2014年8月3日日曜日

齋藤瀏『万葉名歌鑑賞』と検閲

萬葉名歌鑑賞1
(3種類の『万葉名歌鑑賞』。左から増補改訂版6版、増補改訂版初版、初版)

検閲を受けた額田王の歌の鑑賞

先の記事「1925~1945年の『万葉集』の鑑賞書」で、元陸軍軍人の歌人・齋藤瀏の『万葉名歌鑑賞』のついて、論文をまとめたことを記しました。

その後、歌人の内野光子氏の『短歌と天皇制』(風媒社、1988年)に収められた、昭和発禁歌集に関する精細な調査・研究を目にし、瀏の『万葉名歌鑑賞』も警察による削除処分の対象になっていたことを知りました。

内野氏の調査によれば、『改訂増補 万葉名歌鑑賞』(「増補 万葉名歌鑑賞」とも)は、1942年(昭和17)6月17日に100頁ほか3頁が削除の処分を受けています。

瀏の著書は他にも、歌文集『肉弾は歌ふ』(八雲書林、1939年12月25日刊)も1939年12月30日に削除の処分がなされています。内野氏は、戦時体制の一翼を担っていた瀏の「著書にすら検閲の眼は届き、削除処分に付したほど当局の力は絶対であった」と指摘しています(45頁)。

内野氏は、『改訂増補 万葉名歌鑑賞』の削除部分について、「額田王の章で、作品に触れて大海人皇子と天智天皇との関係が述べてられいる箇所と思われる」と述べましたが、削除前の版が未見のため、詳細は今後の課題とされました(46頁)。

そこで、私の手元にある『改訂増補 万葉名歌鑑賞』を確認しましたところ、初版と異同はありませんでした。それもそのはず、私の『改訂増補 万葉名歌鑑賞』は、検閲前の1942年5月10日発行の改訂増補版の初版であったからです。

急いで、検閲後の、1943年1月20日発行の改訂増補版の6版を入手しました。これを見て驚きました。

まず、奥付に記された発行部数です。

印刷 昭和17年5月5日
発行 昭和17年5月10日
再版 昭和17年6月25日 〔*検閲後の最初の版〕
��版 昭和17年7月10日(2,000部)
��版 昭和17年8月20日(2,000部)
��版 昭和17年12月1日(2,000部)
��版 昭和18年1月20日(3,000部)

1942年7月から半年の間に9,000部もが印刷されています。この時期には、ミッドウェー海戦での敗戦(6月5日~7日)、ガダルカナル島撤退の決定(12月31日、撤退は翌年2月から)などによって、太平洋戦争の戦局が決定的に変化しました。しかし、日本国民は多くを知らされぬまま、戦争の遂行を支えようとしていました。こうした状況の中で、『増補改訂 万葉名歌鑑賞』が人々の心を強く捉えていたことが窺えました。

そして、検閲による本文の変更は、確かに行われていました。変更箇所は、下に【資料】として示した通りです。変更は、どれも額田王の歌の解釈にかかわるものです(*『万葉集』の読み下しは、『増補改訂 万葉名歌鑑賞』に拠ります)。

あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる(巻1・20)
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠さふべしや(巻1・18)


瀏は、20番歌を、額田王の、大海人皇子を思慕した歌で、「野守」(野の番人)は天智天皇のことを暗示すると解釈しました。また、近江大津宮遷都の旅で、大和の三輪山に別れを告げる18番歌には、大海人皇子への別れを悲しむ心が裏にあると捉えました。三輪山を隠す「雲」は、やはり天智天皇を暗示しているととっています。つまり、瀏はこれらの歌に、額田王をめぐる天智天皇と大海人皇子の三角関係を見ようとしたのです。

検閲後には、三角関係にかかわる直接的な表現が、いちじるしく薄められ、全体的にぼんやりとしたものなっています。検閲した警察は、二人の天皇を巻き込んだ愛情関係をもつれを、はっきりと表現することを禁じたのでしょう。

しかし、検閲後のぼんやりとした6版でも、瀏が三角関係の解釈をとっていることは、明らかに読み取れます。検閲が、内容そのものというより、言い回しや表現の仕方にこだわった、形式主義的なものであったことがわかります。

『増補改訂 万葉名歌鑑賞』の変更箇所からは、「検閲」というものの忌まわしさと、些末さが、生々しく感じられます。そして、その些末さは、決してあなどれるものではないと思います。

萬葉名歌鑑賞2


【資料】齋藤瀏『増補改訂 万葉名歌鑑賞』の検閲による本文の変更
*字体は常用漢字体・通行字体に改めた。「/」は2行からなる注の改行箇所を示す。
��なお、初版の本文は、増補改訂版初版と同じ。


1.100頁7行目(額田王の巻1・20番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 額田王は鏡王女の妹で、大海人皇子の寵を受け、十市皇女を生み、後天智天皇に召された。
〔増補改訂版6版〕
 額田王は鏡王女の妹で、大海人皇子に知られて、十市皇女を生み、後天智天皇に召された。
※画像のように、6版の「知られて」が文字の軸は、行の軸から微妙にずれています。活字を植え直したことがわかります。
萬葉名歌鑑賞検閲前(増補訂正版6版)  萬葉名歌鑑賞検閲後(増補訂正版初版)


