2008年3月19日水曜日

塙保己一史料館

塙保己一史料館1
(写真=左は塙保己一史料館パンフレット。中央下はポスト・カード。右は群書類従本竹取物語の第1丁)

今も生きている学術史・出版史の金字塔

青山学院大学からほど近い、渋谷区東2丁目に、社団法人・温故学会の塙保己一史料館があります。

目が不自由であったにもかかわらず、塙保己一(はなわ・ほきいち)が、古代から江戸時代にいたる、わが国の貴重書1,273種を蒐集し、校訂を加え、670冊に仕立てて出版する、という大事業を成し遂げたことは、大変有名です。
*総数、冊数は、史料館の解説パネルによります。なお、現在は、総数は1,277種、冊数は、665冊、目録1冊です。

しかし、その成果である『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の版木が、今なお生きていることを、私は知りませんでした(『群書類従』の版木は、国の重要文化財に指定されています)。

春の一日、青山学院大学の学生の皆さんとともに、塙保己一史料館を訪ねました。『群書類従』の版木と、保己一が出版した、その他の貴重書の版木の膨大な数に、まず圧倒されました。

そして、ご案内くださった、温故学会の斎藤幸一氏(理事長代理)から、これらの版木を使って、現在も『群書類従』の印刷が行われていることを伺い、驚きました。注文を受ければ、1冊でも、印刷をしているとのことです。

『群書類従』は、安永8年(1779)、保己一34歳の時に、編集・開板の祈願が行われ、天明6年(1786)、41歳の時に、見本版『今物語』が刊行され、そして文政2年(1819)、74歳の時に、全冊の刊行が完了しました。

約200年前に作られた、桜の版木が、今も生きていることに、『群書類従』を刊行するために駆使された、木版印刷技術の“力”を、実感せずにはいられませんでした。上の写真の右のように、今日、この版木を使って印刷された『竹取物語』は、美しい紙面を見せています(印刷された文字の流麗さに、魅了されます)。
*版下の浄書者は、屋代弘賢、大田南畝、町田清興、羽州亀田城主岩城伊予守、関口雄助、保己一の妻安養院、娘とせ、他(解説パネル)。

そして、保己一の志に、深い感動と敬意を覚えました。保己一が、歴史上の人物から、一挙に、身近な、大きな存在になったように思いました。

さらに、これらの版木を、今日まで伝えてきた、社団法人・温故学会の方々の、並々ならぬ御努力にも感銘を受けました。

大正12年(1923)には、関東大震災で、版木倉庫が全壊しました。奇跡的に焼失をまぬがれた版木のために、直ちに版木収蔵施設の建造が、企図されます(昭和2年〈1927〉に、温故学会会館建設)。また昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲の時には、会館内に飛び込んだ焼夷弾2発を、温故学会会長・斎藤茂三郎氏が、手づかみで館外に投げ出し、被害を防ぎました。

版木による印刷は、一見簡単そうに思えますが、実は高い技術が必要です。斎藤幸一氏のお話では、1枚の版木に、均等に墨を行き渡らせるだけでも、熟練が必要とのことでした。

さらに斎藤氏の御厚意で、2色刷りの、元暦校本万葉集の版木を見せていただきました。表は、本文を刻し、墨で刷り、裏は、書入注記を刻し、朱で刷ります(上の写真中央)。1枚の和紙に、本文と書入注記がずれないように刷るためには、かなりの習練が必要と思われました。

夏には、版木による印刷を、実際に体験できるワークショップが、開かれると聞きました。

日本の印刷文化の精髄と言える、保己一の版木について、さらに研究を深めながら、これを次代に伝えてゆくことが、『群書類従』から絶大なる恩恵を蒙った私たちひとりひとりの務めであることを、痛感しました。

【展示情報】
社団法人・温故学会 塙保己一史料館
東京都渋谷区東2-9-1
開館日:月曜日~金曜日(午前9時~午後5時)
参観は、要予約(電話またはファックス)
入館料:おとな100円、12歳までのこども無料
��『竹取物語』(『竹取翁物語』)の印刷見本や、『聖徳太子十七条憲法』(『聖徳太子十七箇条憲法』)などが、販売されています。


塙保己一史料館2