2008年3月29日土曜日

第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(急告)

古典かなの美展1
(写真=『春敬コレクション名品図録』〈右上に「豆色紙」の写真〉と、「古典かなの美展」パンフレット)

必見、力みなぎる名筆の数々

先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)」で紹介しました、「春敬コレクションによる『古典かなの美展』」が、現在開催されています。

開催初日に観覧に行きました。非常に密度の濃い、展示空間に、深い感銘を受けずにはいられませんでした。4月1日(火)までの展示です。是非、足をお運びください。

この展示会では、「関戸本古今集切」「貫之集切」をはじめ、有名な、平安時代の「かな」の名筆が、出品されています。そして、今までの名筆のイメージが、一新されます。

素紙に書かれた[3]関戸本古今集切の筆線は、鋭く、しかも繊細です。そして、その底に、しなやかな力強さを湛えています。染色紙に、鷹揚に書かれた断簡とは別の、関戸本古今集切の表情を見ることができます。

漢詩を2行書き、和歌を3行書きにして、贅沢な空間の使い方をする、[2]大字和漢朗詠集切では、漢字も「かな」も、おおらかに書かれ、明るい空間を作っています。

『和漢朗詠集』の断簡ということでは、三種類の[4][5][6]伊予切が、一同に集められていることも、注目されます。それぞれの漢字の、清朗な草書の美しさには、感動を覚えます。この草書と「かな」によるコラボレーションには、目が離せません。

一方、この展示会では、[19]カタカナ古今六帖切[20]田歌切などから、いわゆる名筆とは異なる、文字のちからと美しさを知ることができます。濃い墨色で、力強く書かれた、これらの作品は、「かな」の名筆のような、鑑賞のされ方を意識したものではないでしょう。しかし、その内容に、確かな形を与えたいという熱意が伝わってきます。

そして、圧巻は、[24]豆色紙(鎌倉時代)です。縦7.7㎝、横7.0㎝という、実に小さな空間の中が、充実した気で満ち満ちています。力動感のある筆線は、密度の極めて高い空間を、作り上げています。
*なお、先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)」では、「豆色紙」を、『拾遺和歌集』断簡としましたが、『春敬コレクション名品図録』によれば、拾遺和歌集歌に限らず、古歌を集めた私撰集です。
��展示されている「豆色紙」は、『拾遺和歌集』の源順(みなもとのしたごう)の歌です。
  恋しきを 何につけてか なぐさめむ 夢だに見えず 寝る夜なければ (恋二・735)
  〔訳〕恋しい思いを、いったい何によって慰めればよいのでしょうか。
     夢であなたに会うことさえもできません。恋しさに、眠ることもできないので。

見ることのできない「夢」のイメージと、料紙の墨流しが微妙に調和しています。
  

この展示会では、『万葉集』の断簡も、2点、出品されています。平安時代の「かな」の名筆から観覧してくると、特に[11]天治本万葉集が、独自の、書と「書物」の世界を持っていることを、実感しました。『万葉集』の書物史について、大きな示唆を得たように思います。

30点の作品に、書の力強いいのちを、感じました。そして、これらの作品を貫く、飯島春敬氏の審美眼と、書にかけた情熱を思わずにはいられませんでした。
*飯島春敬氏が、芸術としての書を確立するために、また第二次世界大戦後の混乱した状況の中で、いち早く、書の再興と教育のために、力の限りを尽くされたことを、『飯島春敬全集』別巻1(書藝文化新社、1984年)によって、知ることができます

飯島春敬氏の、力強いいのちは、この展示会と隣接した会場で開かれている、第43回秀華書展の作品にも受け継がれています。特別資料展示と作品展を観覧の後、いつまでも、清朗な感動が、揺曳し続けました。

*理事長・飯島春美先生、常務理事・大谷洋峻先生をはじめ、財団法人・日本書道美術院の皆様に、格別のご厚情を賜りました。心より御礼申し上げます。


【出陳目録】
��1]伝藤原行成筆 針切(重之子僧集) 1幅
��2]伝藤原行成筆 大字和漢朗詠集切 1幅
��3]伝藤原行成筆 関戸本古今集切 1幅
��4]伝藤原行成筆 伊予切第一種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��5]伝藤原行成筆 伊予切第二種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��6]伝藤原行成筆 伊予切第三種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��7]伝藤原行成筆 貫之集切 1幅
��8]伝藤原公任筆 和泉式部続集切 1幅
��9]伝藤原公任筆 中務集(なかつかさしゅう)切 1幅
��10]伝藤原公任筆 太田切 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��11]伝御子左忠家筆 天治本万葉集 巻十(仁和寺切) 1幅  〔*巻15・3737~3740〕
��12]伝御子左忠家筆 柏木切(類聚歌合) 1幅
��13]伝御子左俊忠筆 二条切(類聚歌合) 零巻
��14]伝源頼政筆 三井寺切 1幅  〔*頼政集断簡〕
��15]元暦校本万葉集 巻十一(有栖川切) 1幅  〔*巻11・2798~2800〕
��16]伝西行筆 曽丹集枡形本切 1幅  〔*曽禰好忠集断簡〕
��17]伝西行筆 五首切(神祇切) 1幅  〔*「右大臣(九条兼実)家百首」草稿断簡〕
��18]伝寂蓮筆 右衛門切[個人蔵] 1幅  〔*古今和歌集断簡〕
��19]伝寂蓮筆 カタカナ古今六帖切 1幅
��20]伝寂蓮筆 田歌切 1幅
��21]藤原俊成筆 顕広切 1幅
��22]伝坊門局筆 惟成集(これしげしゅう)切 1幅
��23]伝源実朝筆 中院(なかのいん)切 1幅  〔*後拾遺和歌集断簡〕
��24]伝後京極良経筆 豆色紙 1幅  〔*古歌集断簡〕
��25]藤原定家筆 三首詠草懐紙 1幅
��26]伝宗尊親王筆 十巻本歌合 寛平御時后宮歌合 1幅
��27]伝宗尊親王筆 催馬楽切 1幅  〔*鍋島家本催馬楽抄断簡〕
��28]伏見天皇筆 広沢切[個人蔵]  〔*伏見院御集断簡〕
��29]伝藤原行尹筆 新撰朗詠集切 1幅
��30]本阿弥光悦筆 色紙 1幅  〔*木版下絵のある料紙に、「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」〈百人一首・藤原義孝〉を書く〕


