2007年10月16日火曜日

秋山の木の下隠り(鏡王女)

鏡王女墓から見る舒明陵
 (写真=鏡王女の墓から見る舒明陵〈正面奥の森〉)

『万葉集』には、心に残る秋の歌がたくさんあります。

秋山樹下逝水乃吾許益目御念従者(巻2・92)

秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益さめ 思ほすよりは
��あきやまの このしたがくり ゆくみずの あれこそまさめ おもほすよりは)


〔訳〕秋山の木の下をひそかに流れてゆく水が増すように、私はひそやかにあなたのことを思っています。その水の水量が「増す」という言葉ではありませんが、私の思いの方があなたのお思いに“勝る”のです。
(*古代語の「ます」は、“増す”も“勝る”も意味します。)


作者は鏡王女(かがみのおおきみ)。鏡王女は、その墓が舒明天皇陵の領域内に営まれていることなどから、舒明天皇の皇孫と考えられます。

鏡王女は、臣下の藤原鎌足と結婚します。皇族が臣下と結婚することは、この時代では異例中の異例のことです。鏡王女は、天皇家と鎌足家との間に血族的な繋がりを築くという重要な役割を、天智天皇に託されたのでしょう。鏡王女は、天智天皇にとって、最も気の置けない、そして信頼できる親族であったに違いありません。

この歌は、皇太子時代の天智天皇の歌、

  妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを
  (いもがいへも つぎてみましを やまとなる おほしまのねに いへもあらましを)

に応じたものです。“いつでも見ることができるように、山の上にあなたの家があってほしい”と、大胆な発想の歌に、鏡王女は、ひそやかな思いで応じました。

「秋山の木の下隠れ行く水の」という序詞は、色づいた山の木々、その下を人知れず流れている水(「忘れ水」)という、静かで、澄み切った秋の情景を、生き生きと浮かび上がらせます。それはまた、鏡王女自身の心に他なりません。相手の歌を、鮮やかに切り返す歌でありながら、この歌には、自己の心を見つめる目が確かに存在しています。

臣下の鎌足と結婚した鏡王女は、やがて古代最大の内乱である壬申の乱に巻き込まれてゆきます。このような歌を詠む鏡王女は、亡き鎌足の正妻として、賢明に、中立の立場を貫き通したのでしょう。乱に勝利した天武天皇は、病を得た鏡王女を見舞い、亡くなった後には、王女の祖父舒明天皇の眠る陵のすぐそばに、鏡王女を手厚く葬りました。

普通ならば、「鏡女王」とあるべきところを、『万葉集』は「鏡王女」と記しています。これは、『万葉集』の編者が、この女性への敬意を表すために特別にあつらえた称号であったのでしょう。

舒明天皇、鏡王女、そして大伴皇女の眠る、奈良県桜井忍阪のこの静かな谷は、まさに日本古代の「王家の谷」と言えます。

私が訪れた時には、この谷の田に、イノシシが遊んだ跡が残っていました(下の写真)。
王家の谷の猪