2008年3月11日火曜日

万葉仮名で歌を書き記すこと:漢字と「かな」(2)

木簡

(写真=小林芳規氏の著書から。右が木簡。左は、平川南氏他『古代日本の文字世界』)

木簡と「書物」
��この記事は、「平安時代に万葉集は読めたか:漢字と「かな」(1)」に続きます)

古代日本の文字史は、漢字を中国から輸入し、やがて漢字の音を利用しながら、日本語を書き表す「万葉仮名」を開発し、さらに、この「万葉仮名」を簡略化して、日本固有の文字「かな」を生み出した、と概説されます。

文字そのものは、確かに、このような発展の過程をたどります。しかし、“歌の表記媒体としての文字”は、必ずしも、このような「発展」の歴史を描きません。

「正訓字(せいくんじ)」(日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字)と、「万葉仮名」を組み合わせながら、文脈に依存して、大胆に「ことば」の表記を省略し、歌の「意味」を効率的に伝える、『万葉集』の《文字法》が確立したのは、7世紀末、柿本人麻呂の時代であると、先の記事「漢字に託す恋の心」「万葉集の文字法(1)」で述べました。

ところが、7世紀末に、既に、やまと歌(和歌)一首を、「万葉仮名」で書くことが行われていたことが、木簡の発見によって明らかになっています
*徳島県・観音寺遺跡出土木簡。『古今和歌集』仮名序で、「歌の父母」のようで、手習いする人が最初に学んだとされた、
  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
  (なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)
の初句と第2句を、「万葉仮名」で書き記しています。


それどころか、やまと歌を、「万葉仮名」で書き記すことが、7世紀半ばまでさかのぼる可能性も出てきました。2006年10月に、大阪府・難波宮跡で発見された万葉仮名木簡は、「はるくさのはじめのとし」ということばを、「万葉仮名」で書き記しています。これは、やまと歌の一部と見られています。

一首を「万葉仮名」で表記することの方が、『万葉集』の《文字法》よりも、早く始まっていたと考えられます。やまと歌を、「万葉仮名」で表記することは、木簡というメディアの本質と、深く関わっていたのでしょう。

7世紀半ばから、朝廷は、律令制度を導入し、「日本」全土を、システマティックに統治することをめざしました。その全国規模の行政を担うものが、文字でした。そして、その文字を記し、伝達するための、最も便利な道具が、木簡でした。

木簡は、持ち運び易い上、大量生産も再利用もできました。木材という素材の信頼性も、木簡が好まれた理由かもしれません(木簡に使われた木材の多くは、ヒノキか、コウヤマキと報告されています)。
*この時代に、紙の生産量が少なかったために、木簡が利用された、という説明も行われていますが、なお考える必要がありあます。奈良時代(8世紀)には、1日平均170枚、年間で62,000枚の紙が生産されていたと、推計されています(寿岳文章氏の研究による)。紙が供給できたにもかかわらず、木簡が好まれたことに、注目したいと思います。

そして、701年の大宝律令制定以前には、木簡は、口頭で読み上げられることが、多かったようです。文字による行政を始めたばかりの時期には、文書の内容を確実に伝えるために、木簡を、文書の宛先の行政官に手渡すだけでなく、使者が、木簡に書かれた文章を、口頭で読み上げていたと思われます。

この「読み上げる」ということと、一首を「万葉仮名」で表記することの間に、関わりがありそうです。今後、やまと歌を書き記した、万葉仮名木簡が、具体的に、どのように利用されていたか、について議論を深めてゆくことが、課題となります(既に、栄原永遠男氏らによって、議論が始まっています)。

しかし、「書物」というメディアでは、単に、「読み上げる」ことができる、ということばかりではなく、“文字の歌としての姿”が、求められました。

『万葉集』の中でも、最も早く成立した巻1の編者が、それまで口頭で伝えられてきたやまと歌に、“文字の歌としての姿”を与えるために、思い切った工夫を試みたことは、先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」以下で、紹介しました。歌を暗記していることを支えに、漢語を縦横に用いて、最初の「やまと歌集」を、中国の漢詩文集に匹敵する姿にまで、仕上げようとしました。

巻1の編者も、また巻1の試みを経た後に、安定した《文字法》を手に入れた万葉歌人たちも、一首全てを万葉仮名で書き表すという表記法を、知っていたはずです。しかし、多くの人々は、その表記法を、意識的に、選ばなかったのです。

「書物」としての歌集のあるべき姿、また文字の歌としての、やまと歌のあるべき姿が、彼らには、明確に思い描かれていたと思います。漢字のもたらす視覚的印象を通じて、歌に形を与えてゆくことこそが、標準的な、やまと歌の表記法と考えられていたのでしょう。

もちろん、『万葉集』の中には、一首全体を「万葉仮名」で書き記した歌もありますが、それらは、むしろ少数派です。「中国」に対する「日本」を、強く意識した、大伴旅人・山上憶良たちの歌を収める巻5では、一首全体が「万葉仮名」で書かれています。また、巻14に集められた東歌は、「万葉仮名」で書かれ、東国の方言を伝えようとしています。

そして、一首全体を「万葉仮名」で書き記すという表記法に、最も意欲的に取り組んだのが、万葉末期の歌人・大伴家持でした。巻17以降を、「万葉仮名」で表記しようと試みました。しかし、家持の試みは、挫折を余儀なくされます。

あくまでも漢字の一用法にとどまる、「万葉仮名」には、歌の表記媒体としては、限界がありました。「万葉仮名」から「かな」への間には、実は、大きな飛躍があったのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年 (*日本の文字史を学ぶのに、最良の本)
��.平川南・稲岡耕二・犬飼隆・水野正好・和田萃『古代日本の文字世界』大修館書店、2000年
��.鬼頭清明「木・紙・書風」岸俊男編『日本の古代14 ことばと文字』中公文庫、1996年
��.寿岳文章『日本の紙』吉川弘文館、1967年
��.早川庄八『日本古代の文書と典籍』吉川弘文館、1997年 (*木簡が口頭で読み上げられたことを推測)
��.小谷博泰『上代文学と木簡の研究』和泉書院、1999年 (*木簡が口頭で読み上げられたことを推測)

*なお、難波宮出土万葉仮名木簡の画像は、以下のウェブサイトと見られます。
長原現地説明会
asahi.com