2008年3月4日火曜日

平安時代に万葉集は読めたか:漢字と「かな」(1)

桂本(大伴旅人餞宴)
(写真=巻物に仕立てた、桂本の複製)

読みやすかった『万葉集』の《文字法》

本来漢字のみで書かれた『万葉集』は、漢字平仮名交じり文に慣れた、私たちには、“読みにくい”ものに感じられます。そして、この“読みにくさ”を克服するために、平安時代に平仮名が発明され、これで和歌を書き記すようになった、と考えがちです。

しかし、果たしてそうであったのでしょうか。

先の記事「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(2)」「万葉集の文字法(3)」で、柿本人麻呂の時代に確立された、『万葉集』の《文字法》の特徴を、見てきました。この《文字法》は、歌の「ことば」一つ一つを、完全に表記するものでは、ありませんでした。

文脈がきちんとたどれるように、文の骨格に関わる助詞・助動詞は、しっかりと表記します。その上で、文脈によって、容易に捉えられる「ことば」は、思い切って表記を省略します。そして、漢字の視覚的印象を前面に打ち出し、歌の「意味」を効率的に伝えようとするものでした。

漢字の読み書きができ、やまと歌の表現に馴染んでおり、その上、何を表記し、表記しないかというルールを習得した人ならば、この《文字法》は、むしろ“読みやすい”ものであったと思われます。

しかも、この《文字法》は、助詞・助動詞については、特定のものは、必ず表記しなければなりませんが、それ以外のものを表記するか、しないかは、表記者個人の裁量に任されていました。

また、どのような漢字を用いるかについても、表記者個人の工夫を加えることができました。先の記事「漢字に託す恋の心」に記したように、8世紀の万葉歌人たちは、漢字に、時には遊び心を込め、時には歌の「ことば」だけでは言い尽くせない情感を、託したりしました。

平安時代でも、漢字に通じ、歌の表現にも馴染んでいる人々には、この《文字法》は、決して“読みにくい”ものでは、なかったのではないでしょうか。

それを示すのが、天暦5年(951)に、村上天皇の命で行われた、『万葉集』の訓読事業です。漢学者兼歌人であった源順(みなもとのしたごう)を中心に進められたこの事業において、約4500首の万葉集歌のうち、4000首以上が(いずれも短歌)、読み下され、平仮名で書き記されたことが、推定されています(上田英夫氏の研究)。

この時の訓読の成果を、よく保存しているのが、桂本(かつらぼん。11世紀半ば、源兼行(みなもとのかねゆき)筆。皇室御物)の訓です。

桂本の訓は、表記されていない「ことば」を、巧みに補い、また二通り以上に読み下せる漢字、文脈や音数律から、適切に読み分け、さらに、日本語の音から離れて、漢字の「意味」を大胆に生かした表記を(例えば、「はる」を『暖』と表記すること。これを「義訓字」と言います)、前後の文脈から、的確に日本語に置き換えています(〔 〕が、桂本の訓。濁点を施した)。

 ・他辞乎繁言痛 〔ひとことをしげみこちたみ〕(巻4・538)
    《接尾語「み」の無表記》
 ・吾背子師遂常云者 〔わがせこしとげむといはば〕(巻4・539)
    《動詞の活用語尾、助動詞「む」、格助詞「と」の無表記》
 ・待月而行吾背子 〔つきまちていませわがせこ〕(巻4・709)
    《動詞の活用語尾。『行』で、「行く」の尊敬体を表す》
 ・留者苦聴去者為便無 〔とむればくるしやればすべなし〕(巻4・532)
    《動詞・形容詞の活用語尾の無表記。『者』で、確定条件を表す。『聴去』は、“行かせる”
     という気持ちを込めた義訓字》

これらの訓は、今日でも踏襲されています。
*「万葉集の文字法(1)」「万葉集の文字法(3)」で、例として挙げた、天平2年(730)の大伴旅人の送別の宴の歌群(巻4・568~571)についても、現代の研究において確実と認められている訓に、近い読み下しがなされています。
��ただし、桂本から推定される天暦の訓は、平安時代のことばを用いて、平安時代の「和歌」としての姿と調べを与えることを、基本方針としています。そのために独自の訓法も駆使しています。7~8世紀のことばを用いて、その時代のやまと歌として読み下そうとする、現代の訓読では、採用できないところも、もちろんあります。

天暦の訓読以前に、紀貫之が、『万葉集』を読んでいた形跡があります。また村上天皇の命によってなされた天暦の訓は、平安時代における、中心的な、『万葉集』の読み下し方となりますが、この周辺に、天暦の訓とは異なる、さまざまな読み下しが行われていた痕跡も、認められます。

『源氏物語』の「末摘花(すえつむはな)」の巻で、末摘花の零落した様子を描くのに、山上憶良の「貧窮問答歌」(巻5・892~893)を踏まえていることも、指摘されています(鈴木日出男氏)。ただし、「貧窮問答歌」は、『万葉集』の《文字法》ではなく、万葉仮名を多用する表記法で書かれています。紫式部が、何らかの形で、『万葉集』を読んでいた可能性も考えられます。

「漢字が読みにくかったから、平仮名で和歌を記すようになった」と、漢字から「かな」への転換を、実用的な理由によって説明する常識は、再検討する必要があります。また、天暦時代に、『万葉集』の訓読事業が行われたのも、漢字で書かれた『万葉集』が、読みにくくなっていたから、という通説も、考え直さなければなりません。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.水谷隆「紀貫之にみられる万葉歌の利用について」『和歌文学研究』第56号、1988年6月
��.加藤幸一「紀貫之の作品形成と『万葉集』」『奥羽大学文学部紀要』第1号、1999年12月
��.鉄野昌弘「家持集と万葉歌」鈴木日出男編『ことばが拓く古代文学史』笠間書院、1999年
��.鈴木日出男「源氏物語と万葉集」『国文学解釈と鑑賞』第51巻第2号、1986年2月
��.田中大士「平安時代写本の長歌の意識」久下裕利・久保木秀夫編『平安文学の新研究―物語絵と古筆を考える』新典社、2006年 (*平安時代に、長歌が読めたことを明らかにした、最新の研究)