2008年2月26日火曜日

万葉集の文字法(2)

万葉集の文字法2

文字の固定
��この記事は、「万葉集の文字法(1)」に続きます)

『万葉集』の《文字法》が、文字を、歌の「ことば」一つ一つに対応させるものではなく、文脈に依存しながら、歌に形を与えるものであることを、先の記事「万葉集の文字法(1)」で紹介しました。

先の記事では、動詞の活用語尾が、原則的に表記されないことを見ました。そして、『近付者』(巻4・570)を手懸かりに、『万葉集』の《文字法》で書かれた歌が、具体的に、どのように読まれていたか(読み下されていたか)を、推測しました。

さらに、この《文字法》の特徴を、挙げてみたいと思います。

『近付者』(巻4・570)が、逐語的に読み下すことができないことは、動詞の活用語尾の無表記によることを言いました。これは別の面から言うと、助詞・助動詞の表記の仕方の問題でもあります。

『近付者』の場合、接続助詞「者」が、仮定条件を表す場合と、確定条件を表す場合とで、明確に書き分けられていたならば、より簡単に読み下すことが、できるでしょう。しかし、そうなっていませんでした。

『万葉集』の《文字法》では、『者』や、先の記事で触れた『雖』(助詞「とも」・「ど」・「ども」に用いられる)の他に、次のような文字が、異なる助詞や、異なる助動詞を、受け持っています(これらは、「正訓字」〈日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字〉)。

  之(「の」・「が」)  従(「ゆ」・「より」)  将(「む」・「なむ」・「てむ」・「らむ」・「けむ」)
  不(「ず」・「じ」)


どの助詞・助動詞に読み下すかは、文脈によって決まります。これらの文字そのものからは、決定できません。

同じ『不』の文字が、時には「ず」(打消し)、「じ」(打消しの推量〈~シナイダロウ〉、または意志〈~シナイツモリダ〉)を表すことは、一見不便そうに思えます。しかし、歌を書き表すという点からすると、一つ一つの「ことば」に即して、細かく文字が区別されていない分、効率的に表記することができ、視覚的印象も簡潔なものとなります。

それだけではありません。写真の、8世紀の女流歌人・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌では、『不』を、打消しにも、打消しの意志にも用いることが、文字の上で、歌に生き生きとした表情も与えています。

 将来云毛不来時有乎不来云乎将来常者不待不来云物乎 (巻4・527)
 来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを
 (こむといふも こぬときあるを こじといふを こむとはまたじ こじといふものを)
 〔訳〕「来よう」と言いながら来ない時もあるのに、「来ない」と言っているのを、来るだろうと
  待ったりするなどという、馬鹿なことはいたしません。「来ない」と言っているのに。


この歌は、その頃、郎女の恋人であった、藤原麻呂(ふじわらのまろ。不比等の四男)に贈ったものです。「来じ」(来ないつもりだ〔今日はあなたのもとには行かない、の意〕)と言ってきた麻呂に対して、「来る」を繰り返しながら、今までの不実な分も加えて、言い返しています。拗ねた心を、笑いに包んで、相手に叩きつけるという、したたかな歌です。

『不来』の多用は、相手の不実さを、目に見える形で強調しています。その上、4回も用いられる『不』は、相手に、『不』と、拒否的感情を突きつけるような印象さえ与えます。「ず」と「じ」を、丁寧に書き分ける表記法で書かれていたならば、この歌独自の諧謔味は、半減することでしょう。

『不』が「ず」も「じ」も受け持つという《文字法》が、生み出した効果ですが、坂上郎女も、この効果を、十分に意識していたと思います。第2句を、『来奴時有乎』と表記することも、できないわけではありませんでした。
*打消しの助動詞「ず」を表す文字は、常に『不』でなくてはならない、ということではありません。

『万葉集』の《文字法》では、助詞・助動詞を、多用な文字によって書き分けるのではなく、ある程度固定した文字によって表記することが、行われたのです。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、1990年 (*第1編第9章の「坂上郎女の方法」は、大伴坂上郎女の歌に見られる、理知と諧謔、そして内省を、鮮やかに論じています)