��.小松茂美「(インタビュー)古筆学に生きる」『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、2007年
��.鈴木史楼『日比野五鳳―その人と芸術』文海堂、1978年
その他、『墨』(芸術新聞社)の日比野五鳳特集号

��東大寺昭和大納経の文献]
��.東大寺昭和大納経刊行委員会監修、講談社出版研究所編『大方広仏華厳経 東大寺昭和大納経』講談社、1983年 (*日比野五鳳氏の写経の全体をモノクロで、一部をカラーで収録)


*事務局長・坂本敏史様をはじめ、財団法人・全国書美術振興会の皆様に格別のご厚情を賜りましたことに、心より御礼申し上げます。

2008年7月18日金曜日

これからの日本文学研究

IDPNewsletter27
(写真=IDP News No.27, Spring 2006)

20世紀の初頭に始まり、第二次世界大戦後に大きく飛躍した、近代的日本文学研究は、現在、細分化の道を突き進んでいます。その研究の様子は、同じ日本文学研究者でも、分野が異なると、わかりにくいものとさえなっています。

このような近代的日本文学研究の現状に対して、さまざまに、新しい方向が模索されています。先の記事「「日本語・日本文学研究―これからの百年―」(全国大学国語国文学会)」で紹介した、基調講演とシンポジウムも、そのひとつの試みでした。

新しい方向のひとつとして、今日追求されているのが、「国際性」です。毎月、どこかの大学や研究機関で、日本文学に関する国際シンポジウムが開かれています。

その背景には、海外における日本文学研究の発展と、インターネットによって、日本文学研究に関する情報交換が容易になったことがあります。さらには、インターネットに支えられた、アメリカを中心とするグローバリズムの流れもあるのでしょう。

確かに、このような海外の日本文学研究者との共同研究は、日本文学研究に、今までにない視点をもたらしています。
*アメリカ・ヨーロッパの日本文学研究の方法と、20世紀初頭以来、日本で培われてきた方法との間には、かなりの隔たりがあります。現時点では、異なる方法による発表が、並存したままで、交わらない国際シンポジウムも見受けられますが、今後、さらに異なる方法間の対話が深まることを、信じています

この「国際性」は、日本の研究者が、海外の研究者から刺激を受けたり、協力を得たりしながら、新しい日本文学研究を拓いてゆく、という行き方です。しかし、私は、日本文学研究が、世界と関わる、もう一つの道が存在していると思います。

20世紀初頭以来蓄積されてきた、日本文学研究の成果を携えて、世界の研究者とともに、「書物」とは何か、「文字」とは何か、「文学」とは何か、また「自然」とどう関わればよいのか、さらには「人間」とは何か、などといった普遍的な問題について、考察してゆくことができるのではないでしょうか。

このような道があることを、強く感じたのは、大英博物館所蔵の敦煌写本の調査においてです。私は、『万葉集』の原本の復元を目的に、2002年から敦煌写本の装丁(ブック・デザイン)の調査を進めています(紐を中心に、これと関わる表紙・発装・本紙についての調査を行っています)。

6~8世紀の中国文化圏の巻物が、書物としてどのような姿を持っていたのか、という私の研究テーマと、それを追究するためのアイディアに、大英図書館の研究者の皆さんは、強い興味を持ち、協力を惜しみませんでした。

そして、日本文学研究、より厳密には、その基礎学である書誌学が、はぐくんできた、書物の装丁を、細部まで丁寧に観察する技術が、大きな力を発揮しました。画像からではわからない、貴重なデータを数多く得ることができました。

日本文学研究が蓄積してきた経験・技術・智慧や、日本文学研究独自の発想力が、敦煌写本の研究に貢献できることを、強く実感しました。さらに、これらは、世界の「書物」の初期の形態である、巻物一般についての研究にも、貢献できるに相違ありません。

さまざまな地域の研究者とともに、互いに智慧を出し合いながら、より精度の高い巻物の調査方法や、確実な保存方法を開発し、また巻物とは、どのような「書物」であったか、そもそも「書物」とは人間にとって何なのかについて、考えを深めてゆくことを想像すると、心躍ります。

日本文学研究を通じて、世界の研究に貢献してゆくという道がある、と私には思われてなりません。


*写真は、敦煌写本についての、私の調査の一部をまとめたものです。大英図書館内にある、国際敦煌プロジェクト(International Dunhuang Project)のニューズレターに掲載されました。
Ogawa, Yasuhiko. “A Study of the Silk Braids on Stein Chinese Scrolls.” IDP News (Newsletter of the International Dunhuang Project) No.27 (Spring 2006).


2008年7月16日水曜日

「日本語・日本文学研究-これからの百年-」(全国大学国語国文学会)

全国大学国語国文学会2008夏
(当日配布された要旨)

日本文学研究の未来のために

2008年6月7日(土)から8日(日)に、和洋女子大学にて開催された、全国大学国語国文学会夏季大会で、「日本語・日本文学研究-これからの百年-」をテーマとする講演会とシンポジウムが開かれました(7日)。

基調講演  秋山虔氏(東京大学名誉教授)
シンポジウム
         「近代国文学成立の光芒に学ぶ-新たな〈学〉への希望のために」
                       神野藤昭夫氏〔かんのとう・あきお〕(跡見学園大学教授)
         「日本語・日本文学研究と国際性の問題」
                       辻英子氏(聖徳大学教授)
         「近代文学研究の現況と今後」            
                       山田有策氏(東京学芸大学名誉教授)
          コーディネーター   辰巳正明氏(國學院大學教授)       

日本語学・日本文学研究の、これからの100年を見通そう、という思い切った企画でした。

今回の基調講演とシンポジウムは、その第一段階として、今までの100年を検証するものと、私には受け止められました。(以下、敬称は、「氏」で統一します)

秋山氏の基調講演は、国文学が、学問として危機的状況にあるという問題意識のもと、国文学が誕生以来、どう社会と切り結んできたかという歴史を、生々しい証言も交えながら、たどるものでした。

神野藤氏は、新たな資料を開示しながら、大学校・開成学校・東京帝国大学における〈国文学〉が、単線的に「進化」してきたものではないことを、示しました。そして、〈国文学〉がナショナリズムと関わってきたことを踏まえて、今後の〈学〉が、他者性を抱え込む必要があること、を説きました。

辻氏は、ウィーン大学、ライデン大学、イギリスにおける日本研究の歴史を、豊富な資料によって、細密にトレースしました。日本の経済状況の動向が、ヨーロッパでの日本研究の盛衰に大きく影響していることが、浮かび上がってきました。

山田氏は、明治から現代に至る小説が、文語文体から口語文体に、また物語的なもの(伝承・民話)から小説的なものに転換した後も、実は文語文体や物語的なものに補強されていたこと、ところが今や、その支えを失っていることなどを論じました。

コーディネーターの辰巳氏は、以上の基調講演とパネリストの報告を受けて、日本文学研究の現状と課題について、
① 国民国家を基盤とする国文学研究は終焉した
② 戦後体制下の国文学研究も終焉し、日本文学研究の国際性が今や大きな課題となっている
と整理しました。

各氏の論は、全国大学国語国文学会の機関誌『文学・語学』にまとめられることと思います。ここでは、秋山氏の基調講演について、もう少し触れておきたいと思います。

約60年にわたり、国文学に生きてこられた秋山氏の言葉は、大変重いものでした。静かな語り口の中に、どうしても伝えたい、という強い思いが、たたえられていました。

秋山氏は、日清・日露戦争後に、国家意識・民族意識が高まり、国文学もその方向へ組織されてゆく中、あくまでも「文学というもの」に、直に触れることをめざした高木市之助、また戦時下にあって、文学を内部から研究することを主張した岡崎義恵(おかざき・よしえ)、戦争の危機意識に対して、豊かな感受性と強靭な主体性によって、研究の姿勢を作っていこうとした近藤忠義らの研究を紹介されました。

そして、戦後、安保闘争以後、大学で養成された国文学研究者が増大し、さらに研究情報が氾濫してゆく中、研究者が、細分化されたテーマの中に、それをなぜ追究するかがわからないままに、立てこもるという状況になっていることを、指摘されました。

秋山氏は、この状況からは悲観的見通ししか得られない、としながらも、いくつかの処方箋を示されました。

それらの中で、私の心に強く残ったのは、時代と切り結んできた国文学(高木、岡崎、近藤、そして風巻景次郎、西郷信綱ら)の遺産を継承してゆくことの大切さでした。

もちろん、私は、このような国文学の遺産も、歴史的に検証し、批判することが必要であると思っています。しかし、今日では、それ以前に、国文学の遺産に、たどり着くことさえ、容易ではないのです。これらの研究者の著作の多くは、絶版で入手困難となっています。

他の研究分野では、その分野の代表的著作の一部や論文を集めた、リーディングズ(Readings)が出版されています。国文学、あるいは日本文学研究においても、そのようなリーディングズが、編集されなければならない時期に来ていると思います。

国文学の遺産が、容易に読めるようになった時、これについての、本格的な、歴史的検証が始まると思います。そして、その検証を通じて、私たちは、研究者たちを突き動かしていた力の根源にも触れることになるでしょう。

理論の確かさや、方法の精密さ以上に、この力こそが、学問というものを、次の時代に伝えてゆくものではないかと私は考えています。


2008年7月4日金曜日

巻物を調べる時に敷く紙

レーヨン紙

巻物を調べる時には、机の上に置いて広げて見ます。ふつうは、図書閲覧用の机を使います。日本では、ヨーロッパの保存修復室にあるような、表面のやわらかい、特別な机が設置されているところは、あまりないようです。

そこで、巻物を机の上に置くところから、細心の注意が必要になります。

普通の図書閲覧用の机や、大学の教室の机の上にそのまま置くと、何かのはずみで傷をつけてしまったり、汚したりする危険性があります。また、虫食いや水濡れなどで、傷みの激しい巻物の場合、表紙や本紙の一部がはずれ、その小紙片を見失ってしまう恐れもあります。貴重な情報を失うことになりかねません。

古い巻物はもちろん、写本・刊本・文書や、複製本でも貴重なものを調べる場合には、紙を敷きます。

以前、私は、白いフェルトを用いたこともありますが、表面がやや毛羽立っているので、写本の表紙や料紙がからむことが心配でした。

日本女子大学の永村眞先生(日本中世史)から、巻物や文書の調査の際には、強めの、薄様の紙を、4~5枚敷いていることを伺いました。さらに、いつもお世話になっている神田の山形屋紙店で、意見を聞きましたところ、比較的安価な、レーヨン紙がよいでしょう、とのことでした。

レーヨン紙は、木材パルプなどのセルロース部分を、化学薬品などで溶解して製造した繊維(再生繊維)を原料とする紙です。やわらかく、表面が極めて滑らかです。

以後、巻物を調べる時には、私は、必ずレーヨン紙を持ってゆくようにしています(長いレーヨン紙を切らずに、軽く折りたたんで持ってゆきます)。そして、4~5枚重ねた上で、巻物を開いています。
*今まで、このブログに掲載した、さまざまな本の写真で、本の下に敷かれている紙も、レーヨン紙です。

ただし、レーヨン紙と一口に言っても、やわらかさ、表面の滑らかさ、光沢、風合などの点で、さまざまな種類があります。

私は、山形屋紙店のものと、東急ハンズ(池袋店)のものと使っています。山形屋紙店のレーヨン紙は、和紙風、東急ハンズのレーヨン紙は、洋紙風または布風です。イギリスのコンサバター(修復家)の知人に見せたところ、東急ハンズのものを大変気に入った様子でしたので、何枚か進呈しました。

ところが、今年の5月、久しぶりに東急ハンズ池袋店に行ったところ、和紙やレーヨン紙を扱っていたコーナーは、別のフロアに移動・縮小されており、しかもレーヨン紙を見つけることはできませんでした。店員さんに尋ねると、そもそも「レーヨン紙」というものが何かを、知りませんでした。

残念ですが仕方がありません。新たなレーヨン紙を探してみることにします。

なお、レーヨン紙は、薮田夏秋先生の『あなただけの巻物・折り本づくり』や、中藤靖之氏の『古文書の補修と取り扱い』にも、作品や、修復する本紙を保護するための養生紙として登場しています。

私も、下敷きとして使うばかりだけでなく、巻物の表紙や本紙の厚さを測るために使う、木製の台を包むのにも用いています。

��関連文献]
��.薮田夏秋『あなただけの巻物・折り本づくり』日貿出版社、2002年
��.神奈川大学日本常民文化研究所監修、中藤靖之著『古文書の補修と取り扱い』雄山閣出版、1998年(第1刷)、1999年(第3刷)


2008年6月10日火曜日

書家・書道史研究家 飯島春敬氏の志

インタビュー1

飯島春美先生インタビュー、そして「春敬の眼」展の開催

先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美」展」で、紹介しました秀華書展を開催された、財団法人・日本書道美術院理事長の飯島春美先生のインタビュー記事が、『財界』誌2008年4月22日号と、5月13日号(春季特大号)に掲載されました。

飯島春美先生のおことばを通して、改めて、書家で、国文学・美術史・書道史の研究者でいらした、飯島春敬(いいじま・しゅんけい)氏の、書と研究にかけた情熱を実感しました。