古典かなの美展2
(会場では、貴重な、飯島春敬氏蒐集の古筆の写真を収録する『春敬コレクション名品図録』〈書藝文化新社、1992年〉、詳細な解説の付いた「古典かなの美展ポストカード」(カラー)が、販売されています。なお、『春敬コレクション名品図録』に収められていない古筆も、出品されています。詳細な展示解説も、お見逃しないように。)

2008年3月28日金曜日

万葉集書物史早わかり(1)

万葉集の巻子本と冊子本
(写真=左、巻子本の『万葉集』〈桂本の複製〉。右、冊子本の『万葉集』〈元暦校本の複製〉)

「書物」の歴史を生きる『万葉集』

約1200年前に編まれた、日本最古の歌集『万葉集』を、今日私たちが読むことができるのは、多くの人々が、この「書物」を書き写し、また印刷をして、伝えてきたからです。

世界的に、「書物」の歴史には、三つの大きな革命が起こっています。第一は、巻子本(巻物)から冊子本への移行、第二は、写本から印刷本への移行、そして、第三は、まさに現在起こりつつある、紙の「書物」から電子ドキュメントへの移行です。
*但し、紙の「書物」と、電子ドキュメントは、メディアとしての性質が根本的に異なっています。他のふたつの革命とは、同列に捉えられないところがあります。

これらの革命は、一方では、「書物」の読者層を一挙に拡大し、「書物」の新しい可能性を開きながら、他方では、それまでの、「書物」に関わる技術体系(造本の技術から、「読む」技術・「知」の蓄積の技術にまで及ぶ)を破壊してゆく、という進み方をします。

旧来の「書物」は、この革命の中で、一部が新しい「書物」として、生まれ変わるものの、多くは時代から取り残され、やがては忘れられてゆきます。これを、高宮利行氏は、“ボトルネック現象”と言っています。

日本では、これら三つの革命に加えて、漢字から「かな」への移行、刊本(古活字版・整版・近世木活字本など)から近代的な活版印刷本への移行も、“ボトルネック現象”を引き起こす要因となっています。

例えば、江戸時代から明治初期にかけて印刷された、大量の、『万葉集』に関する研究書の多くが、いまだに活字に起こされず、時には、写真撮影さえも行われていません。

『万葉集』という「書物」が、漢字から「かな」へ、巻子本から冊子本へ、写本から刊本へ、刊本から近代的印刷本へ、という日本の書物の歴史上の革命を、全巻欠けることなく、生き抜いてきたことは、稀有なことです。

しかも、『万葉集』の場合、これらの革命を単に後追いするのではなく、常に変革期の比較的早い段階で、その姿を新しい「書物」へと変えてきました。そして、その際に、さまざまな新しい技術開発も、行われました。

また、『万葉集』の、「書物」としての歴史を、細かく見てゆくと、これらの革命の時期に、古い「書物」から新しい「書物」への移行が、決して急激に、「発展史的」に進んだのではないことが、わかります。ふたつのタイプの『万葉集』が、微妙に重なり合いながら並行し、最終的には、政治的・社会的要因によって、新しいタイプへと帰結します。

『万葉集』は、巻子本・冊子本・刊本・近代的印刷本の全てが、ある程度の分量をもって、現存しています。日本の書物の歴史を生き抜いた『万葉集』は、日本の、さらには世界の「書物」が、どのように歴史の中を生きてゆくのかを知るための宝庫と言えます。

*ここでは、「書物」のスタイルの大きな変化を、「革命」と記しました。大きな変革であることには、間違いありません。しかし、単純に、ドラスティックな「革命」と捉えるだけでは、一面的です。ヨーロッパ・アメリカの書誌学においても、口誦から書写へ、書写から印刷への変化を劇的なものと捉える、ウォルター・オング、ジャック・グディ、マーシャル・マクルーハンの見方に対して、1990年代後半から、それらの境界が、流動的で重なり合うものであることが、主張され始めています(フィンケルスタイン氏・マックレリイ氏)。

��*次の記事で、「書物」としての『万葉集』の歴史を概説します。)


��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.Van Sickle, John. "The Book-Roll and Some Conventions of the Poetic Book." Arethusa 13(1980).
��.高宮利行『グーテンベルクの謎 活字メディアの誕生とその後』岩波書店、1998年
��.Finkelstein, David and Alistair McCleery. An Introduction to Book History. New York & Oxon: Routledge, 2005.


2008年3月22日土曜日

謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(急告)

日中書法の伝承展1

必見の展示

先の記事「謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(予告)」で紹介しました、「日中書法の伝承」展が、いよいよ明日3月22日(土)で閉幕となります。

実際に観覧し、文字史を学ぶためにも、また日本の書の展示会としても、必見のものと思いました。是非、足をお運びください。

受付は、4階となります。4階は、中国の文字資料と、書の展示となります。甲骨・青銅器・石に刻された文字、木簡に記された文字を、同じフロアで見ることで、いかに文字というものが、その素材と密接な関係にあるかと、実感することができます。

特に、普段は、拓本でしか見ることのない、青銅器に刻された文字の、力強さには、本当に感銘を受けました。
[38][39]小克鼎(しょうこくてい)の文字に注目。

また、4階では、敦煌文書も興味深いものでした。写経の文字が、どのように装飾性を帯びてゆくか、という歴史を、垣間見ることができます。なお、「書物」という点では、小巻子本である『正法華経』巻第17が、大変面白いものです。私的な巻物の、実物を見ることができる、数少ない機会です。なお、縦の寸法が、12.9㎝と、冊子本に多く見られる、縦の寸法と同じことも、目を引きます。
[67]敦煌文書

