2007年12月31日月曜日

村永清(仙覚万葉の会会長)企画・編『おがわまち万葉の歌めぐり』

おがわまち万葉の歌めぐり

万葉集と小川町への思いの結晶
��村永清企画・編『おがわまち万葉の歌めぐり』NPO法人仙覚万葉の会、88頁、2006年2月刊)

鎌倉時代の学僧・仙覚(せんがく)が、最初の本格的な万葉集注釈書を完成させた、埼玉県小川町の地で、『万葉集』に関する、新しい本が誕生しました。

68首の万葉秀歌に、簡潔な解説を加え、写真も添えた、手のひらサイズの美しい本です。写真は、全て小川町に関わるものです。

奈良の都から、はるかに遠い関東の風土の写真であるのに、1枚1枚の写真を見ていると、『万葉集』の世界が、心の中に広がってきます。

それは、1冊全体を貫く、『万葉集』への深い思いと、小川町への強い愛情が可能にした、奇跡と言えます。本書は、NPO法人仙覚万葉の会の、村永清さん、中谷功さんが先頭に立って、小川町の皆さんが、自分たちの力でまとめ上げたものです。

今、本書に取り上げられた68首の万葉秀歌を記した、「万葉モニュメント」(歌碑)が、、小川町のメイン・ストリートなどに建てられています。読者は、本書をポケットに入れて、緑と水の美しい、和紙の里・小川を訪れたくなるに違いありません。

私も、本書冒頭に、仙覚の和歌11首を紹介しました。理知と情緒が一体になって、独特の、冴え渡る世界を作り上げた仙覚の歌も、是非味わってみてください。


 昆陽の池の 葦間の水に 影冴えて 氷を添ふる 冬の夜の月
 (こやのいけの あしまのみづに かげさえて こほりをそふる ふゆのよのつき)

 〔訳〕昆陽の池の、葦の繁みの間々の水に、澄んだ白い光が映って、あたかも氷をそこに添えたかのように見せている冬の夜の月よ(昆陽の池は、摂津国の歌枕。今の兵庫県伊丹市の南部から尼崎市の北部にかけての一帯にあった池。奈良時代の僧・行基が造ったとも言われる)。


【目 次】
一 はじめに
二 仙覚万葉の里と散策のみち
三 万葉の時代区分と著名歌人
四 仙覚律師の和歌
五 万葉モニュメント
六 万葉モニュメントの選歌基準と選歌の経緯
七 おわりに


*本書は、流通経路に乗らない本でしたが、2007年で既に在庫切れとなっています。国立国会図書館、埼玉県立図書館、小川町立図書館で見ることができます。青山学院大学の私の研究室にも、置いてあります。
*村永さん、中谷さんのもとに、再版を切望する声がたくさん届いています。

2007年12月25日火曜日

青山学院大学情報(授業予告)

2008年度に、「万葉集と古代の巻物」というテーマに関連して、私は、次のような授業の開講を予定しています(ともに、渋谷の青山キャンパスにて開講)。

■「日本書物史における元明朝」(大学院・上代文学演習)〔金曜日午前。対象=大学院生〕

『万葉集』巻1・2の増補、『古事記』の完成、『風土記』編纂の下命、『王勃詩序(ほうぼつしじょ)』(正倉院蔵。継色紙に書かれた、初唐の詩人・王勃の序文集)の製作、長屋王による『大般若経』(600巻)の書写などが行われ、染織担当の官司も本格的な活動を開始し、日本古代の書物文化が一挙に花開いた、8世紀初頭の元明(げんめい)女帝の時代について、総合的に考察します。

■「古代書物の調査・研究」(学部・日本文学演習)〔火曜日午前。対象=3、4年生〕

巻子本の特質と歴史、またその調査方法について、画像や複製本を使いながら、具体的に解説します。その上で、受講者自身が、青山学院大学の所蔵する、日本古代の書物の複製本を、詳しく調べます。自分の目で見、自分の手で触れながら、巻子本の調査・研究の方法を、実践的に身に付けてもらいます。
1000年の時を経てきた、貴重な古代の仏教経典の断簡(実物。青山学院大学蔵)の調査も行う予定です。