「春敬コレクション」について(教育庁に届けている品は約900点)
「日本書道史の資料となるものは、殆ど収めました。とにかく父一代で特に仮名文字の変遷を示す莫大な資料を集めたのですから、驚きというより感動さえおぼえます。本当に父の鑑識眼には脱帽します。」
��飯島春美先生〔以下同〕。4月22日号)

飯島春敬氏の所蔵していた『源氏物語』の写本
「父は『源氏物語』五十四帖も持っていました。今年は『源氏物語』が生まれて千年になりますので、今夏の「第六十回毎日書道展」の特別展示に出陳いたします。室町時代に書写された本です。
現在、世の中に出ている青表紙本・河内本・別本『源氏物語』の取り合わせ本ではなかろうかと、中央大学の池田和臣先生がご精査中です。」


��春敬氏が、書のコレクションだけでなく、国文学資料も集めていたのですね、という質問に対して)
「父は学問が好きでしたから、それが門外不出の資料として蔵に入っていたんです。」
��5月13日号)

また、「細やかで、とにかく人の心の機微がわかる、やさしい人でした」という春美先生のおことばから伺える春敬氏のお人柄に、私までもなつかしさを覚えました。

第1回(1965年)以来、日本書道美術院が、秀華書展を、百貨店で開催してきたのは、「“飛行場の格納庫”みたいな広くて大きな会場でも、誰も人が来てくれないような場所では、展覧会を開催しても意味はない」、という春敬氏の強い思いによるものとのこと。

そして、その思いを、今、飯島春美先生が、受け継いでいらっしゃいます。

春敬氏の時代よりも、私たちは、展覧会で古筆を見る機会に恵まれています。しかし、逆に、足を運びやすく、長い行列にも並ぶことなく、自然体で、しかも古筆と濃密な出会いのできる、百貨展での書展の意義は、ますます重要なものとなっています。

春美先生は、日本書道美術院を継ぐにあたり、「三代目として、父母の名誉を守って、次の時代に伝えていくのが、私の仕事だと心に決めました」と、語られています。並々ならぬ御決意であったと思います。

今後も、私たちは、飯島春美先生を中心とする日本書道美術院から、書や写本について学ぶ、多くの機会を賜ることになるに、相違ありません。
インタビュー2


早速、春敬コレクションの、大きな展示会が開催されることを、お知らせします。

2008年7月9日(水)から8月3日(日)まで、国立新美術館にて開催される「第60回毎日書道展」東京展の特別展示として、「春敬の眼-珠玉の飯島春敬コレクション」展が開かれます。

 休館:火曜日
 時間:午前10時~午後6時  毎週水曜は午後1時開場  (入場は閉会30分前まで)
 会場:国立新美術館
 入場料:「第60回毎日書道展」入場券で入場(一般700円、大学生400円、高校生以下無料)

【展示案内より】
・「本展には、春敬理事長の学者の眼、書家の眼、そして何よりもその美意識が選び抜いた品々の一端を出陳致します。」

・「日本の書蹟として奈良・平安時代の「写経」から「三筆・三蹟から高野切」へ続くように、「かな」の書風変遷を解り易く展覧します。」

・「なお、本年は「源氏物語千年紀」となりますので、秘蔵の「源氏物語」五十四帖も公開します。現在、中央大学の池田和臣教授がこの室町時代に書写された春敬本「源氏物語」をご精査中です。今日、世に伝えられる写本との内容相違が明らかになれば、国文学上、大きな話題を呼ぶでしょう。」


その他、上田桑鳩氏収集の中国関係資料(拓本、集帖など)や、飯島春敬氏蒐集の文房四宝の展示もあります。
 
飯島春敬氏のコレクションの全容を知り、その志に再び触れることのできる機会の到来に、心躍ります。
春敬の眼

『財界』誌をご恵与くださいました上に、「春敬の眼-珠玉の飯島春敬コレクション」展の開催についてご案内くださいました、財団法人・日本書道美術院、社団法人・書芸文化院理事長の飯島春美先生の御厚情に、心より御礼申し上げます。


2008年6月7日土曜日

『萬葉学史の研究』重版のお知らせ

私の著書『萬葉学史の研究』(おうふう、2007年2月刊)は、昨年9月以来品切れとなっていました。この度、年内の重版が決まりましたので、お知らせします。

誤植を訂正するとともに、ご指摘いただきました点について補訂を加えます。

正誤表、および補訂(1、2ページ程度)は、このブログで、公開する予定です(なお、御寄贈いたしました皆様には、正誤表と、補訂をまとめたものをお送りいたします)。

今しばらくお待ちください。

*確実に入手されたい場合には、出版社の「おうふう」の方へ、お申し込みください。現在予約を受け付けております。


この度、本書『萬葉学史の研究』にて、「第25回上代文学会賞」と「第3回全国大学国語国文学会賞」を受賞いたしました。有り難うございました。

2008年5月8日木曜日

泊瀬川速み早瀬を(作者未詳):恋の思い出

瀬
(とある川の瀬)

全20巻約4500首におよぶ“万葉の森”を散策していると、思いがけず、心打たれる歌に出会います。

泊湍河速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳(巻11・2706)

泊瀬川 速み早瀬を むすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも
(はつせがは はやみはやせを むすびあげて あかずやいもと とひしきみはも)

〔訳〕泊瀬川の流れの速い早瀬の水を、両手ですくい上げて、「もっと飲みたいだろう、お前」と私に尋ねてくださったあなたは、今どうしているのでしょう……。
��速み=「速し」の名詞形。


この歌は、作者未詳歌ばかりを集めた巻11に収められています。その作者未詳歌の中でも、「出典不明歌」と呼ばれているものです。
*作者未詳歌の中でも、『柿本朝臣人麻呂歌集』『古歌集』など、出典が示されていない歌を、万葉集研究では、「出典不明歌」と言います。

「出典不明歌」は、奈良時代(8世紀)の、平城京に住む下級官人や、その縁者の歌と考えられています。巻11には、約330首の「出典不明歌」が収められています。

「出典不明歌」は、名の残る歌人たちの歌と比べるならば、ことばが、十分に練り上げられたものではありません。しかし、これらの中には、人間の喜びと悲しみを、巧むことなく、印象的なことばに結晶させたものが、たくさんあります。この歌も、そのひとつです。

泊瀬(はつせ)の地は、現在の奈良県桜井市初瀬を中心に、宇陀郡榛原町の一部にかけての一帯です。万葉時代には、「泊瀬小国(はつせおぐに)」とも言われ、山に抱かれ、水の豊かな聖地と考えられていました。ここを流れる泊瀬川(今の初瀬川)は、『万葉集』では、水流の激しい、そして瀬音の清らかな川、と歌われました。

泊瀬川が奈良盆地に出たところには、大伴家の田庄(たどころ)がありました。紀鹿人(きのかひと)が、都(平城京)からこの地を訪れたりしています。

この歌も、都から訪ねてきた男性との、泊瀬川の地での思い出を詠んだもの、と考えられます。作者は、大伴家の田庄で働く女性であったかもしれません。

つせがは はやはやせを」という、「は」「はや」の、軽快な繰り返しは、泊瀬川の激しい、しかし清冽な流れをイメージさせます。

「むすび上げて」の「むすぶ」は、両手で水をすくうことです。ふたりは、「杯」など持たずに、泊瀬川を訪れたのでしょう。作者の女性の住むところから、泊瀬川が近かったことが窺えます。
*『伊勢物語』に、「杯(つき)など具せざりければ、手にむすびて食はす」〔さかずきなども持ち合わせていなかったので、手ですくって水を飲ませた〕とあるのが、参考になります(「古典日本文学大系」127段〈定家本にはない章段〉)。

そして、男性は、その激しい水流の瀬に手をひたして水を汲み、それを作者に飲ませておいて、「飽(あ)かずや」――もっと飲みたいだろう(おいしいだろう)、と尋ねたのです。

ここで、「飽かずや」とあることが大切です。自分の胸の中でまったくわからないことを表明する助詞「か」に対して、助詞「や」は、話し手の見込みや確信を表明します(大野晋氏の説)。男性は、作者の女性が、きっと「飽かず(おいしい)」と思っているだろうと確信しているのです。

加えて、「飽かず」は、男女の仲についても用いられることばです。この歌の「飽かずや」にも、“きっといやになることはない、もっともっと逢いたいと、あなたは思うだろう”、という男性のメッセージが込められています。

歌の末尾の「はも」は、眼前にないものについて、“今はどうしているのだろうか”、といった述語を省略して、強い愛慕の念を、表明することばです。「飽かずや」ということばとは違って、男性は、その後訪ねてこなくなってしまったのでしょう。

注釈書によっては、この歌に、恨みや悲しみを読み取るものもあります。しかし、「泊瀬川速み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君」という、明るさと親しみに満ちた表現からは、あまり恨みや悲しみを感じ取ることができません。

歌人の窪田空穂は、この歌に、時を経てのなつかしさを直感しています。私も、空穂の意見に共感を覚えます。空穂の言う「なつかしさ」を、私なりに説明するならば、時を経ることで浄化された、暖かな思い出への懐かしさ、ということになるのではないかと思います。

この歌の作者の女性は、ある程度年月を経て(あるいは老齢になっていたかもしれません)、若かりし日を、かけがえのないものとして、想起しているのでしょう。

それにしても、この歌に描き出されている思い出は、決して特別なものではありません。清冽な泊瀬川を、ふたりで訪れたことは、作者にとっては、普段とは違う、心弾む出来事であったでしょう。しかし、それは歴史的に一回的な、また劇的なことではなく、誰もが体験するようなことです。

この歌の魅力は、何気ない、人間生活の一こまに、無限の輝きを見出し、それを生き生きと描き出したところにあります。そして、この名の伝わらぬ作者は、「思い出」というものが、日常の何気ないことのなかにこそあることを、知っていたのでしょう。


【補 記】
この記事は、以前の勤務先で、学生の皆さんが作った冊子『まほろば』に寄せた文章を基にしています。


2008年5月7日水曜日

『万葉集』の独習法

〔以前、阿武の人麻呂さんのご質問にお答えする形で、『万葉集』の独習法について書き記しました。コメント欄を現在のところ当面休止していますので、現在読めない状態になっています。ここに記事として再録いたします。少し補足したところもあります。
阿武の人麻呂さんからのご質問は、独学で『万葉集』、特に柿本人麻呂について勉強するための、良い方法はないか、ということでした。〕

独学をするためには、まず信頼できるテキストを手元に置いてください。どのようなテキストがあるかは、このブログの記事「『万葉集』のテキスト」をご覧ください。「新編日本古典文学全集」(4冊)がベストですが、まずは、ハンディな、中西進氏の講談社文庫(4冊)を、手元に置かれることから始めてもよいと思います。

(1) そのテキストで、作品を読み、面白いと思った点、疑問に思った点などを、ノートに書き留めていってください。ノートは、小さめの方がよいでしょう(書き込むことは、どんな初歩的なことでも、構いません。自分自身の、作品に対する手触りが、勉強の出発点となります。コクヨのノートで言えば、4号の大きさくらいがよいでしょう。)。

その次に、是非、図書館を活用してください(やや大きめの図書館ならば、以下の本が所蔵されていると思います。ない場合には、購入の希望を出すとよいでしょう)。

(2) 柿本人麻呂についての、万葉学者の書いた、信頼できる複数の本を読み、人麻呂に関する基礎的知識を、頭に入れます。また、本同士の、考え方の違いにも、注意してください。次の本を、紹介します。

稲岡耕二『柿本人麻呂』(王朝の歌人1)、集英社、1985年 【絶版】
橋本達雄『謎の歌聖 柿本人麻呂』(日本の作家3)、新典社、1984年
中西進『柿本人麻呂』(日本詩人選2)、筑摩書房、1970年(講談社学術文庫版もあり)
��なお、梅原猛『水底の歌』については、今は読まないでおいてください。)

3冊を読むことで、人麻呂の全体像や、研究の進め方を、おおまかにつかむことができるでしょう。さらに3冊の違いを通して、どのようなことが、研究の上で問題となっているかも、見えてくると思います。

1冊を読み終えたら、やはり、自分が感じた、面白い点や疑問点を、ノート(先にあげた小さめのノートでよいでしょう)に書き留めてください。
また3冊をもとに、自分なりの、人麻呂ハンドブックを作っておいてもよいでしょう(3冊の違いを、整理してもよいと思います)。

(3) 自分の関心のある、人麻呂の作品について、解釈ノートを作ってください。図書館で、記事「『万葉集』のテキスト」で紹介しました、注釈書を手懸かりに、その作品の、言葉の意味について、調べて、ノートしてゆきます。この時、その図書館に、『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂)という国語辞典があれば、是非利用してください。この時のノートは、普通の大きさ(B5版)のものがよいでしょう。

ひとつひとつの言葉の意味を調べてゆく中で、今までわからなかったことがわかって、納得をしたり、また新しい疑問が生まれて来たりします。

注釈書によって、ひとつの言葉について、解釈が分かれる場合もあります。その時には、一つに決めてしまわず、併記をしておくとよいでしょう。

また、この言葉に、解説がほしいのに、書いていないという場合もあります。それも、大切な、自分の疑問点としておいてください。

作品の言葉と向き合うことで生まれた疑問が、さらに自分の研究テーマへと、成長してゆくことになります(テーマを持つことで、さらに勉強が深まります)。このテーマを、どのように深めてゆくか、という次の段階については、またの機会に御説明したいと思います。


