2007年11月8日木曜日

仙覚律師の踏みあと(鎌倉・妙本寺)

万葉集研究遺蹟碑文
(写真=万葉集研究遺蹟碑)

鎌倉の都の中の静寂

JR鎌倉駅東口から、ほど近いところに、日蓮宗の寺院・妙本寺(みょうほんじ)があります。緑豊かな、上り坂の、長い参道をしばらく進んでゆくと、視界が開け、祖師堂が目に飛び込んできます。

祖師堂の左の方に、写真のような石碑があることに、気づかれたでしょうか。石碑は、この地で、『万葉集』の研究にいそしんだ仙覚律師(せんがく・りっし)を顕彰するために、昭和5年(1930)に建立されたものです。

この「万葉集研究遺蹟碑」の脇の道を上ってゆくと、鎌倉将軍九条頼経(よりつね)の妻・竹御所(たけのごしょ。第二代将軍源頼家の娘、〔よし〕〈女偏に美〉子)の墓所があります。

この場所には、竹御所の菩提を弔うために、かつて「新釈迦堂」という、天台宗の寺院がありました。仙覚は、この「新釈迦堂」の住僧であったと思われます。

『万葉集』を、現代の私たちが読むことができるのは、『万葉集』が成立してから、1200年にわたって、この歌集を大切に思い、書写をし、また人に伝え、さらに研究に励んできた、たくさんの人々の力によります。

その中でも、最も大きな役割を果たしたのが、鎌倉時代の学僧・仙覚です。仙覚は、『万葉集』の貴重な写本12本を比較検討しつつ、最新の研究成果を盛り込んだ、『万葉集』の校訂本を完成しました。

もしこの校訂本が作られなかったならば、私たちは、『万葉集』の全貌を知ることができなかったかもしれません。というのも、現存する平安時代の写本、また仙覚の手を経ていない、鎌倉時代以後の写本で、20巻約4500首全てを、完全に伝えるものはないからです。

寛元4年(1246)12月22日に、44歳の仙覚は、「相州鎌倉比企谷新釈迦堂」で、最初の校訂本を書写し終えました(翌年に、最終的な点検をし完成)。以後、文永十年(1273)頃に没するまでに(この年、71歳)、より精度を高めた校訂本を何度も作成しました。

*寛元5年完成本の時点では、7本を比較しています。後に合計12本を見ることになります。

仙覚の生きた時代は、独裁体制を敷くことをめざした北条氏によって、政争の嵐が吹き荒れた時代でした。鎌倉の都の中にありながら、ひっそりと静まり返った、「新釈迦堂」の故地に立つと、激しい時代を、学問の道に生きた仙覚の静かな情熱が、今でも感じられるようです。
[主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年 (*巻末に仙覚略年譜を付けました)
��.井上通泰『萬葉集雑攷』明治書院、1932年 (*「新釈迦堂」についての詳しい考証がなされています)
��.久保田淳編『岩波日本古典文学辞典』岩波書店、2007年(「仙覚」「万葉集註釈」の項)

【案 内】
日蓮宗本山 比企谷 妙本寺 
 〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1-15-1

*「新釈迦堂」のあった場所は、石碑の脇の道を上ったところです。私は、初めて、妙本寺を訪ねた時、うかつにも、石碑を見ただけで帰ってしまいました。
��参拝を済ませましたら、寺務所を訪ねてみてください。志納金を納めれば、パンフレットをいただけると思います(ただし、最新の情報は未確認です)。


【碑 文】(文・井上通泰、書・菅虎雄)(*旧字体を、新字体に直してあります)


此地ハ比企谷新釈迦堂、即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル竹御所夫人ノ廟ノアリシ処ニテ当堂ノ供僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ実ニ其僧坊ナリ。今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適ニ堂ノ須弥壇ノ直下ニ当レリ。堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム。西方崖下ノ窟ハ仙覚等代々ノ供僧ノ埋骨処ナラザルカ。悉シクハ萬葉集新考附録雑攷ニ言ヘリ。昭和五年二月。宮中顧問官井上通泰撰