2.101頁6行目~13行目(6版では~14行目)(額田王の巻1・20番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 扨て此の歌で「君」は誰と言ふか。袂をふつたその君は誰か。それは恐らく天皇でなく、天皇に従つて居られた大海人皇子と見るべきであらう。野守は見ずや――誰か見とがめはせぬかと気遣ふのを見ると、どうしても、大海人皇子と見るのが適当である。従つて、「野守」も此の文字通り野の監視人かどうか、勿論監視人でもよいが、人払ひをした(標野)野である。額田王の心配なのは天皇であり、そのお付きの人々である。今日の此の野守り、――此の野の支配者――天皇――と通ふ所が無いだらうか。とすれば此の歌は益々よく判る。従つて大海人皇子の「むらさきの匂へる妹を憎くあらば人妻故にあれ恋ひめやも」の歌がなくとも、この歌は大海人皇子の愛の表現に対しての心遣ひの歌であることは疑ふ余地はないと思ふ。
〔増補改訂版6版〕
 扨て此の歌で「君」は誰を言ふか、袖をふつたその君は誰か、当時そこには、天皇も在らせられ、又天皇に御伴した、皇弟の大海人皇子も在らせられる。此の袖をふられた君を誰と決ること、そして野守は見ずやと気にかけて居る野守が、そこの標野の看視人か、又他の人かを決めること、その決め方が作者額田王の御心に合する時に、此の歌の生命が把握出来るのであらう。
 萬葉集には、皇太子(天智天皇の皇太子/即大海人皇子)の答へたまふと題して次の歌がある。
    紫(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人嬬(ひとづま)ゆゑに吾(われ)恋ひめやも
 此の歌で、妹とは額田王をさされたのである。当時額田王は 天皇召されて、此の野に御伴をされて居た。紫草のにほへる如き妹が憎いなら、人の嬬であるから恋ひはしないと言ふのである。この歌を以て前歌に答へられたのであるとすれば、前歌の心も自ら判るであらう。
※『増補改訂 万葉名歌鑑賞』は、1頁13行取りです。6版ではこの102頁と、次に挙げる104頁に限り、14行取りとなっています。また、6版では「天皇」の前が「欠字(けつじ)」(高位者への敬意を表すために、その名の上に1文字分程度のスペースを置くこと)となっています。

3.104頁12行目~105頁10行目(額田王の巻1・18番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 此の歌全般のリズムを味ふ時、そして此の歌の作歌動機に就きて思ひを深めると、表面は三輪山に名残を惜しんで居られるが、裏面は大海人皇子に寄する哀別の情がまぎれなく隠されて居(*』104頁)る。単なる三輪山に対しての情としては激切すぎる。「しかも」「隠す」「だにも」「あらなむ」「べしや」等の語の力を味ふとき、どうしてもこれを否定することは出来ぬと思ふ。
 実に此の歌は大海人皇子に対する心を眼前の景によつて表して居るが、私は更に「雲だにも心あらなむ」の句の雲、此の雲、今大海人皇子と額田王との別を余儀なくする雲と、かく思ひを及ぼす時、此の雲の裏には天智天皇が在すのではないかとさへ思ふのである。
 況んや天智天皇もお情ある方だ――さうむげに――だから、また逢ふこともあらう――。此のことは額田王の自慰となり、大海人皇子への慰めとなり、天智天皇への哀願となる。かく思ふことを許されるなら雲、だにもは重大な句である。
 額田王の苦しき立場、その立場から来る深刻複雑な心の動きが底にあつて、かゝる歌と現れたのではなからうか。強く胸に迫る歌である。
〔増補改訂版6版〕
 三輪山は、三輪川と穴師川との間で、今の三輪町の東にあり。穴師川を隔てて人麿の歌で知らるる、弓月嶽、纏向山に対して居る。此等は磯城、山辺両郡に属する大和平野の東部山岳地帯である。此の山岳地帯の根を紆余曲折、畝を越へ、河を渡つて、南北に連なる道が所謂山辺の道で(*』104頁)ある。
 此の道は、四道将軍の大彦の命や、丹波道主命も通り、或は此歌の作者額田王も、その泣きぬれた眼で、三輪山を振り帰り振り帰り眺めつつ、大津の宮へと旅ゆかせられたのではあるまいか。彼の人麿は妹を別を惜しんで
    石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 と詠んで居る。是は対照(ママ)が人であり、額田王の対照(ママ)は三輪山である。三輪山であるが、然し、眼は三輪山に向いて居て、心はどこに向いて居たであらう。此の激切な表現によつて見れば、単純に三輪に対しての情のみとは受け取り難いものがあると思ふ。
 此の歌はそれ故、額田王の苦しき立場、その立場から来る深刻複雑な心の動きが底にあつて、かゝる現表となつたものと思ふ。強く胸に迫る歌である。