��階は、まず篆刻です。4階を見た目で、篆刻を見ると、今までと全く違って見えてきます。青銅器や石に文字を刻むような意味を、篆刻が持っていたことが、感じられます。

そして、いよいよ日本の書作品となります。

日本の代表的な書が、一同に会しています。圧巻は、特別室の三色紙です。「継色紙」「寸松庵色紙」「升色紙」が、並んで展示されています。そして、それぞれの書風で、小さな空間に、ドラマを作り上げていることに、深い感銘を受けます。それぞれの、文字の配置、そして、写真では再現できない、墨の濃淡と肥痩を、熟覧してください。
[101]寸松庵色紙
[106]升色紙
[118]継色紙 (*上句と下句が別の料紙に書かれています。下句の、濃淡と肥痩による立体性を目にし、それによる抒情性を感じていると、下句が「心は妹に寄りにけるかも」ではなく、「心は君に寄りにしものを」でなくてはならない、と思われてきます。)

意外な発見は、素紙に書かれた関戸本古今和歌集切の、文字の美しさです。関戸本は、料紙の美しさに、目を奪われがちですが、素紙の書にこそ、その真髄が現れているように思いました。
[98]関戸本古今和歌集切

また枯れた筆の美しさが言われがちな、良寛の対幅は、実物を見ると、実に生き生きとした、力強いものでした。特に、墨継ぎをしたところに、力強さが現れています。枯れているように見える文字の底にある生命力に、驚かされました。
[138]草書五言詩軸

会場は、静かで落ち着いた雰囲気です。観覧の後、たくさんの文字から、清々しい力をもらったような気持ちになります。

*図録は、4,000円です。約350頁の大部なものです。観覧後購入して、会場の椅子に座って、図録の写真を見た上で、再度気になる作品を見るとよいでしょう。

日中書法の伝承展2


2008年3月19日水曜日

塙保己一史料館

塙保己一史料館1
(写真=左は塙保己一史料館パンフレット。中央下はポスト・カード。右は群書類従本竹取物語の第1丁)

今も生きている学術史・出版史の金字塔

青山学院大学からほど近い、渋谷区東2丁目に、社団法人・温故学会の塙保己一史料館があります。

目が不自由であったにもかかわらず、塙保己一(はなわ・ほきいち)が、古代から江戸時代にいたる、わが国の貴重書1,273種を蒐集し、校訂を加え、670冊に仕立てて出版する、という大事業を成し遂げたことは、大変有名です。
*総数、冊数は、史料館の解説パネルによります。なお、現在は、総数は1,277種、冊数は、665冊、目録1冊です。

しかし、その成果である『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の版木が、今なお生きていることを、私は知りませんでした(『群書類従』の版木は、国の重要文化財に指定されています)。

春の一日、青山学院大学の学生の皆さんとともに、塙保己一史料館を訪ねました。『群書類従』の版木と、保己一が出版した、その他の貴重書の版木の膨大な数に、まず圧倒されました。

そして、ご案内くださった、温故学会の斎藤幸一氏(理事長代理)から、これらの版木を使って、現在も『群書類従』の印刷が行われていることを伺い、驚きました。注文を受ければ、1冊でも、印刷をしているとのことです。

『群書類従』は、安永8年(1779)、保己一34歳の時に、編集・開板の祈願が行われ、天明6年(1786)、41歳の時に、見本版『今物語』が刊行され、そして文政2年(1819)、74歳の時に、全冊の刊行が完了しました。

約200年前に作られた、桜の版木が、今も生きていることに、『群書類従』を刊行するために駆使された、木版印刷技術の“力”を、実感せずにはいられませんでした。上の写真の右のように、今日、この版木を使って印刷された『竹取物語』は、美しい紙面を見せています(印刷された文字の流麗さに、魅了されます)。
*版下の浄書者は、屋代弘賢、大田南畝、町田清興、羽州亀田城主岩城伊予守、関口雄助、保己一の妻安養院、娘とせ、他(解説パネル)。

そして、保己一の志に、深い感動と敬意を覚えました。保己一が、歴史上の人物から、一挙に、身近な、大きな存在になったように思いました。

さらに、これらの版木を、今日まで伝えてきた、社団法人・温故学会の方々の、並々ならぬ御努力にも感銘を受けました。

大正12年(1923)には、関東大震災で、版木倉庫が全壊しました。奇跡的に焼失をまぬがれた版木のために、直ちに版木収蔵施設の建造が、企図されます(昭和2年〈1927〉に、温故学会会館建設)。また昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲の時には、会館内に飛び込んだ焼夷弾2発を、温故学会会長・斎藤茂三郎氏が、手づかみで館外に投げ出し、被害を防ぎました。

版木による印刷は、一見簡単そうに思えますが、実は高い技術が必要です。斎藤幸一氏のお話では、1枚の版木に、均等に墨を行き渡らせるだけでも、熟練が必要とのことでした。

さらに斎藤氏の御厚意で、2色刷りの、元暦校本万葉集の版木を見せていただきました。表は、本文を刻し、墨で刷り、裏は、書入注記を刻し、朱で刷ります(上の写真中央)。1枚の和紙に、本文と書入注記がずれないように刷るためには、かなりの習練が必要と思われました。

夏には、版木による印刷を、実際に体験できるワークショップが、開かれると聞きました。

日本の印刷文化の精髄と言える、保己一の版木について、さらに研究を深めながら、これを次代に伝えてゆくことが、『群書類従』から絶大なる恩恵を蒙った私たちひとりひとりの務めであることを、痛感しました。

【展示情報】
社団法人・温故学会 塙保己一史料館
東京都渋谷区東2-9-1
開館日:月曜日~金曜日(午前9時~午後5時)
参観は、要予約(電話またはファックス)
入館料:おとな100円、12歳までのこども無料
��『竹取物語』(『竹取翁物語』)の印刷見本や、『聖徳太子十七条憲法』(『聖徳太子十七箇条憲法』)などが、販売されています。