青山学院大学


青山学院大学情報(入試)

私の所属する、青山学院大学の学生募集についての情報を、お知らせします。

��1)青山学院大学大学院文学研究科日本文学・日本語学専攻
(*詳細は、青山学院大学大学院入試・入学案内ホームページ参照)
①募集: 博士前期課程(秋入試・春入試〈今回〉あわせて6名)、および博士後期課程(2名)
②出願: 2008年1月11日(金)~16日(水)
③筆記試験・面接: 2008年2月22日(金)
(*2008年度入試から、筆記試験と面接を1日で行います)
④合格発表: 2008年3月1日(土)
※青山学院大学・大学院生・卒業生も、他大学・大学院生・卒業生も、全く同じ資格で受験できます。

(2)青山学院大学文学部日本文学科科目等履修生
(*詳細は、青山学院大学入試・入学案内の「科目等履修生」の項目参照)
①募集: 社会人等若干名(受験資格については、「募集要項」参照)
②出願: 2008年3月6日(木)・7日(金)
③選考日: 2008年3月13日(木)
④合格発表: 2008年3月17(月)


2007年12月23日日曜日

敦煌の竹

幡
(写真=スーザン・ウィットーフィールド博士の著書から。右が幡)

先の記事「竹の文化と巻物」で、竹の生育しない敦煌で発見された巻物に、竹の発装が、しばしば見えることを紹介しました。

多数の貴重な写本が発見された、敦煌・莫高窟の第17窟からは、写本の発装以外にも、加工された竹が、いくつか見つかっています。

それらは、現在、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に保管されています。その中には、博物館番号 LOAN:STEIN.481:1to3 の3本のように(Museum Number のボックスに LOAN:STEIN.481:1 と入力してください)、細く(最も長いもので、幅6㎜)、薄いものもあります。
(*ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の画像では、これらの厚さはわかりませんが、実際に調べてみたところ、敦煌写本の発装の厚さに近いことがわかりました。)

これらは、その長さ・幅から、巻物の発装ではないと思われます。あるいは、幡(ばん。旗)のような、仏教儀礼で用いられる用具の、一部であった可能性があります。

巻物に限らず、仏教文化に関わる、さまざまな要具を通じて、中国南方の竹の文化が、北方の砂漠地帯の敦煌に伝わっていたことが窺えます。

敦煌写本の巻物自体を詳しく研究することにあわせて、第17窟の遺物全体を見据えながら、巻物の装丁の、材料の供給源や技術など研究することも、今後重要な課題となるに相違ありません。


2007年12月20日木曜日

『文字のちから』書籍版

文字のちから(書籍版)


「文字のちから」、再び
��国文学編集部編『文字のちから』学燈社、2007年12月刊、194頁、1,890円〈税込〉)

今年8月に、雑誌『国文学』臨時増刊号として出版された「文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―」が、このたび、書籍として刊行されました(私の論文や翻訳も収めています)。

雑誌の時にも、一時在庫切れになるほど、好評を得ました。書籍となって、多くの読者の目に留まることを、心から願っております。

本書『文字のちから』は、日本文学に関する基礎的研究(写本・刊本に関する研究)の、分厚い研究の蓄積を踏まえながら、「文字」や「書物」の本質と歴史を考察したものです。

『万葉集』『源氏物語』から三島由紀夫にいたるまでの、日本を代表する文学作品について、「文字」や「書物」という視点からの、最新の研究も収録しています。「書物」としての、日本の文学作品への、わかりやすい手引きとなっています。

さらに、古筆学、国語学、文化史、書物史、写経研究、敦煌研究、美術工芸史、修復などの諸分野の、国内外の研究者や修復家たちが、それぞれに、「文字」や「書物」への道案内をしています。