柿本人麻呂研究


2008年4月25日金曜日

「草仮名の書かれた土器」の発見と展示

草仮名の書かれた土器


「かな」誕生の歴史を知る貴重な資料

2008年4月24日(木)付、読売新聞紙上で、平安時代前期(9世紀後半)の、草仮名(そうがな。漢字の草書体を、日本語の音の表記に用いたもの)が墨書された土器が、富山県射水市一条の「赤田(あかんだ)Ⅰ遺跡」で発見されたことが、報道されました。

9世紀後半は、万葉仮名が、平仮名へと飛躍する重要な時期です。しかし、資料は多くありません。この時期の、仏教経典に書き込まれた訓点や、文書、落書などに、草仮名が見えることは、報告されていました。

しかし、調査を担当した鈴木景二氏(富山大学人文学部教授)によれば、「草仮名が書かれた土器としては、最古かつ唯一の資料である可能性が高い」としています。しかも、鈴木氏は、「なには」があることから、宴会で歌を詠んだ際の、練習用として書き留められたか、と推測しています。

9世紀後半における、草仮名で書くことの広がり、また和歌の表記法を知る上で、重要な資料と思われます。写真で見る限りでは、直径13.1㎝、高さ2.4㎝の皿状の土器の裏側に書かれた文字は、のびやかに書かれており、闊達な印象を与えます。

是非、実物を見てみたいと思い、この土器の発見を発表した、射水市教育委員会に直接問い合わせたところ、以下の要領で展示が行われることを知りましたので、お知らせします。


射水市新湊博物館(〒9340-0049 富山県射水市鏡宮299)
・現在展示中。5月25日(日)まで展示。
・5月11日(日)に、鈴木景二氏による解説が行われます。
※開館日時については、射水市新湊博物館のウェブ・サイトでご確認ください。
※鈴木氏による解説については、直接、博物館にお尋ねください。


竹内源造記念館(〒939-0351 富山県射水郡小杉町戸破2289-1)
5月27日(火)から展示。


【追記】
asahi.com にも、やや異なる角度からの写真と、展示・解説情報が掲載されています(鈴木景二氏による解説は、午後2時からです)。
「最古級の草仮名墨書土器が出土、和歌練習か 富山・射水」

【追記2】(2008年5月7日記)
高岡市万葉歴史館の関隆司氏より、貴重な資料をお寄せいただきました。それによれば、この草仮名墨書土器の、出土日時は、平成14年4月25日で、出土場所は、現在の射水市一条団地内道路敷下(市道)です。

文字数は、17文字。鈴木景二氏によれば、酒杯を意味する「ささつき」、手習い歌「難波津歌」の書き出しの「なには」などが書かれていると見られます。また、「ひつ」「のみ」などは連綿になっているとのことです。

��関隆司氏に心より御礼申し上げます(迂闊にも入力ミスで、敬称を脱したままで【追記2】をアップしてしまっておりました。大変失礼いたしました)。


2008年4月18日金曜日

古筆学者・小松茂美氏の紹介記事(読売新聞):さらに知りたい人のために

2008年4月17日(木)付の『読売新聞』夕刊の、シリーズ「明日へ・書を囲む」に、古筆学者・小松茂美先生の近況を紹介する記事が、掲載されました。

『古筆学大成』の刊行にいたるまでの、情熱と努力が簡潔にまとめられています。そして、83歳になれた今、後白河法皇の研究に没頭され、66年にわたる法皇の生涯を、一日刻みで再現する「日録」を、ほぼ完成されたことが、紹介されています。

王者の風格が備わる、後白河法皇の筆跡も魅力、と小松先生はおっしゃっています。その筆跡の背後にある、激動の人生が、間もなく、小松先生ご自身が独自に開拓された古筆学の、あらゆる方法が駆使されながら、鮮烈に描き出されると思うと、心弾みます(小松先生の古筆学は、書を中心として、国文学・歴史学・美術史・宗教学などを集大成する学問です)。

書斎で撮影された、清い御姿の写真とともに、「書は季節に関係なく、昔は365日の関心事。今も人間錬成の場だと思います」というお言葉が、強く印象に残りました。

なお、先生の被爆のこと、『平家納経』との出会い、古筆学を確立されるまでの格闘、そして学問や、今日の書のあり方についての思いについて、「インタビュー・古筆学に生きる」(『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』所収)で、さらに詳しくお話ししてくださっています。先生の激しい生き様は、私たちに大きな勇気を与えてくれます。



「インタビュー・古筆学に生きる(小松茂美)」目次
��『文字のちから』65~82頁(18頁分)=

��.書とのめぐりあい―父と恩師によって
��.書に生かされる―「書は人間の錬成によって立派になる」
��.被爆、そして池田亀鑑博士『古典の批判的処置に関する研究』との縁
��.『平家納経』への思い “生きている間に見たい”
��.池田亀鑑博士との出会い「私は必ずあなたを助ける」
��.二荒山本『後撰集』・今城切からの着想―断片を元の形に復元する
��.古筆学の樹立 “人間錬成の格闘”
��.『平家納経』から後白河法皇へ―美と生と死と
��.文字のいまと古筆学のこれから―“文字性”の喪失

【インタビューから】
・「今になって考えることは、学問であれ何であれ、それが人間錬成の格闘だということです。その中で私は学問を選んだということなのです。商人であれ、作家であれ、画家であれ、歌舞伎役者であれすべて同じです。そういうことで、ありとあらゆることを自分の栄養にしなければいけないなと思いましたね。」(77頁)

・「今現在、私は後白河法皇の六十六年間の生涯を追究していますが、これは古筆の歴史的な研究かというそうではない。しかしこれが究極の古筆学だと私は思っています。私の古筆学の終焉、最後の大事業として進めているこの古筆学は複雑多岐な方法をとっています。ありとあらゆる学問の集大成なのです。」(79頁)

・「そして、何であれ、まずは本物と偽物の見分けが付くように己れの“眼”を養っていただきたいですね。」(インタビューの結びに。82頁)

��『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、全196頁、2007年12月刊、1,800円(本体)

文字のちから(書籍版)


2008年4月8日火曜日

万葉集書物史早わかり(2)

別提訓形式
(写真=漢字本文の次に、平仮名で、その読み下しを書き記す「別提訓形式」の例 〈元暦校本万葉集の複製による〉)

謎の九世紀
��この記事は、「万葉集書物史早わかり(1)」に続きます)

現存する、『万葉集』の写本・刊本を中心に、「書物」として『万葉集』の歴史を見渡すと、次のようになります。
 
 Ⅰ 写本未詳の時代
 Ⅱ 巻子本(写本)の時代
 Ⅲ 冊子本(写本)の時代
 Ⅳ 冊子本(刊本)の時代
 Ⅴ 冊子本(近代的印刷本)の時代

Ⅰ 写本未詳の時代〔9世紀~10世紀末〕

今日、私たちの目にしている、20巻本の『万葉集』の最古の写本は、11世紀中頃に書写された桂本(かつらぼん。皇室御物。巻4のみ)です。10世紀の末頃から、古記録(貴族の日記)にも、本来20巻本と推定される写本の記録が、現れます。

ところが、これ以前に遡ると、史料から、「書物」としての『万葉集』の姿を、直接捉えることが、難しくなります。

『源順集(みなもとのしたごうしゅう)』の詞書に、天暦5年(951)に、村上天皇の宣旨があり、「古万葉集よみときえらばしめ給ふ」た、と記されています。この時、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌が、「よみとかれ」たことがわかります。

平安時代の『万葉集』の写本に記された訓を分析することで、この「よみとく」の内容が、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌(短歌のみ)を、組織的体系的に、《平仮名で書かれた和歌》に置き換えるものであったことが、推定できます。

また、その置き換えは、『万葉集』全20巻に及んだことが、鎌倉時代の学僧・仙覚(せんがく)の校訂した写本に記された符号から、わかります。その歌数を、上田英夫氏は、約4500首の『万葉集』歌のうち、4000首を越えると、算定しています(この時の、読み下しを、「古点」と言います)。

ここで「えらぶ」とあるのは、漢字本文の次の行に、平仮名で、その読み下しを記す、新しい「書物」としての『万葉集』の誕生を示すのでしょう。古語の「えらぶ」には、選び集めて、書物を作る、という意味もありました。『万葉集』の写本の、このスタイルを、「別提訓形式」と言います。
*なお、この「えらぶ」を、良いものを選択する、の意味にとる説もあります。

しかも、この天暦の訓読の時に、巻18の、5箇所の漢字本文が補修されたことも、推定されています(大野晋氏の研究)。

この時に成立したと推定される「天暦古点本」が、村上天皇の権威のもと、以後の、『万葉集』の写本の源流となります。10世紀末以降の、現存する写本、史料からその存在が確実視される写本の本文(「注記」も含めて)は、基本的には、この「天暦古点本」から出ていると考えられます。

ところで、ここで難しい問題があります。『万葉集』の成立の問題です。

天応元年(781)から延暦2年(783)にかけて、大伴家持によって、『万葉集』の末4巻(巻17~巻20)の整備と20巻本としての集大成が、行われたと見る説が、今日では有力です(伊藤博氏説)。

しかし、『万葉集』には、大伴家持以後にも、手が加えられている形跡があることが指摘されています。近時、巻1・巻2の左注が、8世紀末、さらには9世紀まで下る可能性も、考えられています(神野志隆光氏の研究)。

『万葉集』という「書物」を、「注記」も含めたものとして捉えると、その成立時点を確定することは、非常に難しいと言えます。8世紀末から9世紀を通じて、なお『万葉集』という「書物」は、「注記」を積み重ね、変動・生成し続けていたようです。
*大量の、しかも様々の次元からなる「注記」を伴う『万葉集』は、中国文化圏の詩歌集としては、極めて特異なものです。

文献学的に厳密であろうとするならば、「注記」を伴う「書物」としての『万葉集』(20巻本)の成立は、今のところ、「天暦古点本」までしか遡れない、ということになります。「天暦古点本」において、変動・生成する『万葉集』が、固定させられたとも、考えることができます。

とはいえ、その「天暦古点本」も、現存していません。この本は、当時の「書物」のあり方から、少なくとも、巻子本であったことは推測できます。しかし、実際にどのような姿の「書物」であったか―どのような料紙に、どのような書体・書風で書かれていたかなどは、不明です。そして、現存最古の桂本でさえ、「天暦古点本」を、必ずしも、一字一句忠実に書写しているわけではありません(訓について、桂本なりの独自の判断が見られます)。

実は、今日の私たちは、11世紀以降の写本を通して、「天暦古点本」を推測し、さらにその向こうに、7・8世紀の《万葉集の世界》を見ているのです。これらのプリズムを経て、私たちが見ている《万葉集の世界》が、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界そのものであるかどうかは、わからないのです。

「書物」としての『万葉集』の歴史を捉えるために、さらに、どのようにすれば、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界に、より近付けるのかを考えるためにも、この謎に満ちた時期、特に、9世紀における『万葉集』の解明が、今後重要となります。
*なお、9世紀から10世紀末にかけて、ダイジェスト版の『万葉集』が作られていたことが、記録に見えます。また、桂本以前の、ダイジェスト版の断簡である、下絵萬葉集抄切も現存しています(小松茂美氏は、10世紀初~半ば写と推定)。これらについては、別の記事で触れたいと思います。

��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.大野晋「萬葉集巻第十八の本文に就いて」『国語と国文学』第22巻第3号、1945年4月
��.伊藤博『萬葉集釈注 十一』(別巻)、集英社、1999年
��.神野志隆光『複数の「古代」』講談社現代新書、講談社、2007年
��.小川靖彦「『書物』としての『萬葉集』―巻三雑歌における『本文』と注記を通して―」『国語と国文学』第84巻第11号、2007年11月


【追記】
天暦の訓読時に、巻18の本文の5箇所に、大規模な補修が行われた、という大野晋氏の説について、乾善彦氏による批判があることを、看過しておりました。「大規模な補修」と見られたうちの、いつくかの点は、転写の際の誤りと解釈できるというのが、乾氏の見方です。天暦以降、いつかの時期に渡って改変が加えられ、「大規模な補修」のように見えるようになったと、捉えています(乾善彦氏「『万葉集』巻十八補修説の行方」『高岡市萬葉歴史館紀要』第14号、2004年3月)。

今後さらに、検討してみたいと思います。


2008年3月29日土曜日

第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(急告)

古典かなの美展1
(写真=『春敬コレクション名品図録』〈右上に「豆色紙」の写真〉と、「古典かなの美展」パンフレット)

必見、力みなぎる名筆の数々

先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)」で紹介しました、「春敬コレクションによる『古典かなの美展』」が、現在開催されています。

開催初日に観覧に行きました。非常に密度の濃い、展示空間に、深い感銘を受けずにはいられませんでした。4月1日(火)までの展示です。是非、足をお運びください。

この展示会では、「関戸本古今集切」「貫之集切」をはじめ、有名な、平安時代の「かな」の名筆が、出品されています。そして、今までの名筆のイメージが、一新されます。

素紙に書かれた[3]関戸本古今集切の筆線は、鋭く、しかも繊細です。そして、その底に、しなやかな力強さを湛えています。染色紙に、鷹揚に書かれた断簡とは別の、関戸本古今集切の表情を見ることができます。