塙保己一史料館2


平仮名を選び取った平安人たち:漢字と「かな」(4)

古今集春上・2番歌
(写真=『古今和歌集』春上・2番歌。「そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ)

ことばの自立・自律
��この記事は、「平仮名の空間構成力:漢字と「かな」(3)」に続きます)

紀元1世紀に、漢字と出合った、古代の日本の人々は、以後、この漢字を、唯一の文字として、使用していきます。7世紀末には、漢字を用いて、漢詩・漢文ではなく、日本で生まれた、「やまと歌」を書き記すための、安定した表記法を、確立しました。

この表記法である、『万葉集』の《文字法》は、文脈に依存して、大胆に、歌の「ことば」の表記を省略しながら、歌の「意味」を効率的に伝えるものでした。さらに表記者個人の創意工夫も、働かせることができました。

ところが、9世紀の終わりから10世紀の初頭にかけて、古代の日本の人々は、この《文字法》を、あえて捨て去り、「和歌」の表記媒体として、意識的に、平仮名を選び取ります。「あえて」と言ったのは、この時期の人々には、この《文字法》が読解でき、また、その利点も知っていたと思われるからです(参照、先の記事「平安時代に万葉集は読めたか」)。

この時期の人々が、平仮名を選び取ったことは、①言語と文化に関する、意識の変革、②それを支えるだけの、技術的条件の達成、によるものと思います。そして、③平仮名を、歌の表記媒体として選び取ったことによって、「やまと歌」は「和歌」へと変質し、二度と後戻りができなくなりました。

9世紀半ばに、唐を中心とする、東アジア諸国の政治的文化的繋がりが弱まり、唐の周辺諸国が、それぞれの地域や国にあった、新しい進路を模索し始めます(中国史の研究者・氣賀澤保規氏による)。

日本でも、律令制度を建前とし、また遣唐使廃止後も唐との人的・物的交流を保ちながらも、中国的な律令制度は、9世紀を通じて、確実に空洞化してゆきます。その中で、「日本」固有の言語と文化を、意識的に、作り上げることが、めざされました。

漢字に発しながら、もはや漢字の「意味」とは完全に切れた、平仮名という、「日本」固有の文字で、「日本」の歌=「和歌」を書き記すことは、中国からの政治的・文化的独立を宣言するものでした。

歌の「ことば」一つ一つを、完全に文字化する平仮名は、一方では、「日本」の歌を、〈音〉として書き留めようとするものです。『古今和歌集』の序文の、紀貫之の、“鶯、蛙を始め、すべて生きものは歌を詠む”という発言も、平仮名の「和歌」であるからこそ、言えるものでしょう。

しかし、平仮名で書かれた「和歌」は、単に〈音〉を文字化するものではありません。先の記事「平仮名の空間構成力」で述べたように、あくまでも、「文字の歌」として、「和歌」を視覚的・空間的に表現するものです。この点で、平仮名の「和歌」は、「やまと歌」を、「文字の歌」として視覚的に定着しようとした、『万葉集』の《文字法》を、受け継いでいると言えます。。
*なお、小松英雄氏は、平仮名の「和歌」が、清濁を区別して書かないことに注目して、上代の韻文が一次的に聴覚的であるのに対して、平安時代の和歌が視覚的である、と述べています。

平仮名は、「文字の歌」として、「日本」の歌の〈音〉を書き留めるものであり、それを可能にするだけの、連綿と放書(はなちがき)の技術の開発がありました。さらに濃淡・肥痩、文字の配置や形態の工夫が、「文字の歌」としての、平仮名の「和歌」を洗練してゆきます。

そして、歌の「ことば」一つ一つを文字化する平仮名は、文脈に依存する、『万葉集』の《文字法》ではできなかった、ダイナミックな、ことばとことばの関係の構築や、イメージの重層を可能にしました。

例えば、『古今和歌集』の紀貫之の歌を、挙げてみます。

 そてひちて むすひしみつの こほれるを はるたつけふの かせやとくらむ (春上・2)
 (袖ひちて 結びし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ)
 〔訳〕暑かった夏の日に、袖の濡れるのもいとわずに、手ですくった水、それが冬の寒さで
  凍りついているのを、立春の今日の暖かい風が、今頃解かしていることだろう。


 袖ひちてむすびし水のこほれるを』春立つけふの風やとくらむ
 b 袖漬而結師水之凍流乎春立今日之風哉将解


この歌は、一首の中に、夏・冬・春と、移りゆく季節を、詠んでいます。この大きな時間の推移の表現を、可能にしているものは、大胆な構文です。初句から第3句までの、長い修飾語(この修飾語の中で、夏から冬への時間が表現されます)を伴った目的語を、第5句の述語「とくらむ」が受けます。

このような構文は、『万葉集』の歌には、見ることができません。『万葉集』の歌では、主語・目的語・述語の関係は、もっと単純です。

この歌を、『万葉集』の《文字法》で表記することは、不可能ではありません。仮に表記してみたのが、bです。しかし、これを、頭から暫定的に読み下していこうとすると、目的語から述語があまりに遠いため、第3句の『乎』を、どのように解釈してよいか戸惑います(格助詞か、逆接の接続助詞か、迷います)。

『万葉集』の《文字法》では、文脈は明確で、シンプルでなくてはなりませんでした。貫之たちは、平仮名によって、文脈から解き放たれ、自由に「ことば」(=文字)を駆使することを、手に入れました。「やまと歌」は、「ことば」の自律する「和歌」へと、変質したのです。