私たちは、普段、文学作品を活字で読んでいます。しかし、写本や手稿の、手書き文字にまで立ち戻ると、活字からは想像もつかないような、生き生きとした、作者や書写者の息遣いが浮かび上がってきます。本書は、それを具体的に示しています。

そして、「古典」が、決して、命なき静止したものではなく、書写される度に、新たな命を得てゆく“生きもの”であることがわかります。

また、日本文化の基礎に平仮名があることは、誰もが考えることです。それでは、「平仮名」とは、どのような文字なのでしょうか。本書によれば、「平仮名」は、単に日本語の音を表すだけでなく、多様な字母・字形を併用したり、余白の美を重んじたりするなど、装飾性をその本質とする文字です。音節文字としては、極めて特異なものなのです。

(*本書に収められた論文の一つは、中世の古活字において、この「平仮名」の美と、活字の論理を両立させるために試みられた、目を見張るような工夫を、鮮やかに跡付けています。)

今日、ワープロ、パソコン、携帯電話が、急激に普及する中で、手書き文字の力強さが見直されています。今年一年の間に、多くの手書き文字関係の本が出版されましたが、本書は、古典の写本や、近代文学作品の手稿という、豊かな遺産と、その手堅い研究の蓄積があることとを、改めて、私たちに思い出させてくれます。

加えて、本書には、古筆学という新しい研究分野を打ち立てた、小松茂美先生のインタビューも収められています。研究と人生が一体となった、60年の歩みには圧倒されます。それだけに、小松先生の、現代の文字についての危機感の表明は、大変重いものがあります。

また、かつてないほどに、思い切って「国文学」に踏み込んで発言をされた、書家・石川九楊氏のインタビューも読み応えがあります。

2世紀から21世紀まで、営々と培われてきた、日本の文字文化と書物文化に、真正面から取り組んだのが、本書です。


【目 次】
〈インタビュー〉文字とはなにか―日本の文字文化を通じて(石川九楊)

文字の刻む歴史
政治システムとしての漢字(矢嶋泉)
かなの空間(文字と余白)―「香紙切」筆跡分類の場合(高城弘一)
古活字版のタイポグラフィー(鈴木広光)
梵字の宇宙(松枝到)
〈インタビュー〉古筆学に生きる(小松茂美)
〈エッセイ〉天恵―『万葉集』の文字との五十年(稲岡耕二)

写本の魅力と研究課題―古典をより深く味わうために
萬葉集―漢字とかなのコラボレーション(小川靖彦)
古今和歌集―定家と書写(浅田徹)
源氏物語―二つの源氏物語の相剋(定家本と河内本)(新美哲彦)
平家物語―共存する複数の「平家物語」(佐伯真一)
奥の細道―未完の古典(芭蕉の推敲)(金子俊之)
近代文学の手稿―三島由紀夫の場合(井上隆史)(*新資料紹介あり)
〈エッセイ〉写本との出会い(井上宗雄)

文字と写本を味わうための手引き
筆記具(小松大秀)
和紙と筆触―装幀に使われている書写料紙(吉野敏武)
敦煌写本とそのデジタル化・保存―国際敦煌プロジェクト(IDP)の活動(スーザン・ウィットフィールド)
奈良朝写経の字すがた(赤尾栄慶)
かなの字母とその変遷(矢田勉)
古筆切の世界(佐々木孝弘)
書物研究の学際的好機(レズリー・ハウザム)
グーテンベルクの活字を巡って―デジタル技術とHUMIプロジェクトについて
保存修復と修復家の私考(中塚博之)
図書館・美術館・博物館・文庫案内(五月女肇志)


【お詫び】
*私の論文「萬葉集―漢字とかなのコラボレーション」中に、2箇所の誤植があります。ご訂正いただければ、幸いです。
89頁下段 図2 翻刻1行目 (誤)ひとゝとをしけみ  (正)ひとことをしけみ
89頁下段 図3 翻刻2行目 (誤)こゝろはかりせき  (正)こゝろはかりはせき