漢詩を2行書き、和歌を3行書きにして、贅沢な空間の使い方をする、[2]大字和漢朗詠集切では、漢字も「かな」も、おおらかに書かれ、明るい空間を作っています。

『和漢朗詠集』の断簡ということでは、三種類の[4][5][6]伊予切が、一同に集められていることも、注目されます。それぞれの漢字の、清朗な草書の美しさには、感動を覚えます。この草書と「かな」によるコラボレーションには、目が離せません。

一方、この展示会では、[19]カタカナ古今六帖切[20]田歌切などから、いわゆる名筆とは異なる、文字のちからと美しさを知ることができます。濃い墨色で、力強く書かれた、これらの作品は、「かな」の名筆のような、鑑賞のされ方を意識したものではないでしょう。しかし、その内容に、確かな形を与えたいという熱意が伝わってきます。

そして、圧巻は、[24]豆色紙(鎌倉時代)です。縦7.7㎝、横7.0㎝という、実に小さな空間の中が、充実した気で満ち満ちています。力動感のある筆線は、密度の極めて高い空間を、作り上げています。
*なお、先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)」では、「豆色紙」を、『拾遺和歌集』断簡としましたが、『春敬コレクション名品図録』によれば、拾遺和歌集歌に限らず、古歌を集めた私撰集です。
��展示されている「豆色紙」は、『拾遺和歌集』の源順(みなもとのしたごう)の歌です。
  恋しきを 何につけてか なぐさめむ 夢だに見えず 寝る夜なければ (恋二・735)
  〔訳〕恋しい思いを、いったい何によって慰めればよいのでしょうか。
     夢であなたに会うことさえもできません。恋しさに、眠ることもできないので。

見ることのできない「夢」のイメージと、料紙の墨流しが微妙に調和しています。
  

この展示会では、『万葉集』の断簡も、2点、出品されています。平安時代の「かな」の名筆から観覧してくると、特に[11]天治本万葉集が、独自の、書と「書物」の世界を持っていることを、実感しました。『万葉集』の書物史について、大きな示唆を得たように思います。

30点の作品に、書の力強いいのちを、感じました。そして、これらの作品を貫く、飯島春敬氏の審美眼と、書にかけた情熱を思わずにはいられませんでした。
*飯島春敬氏が、芸術としての書を確立するために、また第二次世界大戦後の混乱した状況の中で、いち早く、書の再興と教育のために、力の限りを尽くされたことを、『飯島春敬全集』別巻1(書藝文化新社、1984年)によって、知ることができます

飯島春敬氏の、力強いいのちは、この展示会と隣接した会場で開かれている、第43回秀華書展の作品にも受け継がれています。特別資料展示と作品展を観覧の後、いつまでも、清朗な感動が、揺曳し続けました。

*理事長・飯島春美先生、常務理事・大谷洋峻先生をはじめ、財団法人・日本書道美術院の皆様に、格別のご厚情を賜りました。心より御礼申し上げます。


【出陳目録】
��1]伝藤原行成筆 針切(重之子僧集) 1幅
��2]伝藤原行成筆 大字和漢朗詠集切 1幅
��3]伝藤原行成筆 関戸本古今集切 1幅
��4]伝藤原行成筆 伊予切第一種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��5]伝藤原行成筆 伊予切第二種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��6]伝藤原行成筆 伊予切第三種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��7]伝藤原行成筆 貫之集切 1幅
��8]伝藤原公任筆 和泉式部続集切 1幅
��9]伝藤原公任筆 中務集(なかつかさしゅう)切 1幅
��10]伝藤原公任筆 太田切 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��11]伝御子左忠家筆 天治本万葉集 巻十(仁和寺切) 1幅  〔*巻15・3737~3740〕
��12]伝御子左忠家筆 柏木切(類聚歌合) 1幅
��13]伝御子左俊忠筆 二条切(類聚歌合) 零巻
��14]伝源頼政筆 三井寺切 1幅  〔*頼政集断簡〕
��15]元暦校本万葉集 巻十一(有栖川切) 1幅  〔*巻11・2798~2800〕
��16]伝西行筆 曽丹集枡形本切 1幅  〔*曽禰好忠集断簡〕
��17]伝西行筆 五首切(神祇切) 1幅  〔*「右大臣(九条兼実)家百首」草稿断簡〕
��18]伝寂蓮筆 右衛門切[個人蔵] 1幅  〔*古今和歌集断簡〕
��19]伝寂蓮筆 カタカナ古今六帖切 1幅
��20]伝寂蓮筆 田歌切 1幅
��21]藤原俊成筆 顕広切 1幅
��22]伝坊門局筆 惟成集(これしげしゅう)切 1幅
��23]伝源実朝筆 中院(なかのいん)切 1幅  〔*後拾遺和歌集断簡〕
��24]伝後京極良経筆 豆色紙 1幅  〔*古歌集断簡〕
��25]藤原定家筆 三首詠草懐紙 1幅
��26]伝宗尊親王筆 十巻本歌合 寛平御時后宮歌合 1幅
��27]伝宗尊親王筆 催馬楽切 1幅  〔*鍋島家本催馬楽抄断簡〕
��28]伏見天皇筆 広沢切[個人蔵]  〔*伏見院御集断簡〕
��29]伝藤原行尹筆 新撰朗詠集切 1幅
��30]本阿弥光悦筆 色紙 1幅  〔*木版下絵のある料紙に、「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」〈百人一首・藤原義孝〉を書く〕


古典かなの美展2
(会場では、貴重な、飯島春敬氏蒐集の古筆の写真を収録する『春敬コレクション名品図録』〈書藝文化新社、1992年〉、詳細な解説の付いた「古典かなの美展ポストカード」(カラー)が、販売されています。なお、『春敬コレクション名品図録』に収められていない古筆も、出品されています。詳細な展示解説も、お見逃しないように。)

2008年3月28日金曜日

万葉集書物史早わかり(1)

万葉集の巻子本と冊子本
(写真=左、巻子本の『万葉集』〈桂本の複製〉。右、冊子本の『万葉集』〈元暦校本の複製〉)

「書物」の歴史を生きる『万葉集』

約1200年前に編まれた、日本最古の歌集『万葉集』を、今日私たちが読むことができるのは、多くの人々が、この「書物」を書き写し、また印刷をして、伝えてきたからです。

世界的に、「書物」の歴史には、三つの大きな革命が起こっています。第一は、巻子本(巻物)から冊子本への移行、第二は、写本から印刷本への移行、そして、第三は、まさに現在起こりつつある、紙の「書物」から電子ドキュメントへの移行です。
*但し、紙の「書物」と、電子ドキュメントは、メディアとしての性質が根本的に異なっています。他のふたつの革命とは、同列に捉えられないところがあります。

これらの革命は、一方では、「書物」の読者層を一挙に拡大し、「書物」の新しい可能性を開きながら、他方では、それまでの、「書物」に関わる技術体系(造本の技術から、「読む」技術・「知」の蓄積の技術にまで及ぶ)を破壊してゆく、という進み方をします。

旧来の「書物」は、この革命の中で、一部が新しい「書物」として、生まれ変わるものの、多くは時代から取り残され、やがては忘れられてゆきます。これを、高宮利行氏は、“ボトルネック現象”と言っています。

日本では、これら三つの革命に加えて、漢字から「かな」への移行、刊本(古活字版・整版・近世木活字本など)から近代的な活版印刷本への移行も、“ボトルネック現象”を引き起こす要因となっています。

例えば、江戸時代から明治初期にかけて印刷された、大量の、『万葉集』に関する研究書の多くが、いまだに活字に起こされず、時には、写真撮影さえも行われていません。

『万葉集』という「書物」が、漢字から「かな」へ、巻子本から冊子本へ、写本から刊本へ、刊本から近代的印刷本へ、という日本の書物の歴史上の革命を、全巻欠けることなく、生き抜いてきたことは、稀有なことです。

しかも、『万葉集』の場合、これらの革命を単に後追いするのではなく、常に変革期の比較的早い段階で、その姿を新しい「書物」へと変えてきました。そして、その際に、さまざまな新しい技術開発も、行われました。

また、『万葉集』の、「書物」としての歴史を、細かく見てゆくと、これらの革命の時期に、古い「書物」から新しい「書物」への移行が、決して急激に、「発展史的」に進んだのではないことが、わかります。ふたつのタイプの『万葉集』が、微妙に重なり合いながら並行し、最終的には、政治的・社会的要因によって、新しいタイプへと帰結します。

『万葉集』は、巻子本・冊子本・刊本・近代的印刷本の全てが、ある程度の分量をもって、現存しています。日本の書物の歴史を生き抜いた『万葉集』は、日本の、さらには世界の「書物」が、どのように歴史の中を生きてゆくのかを知るための宝庫と言えます。

*ここでは、「書物」のスタイルの大きな変化を、「革命」と記しました。大きな変革であることには、間違いありません。しかし、単純に、ドラスティックな「革命」と捉えるだけでは、一面的です。ヨーロッパ・アメリカの書誌学においても、口誦から書写へ、書写から印刷への変化を劇的なものと捉える、ウォルター・オング、ジャック・グディ、マーシャル・マクルーハンの見方に対して、1990年代後半から、それらの境界が、流動的で重なり合うものであることが、主張され始めています(フィンケルスタイン氏・マックレリイ氏)。

��*次の記事で、「書物」としての『万葉集』の歴史を概説します。)


��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.Van Sickle, John. "The Book-Roll and Some Conventions of the Poetic Book." Arethusa 13(1980).
��.高宮利行『グーテンベルクの謎 活字メディアの誕生とその後』岩波書店、1998年
��.Finkelstein, David and Alistair McCleery. An Introduction to Book History. New York & Oxon: Routledge, 2005.


2008年3月22日土曜日

謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(急告)

日中書法の伝承展1

必見の展示

先の記事「謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(予告)」で紹介しました、「日中書法の伝承」展が、いよいよ明日3月22日(土)で閉幕となります。

実際に観覧し、文字史を学ぶためにも、また日本の書の展示会としても、必見のものと思いました。是非、足をお運びください。

受付は、4階となります。4階は、中国の文字資料と、書の展示となります。甲骨・青銅器・石に刻された文字、木簡に記された文字を、同じフロアで見ることで、いかに文字というものが、その素材と密接な関係にあるかと、実感することができます。

特に、普段は、拓本でしか見ることのない、青銅器に刻された文字の、力強さには、本当に感銘を受けました。
[38][39]小克鼎(しょうこくてい)の文字に注目。

また、4階では、敦煌文書も興味深いものでした。写経の文字が、どのように装飾性を帯びてゆくか、という歴史を、垣間見ることができます。なお、「書物」という点では、小巻子本である『正法華経』巻第17が、大変面白いものです。私的な巻物の、実物を見ることができる、数少ない機会です。なお、縦の寸法が、12.9㎝と、冊子本に多く見られる、縦の寸法と同じことも、目を引きます。
[67]敦煌文書

��階は、まず篆刻です。4階を見た目で、篆刻を見ると、今までと全く違って見えてきます。青銅器や石に文字を刻むような意味を、篆刻が持っていたことが、感じられます。

そして、いよいよ日本の書作品となります。

日本の代表的な書が、一同に会しています。圧巻は、特別室の三色紙です。「継色紙」「寸松庵色紙」「升色紙」が、並んで展示されています。そして、それぞれの書風で、小さな空間に、ドラマを作り上げていることに、深い感銘を受けます。それぞれの、文字の配置、そして、写真では再現できない、墨の濃淡と肥痩を、熟覧してください。
[101]寸松庵色紙
[106]升色紙
[118]継色紙 (*上句と下句が別の料紙に書かれています。下句の、濃淡と肥痩による立体性を目にし、それによる抒情性を感じていると、下句が「心は妹に寄りにけるかも」ではなく、「心は君に寄りにしものを」でなくてはならない、と思われてきます。)

意外な発見は、素紙に書かれた関戸本古今和歌集切の、文字の美しさです。関戸本は、料紙の美しさに、目を奪われがちですが、素紙の書にこそ、その真髄が現れているように思いました。
[98]関戸本古今和歌集切

また枯れた筆の美しさが言われがちな、良寛の対幅は、実物を見ると、実に生き生きとした、力強いものでした。特に、墨継ぎをしたところに、力強さが現れています。枯れているように見える文字の底にある生命力に、驚かされました。
[138]草書五言詩軸

会場は、静かで落ち着いた雰囲気です。観覧の後、たくさんの文字から、清々しい力をもらったような気持ちになります。

*図録は、4,000円です。約350頁の大部なものです。観覧後購入して、会場の椅子に座って、図録の写真を見た上で、再度気になる作品を見るとよいでしょう。

日中書法の伝承展2


2008年3月19日水曜日

塙保己一史料館

塙保己一史料館1
(写真=左は塙保己一史料館パンフレット。中央下はポスト・カード。右は群書類従本竹取物語の第1丁)

