2008年2月12日火曜日
漢字に託す恋の心
女流歌人たちの文字の趣向
『万葉集』の歌は、本来漢字で書かれています。漢字ばかりで書かれた歌は、いかめしい印象を与えます。かなに慣れ親しんでいる私たちは、これを、読むのも、書くのも難しいと、思いがちです。
しかし、7世紀末、柿本人麻呂の時代に、《文字法》と言える、漢字による歌の表記法が、確立されました。日本語のことばと、ほぼ同じ意味を表す漢字(「正訓字(せいくんじ)」)を用いて、歌の主要なことばを書き記します。
そして、日本語に対応する漢字がないことばについては、「万葉仮名」でこれを書き記します。「万葉仮名」は、漢字の「音」を用いて、日本語を書き表すものです(平仮名・片仮名とは異なり、あくまでも漢字の一用法にとどまります)。
正訓字と万葉仮名を組み合わせての表記法は、現代の漢字平仮名交じり文に、よく似ています。漢字平仮名交じり文は、表音文字だけからなる英文などと異なり、1文字1文字の音をたどりながら、1語として認識して、意味を捉えるという手続きを経ないで、漢字の部分については、これを見ただけで、瞬時に意味を理解することができます(橋元良明氏の論による)。
ひらがなだけでかかれたぶんのいみを、かいどくすることが、なかなかめんどうであることを、おもいおこしてください。
『万葉集』の《文字法》も、意味を効率的に伝えることのできる表記法と言えます。
ただし、『万葉集』の《文字法》は、現代の漢字平仮名交じり文とは異なり、歌の「ことば」の全てを文字化するものではありません。歌の文脈から、容易に補うことのできる「ことば」、例えば、動詞の活用語尾(一部例外あり)や、特定の助詞・助動詞は、思い切って、表記を省略します。
この《文字法》では、文の骨格が、きちんと、そしてシンプルに示されることになります。「意味」を伝えるという点では、『万葉集』の《文字法》は、現代の漢字平仮名交じり文よりも、効率的であるかもしれません。
そして、この《文字法》は、ある程度漢字の知識を持ち、やまと歌についての教養もある人にとっては、何を表記し、表記しないかというルールを習得しさえすれば、容易に読み書きできるものであったと考えられます。
『万葉集』の作者層が、天皇・皇族や、柿本人麻呂のような宮廷歌人たちに止まらず、中・下級の官人たちや、女性たちにまで広まっていったのは、この《文字法》の力によるところが、大きいと思います。この《文字法》によって、漢字の読み書きができ、歌の表現に馴染んでいる人ならば、誰もが、やまと歌を、文字に書き記し、そして読むことが可能になりました。
*先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」「同(2)」で書きましたように、初期の表記法の場合には、専門的な読み手の、特別な能力が必要でしたが、この《文字法》では、そうではありません。
この《文字法》は、歌の「文脈」に依存するものであるだけに、「ことば」と文字の関係が、現代の漢字平仮名交じり文ほどには、固定的ではありません。そこに、作者個人が創意工夫を働かせる余地が生まれます。
その余地を大胆に利用し、文字の上で、さまざまな趣向を凝らしたのが、8世紀の女流歌人たちです。写真の①~④がその例です。
①春日山霞多奈引情具久照月夜尓独鴨念
春日山 霞たなびき 心ぐく 照れる月夜に ひとりかも寝む (巻4・735)大伴坂上大嬢
(かすがやま かすみたなびき こころぐく てれるつくよに ひとりかもねむ)
〔訳〕春日山に霞がたなびき、心も晴れずぼんやりと照る月夜に、独り寝るのでしょうか…。
この歌は、春の朧月夜の独り寝のさびしさを詠んだ歌です。第5句の「寝む」は、普通ならば「将寝」「宿牟」「寝」などと書くところです。ところが、この歌は「念」と表記しています。「念」という漢字の、ネンという音を利用した表記です。「念」という文字面からは、単に独り寝するという「意味」だけではなく、相手を心に思って眠れずにいる女性の様子を、浮かび上がらせます。
②不相見者幾久毛不有国幾許吾者恋乍裳荒鹿
相見ぬは 幾久さにも あらなくに ここだく我は 恋ひつつもあるか
(巻4・666)大伴坂上郎女
(あひみぬは いくびささにも あらなくに ここだくあれは こひつつもあるか)
〔訳〕逢わない間が、それほど長いわけではないのに、これほどまでに、あなたに
会いたいと思っていることか。
③真玉付彼此兼手言歯五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸
ま玉つく をちこち兼ねて 言ひは言へど 逢ひて後こそ 悔いにはありといへ
(巻4・674)大伴坂上郎女
(またまつく をちこちかねて いひはいへど あひてのちこそ くいにはありといへ)
〔訳〕(ま玉つく)将来のこと、今のことを、あれこれあなたはおっしゃいますが、
逢ってしまった後にこそ、後悔するものだと聞いています。
④娘子部四咲沢二生流花勝見都毛不知恋裳揩可聞
をみなへし 佐紀沢に 生ふる花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも
(巻4・675)中臣女郎
(をみなへし さきさはに おふるはなかつみ かつてもしらぬ こひもするかも)
〔訳〕(をみなへし)佐紀沢に生える花かつみ、その花かつみではありませんが、
かつて知らない、恋をしています。
②では、第5句「ある」について、「有」「在」と普通に書かず、「荒」という借訓字を用いて、逢えぬ苦しみを表現しています。③では、第3句「言へど」を、「雖言」ではなく、「五十戸」とすることで、相手が、いかに多くのことばを並べ立てているかを、誇張し、揶揄しています。そして、第5句「は」の、「破」という万葉仮名は、逢ったために味わうであろう後悔の、ネガティブなイメージを、際立たせています。この③の恋歌を送られた男性は、大胆な文字面に、さぞ驚いたことでしょう。
④では、第5句「する」について、「為」でよいところを、「楷」(する、こする意)としています。これが初句の「をみなへし」と響き合って、一首に花摺衣の、美しいイメージを添えています。
万葉の女流歌人たちは、漢字にも、恋の心を託していたのでした。
��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.橋元良明「音読と黙読」『言語』(大修館書店)第27巻第2号、1998年2月
��.橋元良明「日本人における黙読と音読」『現代の図書館』Vol.42 No.2、2004年6月
��.沖森卓也「万葉集の表記」『万葉集Ⅰ』和歌文学講座2、勉誠社、1992年
*〔巻4・735〕の「念」が、漢字の意味を生かした表記であることは、稲岡耕二校注『萬葉集(一)』(和歌文学大系、明治書院、1997年)、佐竹昭広他校注『萬葉集一』(新日本古典文学大系、岩波書店、1999年)などにも指摘されています。