竹の文化と巻物

発装
(写真=現代の巻物の表紙・発装・紐。発装は表紙の布に包まれています)

発装が示す巻物文化の形成と伝播

巻物の表紙の端には、表紙の破れやめくれを防ぐために、「発装(はっそう)」といわれる、細長い竹、または木を、貼り付けます。「」も、「発装」に巻き付けて、固定します。

この、表紙の端の、小さなパーツから、巻物文化に関する興味深い事実を、読み取ることができます。

敦煌写本の発装は、木製と言われていましたが、実際には、数多くの竹製の発装の例を見ることができます。竹を発装に用いることが普通である、日本の巻物を見慣れた目からすると、これは、当たり前のことのように見えます。しかし、そうではありません。

竹が生育できるのは、年間の平均気温が10℃以上で、最寒月の平均温度がマイナス1℃以上の地域です。また竹が、天然更新(無性繁殖)によって生育を維持するためには、年間で1000㎜以上の降水量が必要です。特に温帯地域では、1ヶ月に100㎜以上の降水量が、年間で最低2ヶ月必要となります(以上は、内村悦三氏によります)。

敦煌では、夏の暑さは40℃を越して厳しいものの、冬はマイナス20℃に達し、また、雨は年に1、2回で、年間降水量は40㎜に止まり、さらに、間断なく、激しい西風が吹きつけます(池田温氏・大橋一章氏によります)。このような敦煌では、竹は育ちようもありません。

敦煌で発見された写本に、竹製の発装を数多く見ることができるということは、驚くべきことです。それは、①写本自体が、中国の中央部で製作されたものであること、または②敦煌で製作された写本であるとするならば、発装用の竹を、わざわざ中国南部から入手していたことを示しています。

もちろん、しなやかで強い竹は、発装の素材として、いかにもふさわしいものです。しかし、敦煌、さらに隋・唐の都のあった長安などで、もっと容易に手に入れることができる、適当な木材も、あったかもしれません。竹こそが、巻物の発装としてふさわしい、という意識が、巻物を製作する人々の間に、根強く存在していたように思われます。

(*内村悦三氏の「世界の竹の天然分布と生育型」の図では、長安(現・西安)は竹の生育地域からは、はずれています。)

「竹海」ということばがふさわしいほどに、竹が繁茂し、竹資源に恵まれた、中国南部では、豊かな竹の文化が育まれました。巻物の発装に竹を用いることも、南北朝時代(5~6世紀)、江南地方に都を置いた南朝において、確立された装丁形式であったのでしょう。

この装丁形式が、北朝に、また北朝から出た隋、これを継いだ唐の都・長安に、さらに、遠く、北方の砂漠地帯のオアシス都市・敦煌にまで及んだのです。

東方の古代日本も、この装丁形式を、意識的に踏襲したと考えられます。日本には、その気候・風土が、竹の生育に適しているという好条件もありました。

敦煌写本に見られる、数多くの竹の発装は、この装丁形式が、規範として、いかに尊重されていたかを示しています。そして、あるいは、竹の発装には、江南地方で花開いた文化への憧憬も、込められているのかもしれません。


*敦煌写本の発装に竹が用いられていることを、その頃、北京で仕事をしていた、かつての勤務先の大学の卒業生に話したところ、「竹の採れない北京では、絵に描いて、建物の壁にかけています。それは竹への強い憧憬を表現したものだと思います」ということでした。

[主な参考文献]
��.内村悦三編『竹の魅力と活用』創森社、2004年
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.大橋一章『【図説】敦煌 仏教美術の宝庫莫高窟』ふくろうの本、河出書房新社、2000年
��.〈DVD〉中国文化交流中心企画・制作『Oriental Bamboo Country 東方竹国』A TV Documentary、コニービジョン発売、コニービデオ販売、2003年


2007年12月16日日曜日

巻物用語事典(1)