今も生きている学術史・出版史の金字塔

青山学院大学からほど近い、渋谷区東2丁目に、社団法人・温故学会の塙保己一史料館があります。

目が不自由であったにもかかわらず、塙保己一(はなわ・ほきいち)が、古代から江戸時代にいたる、わが国の貴重書1,273種を蒐集し、校訂を加え、670冊に仕立てて出版する、という大事業を成し遂げたことは、大変有名です。
*総数、冊数は、史料館の解説パネルによります。なお、現在は、総数は1,277種、冊数は、665冊、目録1冊です。

しかし、その成果である『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の版木が、今なお生きていることを、私は知りませんでした(『群書類従』の版木は、国の重要文化財に指定されています)。

春の一日、青山学院大学の学生の皆さんとともに、塙保己一史料館を訪ねました。『群書類従』の版木と、保己一が出版した、その他の貴重書の版木の膨大な数に、まず圧倒されました。

そして、ご案内くださった、温故学会の斎藤幸一氏(理事長代理)から、これらの版木を使って、現在も『群書類従』の印刷が行われていることを伺い、驚きました。注文を受ければ、1冊でも、印刷をしているとのことです。

『群書類従』は、安永8年(1779)、保己一34歳の時に、編集・開板の祈願が行われ、天明6年(1786)、41歳の時に、見本版『今物語』が刊行され、そして文政2年(1819)、74歳の時に、全冊の刊行が完了しました。

約200年前に作られた、桜の版木が、今も生きていることに、『群書類従』を刊行するために駆使された、木版印刷技術の“力”を、実感せずにはいられませんでした。上の写真の右のように、今日、この版木を使って印刷された『竹取物語』は、美しい紙面を見せています(印刷された文字の流麗さに、魅了されます)。
*版下の浄書者は、屋代弘賢、大田南畝、町田清興、羽州亀田城主岩城伊予守、関口雄助、保己一の妻安養院、娘とせ、他(解説パネル)。

そして、保己一の志に、深い感動と敬意を覚えました。保己一が、歴史上の人物から、一挙に、身近な、大きな存在になったように思いました。

さらに、これらの版木を、今日まで伝えてきた、社団法人・温故学会の方々の、並々ならぬ御努力にも感銘を受けました。

大正12年(1923)には、関東大震災で、版木倉庫が全壊しました。奇跡的に焼失をまぬがれた版木のために、直ちに版木収蔵施設の建造が、企図されます(昭和2年〈1927〉に、温故学会会館建設)。また昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲の時には、会館内に飛び込んだ焼夷弾2発を、温故学会会長・斎藤茂三郎氏が、手づかみで館外に投げ出し、被害を防ぎました。

版木による印刷は、一見簡単そうに思えますが、実は高い技術が必要です。斎藤幸一氏のお話では、1枚の版木に、均等に墨を行き渡らせるだけでも、熟練が必要とのことでした。

さらに斎藤氏の御厚意で、2色刷りの、元暦校本万葉集の版木を見せていただきました。表は、本文を刻し、墨で刷り、裏は、書入注記を刻し、朱で刷ります(上の写真中央)。1枚の和紙に、本文と書入注記がずれないように刷るためには、かなりの習練が必要と思われました。

夏には、版木による印刷を、実際に体験できるワークショップが、開かれると聞きました。

日本の印刷文化の精髄と言える、保己一の版木について、さらに研究を深めながら、これを次代に伝えてゆくことが、『群書類従』から絶大なる恩恵を蒙った私たちひとりひとりの務めであることを、痛感しました。

【展示情報】
社団法人・温故学会 塙保己一史料館
東京都渋谷区東2-9-1
開館日:月曜日~金曜日(午前9時~午後5時)
参観は、要予約(電話またはファックス)
入館料:おとな100円、12歳までのこども無料
��『竹取物語』(『竹取翁物語』)の印刷見本や、『聖徳太子十七条憲法』(『聖徳太子十七箇条憲法』)などが、販売されています。


塙保己一史料館2


平仮名を選び取った平安人たち:漢字と「かな」(4)

古今集春上・2番歌
(写真=『古今和歌集』春上・2番歌。「そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ)

ことばの自立・自律
��この記事は、「平仮名の空間構成力:漢字と「かな」(3)」に続きます)

紀元1世紀に、漢字と出合った、古代の日本の人々は、以後、この漢字を、唯一の文字として、使用していきます。7世紀末には、漢字を用いて、漢詩・漢文ではなく、日本で生まれた、「やまと歌」を書き記すための、安定した表記法を、確立しました。

この表記法である、『万葉集』の《文字法》は、文脈に依存して、大胆に、歌の「ことば」の表記を省略しながら、歌の「意味」を効率的に伝えるものでした。さらに表記者個人の創意工夫も、働かせることができました。

ところが、9世紀の終わりから10世紀の初頭にかけて、古代の日本の人々は、この《文字法》を、あえて捨て去り、「和歌」の表記媒体として、意識的に、平仮名を選び取ります。「あえて」と言ったのは、この時期の人々には、この《文字法》が読解でき、また、その利点も知っていたと思われるからです(参照、先の記事「平安時代に万葉集は読めたか」)。

この時期の人々が、平仮名を選び取ったことは、①言語と文化に関する、意識の変革、②それを支えるだけの、技術的条件の達成、によるものと思います。そして、③平仮名を、歌の表記媒体として選び取ったことによって、「やまと歌」は「和歌」へと変質し、二度と後戻りができなくなりました。

9世紀半ばに、唐を中心とする、東アジア諸国の政治的文化的繋がりが弱まり、唐の周辺諸国が、それぞれの地域や国にあった、新しい進路を模索し始めます(中国史の研究者・氣賀澤保規氏による)。

日本でも、律令制度を建前とし、また遣唐使廃止後も唐との人的・物的交流を保ちながらも、中国的な律令制度は、9世紀を通じて、確実に空洞化してゆきます。その中で、「日本」固有の言語と文化を、意識的に、作り上げることが、めざされました。

漢字に発しながら、もはや漢字の「意味」とは完全に切れた、平仮名という、「日本」固有の文字で、「日本」の歌=「和歌」を書き記すことは、中国からの政治的・文化的独立を宣言するものでした。

歌の「ことば」一つ一つを、完全に文字化する平仮名は、一方では、「日本」の歌を、〈音〉として書き留めようとするものです。『古今和歌集』の序文の、紀貫之の、“鶯、蛙を始め、すべて生きものは歌を詠む”という発言も、平仮名の「和歌」であるからこそ、言えるものでしょう。

しかし、平仮名で書かれた「和歌」は、単に〈音〉を文字化するものではありません。先の記事「平仮名の空間構成力」で述べたように、あくまでも、「文字の歌」として、「和歌」を視覚的・空間的に表現するものです。この点で、平仮名の「和歌」は、「やまと歌」を、「文字の歌」として視覚的に定着しようとした、『万葉集』の《文字法》を、受け継いでいると言えます。。
*なお、小松英雄氏は、平仮名の「和歌」が、清濁を区別して書かないことに注目して、上代の韻文が一次的に聴覚的であるのに対して、平安時代の和歌が視覚的である、と述べています。

平仮名は、「文字の歌」として、「日本」の歌の〈音〉を書き留めるものであり、それを可能にするだけの、連綿と放書(はなちがき)の技術の開発がありました。さらに濃淡・肥痩、文字の配置や形態の工夫が、「文字の歌」としての、平仮名の「和歌」を洗練してゆきます。

そして、歌の「ことば」一つ一つを文字化する平仮名は、文脈に依存する、『万葉集』の《文字法》ではできなかった、ダイナミックな、ことばとことばの関係の構築や、イメージの重層を可能にしました。

例えば、『古今和歌集』の紀貫之の歌を、挙げてみます。

 そてひちて むすひしみつの こほれるを はるたつけふの かせやとくらむ (春上・2)
 (袖ひちて 結びし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ)
 〔訳〕暑かった夏の日に、袖の濡れるのもいとわずに、手ですくった水、それが冬の寒さで
  凍りついているのを、立春の今日の暖かい風が、今頃解かしていることだろう。


 袖ひちてむすびし水のこほれるを』春立つけふの風やとくらむ
 b 袖漬而結師水之凍流乎春立今日之風哉将解


この歌は、一首の中に、夏・冬・春と、移りゆく季節を、詠んでいます。この大きな時間の推移の表現を、可能にしているものは、大胆な構文です。初句から第3句までの、長い修飾語(この修飾語の中で、夏から冬への時間が表現されます)を伴った目的語を、第5句の述語「とくらむ」が受けます。

このような構文は、『万葉集』の歌には、見ることができません。『万葉集』の歌では、主語・目的語・述語の関係は、もっと単純です。

この歌を、『万葉集』の《文字法》で表記することは、不可能ではありません。仮に表記してみたのが、bです。しかし、これを、頭から暫定的に読み下していこうとすると、目的語から述語があまりに遠いため、第3句の『乎』を、どのように解釈してよいか戸惑います(格助詞か、逆接の接続助詞か、迷います)。

『万葉集』の《文字法》では、文脈は明確で、シンプルでなくてはなりませんでした。貫之たちは、平仮名によって、文脈から解き放たれ、自由に「ことば」(=文字)を駆使することを、手に入れました。「やまと歌」は、「ことば」の自律する「和歌」へと、変質したのです。

*平仮名による「和歌」から、遡って考えると、大伴家持が積極的に試みた、「万葉仮名」による、一首の歌の表記は、家持なりの、「日本の歌」の姿を求めての模索であったと思われます。しかし、古屋彰氏が明らかにしたように、家持は、当初『万葉集』の《文字法》で書かれた歌を、「万葉仮名」表記に書き換えてゆきますが、巻19ではそれを断念します。
��上に掲げた写真は、『古今和歌集』の高野切第一種(11世紀半ば書写)の、〔春上・2〕の歌の透写です。透写してゆくと、活字で読む以上に、この歌が、物語的に、生き生きと感じられてきます。なお、第4句は、通行の本文とは異なります。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年
��.築島裕『仮名』日本語の世界5、中央公論社、1981年
��.氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』中国の歴史06、講談社、2005年
��.秋山虔『王朝の文学空間』東京大学出版会、1984年
��.小松英雄『やまとうた 古今和歌集の言語ゲーム』講談社、1994年
��.古屋彰『万葉集の表記と文字』和泉書院、1998年


2008年3月12日水曜日

平仮名の空間構成力:漢字と「かな」(3)

巻18・4136
(写真=『万葉集』巻18・4136番歌。「あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かさしつらくは ちとせほくとそ」)

万葉仮名から「かな」への飛躍
��この記事は、「万葉仮名で歌を書き記すこと:漢字と「かな」(2)」に続きます)

“歌(やまと歌・和歌)の表記媒体”としての、「万葉仮名」と平仮名の違いを、具体的に見てみたいと思います。

「万葉仮名」による表記法と、平仮名による表記法は、ともに歌の「ことば」を全て文字化する、という点で共通します。

しかし、上に掲げた図で、二つの表記法で書かれた、同じ歌を、見比べてみてください。図は、次の歌を書いたものです。

 あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿くとぞ (巻18・4136)大伴家持
 (あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かざしつらくは ちとせほくとぞ)
 〔訳〕(あしひきの)山の梢の、常緑の「やどりぎ」を折り取って、髪にさしているのは、
  私たちの命が、千年も続くことを、祝う心からなのです。


右が、「万葉仮名」で書いた場合です。西本願寺本(鎌倉時代後期の写本)の漢字本文を、トレースしました。当時の「書物」のあり方から、『万葉集』原本では、「万葉仮名」は、楷書で、きちんと書かれていたと推定されます。加えて、句読点も、スペースも置かれていなかったはずです(参照、先の記事「万葉集原本のレイアウト」)。

左が、平仮名で書いた場合です。元暦校本(げんりゃくこうほん。平安時代後期の写本)の読み下し文を、トレースしました。

それでは、両方の表記で、一首を読み下してみてください。

右の「万葉仮名」による表記では、確かに、冒頭から、一文字一文字読み下してゆくことができます。これは、文脈に依存する、『万葉集』の《文字法》との、大きな違いです。

先の記事「万葉集の文字法(1)」で述べましたように、歌の「ことば」全てを表記するのではない、『万葉集』の《文字法》の場合、一度末尾まで、暫定的に読み下し、その上で、読み下し方を確定する、という読み方が、求められました。

「万葉仮名」による表記法では、このような手間はかかりません。しかし、「万葉仮名」を、読み下しながら、また読み下し終えた後で、一首の歌全体の、文の構造をとらえることは、容易ではありません。

例えば、第5句「知等世保久等曽」まで、読み下したところで、この句が、初句とどのような関係にあるのか、考えてみてください。わかりにくいと思います。再度、連続する漢字群の中から、初句を探し出すところから、始めなければなりません。
*なお、『万葉集』原本では、1行16字詰めになっていたと推定されます。歌の意味の切れ目とは、全く無関係のところで、改行されていました。

「万葉仮名」による表記法の場合、これを読む人は、冒頭から、順を追って、漢字を、日本語の「音」に変換してゆくことに専念してしまいがちです。一度で、歌全体を掌握し、その「意味」を理解することは、困難です。

