2008年5月8日木曜日

泊瀬川速み早瀬を(作者未詳):恋の思い出

瀬
(とある川の瀬)

全20巻約4500首におよぶ“万葉の森”を散策していると、思いがけず、心打たれる歌に出会います。

泊湍河速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳(巻11・2706)

泊瀬川 速み早瀬を むすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも
(はつせがは はやみはやせを むすびあげて あかずやいもと とひしきみはも)

〔訳〕泊瀬川の流れの速い早瀬の水を、両手ですくい上げて、「もっと飲みたいだろう、お前」と私に尋ねてくださったあなたは、今どうしているのでしょう……。
��速み=「速し」の名詞形。


この歌は、作者未詳歌ばかりを集めた巻11に収められています。その作者未詳歌の中でも、「出典不明歌」と呼ばれているものです。
*作者未詳歌の中でも、『柿本朝臣人麻呂歌集』『古歌集』など、出典が示されていない歌を、万葉集研究では、「出典不明歌」と言います。

「出典不明歌」は、奈良時代(8世紀)の、平城京に住む下級官人や、その縁者の歌と考えられています。巻11には、約330首の「出典不明歌」が収められています。

「出典不明歌」は、名の残る歌人たちの歌と比べるならば、ことばが、十分に練り上げられたものではありません。しかし、これらの中には、人間の喜びと悲しみを、巧むことなく、印象的なことばに結晶させたものが、たくさんあります。この歌も、そのひとつです。

泊瀬(はつせ)の地は、現在の奈良県桜井市初瀬を中心に、宇陀郡榛原町の一部にかけての一帯です。万葉時代には、「泊瀬小国(はつせおぐに)」とも言われ、山に抱かれ、水の豊かな聖地と考えられていました。ここを流れる泊瀬川(今の初瀬川)は、『万葉集』では、水流の激しい、そして瀬音の清らかな川、と歌われました。

泊瀬川が奈良盆地に出たところには、大伴家の田庄(たどころ)がありました。紀鹿人(きのかひと)が、都(平城京)からこの地を訪れたりしています。

この歌も、都から訪ねてきた男性との、泊瀬川の地での思い出を詠んだもの、と考えられます。作者は、大伴家の田庄で働く女性であったかもしれません。

つせがは はやはやせを」という、「は」「はや」の、軽快な繰り返しは、泊瀬川の激しい、しかし清冽な流れをイメージさせます。

「むすび上げて」の「むすぶ」は、両手で水をすくうことです。ふたりは、「杯」など持たずに、泊瀬川を訪れたのでしょう。作者の女性の住むところから、泊瀬川が近かったことが窺えます。
*『伊勢物語』に、「杯(つき)など具せざりければ、手にむすびて食はす」〔さかずきなども持ち合わせていなかったので、手ですくって水を飲ませた〕とあるのが、参考になります(「古典日本文学大系」127段〈定家本にはない章段〉)。

そして、男性は、その激しい水流の瀬に手をひたして水を汲み、それを作者に飲ませておいて、「飽(あ)かずや」――もっと飲みたいだろう(おいしいだろう)、と尋ねたのです。

ここで、「飽かずや」とあることが大切です。自分の胸の中でまったくわからないことを表明する助詞「か」に対して、助詞「や」は、話し手の見込みや確信を表明します(大野晋氏の説)。男性は、作者の女性が、きっと「飽かず(おいしい)」と思っているだろうと確信しているのです。

加えて、「飽かず」は、男女の仲についても用いられることばです。この歌の「飽かずや」にも、“きっといやになることはない、もっともっと逢いたいと、あなたは思うだろう”、という男性のメッセージが込められています。

歌の末尾の「はも」は、眼前にないものについて、“今はどうしているのだろうか”、といった述語を省略して、強い愛慕の念を、表明することばです。「飽かずや」ということばとは違って、男性は、その後訪ねてこなくなってしまったのでしょう。

注釈書によっては、この歌に、恨みや悲しみを読み取るものもあります。しかし、「泊瀬川速み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君」という、明るさと親しみに満ちた表現からは、あまり恨みや悲しみを感じ取ることができません。

歌人の窪田空穂は、この歌に、時を経てのなつかしさを直感しています。私も、空穂の意見に共感を覚えます。空穂の言う「なつかしさ」を、私なりに説明するならば、時を経ることで浄化された、暖かな思い出への懐かしさ、ということになるのではないかと思います。

この歌の作者の女性は、ある程度年月を経て(あるいは老齢になっていたかもしれません)、若かりし日を、かけがえのないものとして、想起しているのでしょう。

それにしても、この歌に描き出されている思い出は、決して特別なものではありません。清冽な泊瀬川を、ふたりで訪れたことは、作者にとっては、普段とは違う、心弾む出来事であったでしょう。しかし、それは歴史的に一回的な、また劇的なことではなく、誰もが体験するようなことです。

この歌の魅力は、何気ない、人間生活の一こまに、無限の輝きを見出し、それを生き生きと描き出したところにあります。そして、この名の伝わらぬ作者は、「思い出」というものが、日常の何気ないことのなかにこそあることを、知っていたのでしょう。


【補 記】
この記事は、以前の勤務先で、学生の皆さんが作った冊子『まほろば』に寄せた文章を基にしています。