巻物用語

巻子本各部の名称

��日本語の用語は、もっともわかりやすいものを掲げました。
��〈  〉は別称、〔  〕は中国語、[  ]は英語。
��#を付けたものは、IDP(国際敦煌プロジェクト)のデータベースで、敦煌写本の検索をする際に用いられている用語。

表 紙(ひょうし) 〈褾紙〉〔褾、首、包頭〕[Cover]
■巻首を保護する紙、または布。
紙の場合は、本紙より厚手の紙、または二枚重ねにした紙を用いた。仏教経典などの正式な書物では、多くの場合は、黄色に染められた。紫、紅、紺、縹、緑などに染めたもの、さらに金銀を散らしたものなど、極めて装飾性の高いものも作られた。布の場合は、羅、綾、錦が用いられ、後には緞子(どんす)も用いられた。

表紙は、当初、本紙を保護する機能的なものであったが、後には、一種の美術工芸品に発達した。
 

発 装(はっそう) 〈八双、押え竹〉〔天杆〕[#Stave, Retaining Rod]
■表紙のめくれや破れを防ぐために、その端に貼り付けられた細長い竹、または木。
敦煌写本では、竹と木の両方の例が見られる。日本では、ほとんどの場合、竹が用いられた。
早い時期の敦煌写本では、発装は、太く、表紙からはみ出していることもあったが、やがて非常に薄く、目立たない、しかし丈夫なものとなった。


(ひも) 〈巻紐、巻緒〉〔帯〕[#Braid, Band, Ribbon]
■巻子本を、くくるもの。
発装の中央付近の、本紙側に、切れ込みを入れて、これを通して発装に巻き付ける。巻き付け方には、いくつかのパターンがあった。

①絹の織紐(細長い織物。さまざまな色の糸で織られたもの、単色のものがある)、②色鮮やかに染めた絹布を袋状にして紐としたもの、③組紐が用いられた。

紐の種類・強度・色などは、その巻子本がどのように扱われていたかを知る、重要な手がかりである。時代を遡るほど、現存する紐の例は少ない。奈良時代の遺品は、ごくわずか。


外 題(げだい) 〔外題〕[Title, Cover Title]
■表紙の外側の端に書いた題(書名と第何巻かを書く)。
本文より大きな文字で書く。正式な書物の場合は、能筆の、「題師」と言われる専門家が書いた。

敦煌写経や奈良朝写経では、多くの場合、外題は、表紙に直接書かれた。後には、小さな細長い紙、または布(これを「題簽(だいせん)」という)に、外題を書いて、貼り付けるものも現れた。敦煌写経にも、紫紙の題簽に、金字で外題を書いた例が見える。


見返し(みかえし) [Endpaper, 絵: Frontispiece]
■表紙の内側の面。
当初、表紙の内側は、何も手が加えられなかったが、やがて、外側同様に黄色に染められ、さらに、外側の黄色、本紙の黄色との調和も考えられるようになった。

装飾性の高い巻子本では、見返しに、さまざまな装飾が施されたり、絵が描かれたりした。当初、余剰の空間であったものが、美意識を最も発揮させる空間となった。


本 紙(ほんし) [Paper]
■本文を書くために用いる紙。
正式な書物では、黄蘗(きはだ)で染めた麻紙(まし)を用いた。装飾性の強い巻子本では、紫、紅、紺、縹、緑などに染めた紙を用いたり、さまざまな色の紙を継いだり、金銀を散らしたり、下絵を描いたりした。

正式な書物では、紙一枚の縦・横の規格が定まっていた。

紙の継ぎ方は、巻首側を上とする(右手前)。糊代は、2~3mm。また紙数は、奈良朝写経では、20枚を標準としていた。


内 題(ないだい) 〈巻首題〉 〔内題、首題〕[Title of the Chapter]
■本文の最初に書かれた題(完全な書名と、何巻かを記すのが原則)。
本文の最初の1行を空けて書く。