また、少し目を離して、「万葉仮名」で表記された一首を、見てみてください。何か、うるさく感じないでしょうか。それは、「万葉仮名」が、あくまでも漢字の一用法であることによると思います。漢字であるために、どうしても、その漢字の「意味」が、まとわりついてしまいます。

漢字の「意味」を生かした、『万葉集』の《文字法》に馴染んだ、万葉歌人たちは、「万葉仮名」で書かれた一首を読む時、私たち以上に、「万葉仮名」が漢字として発するノイズを、わずらわしく感じたことでしょう。

他方、左の平仮名による表記では、一首全体を捉え、その「意味」を理解することが、はるかに容易になっています。

それは、漢字のノイズがないからだけではないでしょう。もし、次のように、平仮名を、「万葉仮名」による表記の時のように、一文字ずつ書き記していったならば、やはり一首全体を捉えることは、難しいでしょう。

 あしひきのやまのこぬれのほよとりてかさしつらくはちとせほくとそ

左の平仮名による表記法では、連綿によって、複数の平仮名を連合させていること、そして、それが文節(文を読む時に、自然な発音によって区切られる、最小の単位。息の切れ目)に、ある程度対応していることが、一首全体を、視覚的に捉え易いものとしています。

例えば、第2句「やまの」は、「まの」が、連綿で繋がっています。全体的に『やまの』という文節に対応しています。〈息〉を視覚化し、空間的に定着するのが、平仮名による表記法と、まず言えるでしょう。

しかも、面白いことに、第2句では、「や」と「ま」を、切り離して書いています(「放書(はなちがき)」と言います)。「や」と「ま」の間には、もちろん、〈息〉の切れ目はありません。しかし、「や」と「ま」の間に置かれた余白は、この部分に、視覚的な、リズムの変化をもたらしています。

「あし」、そして「ひきの」と、続いてきた連綿が、「や」で一度途切れて、また「まの」、そして「こぬれ」という連綿に進みます。

〈息〉の単位に沿いながらも、単純に、「音」を、文字に写すのではなく、時には、〈息〉の単位と矛盾することもある、視覚的なリズムを、これに重ねてゆくところに、平仮名による歌の表記法の、独自な達成があると思います。

連綿と放書(はなちがき)という技術を手に入れ、これを洗練することで、平仮名は、「万葉仮名」から大きく飛躍し、歌を、空間的に定着する、表記媒体となったのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.関友作・赤堀侃司「テキスト理解に対する箇条型レイアウトの効果」『日本教育工学雑誌』Vol.17 No.3、1994年1月
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年
��.石川九楊『日本語とはどういう言語か』中央公論新社、2006年
��.矢田勉「かなの字母とその変遷」『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、2007年


2008年3月11日火曜日

万葉仮名で歌を書き記すこと:漢字と「かな」(2)

木簡

(写真=小林芳規氏の著書から。右が木簡。左は、平川南氏他『古代日本の文字世界』)

木簡と「書物」
��この記事は、「平安時代に万葉集は読めたか:漢字と「かな」(1)」に続きます)

古代日本の文字史は、漢字を中国から輸入し、やがて漢字の音を利用しながら、日本語を書き表す「万葉仮名」を開発し、さらに、この「万葉仮名」を簡略化して、日本固有の文字「かな」を生み出した、と概説されます。

文字そのものは、確かに、このような発展の過程をたどります。しかし、“歌の表記媒体としての文字”は、必ずしも、このような「発展」の歴史を描きません。

「正訓字(せいくんじ)」(日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字)と、「万葉仮名」を組み合わせながら、文脈に依存して、大胆に「ことば」の表記を省略し、歌の「意味」を効率的に伝える、『万葉集』の《文字法》が確立したのは、7世紀末、柿本人麻呂の時代であると、先の記事「漢字に託す恋の心」「万葉集の文字法(1)」で述べました。

ところが、7世紀末に、既に、やまと歌(和歌)一首を、「万葉仮名」で書くことが行われていたことが、木簡の発見によって明らかになっています
*徳島県・観音寺遺跡出土木簡。『古今和歌集』仮名序で、「歌の父母」のようで、手習いする人が最初に学んだとされた、
  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
  (なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)
の初句と第2句を、「万葉仮名」で書き記しています。


それどころか、やまと歌を、「万葉仮名」で書き記すことが、7世紀半ばまでさかのぼる可能性も出てきました。2006年10月に、大阪府・難波宮跡で発見された万葉仮名木簡は、「はるくさのはじめのとし」ということばを、「万葉仮名」で書き記しています。これは、やまと歌の一部と見られています。

一首を「万葉仮名」で表記することの方が、『万葉集』の《文字法》よりも、早く始まっていたと考えられます。やまと歌を、「万葉仮名」で表記することは、木簡というメディアの本質と、深く関わっていたのでしょう。

7世紀半ばから、朝廷は、律令制度を導入し、「日本」全土を、システマティックに統治することをめざしました。その全国規模の行政を担うものが、文字でした。そして、その文字を記し、伝達するための、最も便利な道具が、木簡でした。

木簡は、持ち運び易い上、大量生産も再利用もできました。木材という素材の信頼性も、木簡が好まれた理由かもしれません(木簡に使われた木材の多くは、ヒノキか、コウヤマキと報告されています)。
*この時代に、紙の生産量が少なかったために、木簡が利用された、という説明も行われていますが、なお考える必要がありあます。奈良時代(8世紀)には、1日平均170枚、年間で62,000枚の紙が生産されていたと、推計されています(寿岳文章氏の研究による)。紙が供給できたにもかかわらず、木簡が好まれたことに、注目したいと思います。

そして、701年の大宝律令制定以前には、木簡は、口頭で読み上げられることが、多かったようです。文字による行政を始めたばかりの時期には、文書の内容を確実に伝えるために、木簡を、文書の宛先の行政官に手渡すだけでなく、使者が、木簡に書かれた文章を、口頭で読み上げていたと思われます。

この「読み上げる」ということと、一首を「万葉仮名」で表記することの間に、関わりがありそうです。今後、やまと歌を書き記した、万葉仮名木簡が、具体的に、どのように利用されていたか、について議論を深めてゆくことが、課題となります(既に、栄原永遠男氏らによって、議論が始まっています)。

しかし、「書物」というメディアでは、単に、「読み上げる」ことができる、ということばかりではなく、“文字の歌としての姿”が、求められました。

『万葉集』の中でも、最も早く成立した巻1の編者が、それまで口頭で伝えられてきたやまと歌に、“文字の歌としての姿”を与えるために、思い切った工夫を試みたことは、先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」以下で、紹介しました。歌を暗記していることを支えに、漢語を縦横に用いて、最初の「やまと歌集」を、中国の漢詩文集に匹敵する姿にまで、仕上げようとしました。

巻1の編者も、また巻1の試みを経た後に、安定した《文字法》を手に入れた万葉歌人たちも、一首全てを万葉仮名で書き表すという表記法を、知っていたはずです。しかし、多くの人々は、その表記法を、意識的に、選ばなかったのです。

「書物」としての歌集のあるべき姿、また文字の歌としての、やまと歌のあるべき姿が、彼らには、明確に思い描かれていたと思います。漢字のもたらす視覚的印象を通じて、歌に形を与えてゆくことこそが、標準的な、やまと歌の表記法と考えられていたのでしょう。

もちろん、『万葉集』の中には、一首全体を「万葉仮名」で書き記した歌もありますが、それらは、むしろ少数派です。「中国」に対する「日本」を、強く意識した、大伴旅人・山上憶良たちの歌を収める巻5では、一首全体が「万葉仮名」で書かれています。また、巻14に集められた東歌は、「万葉仮名」で書かれ、東国の方言を伝えようとしています。

そして、一首全体を「万葉仮名」で書き記すという表記法に、最も意欲的に取り組んだのが、万葉末期の歌人・大伴家持でした。巻17以降を、「万葉仮名」で表記しようと試みました。しかし、家持の試みは、挫折を余儀なくされます。

あくまでも漢字の一用法にとどまる、「万葉仮名」には、歌の表記媒体としては、限界がありました。「万葉仮名」から「かな」への間には、実は、大きな飛躍があったのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年 (*日本の文字史を学ぶのに、最良の本)
��.平川南・稲岡耕二・犬飼隆・水野正好・和田萃『古代日本の文字世界』大修館書店、2000年
��.鬼頭清明「木・紙・書風」岸俊男編『日本の古代14 ことばと文字』中公文庫、1996年
��.寿岳文章『日本の紙』吉川弘文館、1967年
��.早川庄八『日本古代の文書と典籍』吉川弘文館、1997年 (*木簡が口頭で読み上げられたことを推測)
��.小谷博泰『上代文学と木簡の研究』和泉書院、1999年 (*木簡が口頭で読み上げられたことを推測)

*なお、難波宮出土万葉仮名木簡の画像は、以下のウェブサイトと見られます。
長原現地説明会
asahi.com

2008年3月7日金曜日

巨勢山のつらつら椿(坂門人足)

椿

光が明るくなり、暖かさが、少しずつ寒さにまさってゆくこの時期、椿の花を目にするようになります。大きな赤い花と、光を照り返す厚手の葉は、春の到来を、実感させてくれます。

『万葉集』巻1には、椿の歌が収められています。

巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎(巻1・54)

巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を
(こせやまの つらつらつばき つらつらに みつつしのはな こせのはるのを)

〔訳〕巨勢山の「つらつら椿」―連なった椿の木々、そして点々と連なって咲く椿の花、つくづくと秋の椿の木々を見て、思い起こそうではありませんか。あの巨勢の春の野を。

題詞(だいし)によれば、この歌が、大宝元年(701)9月(太陽暦10月)に、持統上皇が紀伊国に行幸した時に、詠まれた歌の1首です。

まだ上皇の車駕が、大和国の巨勢(現在の奈良県御所市古瀬)にある時点での歌です。そして、不思議なことに、坂門人足(さかとのひとたり)の、この歌は、今眼前にない、巨勢の野の、春の様子に思いを馳せよう、と歌います。

『万葉集』の旅の歌では、眼前に広がる、美しい情景を讃美するのが、普通です。この歌は、『万葉集』の旅の歌としては、異例と言ってよいでしょう。

この大宝元年の紀伊国行幸では、たくさんの歌が作られています(巻9・1667~1681)。しかし、『万葉集』巻1の編者は、この行幸時の歌を、2首のみ、巻1に取り上げ、しかも、この特異な歌を、最初に挙げました。

それは、巨勢の春野の椿が、持統上皇一行に共通する記憶を、呼び起こすものであったからだと思います。

この歌の第2句の「つらつら椿」は、「列々椿」という文字表記から、直接的には、椿の並木を表すものと言えます。しかし、それだけではないようです。

大宝元年の紀伊国行幸の2首の歌の次に、「或本(あるふみ)の歌」として、次の、春日老(かすがのおゆ)の歌が、後の人の手によって、補われています。

 河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(巻1・56)
 (かはのへの つらつらつばき つらつらに みれどもあかず こせのはるのは)

老の歌は、まさに眼前の、巨勢の春野を、讃美しています。「つらつら椿」という、リズム感あふれることばは、椿の、大きな赤い花が点々と連なって咲くさまと(澤瀉久孝氏『萬葉集注釈』の解釈)、光沢のある葉の繁りを、生き生きと浮かび上がらせるものです。

紀伊国行幸の一行は、老の歌を知っていたことでしょう。そして、人足が、「巨勢山の つらつら椿……」と、一同の前で読み上げた時、これを聞く人々は、老の歌を思い出しながら、つややかな葉の間に、生命力に満ちた、赤い椿の花が、連なり咲くイメージを、心に思い描いたに、相違ありません。

人足の歌の第4句「見つつ偲はな」ということばからは、その椿の花が見られず残念だ、という気持ちは、感じられません。むしろ、巨勢の春野を想像しての、浮き立つような思いが、伝わってきます。

巨勢は、大和から紀伊への通路にある土地ですが、ここから東南に、今木峠(いまきとうげ)を越えると、吉野へ出ることができます。万葉時代には、飛鳥・藤原京方面から、吉野川流域に出るには、5ルートがありました。その中でも、巨勢から今木峠を越え、下市口に出るルートは、距離は最も長いものの、一番負担の少ないものでした(犬養孝氏『万葉の旅』による)。

持統天皇は、在位中に31回、譲位後に2回、吉野に行幸しています。特に、まだ寒さの残る時期の、吉野行幸には、巨勢経由のルートが、選ばれたことと思います。

椿の花の連なり咲く、巨勢の春野は、持統上皇を始めとする、紀伊国行幸の一行が、吉野行幸の時に目にしたことのある風景であったのでしょう。その巨勢の春野に、思いをはせることは、一同が共通に知っている、持統天皇を中心とする吉野行幸の華やぎや、その折の、高揚する心を、思い起こすことでもあったのでしょう。

『万葉集』巻1の編者は、持統天皇の治世の繁栄を想起させる、この歌を、大切な歌と考えたのでしょう。

この大宝元年の紀伊行幸は、大宝令施行後、最初の、そして異例の長期にわたる行幸でした。それは、単なる遊覧ではなく、新しい国家体制の樹立を、紀伊国の神々や、祖先に報告する、重要な行幸であったと思われます。