*平仮名による「和歌」から、遡って考えると、大伴家持が積極的に試みた、「万葉仮名」による、一首の歌の表記は、家持なりの、「日本の歌」の姿を求めての模索であったと思われます。しかし、古屋彰氏が明らかにしたように、家持は、当初『万葉集』の《文字法》で書かれた歌を、「万葉仮名」表記に書き換えてゆきますが、巻19ではそれを断念します。
��上に掲げた写真は、『古今和歌集』の高野切第一種(11世紀半ば書写)の、〔春上・2〕の歌の透写です。透写してゆくと、活字で読む以上に、この歌が、物語的に、生き生きと感じられてきます。なお、第4句は、通行の本文とは異なります。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年
��.築島裕『仮名』日本語の世界5、中央公論社、1981年
��.氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』中国の歴史06、講談社、2005年
��.秋山虔『王朝の文学空間』東京大学出版会、1984年
��.小松英雄『やまとうた 古今和歌集の言語ゲーム』講談社、1994年
��.古屋彰『万葉集の表記と文字』和泉書院、1998年


2008年3月12日水曜日

平仮名の空間構成力:漢字と「かな」(3)

巻18・4136
(写真=『万葉集』巻18・4136番歌。「あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かさしつらくは ちとせほくとそ」)

万葉仮名から「かな」への飛躍
��この記事は、「万葉仮名で歌を書き記すこと:漢字と「かな」(2)」に続きます)

“歌(やまと歌・和歌)の表記媒体”としての、「万葉仮名」と平仮名の違いを、具体的に見てみたいと思います。

「万葉仮名」による表記法と、平仮名による表記法は、ともに歌の「ことば」を全て文字化する、という点で共通します。

しかし、上に掲げた図で、二つの表記法で書かれた、同じ歌を、見比べてみてください。図は、次の歌を書いたものです。

 あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿くとぞ (巻18・4136)大伴家持
 (あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かざしつらくは ちとせほくとぞ)
 〔訳〕(あしひきの)山の梢の、常緑の「やどりぎ」を折り取って、髪にさしているのは、
  私たちの命が、千年も続くことを、祝う心からなのです。


右が、「万葉仮名」で書いた場合です。西本願寺本(鎌倉時代後期の写本)の漢字本文を、トレースしました。当時の「書物」のあり方から、『万葉集』原本では、「万葉仮名」は、楷書で、きちんと書かれていたと推定されます。加えて、句読点も、スペースも置かれていなかったはずです(参照、先の記事「万葉集原本のレイアウト」)。

左が、平仮名で書いた場合です。元暦校本(げんりゃくこうほん。平安時代後期の写本)の読み下し文を、トレースしました。

それでは、両方の表記で、一首を読み下してみてください。

右の「万葉仮名」による表記では、確かに、冒頭から、一文字一文字読み下してゆくことができます。これは、文脈に依存する、『万葉集』の《文字法》との、大きな違いです。

先の記事「万葉集の文字法(1)」で述べましたように、歌の「ことば」全てを表記するのではない、『万葉集』の《文字法》の場合、一度末尾まで、暫定的に読み下し、その上で、読み下し方を確定する、という読み方が、求められました。

「万葉仮名」による表記法では、このような手間はかかりません。しかし、「万葉仮名」を、読み下しながら、また読み下し終えた後で、一首の歌全体の、文の構造をとらえることは、容易ではありません。

例えば、第5句「知等世保久等曽」まで、読み下したところで、この句が、初句とどのような関係にあるのか、考えてみてください。わかりにくいと思います。再度、連続する漢字群の中から、初句を探し出すところから、始めなければなりません。
*なお、『万葉集』原本では、1行16字詰めになっていたと推定されます。歌の意味の切れ目とは、全く無関係のところで、改行されていました。

「万葉仮名」による表記法の場合、これを読む人は、冒頭から、順を追って、漢字を、日本語の「音」に変換してゆくことに専念してしまいがちです。一度で、歌全体を掌握し、その「意味」を理解することは、困難です。

また、少し目を離して、「万葉仮名」で表記された一首を、見てみてください。何か、うるさく感じないでしょうか。それは、「万葉仮名」が、あくまでも漢字の一用法であることによると思います。漢字であるために、どうしても、その漢字の「意味」が、まとわりついてしまいます。

漢字の「意味」を生かした、『万葉集』の《文字法》に馴染んだ、万葉歌人たちは、「万葉仮名」で書かれた一首を読む時、私たち以上に、「万葉仮名」が漢字として発するノイズを、わずらわしく感じたことでしょう。

他方、左の平仮名による表記では、一首全体を捉え、その「意味」を理解することが、はるかに容易になっています。

それは、漢字のノイズがないからだけではないでしょう。もし、次のように、平仮名を、「万葉仮名」による表記の時のように、一文字ずつ書き記していったならば、やはり一首全体を捉えることは、難しいでしょう。

 あしひきのやまのこぬれのほよとりてかさしつらくはちとせほくとそ

左の平仮名による表記法では、連綿によって、複数の平仮名を連合させていること、そして、それが文節(文を読む時に、自然な発音によって区切られる、最小の単位。息の切れ目)に、ある程度対応していることが、一首全体を、視覚的に捉え易いものとしています。

例えば、第2句「やまの」は、「まの」が、連綿で繋がっています。全体的に『やまの』という文節に対応しています。〈息〉を視覚化し、空間的に定着するのが、平仮名による表記法と、まず言えるでしょう。

しかも、面白いことに、第2句では、「や」と「ま」を、切り離して書いています(「放書(はなちがき)」と言います)。「や」と「ま」の間には、もちろん、〈息〉の切れ目はありません。しかし、「や」と「ま」の間に置かれた余白は、この部分に、視覚的な、リズムの変化をもたらしています。

「あし」、そして「ひきの」と、続いてきた連綿が、「や」で一度途切れて、また「まの」、そして「こぬれ」という連綿に進みます。

〈息〉の単位に沿いながらも、単純に、「音」を、文字に写すのではなく、時には、〈息〉の単位と矛盾することもある、視覚的なリズムを、これに重ねてゆくところに、平仮名による歌の表記法の、独自な達成があると思います。