なお、これに対応して、本文を書き終わった後に、1行空けて、「尾題(びだい)」を書く。内題(巻首題)を繰り返すのが、普通であるが、省略した形で記す場合もある。

正式な書物では、内題、尾題ともに、本文と同じ高さで書いた。後に、正式な書物以外では、内題、尾題を、本文よりも高く、または低く書くものも現れた。


界線(かいせん) 〈界〉〔辺または闌(四周の線)、界(中間の線)、辺準、解行、烏絲欄、朱絲欄〕[Guideline]
■本紙に、本文を書くために引かれた罫線。本紙の上部と下部に引いたものを「横界線」、その間に縦に引いたものを「縦界線」という。
上部の界線と下部の界線の間の寸法を、「界高(かいこう)」といい、隣り合った、縦の界線の間の寸法を、「界幅(かいふく)」という。正式な書物では、界高は、20㎝前後、界幅は、1.8~2.0㎝程度となる。この寸法は、木簡1枚の大きさを踏襲していると考えられている。

界高・界幅の寸法は、巻子本の種類や年代によって微妙に変化する。

多くの場合、界線は墨で引く。早い時期の巻子本では、濃い墨で、太く、おおらかに引いているが、後には、薄墨の、極めて細い線で、正確に、しかし目立たぬように引くようになる。

界線は、本紙が継がれた後で引かれた。

正式な書物では、界線を引くのが原則。それ以外の書物では、これを省略することもあった。平安時代以降の、日本の歌集の写本では、界線は次第に引かれなくなる。


(じく) 〔軸〕[Roller]
■表紙・本紙を巻きつけるために、本紙末尾に貼り付けられた木の棒。日本では、多くの場合、杉や檜を用いた。

早い時期の敦煌写本の軸は、1本の棒で、その全体、または両端を、赤、または黒の漆で塗っている(これを「棒軸」という)。小刀で削って、粗く円柱形にしたものもある。

巻子本が装飾性を強めるにつれ、軸棒(軸木)の両端に、「軸端(じくばな)」(「軸頭」(じくがしら、じくとう)とも)を嵌め込んだタイプの軸も現れた。

「軸端」には、紫檀(したん)、黒檀(こくたん)、花櫚(かりん)、白檀(びゃくだん)など、東南アジア産の、表面の美しい木材や、ガラス、瑪瑙(めのう)、水精(すいしょう)、瑠璃(るり)、金銅などが用いられた。奈良朝写経には、油に、赤、または白の絵具をまぜて塗った、「密陀軸(みっだじく)」も見られる。小さな「軸端」に、中国(そして日本)と東南アジアの交易の歴史を窺うこともできるのである。

さらに紫檀に、他の木材や螺鈿(らでん)を嵌め込んで文様を表したもの、草花などの絵を描いたものもある。

「軸端」の形には、撥型(トランペット型)、丸型(「頭切」(ず(ん)ぎり))、角型、八角型などがあった。「平家納経」には、五輪塔型、宝珠型など、それ自体で精緻な工芸品といえる、多彩な形の軸端を見ることができる。

軸の直径は、1㎝前後であった。現代の日本の、巻子本の複製本や、書作品の装丁に用いられるものに比べて、はるかに細く、繊細なものであった。


[主な参考文献]
��.小川靖彦「書物としての万葉集」『[必携]万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、
学燈社、2002年 (*敦煌写本の調査以前のものです。今回、調査結果を踏まえて、新たな情報を加えました。)
��.Fujieda, Akira. "The Tunhuang Manuscripts: A General Description." Zinbun 9(1996).
��.石田茂作『仏教考古学論攷』3(経典編)、思文閣出版、1977年
��.栗原治夫「奈良朝写経の製作手順」日本古文書学会編『日本古文書論集』3、吉川弘文館、1988年
��.頼富本宏・赤尾栄慶『写経の鑑賞基礎知識』至文堂、1994年
��.銭存訓『中国古代書籍史―竹帛に書す―』(宇都木章・沢谷昭次・竹之内信子・廣瀬洋子訳)、法政大学出版局、1980年
��.劉国鈞・劉如斯『中国書物物語』(松原弘道訳)、創林社、1983年
��.Du Weisheng. "A Short Description of Eight Dunhuang Forgeries in the National Library of China."Dunhuang Manuscripts Forgerieis. Ed. Susan Whitfield. London: The British Library, 2002.