藤原京を造営し、そして大宝令を完成させ、古代日本を、律令国家に仕上げたのは、持統天皇でした。その新しい時代の幕開けを告げるのに、最もふさわしい歌として、巻1の編者は、この人足の歌を選び、大宝元年の紀伊国行幸時の歌群の、最初に置いたのだと思います。

今年の冬、私は、椿の開花を、今か今かと、待ちかねていました。2月に見る、赤い花は、山茶花ばかり。椿は、光が増し、春の到来が確実に感じられる時期になって、咲き始めました。暖かな光の中の、色鮮やかな花と、光沢ある葉に、紀伊国行幸の人々の心を、改めて実感したように思います。


2008年3月4日火曜日

平安時代に万葉集は読めたか:漢字と「かな」(1)

桂本(大伴旅人餞宴)
(写真=巻物に仕立てた、桂本の複製)

読みやすかった『万葉集』の《文字法》

本来漢字のみで書かれた『万葉集』は、漢字平仮名交じり文に慣れた、私たちには、“読みにくい”ものに感じられます。そして、この“読みにくさ”を克服するために、平安時代に平仮名が発明され、これで和歌を書き記すようになった、と考えがちです。

しかし、果たしてそうであったのでしょうか。

先の記事「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(2)」「万葉集の文字法(3)」で、柿本人麻呂の時代に確立された、『万葉集』の《文字法》の特徴を、見てきました。この《文字法》は、歌の「ことば」一つ一つを、完全に表記するものでは、ありませんでした。

文脈がきちんとたどれるように、文の骨格に関わる助詞・助動詞は、しっかりと表記します。その上で、文脈によって、容易に捉えられる「ことば」は、思い切って表記を省略します。そして、漢字の視覚的印象を前面に打ち出し、歌の「意味」を効率的に伝えようとするものでした。

漢字の読み書きができ、やまと歌の表現に馴染んでおり、その上、何を表記し、表記しないかというルールを習得した人ならば、この《文字法》は、むしろ“読みやすい”ものであったと思われます。

しかも、この《文字法》は、助詞・助動詞については、特定のものは、必ず表記しなければなりませんが、それ以外のものを表記するか、しないかは、表記者個人の裁量に任されていました。

また、どのような漢字を用いるかについても、表記者個人の工夫を加えることができました。先の記事「漢字に託す恋の心」に記したように、8世紀の万葉歌人たちは、漢字に、時には遊び心を込め、時には歌の「ことば」だけでは言い尽くせない情感を、託したりしました。

平安時代でも、漢字に通じ、歌の表現にも馴染んでいる人々には、この《文字法》は、決して“読みにくい”ものでは、なかったのではないでしょうか。

それを示すのが、天暦5年(951)に、村上天皇の命で行われた、『万葉集』の訓読事業です。漢学者兼歌人であった源順(みなもとのしたごう)を中心に進められたこの事業において、約4500首の万葉集歌のうち、4000首以上が(いずれも短歌)、読み下され、平仮名で書き記されたことが、推定されています(上田英夫氏の研究)。

この時の訓読の成果を、よく保存しているのが、桂本(かつらぼん。11世紀半ば、源兼行(みなもとのかねゆき)筆。皇室御物)の訓です。

桂本の訓は、表記されていない「ことば」を、巧みに補い、また二通り以上に読み下せる漢字、文脈や音数律から、適切に読み分け、さらに、日本語の音から離れて、漢字の「意味」を大胆に生かした表記を(例えば、「はる」を『暖』と表記すること。これを「義訓字」と言います)、前後の文脈から、的確に日本語に置き換えています(〔 〕が、桂本の訓。濁点を施した)。

 ・他辞乎繁言痛 〔ひとことをしげみこちたみ〕(巻4・538)
    《接尾語「み」の無表記》
 ・吾背子師遂常云者 〔わがせこしとげむといはば〕(巻4・539)
    《動詞の活用語尾、助動詞「む」、格助詞「と」の無表記》
 ・待月而行吾背子 〔つきまちていませわがせこ〕(巻4・709)
    《動詞の活用語尾。『行』で、「行く」の尊敬体を表す》
 ・留者苦聴去者為便無 〔とむればくるしやればすべなし〕(巻4・532)
    《動詞・形容詞の活用語尾の無表記。『者』で、確定条件を表す。『聴去』は、“行かせる”
     という気持ちを込めた義訓字》

これらの訓は、今日でも踏襲されています。
*「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(3)」で、例として挙げた、天平2年(730)の大伴旅人の送別の宴の歌群(巻4・568~571)についても、現代の研究において確実と認められている訓に、近い読み下しがなされています。
��ただし、桂本から推定される天暦の訓は、平安時代のことばを用いて、平安時代の「和歌」としての姿と調べを与えることを、基本方針としています。そのために独自の訓法も駆使しています。7~8世紀のことばを用いて、その時代のやまと歌として読み下そうとする、現代の訓読では、採用できないところも、もちろんあります。

天暦の訓読以前に、紀貫之が、『万葉集』を読んでいた形跡があります。また村上天皇の命によってなされた天暦の訓は、平安時代における、中心的な、『万葉集』の読み下し方となりますが、この周辺に、天暦の訓とは異なる、さまざまな読み下しが行われていた痕跡も、認められます。

『源氏物語』の「末摘花(すえつむはな)」の巻で、末摘花の零落した様子を描くのに、山上憶良の「貧窮問答歌」(巻5・892~893)を踏まえていることも、指摘されています(鈴木日出男氏)。ただし、「貧窮問答歌」は、『万葉集』の《文字法》ではなく、万葉仮名を多用する表記法で書かれています。紫式部が、何らかの形で、『万葉集』を読んでいた可能性も考えられます。

「漢字が読みにくかったから、平仮名で和歌を記すようになった」と、漢字から「かな」への転換を、実用的な理由によって説明する常識は、再検討する必要があります。また、天暦時代に、『万葉集』の訓読事業が行われたのも、漢字で書かれた『万葉集』が、読みにくくなっていたから、という通説も、考え直さなければなりません。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.水谷隆「紀貫之にみられる万葉歌の利用について」『和歌文学研究』第56号、1988年6月
��.加藤幸一「紀貫之の作品形成と『万葉集』」『奥羽大学文学部紀要』第1号、1999年12月
��.鉄野昌弘「家持集と万葉歌」鈴木日出男編『ことばが拓く古代文学史』笠間書院、1999年
��.鈴木日出男「源氏物語と万葉集」『国文学解釈と鑑賞』第51巻第2号、1986年2月
��.田中大士「平安時代写本の長歌の意識」久下裕利・久保木秀夫編『平安文学の新研究―物語絵と古筆を考える』新典社、2006年 (*平安時代に、長歌が読めたことを明らかにした、最新の研究)


2008年2月29日金曜日

万葉集の文字法(3)

万葉集の文字法
(「万葉集の文字法(1)」に掲げた写真と同じ)

表記のめりはり
��この記事は、「万葉集の文字法(2)」に続きます)

再び、天平2年(730)の大伴旅人送別の宴に戻って、『万葉集』の《文字法》の特徴を見てみたいと思います。

先の記事「万葉集の文字法(2)」では、助詞・助動詞を記すために用いられる「正訓字」(日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字)や、『者』のような「正訓字」に近い万葉仮名が、固定されていることを見ました。

助詞・助動詞という点で言えば、天平2年の送別の歌群の漢字本文を改めて見ると(上の写真)、助詞・助動詞の表記が、しばしば省略されていることに気づきます。

例えば、助詞では、以下です(〔 〕は、現在の訓。下線を引いた助詞の表記が省略されている)。

 ① 立毛居毛 (巻4・568)〈写真3行目) 〔たちもゐも〕
 ② 辛人之衣染云 (巻4・569)〈写真6行目〉 〔からひとのころもそむいふ〕
 ③ 山跡辺君之立日乃 (巻4・570)〈写真7行目〉 〔やまとへきみがたつひの〕
 ④ 野立鹿毛 (巻4・570)〈写真7行目〉 〔のたつしかも〕

①では、並列を示す接続助詞「て」、②では、言うことの内容であることを示す格助詞「と」、③④では、動作の帰着する場所や動作の起こる場所を示す格助詞「に」の表記が、省略されています。

どの場合も、読み下す時には、前後の文脈と、歌の音数律から、省略された助詞を、誤りなく補うことができます。

助詞の表記の省略は、「万葉集の文字法(1)」で紹介した、動詞の活用語尾の無表記と同じように、漢字の視覚的印象を、強く前面に押し出し、歌のことばの「意味」を簡潔に伝えるものとなっています。

しかし、その一方で、大伴旅人送別の宴の歌群にも見えるように、時間の前後関係を示す接続助詞「て」(『而』)、確定条件を表す接続助詞「ば」(『者』)や、詠嘆の終助詞「かも」(『鴨』など)は、決して省略しません。その他、以下の助詞も、表記を省略しません。

 ・動作の対象を示す格助詞「を」
 ・並列関係や共同の相手であることを示す格助詞「と」
 ・経過を表す「ゆ」
 ・出発点を示す「より」「から」
 ・「し」以外の副助詞(「だに」「すら」「さへ」など)
 ・係助詞「ぞ」「なむ」「や」「かも」「こそ」
 ・「そ」以外の副助詞

文の骨格に関わる助詞は、必ず表記するということです。また、詠嘆の表現を、「歌」の本質に関わるものとして、重視していたのでしょう。

このように、必ず表記する助詞が決まっています。ところが、それ以外の助詞については、表記しても、表記しなくてもよいのです。ただし、あくまでも、文脈がきちんとたどれ、それに基づいて容易に読み下せるように表記するという、条件付きですが。

例えば、①の「立(た)ちても居(ゐ)ても」は、『万葉集』の歌に、広く見られる表現です。そして、①の『立毛居毛』の他に、次のような表記が見られます。

  立座妹念 (巻11・2453)人麻呂歌集略体歌
  立而毛居而毛君乎思曽念 (巻10・2294)作者未詳歌

は、『万葉集』の《文字法》が確立する以前の、古い表記法です。一切、助詞を表記しません。「立座」という大づかみな表記は、“立ったり座ったりしても、どうしても相手が思われてならない”、という動作を、視覚的に、ダイレクトに伝えるものです。しかし、いざこれを読み下すとなると、一瞬戸惑います。

①の『立毛居毛』では、『毛』が表記されているために、「たちてもゐても」と読み下すことは、よりも容易です。

は、『万葉集』の《文字法》の範囲の表記ですが、助詞は全て表記しています。「たつ」「ゐ」を、『立』『居』と、「正訓字」で表記し、また活用語尾を一切表記しないという点で、歌の「意味」を伝えることを、なお志向していると言えます。

しかし、助詞全てを表記したために、①よりも、漢字の放つイメージは、弱くなっています。この歌を表記した人は、この歌の、「読み下しやすさ」を、より重視したのでしょう。
*なお、助詞『之』を、わざと丁寧に、たくさん表記することで、一首の音楽性を、視覚化しようとした例もあります。

以上のことは、助動詞についても、あてはまります。

このように、『万葉集』の《文字法》では、助詞・助動詞を表記するか、しないかについて、大きな部分が、表記者の裁量に委ねられています。そこに、個人の志向を反映させたり、創意を働かせたりする余地が、生まれます。

歌のことばの「意味」を鮮明に伝えながら、しかも、比較的容易に、また確実に日本語に読み下せることをねらったのが、①の『立毛居毛』という表記でした。

このフレキシブルな《文字法》を用いて、表記のめりはりを考えながら、歌に、文字の姿を与えてゆくことは、万葉歌人たちにとって、実に楽しい作業であったと思われます。そして、平安時代の歌人たちは、この楽しさを、、あえて捨て去って、平仮名によって、「和歌」を表記する道を、選び取るのです。

【『万葉集』の《文字法》】(今まで述べてきたことをまとめておきます)
��1) 動詞の活用語尾は、原則的に表記しない。
��2) 助詞・助動詞を記すために用いられる「正訓字」や、「正訓字」に近い万葉仮名は固定されている。
��3) 特定の助詞・助動詞については、表記を省略できない。それ以外の助詞・助動詞は、表記しても、表記しなくてもよい。
��4)
① 「正訓字」で書けるところを、万葉仮名や「借訓字」で表記したり、
② 一般的な万葉仮名で書けるところを、特殊な万葉仮名や、「借訓字」で表記したり、
③ 書かなくともよい活用語尾を、前後の文字との関わりで、表記したりする。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年


謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(予告)

日中書法の伝承展

中国の新出文字資料と日本の名筆

2008年3月13日(木)から3月22日(土)まで、東京美術倶楽部3F・4Fにて、謙慎書道会の主催する、謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展が開催されます。

 後援:文化庁、中国大使館、読売新聞社
 企画協力:東京国立博物館
 入場:10時~18時
 入場料:1000円(前売り800円)

青山学院大学日本文学科合同研究室入口に貼られたポスターに、心引かれて、どのような資料や作品が展示されるのか、謙慎会事務局に問い合わせました。事務局の特別の御厚意で、会場で配布されるガイドブックを送っていただきました。