連綿と放書(はなちがき)という技術を手に入れ、これを洗練することで、平仮名は、「万葉仮名」から大きく飛躍し、歌を、空間的に定着する、表記媒体となったのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.関友作・赤堀侃司「テキスト理解に対する箇条型レイアウトの効果」『日本教育工学雑誌』Vol.17 No.3、1994年1月
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年
��.石川九楊『日本語とはどういう言語か』中央公論新社、2006年
��.矢田勉「かなの字母とその変遷」『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、2007年


2008年3月11日火曜日

万葉仮名で歌を書き記すこと:漢字と「かな」(2)

木簡

(写真=小林芳規氏の著書から。右が木簡。左は、平川南氏他『古代日本の文字世界』)

木簡と「書物」
��この記事は、「平安時代に万葉集は読めたか:漢字と「かな」(1)」に続きます)

古代日本の文字史は、漢字を中国から輸入し、やがて漢字の音を利用しながら、日本語を書き表す「万葉仮名」を開発し、さらに、この「万葉仮名」を簡略化して、日本固有の文字「かな」を生み出した、と概説されます。

文字そのものは、確かに、このような発展の過程をたどります。しかし、“歌の表記媒体としての文字”は、必ずしも、このような「発展」の歴史を描きません。

「正訓字(せいくんじ)」(日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字)と、「万葉仮名」を組み合わせながら、文脈に依存して、大胆に「ことば」の表記を省略し、歌の「意味」を効率的に伝える、『万葉集』の《文字法》が確立したのは、7世紀末、柿本人麻呂の時代であると、先の記事「漢字に託す恋の心」「万葉集の文字法(1)」で述べました。

ところが、7世紀末に、既に、やまと歌(和歌)一首を、「万葉仮名」で書くことが行われていたことが、木簡の発見によって明らかになっています
*徳島県・観音寺遺跡出土木簡。『古今和歌集』仮名序で、「歌の父母」のようで、手習いする人が最初に学んだとされた、
  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
  (なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)
の初句と第2句を、「万葉仮名」で書き記しています。


それどころか、やまと歌を、「万葉仮名」で書き記すことが、7世紀半ばまでさかのぼる可能性も出てきました。2006年10月に、大阪府・難波宮跡で発見された万葉仮名木簡は、「はるくさのはじめのとし」ということばを、「万葉仮名」で書き記しています。これは、やまと歌の一部と見られています。

一首を「万葉仮名」で表記することの方が、『万葉集』の《文字法》よりも、早く始まっていたと考えられます。やまと歌を、「万葉仮名」で表記することは、木簡というメディアの本質と、深く関わっていたのでしょう。

7世紀半ばから、朝廷は、律令制度を導入し、「日本」全土を、システマティックに統治することをめざしました。その全国規模の行政を担うものが、文字でした。そして、その文字を記し、伝達するための、最も便利な道具が、木簡でした。

木簡は、持ち運び易い上、大量生産も再利用もできました。木材という素材の信頼性も、木簡が好まれた理由かもしれません(木簡に使われた木材の多くは、ヒノキか、コウヤマキと報告されています)。
*この時代に、紙の生産量が少なかったために、木簡が利用された、という説明も行われていますが、なお考える必要がありあます。奈良時代(8世紀)には、1日平均170枚、年間で62,000枚の紙が生産されていたと、推計されています(寿岳文章氏の研究による)。紙が供給できたにもかかわらず、木簡が好まれたことに、注目したいと思います。

そして、701年の大宝律令制定以前には、木簡は、口頭で読み上げられることが、多かったようです。文字による行政を始めたばかりの時期には、文書の内容を確実に伝えるために、木簡を、文書の宛先の行政官に手渡すだけでなく、使者が、木簡に書かれた文章を、口頭で読み上げていたと思われます。

この「読み上げる」ということと、一首を「万葉仮名」で表記することの間に、関わりがありそうです。今後、やまと歌を書き記した、万葉仮名木簡が、具体的に、どのように利用されていたか、について議論を深めてゆくことが、課題となります(既に、栄原永遠男氏らによって、議論が始まっています)。

しかし、「書物」というメディアでは、単に、「読み上げる」ことができる、ということばかりではなく、“文字の歌としての姿”が、求められました。

『万葉集』の中でも、最も早く成立した巻1の編者が、それまで口頭で伝えられてきたやまと歌に、“文字の歌としての姿”を与えるために、思い切った工夫を試みたことは、先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」以下で、紹介しました。歌を暗記していることを支えに、漢語を縦横に用いて、最初の「やまと歌集」を、中国の漢詩文集に匹敵する姿にまで、仕上げようとしました。

巻1の編者も、また巻1の試みを経た後に、安定した《文字法》を手に入れた万葉歌人たちも、一首全てを万葉仮名で書き表すという表記法を、知っていたはずです。しかし、多くの人々は、その表記法を、意識的に、選ばなかったのです。

「書物」としての歌集のあるべき姿、また文字の歌としての、やまと歌のあるべき姿が、彼らには、明確に思い描かれていたと思います。漢字のもたらす視覚的印象を通じて、歌に形を与えてゆくことこそが、標準的な、やまと歌の表記法と考えられていたのでしょう。

もちろん、『万葉集』の中には、一首全体を「万葉仮名」で書き記した歌もありますが、それらは、むしろ少数派です。「中国」に対する「日本」を、強く意識した、大伴旅人・山上憶良たちの歌を収める巻5では、一首全体が「万葉仮名」で書かれています。また、巻14に集められた東歌は、「万葉仮名」で書かれ、東国の方言を伝えようとしています。

そして、一首全体を「万葉仮名」で書き記すという表記法に、最も意欲的に取り組んだのが、万葉末期の歌人・大伴家持でした。巻17以降を、「万葉仮名」で表記しようと試みました。しかし、家持の試みは、挫折を余儀なくされます。