2007年12月7日金曜日

総合芸術としての巻子本

『源氏物語』に見える巻物の美

『源氏物語』の「梅枝(うめがえ)」の巻に、美しい巻子本(巻物)が登場します。兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)が、光源氏に贈った、秘蔵の『古今和歌集』は、次のように描写されています。

  延喜帝(えんぎのみかど)の、『古今和歌集』を、唐(から)の浅縹(あさはなだ)の紙を
  継ぎて、同じ色の濃き紋(もん)の綺(き)の表紙、同じき玉(たま)の軸、緂(だん)
  の唐組(からくみ)の紐(ひも)などなまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじ
  う書き尽くさせたまへる、 ……
(新編日本古典文学全集『源氏物語』③、421頁)

 書は、醍醐天皇ご自身。
 料紙は、中国製で、藍で染めた、薄青色の紙。
 表紙は、同じ青色ながら、より濃い色の模様のある、織物製。
 軸は、薄青色の玉の軸。
 (*「正倉院文書」では、「玉軸」は、ガラス製の軸を意味します。)
 紐は、白と、いろいろの色を交互に配した、唐組の組紐。
 (*「唐組」は、今日では、斜行の向きを、定期的に反転させて、菱形を連続させて組まれた
 組紐を言います。)

 そして、巻ごとに、書風が変化してゆきます。

薄青色を基調としながら、華やかな紐でアクセントを付けた、清楚で、優美な巻物の姿が、浮かび上がってきます。光源氏が「尽きせぬものかな(いつまでも興がつきませんね)」と、嘆声を上げたのも、もっともです。

古代の巻物は、①書の技術、②紙の技術(料紙・表紙の抄造と染色・装飾)、③軸の工芸的技術、④紐の染織技術、⑤それらを「書物」に仕上げる造本の技術、の交響楽であると言えます。そして、この交響楽を指揮するのが、その時代の美意識です。

巻物を研究するためには、巻物を構成するもの、ひとつひとつの技術を探究するとともに、それらが、全体として、どのような「書物」の姿を作り上げているのか、を考察することが大切となります。

次の記事では、「書物」としての巻物を構成する、各部分についての、簡単な解説を加えます。 描かれた巻物2



��主な参考文献]
��.河田貞「わが国上代の写経軸」『仏教芸術』162、毎日新聞社、1985年 (*「玉軸」について)
��.木下雅子『日本組紐古技法の研究』京都書院、1994年 (*「唐組」について)

2007年12月3日月曜日

万葉集本文のフォルム

万葉集のフォルム1

多層的な情報複合体

「書物」としての『万葉集』は、単純に歌を集めたものではありません。『万葉集』の紙面は、平安時代以降の歌集と比べると、かなり複雑なものとなっています。

【1】巻子本(巻物)としてのフォーマット

【2】歌集としてのフォーマット………これには、まず歌を分類する項目があります。次に、歌については、歌のみが収録されるのではなく、漢文で記された、歌に関わる情報も添えられます。しかも、その書式は、歌によって、さまざまです。

【3】注記………原資料からの注記、編者による注記、さらに後人(奈良時代、場合によって平安初期にまで及ぶ。複数の人々)による注記が、多様な形式で書き込まれています。

『万葉集』は、多層的な情報複合体となっています。

以下、『万葉集』原本の紙面に即して、簡単な解説を加えます。
(上の写真参照)

①内題(巻首題)【1】
・中国文化圏における、正式な「書物」である巻子本では、本文料紙の冒頭と末尾に、必ず書名と巻数を記します。初めの1行を空けて、2行目に巻首題(かんしゅだい)を書き、3行目から本文を始めます。本文が終わった後に、1行を空けて尾題(びだい)を書きます。


