2012年1月9日月曜日

新たな日本語・日本文学一般誌の刊行を願う

『國文學 解釈と教材の研究』『国文学 解釈と鑑賞』の休刊

2011年10月号で、至文堂編集・ぎょうせい発行の『国文学 解釈と鑑賞』誌が休刊となりました。既に學燈社発行の『國文學 解釈と教材の研究』誌が2009年7月号を最後に休刊となっています。日本語・日本文学に関する一般誌が、出版界から姿を消しました。

読者として、また執筆者として両誌に育てられてきた一人として、私はこのことを大変残念に思っております。両誌の休刊は、日本語・日本文学研究者にとっても、また日本語・日本文学に関心を持つ読者にとっても、大きな痛手に他なりません。

確かに、『国文学 解釈と鑑賞』(1936年〈昭和11〉6月1日創刊)、『國文學 解釈と教材の研究』(1956年〈昭和31〉4月20日創刊)を支えてきた、社会のあり方が大きく変化したことは事実です。副題に表れているように、両誌は研究(国文学研究)と教育(国文教育・国語教育)の連繋をめざしていました。しかし、今日では研究と教育の隔たりは、広がるばかりです。

そもそも日本語・日本文学研究を取り巻く環境も、厳しいものとなっています。さまざまな困難が降りかかってきていますが、意欲ある若い人々を強く惹き付ける力が、減退しつつあることが、何よりも不安に感じられます。

しかし、このような状況であるからこそ、日本語・日本文学に関する一般誌の意義が高まっているのではないでしょうか。日本語・日本文学研究者は、研究の細分化が急激に進む中、日本語・日本文学のさまざまな分野の基本的研究情報を手に入れたいと思っています。また、日本語・日本文学に関心のある読者は、多数潜在しており、拠るべき水先案内人を求めています。

日本語・日本文学の魅力や、日本語・日本文学に関する広範囲の研究情報を、わかりやすく、しかも高い信頼性とスピードをもって伝えることができるのは、一般誌に他なりません。

私は具体的には次のような一般誌の登場を願っています。

(1)あくまでも日本語・日本文学、つまり「言語と文学」を中心に置いた一般誌

『国文学 解釈と鑑賞』誌と『國文學 解釈と教材の研究』誌はある時点から、日本語・日本文学の周辺領域の特集に力を入れるようになりました。読者層の拡大をめざしたのでしょう。しかし、従来の読者は離れていってしまったように思います。

愚直なまでに「言語と文学」にこだわり続ける姿勢が大切です。あくまでも、日本語・日本文学の研究者と、日本語・日本文学に関心を持つ人々を、中核となる読者として考えるべきです。

ですから、『万葉集』『源氏物語』『奥の細道』などの主要な作品や、「写本」「出版」「本文の捉え方」などの基礎的で、しかも新しい研究成果が蓄積されつつあるテーマについては、繰り返し特集が組まれてよいと思います。

(2)編集力が行き渡った特集を組んだ一般誌

それだけに、編集力が重要となります。「論文」の寄せ集めでは、読者を惹き付けることはできません。特集号として、何を伝えたいかを強く意識することが必要です(「研究の最前線」や「新しい研究」というコンセプトでは、不十分です)。明確な編集意識に貫かれた、熱気ある特集号が望まれます。

日本語・日本文学の研究者などから編集人を立てて、ある期間その人(または人々)が連続して企画を担当することがあってよいと思います。ただし、その場合に、同じ執筆者集団が繰り返し登場することは避けるべきです。同じ執筆者集団では、回を重ねる度に、執筆者の意欲も読者の関心も弱まり、全体のエネルギーが下がるからです。編集人には、企画にあった人材を、その都度発掘する努力が必要です。

意想外の執筆者を組み合わせて、新しい化学反応を起させるということも、編集人が思い切って試みたならば面白いと思います。

また編集人は、その特集に掲載する文章が、日本語・日本文学の特定分野の専門家のみを相手とする学術論文にならないようにリードし、助言する役割も果たします。

*『国文学 解釈と鑑賞』の「三島由紀夫というプリズム」の特集号は、近年では例外的に熱気ある企画で(2011年4月号)、編集人の井上隆史氏(白百合女子大学教授)の熱意が隅々にまで感じられました。専門外の私も引き込まれて読みました。ただし、図版を多く用いたならば、もっと多くの読者が手に取ったに相違ないことが、惜しまれます。

一日も早い、日本語・日本文学研究の一般誌の刊行を願ってやみません。