あくまでも漢字の一用法にとどまる、「万葉仮名」には、歌の表記媒体としては、限界がありました。「万葉仮名」から「かな」への間には、実は、大きな飛躍があったのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年 (*日本の文字史を学ぶのに、最良の本)
��.平川南・稲岡耕二・犬飼隆・水野正好・和田萃『古代日本の文字世界』大修館書店、2000年
��.鬼頭清明「木・紙・書風」岸俊男編『日本の古代14 ことばと文字』中公文庫、1996年
��.寿岳文章『日本の紙』吉川弘文館、1967年
��.早川庄八『日本古代の文書と典籍』吉川弘文館、1997年 (*木簡が口頭で読み上げられたことを推測)
��.小谷博泰『上代文学と木簡の研究』和泉書院、1999年 (*木簡が口頭で読み上げられたことを推測)

*なお、難波宮出土万葉仮名木簡の画像は、以下のウェブサイトと見られます。
長原現地説明会
asahi.com

2008年3月7日金曜日

巨勢山のつらつら椿(坂門人足)

椿

光が明るくなり、暖かさが、少しずつ寒さにまさってゆくこの時期、椿の花を目にするようになります。大きな赤い花と、光を照り返す厚手の葉は、春の到来を、実感させてくれます。

『万葉集』巻1には、椿の歌が収められています。

巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎(巻1・54)

巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を
(こせやまの つらつらつばき つらつらに みつつしのはな こせのはるのを)

〔訳〕巨勢山の「つらつら椿」―連なった椿の木々、そして点々と連なって咲く椿の花、つくづくと秋の椿の木々を見て、思い起こそうではありませんか。あの巨勢の春の野を。

題詞(だいし)によれば、この歌が、大宝元年(701)9月(太陽暦10月)に、持統上皇が紀伊国に行幸した時に、詠まれた歌の1首です。

まだ上皇の車駕が、大和国の巨勢(現在の奈良県御所市古瀬)にある時点での歌です。そして、不思議なことに、坂門人足(さかとのひとたり)の、この歌は、今眼前にない、巨勢の野の、春の様子に思いを馳せよう、と歌います。

『万葉集』の旅の歌では、眼前に広がる、美しい情景を讃美するのが、普通です。この歌は、『万葉集』の旅の歌としては、異例と言ってよいでしょう。

この大宝元年の紀伊国行幸では、たくさんの歌が作られています(巻9・1667~1681)。しかし、『万葉集』巻1の編者は、この行幸時の歌を、2首のみ、巻1に取り上げ、しかも、この特異な歌を、最初に挙げました。

それは、巨勢の春野の椿が、持統上皇一行に共通する記憶を、呼び起こすものであったからだと思います。

この歌の第2句の「つらつら椿」は、「列々椿」という文字表記から、直接的には、椿の並木を表すものと言えます。しかし、それだけではないようです。

大宝元年の紀伊国行幸の2首の歌の次に、「或本(あるふみ)の歌」として、次の、春日老(かすがのおゆ)の歌が、後の人の手によって、補われています。

 河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(巻1・56)
 (かはのへの つらつらつばき つらつらに みれどもあかず こせのはるのは)

老の歌は、まさに眼前の、巨勢の春野を、讃美しています。「つらつら椿」という、リズム感あふれることばは、椿の、大きな赤い花が点々と連なって咲くさまと(澤瀉久孝氏『萬葉集注釈』の解釈)、光沢のある葉の繁りを、生き生きと浮かび上がらせるものです。

紀伊国行幸の一行は、老の歌を知っていたことでしょう。そして、人足が、「巨勢山の つらつら椿……」と、一同の前で読み上げた時、これを聞く人々は、老の歌を思い出しながら、つややかな葉の間に、生命力に満ちた、赤い椿の花が、連なり咲くイメージを、心に思い描いたに、相違ありません。

人足の歌の第4句「見つつ偲はな」ということばからは、その椿の花が見られず残念だ、という気持ちは、感じられません。むしろ、巨勢の春野を想像しての、浮き立つような思いが、伝わってきます。

巨勢は、大和から紀伊への通路にある土地ですが、ここから東南に、今木峠(いまきとうげ)を越えると、吉野へ出ることができます。万葉時代には、飛鳥・藤原京方面から、吉野川流域に出るには、5ルートがありました。その中でも、巨勢から今木峠を越え、下市口に出るルートは、距離は最も長いものの、一番負担の少ないものでした(犬養孝氏『万葉の旅』による)。

持統天皇は、在位中に31回、譲位後に2回、吉野に行幸しています。特に、まだ寒さの残る時期の、吉野行幸には、巨勢経由のルートが、選ばれたことと思います。

椿の花の連なり咲く、巨勢の春野は、持統上皇を始めとする、紀伊国行幸の一行が、吉野行幸の時に目にしたことのある風景であったのでしょう。その巨勢の春野に、思いをはせることは、一同が共通に知っている、持統天皇を中心とする吉野行幸の華やぎや、その折の、高揚する心を、思い起こすことでもあったのでしょう。

『万葉集』巻1の編者は、持統天皇の治世の繁栄を想起させる、この歌を、大切な歌と考えたのでしょう。

この大宝元年の紀伊行幸は、大宝令施行後、最初の、そして異例の長期にわたる行幸でした。それは、単なる遊覧ではなく、新しい国家体制の樹立を、紀伊国の神々や、祖先に報告する、重要な行幸であったと思われます。

藤原京を造営し、そして大宝令を完成させ、古代日本を、律令国家に仕上げたのは、持統天皇でした。その新しい時代の幕開けを告げるのに、最もふさわしい歌として、巻1の編者は、この人足の歌を選び、大宝元年の紀伊国行幸時の歌群の、最初に置いたのだと思います。

今年の冬、私は、椿の開花を、今か今かと、待ちかねていました。2月に見る、赤い花は、山茶花ばかり。椿は、光が増し、春の到来が確実に感じられる時期になって、咲き始めました。暖かな光の中の、色鮮やかな花と、光沢ある葉に、紀伊国行幸の人々の心を、改めて実感したように思います。


2008年3月4日火曜日

平安時代に万葉集は読めたか:漢字と「かな」(1)

桂本(大伴旅人餞宴)
(写真=巻物に仕立てた、桂本の複製)

