2007年11月22日木曜日

万葉集巻一の書記法(1)

中大兄三山歌

漢字の表現力を用いた大胆な表記

『万葉集』は、やまと歌を漢字で書き記しています。『万葉集』の前後から、金石文・木簡などで、漢字を用いて、「日本語」を書き記すことが始まります。これらに比べて、『万葉集』の書記法は、極めて多彩で、複雑なものとなっています。

その中でも、もっとも複雑なものの一つが、巻1の書記法です。巻1は、『万葉集』20巻の中で、まず最初に成立した巻です。さらに、今日見る巻1の原形となった部分(原撰部。1番歌~53番歌)は、持統朝の末期から文武朝の初期に成立したと推定されます。

この巻1原撰部には、漢字と、その漢字が表す歌の〈ことば〉が、単純に対応していない例が、しばしば見られます。

例えば、上に掲げた中大兄(なかのおおえ。後の天智天皇)の三山歌(13~15番歌)の長歌の漢字本文が表している〈ことば〉を、平仮名で示すと次のようになります(上の写真と同じところで、改行してあります)。


 かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひ
 き かむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれ
 こそ うつせみも つまを あらそふらしき

 (香具山は、畝傍山を男らしいと思って、耳成山と争った。神の時代から、こうであるに違いない。
 むかしもこうで あるからこそ、今の世の人も、夫をめぐって、争いをするのに違いない。)


(*なお、この歌を筆録した、巻1原撰部の編者は、畝傍山を「雄男志」と表記していることから、二人の女性が、一人の男性を争ったことを詠んだ歌と解釈していたと考えられます。詳細は別の機会に記します。

上の2行目の「諍競」の2文字が、『あらそふ』(ここでは、連用形「あらそひ」)という1語を表しています。また4行目の「相挌」の2文字も、『あらそふ』の1語を表しています。「相」に対応する〈ことば〉は、ありません。

これらが、ともに「争」の文字で書かれていたならば、誰も迷うことなく、『あらそふ』と読み下すことができます。そうではなく、〈ことば〉と、直ちには対応しない、―一瞬どのように読み下せばよいのか、と戸惑うような漢字で、書き記されていることには、それなりの理由と、それを可能にする条件があったと思われます。

この三山歌を、文字に書き記したのは、作者の天智天皇ではありません。天智天皇の時代には、やまと歌を、漢字で書き記すことは、まだ行われていませんでした。

7世紀の末、初めて公的なやまと歌集を編集しようとした、巻1原撰部の編者は、口誦で伝えられて来た三山歌を収録するにあたり、ただ文字に起すのではなく、この歌に“漢字で記された歌”として、ふさわしい姿を与えようとしたのでしょう。

「諍競」は、『大宝積経』『法集経』『瑜伽師地論』などに見える仏典語で、煩悩による争いを表します。「挌」は、小島憲之氏によれば、「闘」と同じ意味です。「相」が添えられることで、互いに闘う意、打ち合う意となります。

これらの漢字は、香具山と耳成山が、ともに譲らず激しく争うさまを、強烈に印象付けるものとなっています。この歌の持っている力強さを、文字の上でも定着することを、編者はめざしたのでしょう。

そして、このような漢語的表記を駆使することで、「書物」としての巻1原撰部に、中国の詩文集と肩を並べるような、格の高さを与えようとしたのでしょう。

さらに、巻1原撰部が編集された時期には、こうした思い切った表記を、可能にするだけの条件がありました。これについては、次の記事で、詳しく記します。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.小島憲之「万葉用字考証実例(一)―原本系『玉篇』との関聯に於て―」『万葉集研究』第2集、塙書房、1973年