②部立(ぶだて)【2】
・歌の内容による分類。『万葉集』では、「雑歌(ぞうか)」「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」が、最も基本的な部立です。これらを、まとめて、「三大部立」と言います。


③標目(ひょうもく)【2】
・「標目」は、一般には、目じるしを意味します。万葉集研究では、巻1、巻2に見える、歌が制作された天皇代を示すものを指します。『万葉集』巻3以下には、置かれません。もちろん、『古今和歌集』以下の、平安時代の歌集にも見えません。「標題」と言う研究者もいます。

・「御宇」の「御」は、統治する意で、「宇」は、天地四方を意味します。「御宇」は、中華国家の皇帝による、全世界の支配を示すことばとして用いられ、日本では、『万葉集』以外では、外交文書に、多くの例を見ます。

・なお、天皇名は、「何宮御宇天皇代」と、宮号(きゅうごう。宮殿名)で示されます。

��*神武、綏靖、安寧、懿徳などの天皇名は、「漢風諡号(しごう)」(中国風の、贈り名)と言います。8世紀末に漢学者・淡海三船(おうみのみふね)が、撰びました。)

④下注(かちゅう)【3】
・標目や題詞などの下に、後人が、小字で書き入れた注記。写真では、標目の下に、天皇の尊称を書き入れています。『日本書紀』『続日本紀』などの正史には見えない、作者に関する伝記事項が書き込まれていることがあります。


⑤題詞(だいし)【2】
・歌の前に置かれた、a作者、b制作時期、c制作事情などを、漢文で記したもの。『万葉集』独特のものです。『古今和歌集』以降の歌集の、「詞書(ことばがき)」に当たりますが、「詞書」中には、作者名は記されません。作者名は、「位署(いしょ)」として、独立します。なお、「詞書」は、平仮名で書かれます。

・題詞には、詳細で、公式文書のような印象を与えるものから、ごく簡単で、メモ的なものまで、さまざまな書式があります。『古今和歌集』以下の勅撰和歌集の「詞書」の書式が、比較的統一されているのとは、異なります。


⑥歌本文【2】
・本来、歌本文は、漢字で書かれています。そして、『万葉集』原本では、句読点も、スペースも置かずに、書かれていたと推測されます。


⑦反歌頭書(はんかとうしょ)【2】
・多くの長歌には、短歌が伴っています。長歌と短歌それぞれに固有な表現力を引き出しながら、一つの表現世界を作り上げるという形式が、『万葉集』の時代には、好まれました。

・このような、複合的作品中の短歌を、「反歌(はんか)」と言い、その直前の行には、反歌であることを示す、「反歌頭書」が、置かれました。

・「反歌」と記すのが、一般的ですが、「短歌」と記す場合もあります。8世紀には、反歌頭書を置かない作品も、見られるようになります。


⑧左注(さちゅう)【3】
・歌本文の後に、原資料の筆録者、その巻の編者、さらには、後人によって記された、作者、制作日時、制作場所、制作事情などに関する考証や但し書き、また歌の出典などを記したもの。

・後人による左注は、歌本文の読み方を方向付けたり(それが、時として、その巻の編集時の意図と矛盾する場合もあります)、正史である『日本書紀』などとの間にリンクを張ったりしています。


⑨異伝(いでん)【3】
・後人によって書き入れられた、別資料に見える少異歌(ほとんど同じ歌でありながら、微妙に歌句の異なる歌)や、その歌と同時作の歌など。

・一首として全体が書き入れられる場合も、また、異同のある歌句の次に、割注で書き入れられる場合もあります。
(下の写真の、柿本人麻呂「近江荒都歌」〈巻1・29~31〉には、8箇所も異伝が書き入れられています)

万葉集のフォルム2


[主な参考文献]
��.東野治之『長屋王家木簡の研究』塙書房、1996年 (*「御宇」について)
��.山口博『王朝歌壇の研究―文武聖武光仁朝篇―』おうふう、1998年 (*「御宇」について)