読みやすかった『万葉集』の《文字法》

本来漢字のみで書かれた『万葉集』は、漢字平仮名交じり文に慣れた、私たちには、“読みにくい”ものに感じられます。そして、この“読みにくさ”を克服するために、平安時代に平仮名が発明され、これで和歌を書き記すようになった、と考えがちです。

しかし、果たしてそうであったのでしょうか。

先の記事「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(2)」「万葉集の文字法(3)」で、柿本人麻呂の時代に確立された、『万葉集』の《文字法》の特徴を、見てきました。この《文字法》は、歌の「ことば」一つ一つを、完全に表記するものでは、ありませんでした。

文脈がきちんとたどれるように、文の骨格に関わる助詞・助動詞は、しっかりと表記します。その上で、文脈によって、容易に捉えられる「ことば」は、思い切って表記を省略します。そして、漢字の視覚的印象を前面に打ち出し、歌の「意味」を効率的に伝えようとするものでした。

漢字の読み書きができ、やまと歌の表現に馴染んでおり、その上、何を表記し、表記しないかというルールを習得した人ならば、この《文字法》は、むしろ“読みやすい”ものであったと思われます。

しかも、この《文字法》は、助詞・助動詞については、特定のものは、必ず表記しなければなりませんが、それ以外のものを表記するか、しないかは、表記者個人の裁量に任されていました。

また、どのような漢字を用いるかについても、表記者個人の工夫を加えることができました。先の記事「漢字に託す恋の心」に記したように、8世紀の万葉歌人たちは、漢字に、時には遊び心を込め、時には歌の「ことば」だけでは言い尽くせない情感を、託したりしました。

平安時代でも、漢字に通じ、歌の表現にも馴染んでいる人々には、この《文字法》は、決して“読みにくい”ものでは、なかったのではないでしょうか。

それを示すのが、天暦5年(951)に、村上天皇の命で行われた、『万葉集』の訓読事業です。漢学者兼歌人であった源順(みなもとのしたごう)を中心に進められたこの事業において、約4500首の万葉集歌のうち、4000首以上が(いずれも短歌)、読み下され、平仮名で書き記されたことが、推定されています(上田英夫氏の研究)。

この時の訓読の成果を、よく保存しているのが、桂本(かつらぼん。11世紀半ば、源兼行(みなもとのかねゆき)筆。皇室御物)の訓です。

桂本の訓は、表記されていない「ことば」を、巧みに補い、また二通り以上に読み下せる漢字、文脈や音数律から、適切に読み分け、さらに、日本語の音から離れて、漢字の「意味」を大胆に生かした表記を(例えば、「はる」を『暖』と表記すること。これを「義訓字」と言います)、前後の文脈から、的確に日本語に置き換えています(〔 〕が、桂本の訓。濁点を施した)。

 ・他辞乎繁言痛 〔ひとことをしげみこちたみ〕(巻4・538)
    《接尾語「み」の無表記》
 ・吾背子師遂常云者 〔わがせこしとげむといはば〕(巻4・539)
    《動詞の活用語尾、助動詞「む」、格助詞「と」の無表記》
 ・待月而行吾背子 〔つきまちていませわがせこ〕(巻4・709)
    《動詞の活用語尾。『行』で、「行く」の尊敬体を表す》
 ・留者苦聴去者為便無 〔とむればくるしやればすべなし〕(巻4・532)
    《動詞・形容詞の活用語尾の無表記。『者』で、確定条件を表す。『聴去』は、“行かせる”
     という気持ちを込めた義訓字》

これらの訓は、今日でも踏襲されています。
*「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(3)」で、例として挙げた、天平2年(730)の大伴旅人の送別の宴の歌群(巻4・568~571)についても、現代の研究において確実と認められている訓に、近い読み下しがなされています。
��ただし、桂本から推定される天暦の訓は、平安時代のことばを用いて、平安時代の「和歌」としての姿と調べを与えることを、基本方針としています。そのために独自の訓法も駆使しています。7~8世紀のことばを用いて、その時代のやまと歌として読み下そうとする、現代の訓読では、採用できないところも、もちろんあります。

天暦の訓読以前に、紀貫之が、『万葉集』を読んでいた形跡があります。また村上天皇の命によってなされた天暦の訓は、平安時代における、中心的な、『万葉集』の読み下し方となりますが、この周辺に、天暦の訓とは異なる、さまざまな読み下しが行われていた痕跡も、認められます。

『源氏物語』の「末摘花(すえつむはな)」の巻で、末摘花の零落した様子を描くのに、山上憶良の「貧窮問答歌」(巻5・892~893)を踏まえていることも、指摘されています(鈴木日出男氏)。ただし、「貧窮問答歌」は、『万葉集』の《文字法》ではなく、万葉仮名を多用する表記法で書かれています。紫式部が、何らかの形で、『万葉集』を読んでいた可能性も考えられます。

「漢字が読みにくかったから、平仮名で和歌を記すようになった」と、漢字から「かな」への転換を、実用的な理由によって説明する常識は、再検討する必要があります。また、天暦時代に、『万葉集』の訓読事業が行われたのも、漢字で書かれた『万葉集』が、読みにくくなっていたから、という通説も、考え直さなければなりません。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.水谷隆「紀貫之にみられる万葉歌の利用について」『和歌文学研究』第56号、1988年6月
��.加藤幸一「紀貫之の作品形成と『万葉集』」『奥羽大学文学部紀要』第1号、1999年12月
��.鉄野昌弘「家持集と万葉歌」鈴木日出男編『ことばが拓く古代文学史』笠間書院、1999年
��.鈴木日出男「源氏物語と万葉集」『国文学解釈と鑑賞』第51巻第2号、1986年2月
��.田中大士「平安時代写本の長歌の意識」久下裕利・久保木秀夫編『平安文学の新研究―物語絵と古筆を考える』新典社、2006年 (*平安時代に、長歌が読めたことを明らかにした、最新の研究)