カラー写真を数多く使ったガイドブックを目にして、駭嘆を禁じ得ませんでした。

中国の文字資料としては、殷墟出土甲骨、西周代の小克鼎(以上は、日本の諸機関で所蔵)など、東アジアにおける、文字の誕生と発展を知る上で、重要な資料が展示されます。また、唐代書写の『説文』口部の残簡をはじめ、刻石、拓本、蘭亭序、明・清の名筆、篆刻の展示もあり、中国書道史・文字史の流れを見渡すことができます。

特に注目したいのは、今回、中国から出品される、湖南省出土の木簡40点です。木簡の限られたスペースに、どのように文字を記すかということに、以前から関心を持っています。ガイドブックを見ると、篆書、隷書の他に、草書の木簡もあります。木簡のスペースと、草書の関係を、是非見てみたいと思います。

その他、敦煌研究院所蔵(青山杉雨氏旧蔵)の敦煌文書13点の、再来日もあります。

日本の作品では、「かな」の早い資料である、伝西行筆「仮名消息(延喜式紙背)」(11世紀初)、そして伝藤原行成筆「関戸本古今和歌集」断簡、伝藤原定実筆「筋切」、伝藤原行成筆「針切」、伝藤原公任筆「石山切(伊勢集)」などの、平安時代を代表する名筆を中心に、約50点が出品されます。

私が、もっとも興味を引かれるのは、伝小野道風筆「継色紙」です。『万葉集』巻13の歌を、「かな」で記した断簡が展示されます。

 〔万葉集漢字本文〕明日香河瀬湍之珠藻之打靡情者妹尓因来鴨 (巻13・3267)
 〔現代の読み下し文〕明日香川 瀬々の玉藻の うちなびき 心は妹に 寄りにけるかも
      (あすかがは せぜのたまもの うちなびき こころはいもに よりにけるかも)
   〔訳〕明日香川の瀬々の玉藻が靡くように、私の心は、すっかりあなたに靡いてしまった。

 【継色紙】あすかゝは せゝのたまもの うちなひき こゝろはに よりにしものを

『万葉集』の、平安時代・鎌倉時代の古写本でも、〔現代の読み下し文〕とほぼ同じように、読み下しています。ところが、「継色紙」の本文は、漢字本文から、大きくはずれています。これは、単なる誤写ではなく、「書物」としての「継色紙」の性格と、深く関係しているはずです(平安時代の万葉集訓読の性格については、小川『萬葉学史の研究』をご参照ください)。

「継色紙」独特の、空間の構成の仕方を、実際に観覧しながら、この問題について、思いをめぐらしたいと考えています。

今年の3月は、文字、書、書物に関わる、充実した展覧会が、次々と開催されます。心が躍ります。


*ガイドブックをお送りくださった、謙慎書道会事務局の格別の御厚意に、心より御礼申し上げます。

2008年2月27日水曜日

第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)

古典かなの美展

「かな」と書物の歴史を示す名筆・希覯の書

2008年3月27日(木)から4月1日(火)まで、渋谷・東急本店7階特設会場にて、財団法人・日本書道美術院の主催する、第43回秀華書展特別資料展示「春敬コレクションによる 古典かなの美展」が開催されます。

 協力:社団法人・書芸文化院「春敬記念書道文庫」
 後援:毎日新聞社
 入場料:一般・大学生 600円/ 高校・中学生 300円
 入場:11時~18時30分(19時閉場) 最終日の入場は、16時まで(16時30分閉場) 
 *この期間に、渋谷・東急本店7階特設会場と8階工芸ギャラリーにて、第43回秀華書展が
 開催されます。

インターネットで、この展示会の情報を得て、どのような作品が展示されるかを、財団法人・日本書道美術院の事務局に問い合わせましたところ、本当に驚きました。

社団法人・書芸文化院「春敬記念書道文庫」収蔵品を中心に、名筆と稀少な断簡が、30点も展示されることがわかりました。「春敬記念書道文庫」は、書家で、国文学・美術史・書道史の研究者であった、飯島春敬(いいじま・しゅんけい)氏が、生涯をかけて蒐集された、貴重な書道資料を収蔵しています。

今回の展示では、平安中期の伝藤原行成筆「関戸本古今集切」から、藤原俊成筆「顕広切」、藤原定家筆「三首詠草懐紙」を経て、江戸初期の本阿弥光悦筆「色紙」に至る作品が展示されます。日本の書の歴史を見渡す絶好の機会です。

「かな」が中心となりますが、『和漢朗詠集』の断簡(大字切、伊予切、太田切)も展示される予定です。漢字と「かな」の絶妙なコラボレーションも、見逃せません。

また、料紙装飾や、紙面の構成の仕方などについても、多くの情報を得ることができるでしょう。とりわけ伝後京極良経筆「豆色紙」のような、縦7.8㎝、横7.3㎝という、極めて小さい『拾遺和歌集』の断簡は、日本の書物の歴史を知る上での、貴重な資料であると思われます。
*寸法は、小松茂美氏編『日本書道辞典』(二玄社、1987年)によります。

その他、稀少な、伝宗尊親王筆「催馬楽切」、伝寂蓮筆「カタカナ古今六帖切」などは、書としてももちろん、古典文学の本文研究の点からも、非常に興味をかき立てられるものです。

そして、『万葉集』の、平安時代の古写本、元暦校本(11世紀後半写)巻第11、天治本(12世紀前半写)巻第10の断簡も展示されます。展示されることの少ない、『万葉集』の、平安時代の古写本の実物を、観覧できる貴重な機会の到来です。

展示会の開催を、待ちわびています。

*展示される作品についてお知らせくださった、財団法人・日本書道美術院事務局の格別の御厚意に、心より御礼申し上げます。


青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば』

『文字とことば』

漢文からの自立のための苦闘
��青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年5月刊、A5判、162頁)

このところ、このブログに掲載している「漢字に託す恋の心」「万葉集の文字法(1)(2)」の記事は、本書『文字とことば―東アジアの文化交流―』に収めた、私の論文「萬葉集の文字法」に、基づいています。論文のままでは、わかりにくいところを補ったり、ブログには掲載しにくいデータを、省略したりしています。また、この論文で割愛した問題についても、今後の記事で、紹介したいと思っています。

本書は、2005年3月12日(土)に開かれた、国際学術シンポジウム「文字とことば―古代東アジアの文化交流―」(青山学院大学文学部日本文学科主催)の基調報告を、論文集としてまとめたものです。

古代東アジアの研究は、中国と日本との関係、中国と高句麗・百済・新羅などの朝鮮半島の国々との関係の考察に、力点が置かれてきました。しかし、このシンポジウムでは、中国以外の国々の間の、文化交流―特に「文字」―に、光を当てることをめざしました。

シンポジウムには、企画・立案をした矢嶋泉氏(日本文学)を中心に、歴史学・韓国語学・日本語学・日本文学の研究者が集いました。日本と古代朝鮮半島の国々は、公式の文字言語として、東アジア世界の中心である、中国の漢字・漢文を、否応なく受け入れなければなりませんでした。このシンポジウムを通して、それぞれの国々が、それぞれの「ことば」に即した、文字言語を獲得するために行った苦闘の痕が、鮮明に浮かび上がりました。

日本の片仮名の起源が、経典に新羅語を書き入れる時に用いられた、省画体にある可能性が示されました(小林芳規氏)。「文字」に関する、日本と、古代朝鮮半島の国々の近さが、今まで以上に、明らかになったと言えます。

また、日本では、9世紀に、平仮名が、「文字」として、漢字・漢文から独立するのに対して、古代朝鮮半島では、「文字」の独立が、15世紀を待たなければなりませんでした。その歴史的条件の違いについても、議論が及びました。

本書『文字のことば』には、基調報告全体を見通す総論が、新たに加えられています。またパネリストの論文も、基調報告に、当日の議論を踏まえた加筆が施されています。「文字」という、一見地味なテーマでありながら、シンポジウム当日には、予想を越えた多数の方々に、御来場いただきました。本書は、その熱気を伝えるものとなっています。

【目 次】
はじめに
和文成立の背景(矢嶋泉)
古代東アジアの国際環境(佐藤信)
韓国の古代吏読文の文末助辞「之」について(南豊鉉 NAM PUNG-HYUN)
文字の交流―片仮名の起源―(小林芳規)
古代日本の漢字文の源流―稲荷山鉄剣の「七月中」をめぐって―(安田尚道)
萬葉集の文字法(小川靖彦)
かな文学の創出―『竹取物語』の成立と享受に関する若干の覚書―(高田祐彦)
あとがき

��論文集という形になっていますが、できるかぎり、わかりやすい記述を心がけています。
*本書は、一般の流通経路には乗っていません。青山学院大学文学部日本文学科主催の国際学術シンポジウム開催時に、会場にて販売されます。残部がありますので、次回開催の国際学術シンポジウム以前に入手されたい方は、青山学院大学文学部日本文学科合同研究室にお問い合わせください(ただし、日本文学科合同研究室は、2月中は閉室です。3月に開室しますが、水曜日・金曜日のみの開室となります)。
��「文字とことば」より後の、青山学院大学文学部日本文学科主催の国際学術シンポジウムの成果は、「新典社選書」として刊行されています(『源氏物語と和歌世界』『海を渡る文学』)。本書『文字とことば』も、流通経路に乗る書物として、改めて刊行する案も出ていますが、今のところは、具体的なアクションは、何も起こしていません。


2008年2月26日火曜日

万葉集の文字法(2)

万葉集の文字法2

文字の固定
��この記事は、「万葉集の文字法(1)」に続きます)

『万葉集』の《文字法》が、文字を、歌の「ことば」一つ一つに対応させるものではなく、文脈に依存しながら、歌に形を与えるものであることを、先の記事「万葉集の文字法(1)」で紹介しました。

先の記事では、動詞の活用語尾が、原則的に表記されないことを見ました。そして、『近付者』(巻4・570)を手懸かりに、『万葉集』の《文字法》で書かれた歌が、具体的に、どのように読まれていたか(読み下されていたか)を、推測しました。

さらに、この《文字法》の特徴を、挙げてみたいと思います。

『近付者』(巻4・570)が、逐語的に読み下すことができないことは、動詞の活用語尾の無表記によることを言いました。これは別の面から言うと、助詞・助動詞の表記の仕方の問題でもあります。

『近付者』の場合、接続助詞「者」が、仮定条件を表す場合と、確定条件を表す場合とで、明確に書き分けられていたならば、より簡単に読み下すことが、できるでしょう。しかし、そうなっていませんでした。

『万葉集』の《文字法》では、『者』や、先の記事で触れた『雖』(助詞「とも」・「ど」・「ども」に用いられる)の他に、次のような文字が、異なる助詞や、異なる助動詞を、受け持っています(これらは、「正訓字」〈日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字〉)。

  之(「の」・「が」)  従(「ゆ」・「より」)  将(「む」・「なむ」・「てむ」・「らむ」・「けむ」)
  不(「ず」・「じ」)


どの助詞・助動詞に読み下すかは、文脈によって決まります。これらの文字そのものからは、決定できません。

同じ『不』の文字が、時には「ず」(打消し)、「じ」(打消しの推量〈~シナイダロウ〉、または意志〈~シナイツモリダ〉)を表すことは、一見不便そうに思えます。しかし、歌を書き表すという点からすると、一つ一つの「ことば」に即して、細かく文字が区別されていない分、効率的に表記することができ、視覚的印象も簡潔なものとなります。

それだけではありません。写真の、8世紀の女流歌人・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌では、『不』を、打消しにも、打消しの意志にも用いることが、文字の上で、歌に生き生きとした表情も与えています。

 将来云毛不来時有乎不来云乎将来常者不待不来云物乎 (巻4・527)
 来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを
 (こむといふも こぬときあるを こじといふを こむとはまたじ こじといふものを)
 〔訳〕「来よう」と言いながら来ない時もあるのに、「来ない」と言っているのを、来るだろうと
  待ったりするなどという、馬鹿なことはいたしません。「来ない」と言っているのに。


この歌は、その頃、郎女の恋人であった、藤原麻呂(ふじわらのまろ。不比等の四男)に贈ったものです。「来じ」(来ないつもりだ〔今日はあなたのもとには行かない、の意〕)と言ってきた麻呂に対して、「来る」を繰り返しながら、今までの不実な分も加えて、言い返しています。拗ねた心を、笑いに包んで、相手に叩きつけるという、したたかな歌です。

『不来』の多用は、相手の不実さを、目に見える形で強調しています。その上、4回も用いられる『不』は、相手に、『不』と、拒否的感情を突きつけるような印象さえ与えます。「ず」と「じ」を、丁寧に書き分ける表記法で書かれていたならば、この歌独自の諧謔味は、半減することでしょう。

『不』が「ず」も「じ」も受け持つという《文字法》が、生み出した効果ですが、坂上郎女も、この効果を、十分に意識していたと思います。第2句を、『来奴時有乎』と表記することも、できないわけではありませんでした。
*打消しの助動詞「ず」を表す文字は、常に『不』でなくてはならない、ということではありません。

『万葉集』の《文字法》では、助詞・助動詞を、多用な文字によって書き分けるのではなく、ある程度固定した文字によって表記することが、行われたのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、1990年 (*第1編第9章の「坂上郎女の方法」は、大伴坂上郎女の歌に見られる、理知と諧謔、そして内省を、鮮やかに論じています)