2008年4月8日火曜日

万葉集書物史早わかり(2)

別提訓形式
(写真=漢字本文の次に、平仮名で、その読み下しを書き記す「別提訓形式」の例 〈元暦校本万葉集の複製による〉)

謎の九世紀
��この記事は、「万葉集書物史早わかり(1)」に続きます)

現存する、『万葉集』の写本・刊本を中心に、「書物」として『万葉集』の歴史を見渡すと、次のようになります。
 
 Ⅰ 写本未詳の時代
 Ⅱ 巻子本(写本)の時代
 Ⅲ 冊子本(写本)の時代
 Ⅳ 冊子本(刊本)の時代
 Ⅴ 冊子本(近代的印刷本)の時代

Ⅰ 写本未詳の時代〔9世紀~10世紀末〕

今日、私たちの目にしている、20巻本の『万葉集』の最古の写本は、11世紀中頃に書写された桂本(かつらぼん。皇室御物。巻4のみ)です。10世紀の末頃から、古記録(貴族の日記)にも、本来20巻本と推定される写本の記録が、現れます。

ところが、これ以前に遡ると、史料から、「書物」としての『万葉集』の姿を、直接捉えることが、難しくなります。

『源順集(みなもとのしたごうしゅう)』の詞書に、天暦5年(951)に、村上天皇の宣旨があり、「古万葉集よみときえらばしめ給ふ」た、と記されています。この時、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌が、「よみとかれ」たことがわかります。

平安時代の『万葉集』の写本に記された訓を分析することで、この「よみとく」の内容が、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌(短歌のみ)を、組織的体系的に、《平仮名で書かれた和歌》に置き換えるものであったことが、推定できます。

また、その置き換えは、『万葉集』全20巻に及んだことが、鎌倉時代の学僧・仙覚(せんがく)の校訂した写本に記された符号から、わかります。その歌数を、上田英夫氏は、約4500首の『万葉集』歌のうち、4000首を越えると、算定しています(この時の、読み下しを、「古点」と言います)。

ここで「えらぶ」とあるのは、漢字本文の次の行に、平仮名で、その読み下しを記す、新しい「書物」としての『万葉集』の誕生を示すのでしょう。古語の「えらぶ」には、選び集めて、書物を作る、という意味もありました。『万葉集』の写本の、このスタイルを、「別提訓形式」と言います。
*なお、この「えらぶ」を、良いものを選択する、の意味にとる説もあります。

しかも、この天暦の訓読の時に、巻18の、5箇所の漢字本文が補修されたことも、推定されています(大野晋氏の研究)。

この時に成立したと推定される「天暦古点本」が、村上天皇の権威のもと、以後の、『万葉集』の写本の源流となります。10世紀末以降の、現存する写本、史料からその存在が確実視される写本の本文(「注記」も含めて)は、基本的には、この「天暦古点本」から出ていると考えられます。

ところで、ここで難しい問題があります。『万葉集』の成立の問題です。

天応元年(781)から延暦2年(783)にかけて、大伴家持によって、『万葉集』の末4巻(巻17~巻20)の整備と20巻本としての集大成が、行われたと見る説が、今日では有力です(伊藤博氏説)。

しかし、『万葉集』には、大伴家持以後にも、手が加えられている形跡があることが指摘されています。近時、巻1・巻2の左注が、8世紀末、さらには9世紀まで下る可能性も、考えられています(神野志隆光氏の研究)。

『万葉集』という「書物」を、「注記」も含めたものとして捉えると、その成立時点を確定することは、非常に難しいと言えます。8世紀末から9世紀を通じて、なお『万葉集』という「書物」は、「注記」を積み重ね、変動・生成し続けていたようです。
*大量の、しかも様々の次元からなる「注記」を伴う『万葉集』は、中国文化圏の詩歌集としては、極めて特異なものです。

文献学的に厳密であろうとするならば、「注記」を伴う「書物」としての『万葉集』(20巻本)の成立は、今のところ、「天暦古点本」までしか遡れない、ということになります。「天暦古点本」において、変動・生成する『万葉集』が、固定させられたとも、考えることができます。

とはいえ、その「天暦古点本」も、現存していません。この本は、当時の「書物」のあり方から、少なくとも、巻子本であったことは推測できます。しかし、実際にどのような姿の「書物」であったか―どのような料紙に、どのような書体・書風で書かれていたかなどは、不明です。そして、現存最古の桂本でさえ、「天暦古点本」を、必ずしも、一字一句忠実に書写しているわけではありません(訓について、桂本なりの独自の判断が見られます)。

実は、今日の私たちは、11世紀以降の写本を通して、「天暦古点本」を推測し、さらにその向こうに、7・8世紀の《万葉集の世界》を見ているのです。これらのプリズムを経て、私たちが見ている《万葉集の世界》が、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界そのものであるかどうかは、わからないのです。

「書物」としての『万葉集』の歴史を捉えるために、さらに、どのようにすれば、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界に、より近付けるのかを考えるためにも、この謎に満ちた時期、特に、9世紀における『万葉集』の解明が、今後重要となります。
*なお、9世紀から10世紀末にかけて、ダイジェスト版の『万葉集』が作られていたことが、記録に見えます。また、桂本以前の、ダイジェスト版の断簡である、下絵萬葉集抄切も現存しています(小松茂美氏は、10世紀初~半ば写と推定)。これらについては、別の記事で触れたいと思います。

��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.大野晋「萬葉集巻第十八の本文に就いて」『国語と国文学』第22巻第3号、1945年4月
��.伊藤博『萬葉集釈注 十一』(別巻)、集英社、1999年
��.神野志隆光『複数の「古代」』講談社現代新書、講談社、2007年
��.小川靖彦「『書物』としての『萬葉集』―巻三雑歌における『本文』と注記を通して―」『国語と国文学』第84巻第11号、2007年11月


【追記】
天暦の訓読時に、巻18の本文の5箇所に、大規模な補修が行われた、という大野晋氏の説について、乾善彦氏による批判があることを、看過しておりました。「大規模な補修」と見られたうちの、いつくかの点は、転写の際の誤りと解釈できるというのが、乾氏の見方です。天暦以降、いつかの時期に渡って改変が加えられ、「大規模な補修」のように見えるようになったと、捉えています(乾善彦氏「『万葉集』巻十八補修説の行方」『高岡市萬葉歴史館紀要』第14号、2004年3月)。

今後さらに、検討してみたいと思います。