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2009年9月20日日曜日

秋の野に咲きたる花を(山上憶良):この世の宝

萩の花
(萩の花)

9月も半ばを過ぎ、日増しに秋の気配が深まっています。秋の花を目にすることも多くなりました。秋の花というと、山上憶良の歌がすぐに思い出されます。

山上臣憶良詠秋野花歌二首
秋野尓咲有花乎指折可伎数者七種花 其一
(巻8・1537)
芽之花乎花葛花瞿麦之花姫部志又藤袴朝皃之花 其二(巻8・1538)

山上臣憶良、秋の野の花を詠む歌二首
(やまのうへのおみおくら、あきのののはなをよむうたにしゆ)
秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花  その一
(あきののに さきたるはなを およびをり かきかぞふれば ななくさのはな)
萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 その二
��はぎのはな をばなくずはな なでしこのはな をみなへし またふぢばかま あさがほのはな)


〔訳〕秋の野に咲いている花を指折り数えてみれば、七種の花。
   萩の花に、尾花に、葛の花に、なでしこの花に、おみなえしに、それから藤袴に、
   朝顔の花。


この一組の歌は、“秋の七草”を初めて詠んだ歌として有名なものです。2009年9月に刊行された『NHK日めくり万葉集』vol.10(講談社)に収める第203回放送分の中でも、東京都世田谷区立船橋小学校2年1組の皆さんが、この憶良の歌について、さまざまな意見を述べています。その柔らかな感性に驚かされています。

その最後に、次のような意見を述べた生徒さんがいました。
「私も秋の野原に行って、こういう短歌を作ってみたくなりました。短歌を作った人のほんとうの気持ちをわかりたいです。」

私なりに考えた、作者憶良の気持ちを、ここに書いてみたいと思います。

何よりもまず、憶良が「七種」の花を挙げたことに注目したいと思います。なぜ「七種」なのでしょうか。現代の私たちの間では、“秋の七草”という考え方は常識になっています。しかし改めてなぜ「七」なのか、と考えると不思議です。

『NHK日めくり万葉集』vol.10の第203回のページのコラムにもあるように、七種の花のうち、葛の花と藤袴は、『万葉集』ではこの憶良の歌にしか詠まれていません。

憶良は、当時歌に詠まれることの少なかった葛の花や藤袴を挙げてまで、どうしても「七種」の花を揃えたかったようです。

憶良が「七」という数にこだわったことについて、中国の文化や思想、また仏教では、「七」を大切な数、めでたい数と考えていたことに影響を受けている、という説があります(斎藤正二氏、有岡利幸氏)。確かに、それも理由であったでしょう。

しかし、それだけではなく、憶良自身が、別の歌で「七種(ななくさ)の宝」ということを詠んでいることに、注意したいと思います。

  世の人の 尊び願ふ 七種の 宝も我は なにせむに 我が中の 生まれ出でたる 白玉の 
  我が子古日は……
(巻5・904)
  (よのひとの たふとびねがふ ななくさの たからもわれは なにせむに わがなかの うまれいでたる しらたまの 
   あがこふるひは……)


これは、「古日」という名の幼子の死を悼む長歌の冒頭です。“世の中の人全てが、尊んで欲しがる「七種の宝」も、私には何になろうか。私たちの、願いに願って生まれた、真珠のように美しく、大切な、わが子古日は”と、憶良は歌っています。

「七種の宝」よりも、子の古日こそが、自分にとっては宝であると言うのです。この「七種の宝」は、仏教の経典に出てくるの「七宝(しちほう、しっぽう)」という言葉を踏まえたものです。

「七宝」は、仏の国を美しく飾る、七つの宝のことを言います。例えば、日本や中国でよく読まれた『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』(「法華経(ほけきょう)」)という経典には、

  金
  銀
  瑠璃(るり。バイカル湖の岸などでとれる青色の玉)
  硨磲(しゃこ。シャコガイの貝殻。内側が白い)
  瑪瑙(めのう。石英が集まった鉱物で、縞模様が美しい)
  真珠
  玫瑰(まいえ。赤色の美しい石)

の「七宝」で、八千億の仏それぞれのために塔を建てる、ということが書かれています。その高さは1000由旬(ゆじゅん。サンスクリットの「ヨージャナ」。1000由旬は約11000~15000km)で、幅は500由旬にもなるということです。その途方もない華やかさと大きさは、すぐには想像がつきません。

「七宝」が具体的に何をさすかについては、仏教経典の間で、多少違いがあります。しかし、この世界で手に入れることのできる、最も貴重で美しい宝であることに、変わりはありません。もちろん、全て高価なものです。この世界では、財力のある人だけが、手にすることのできるものです。

憶良は「七宝」よりも、古日という幼い子が宝であると言います。そういえば憶良は別の歌でも、次のように歌っていました。

  銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子に及かめやも(巻5・803)
  (しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも)

この「銀」「金」「玉」も「七宝」を意識しています。この世を生きる、有限で小さな存在でしかない人間にとって大切なことは、高価な宝を手に入れることや、「さとり」を開いて、その宝で飾られた遠い遠い仏の国に行くことではなく、自然と湧き上がってくる、子どもをかわいいと思う優しい気持ちである、と憶良は言っているのです。

実は、仏教の教えでは、子どもをかわいいと思う心も、人間の心を迷わせる執着として、否定されます。すべての執着を捨てなさい、と仏は説きます。

しかし、憶良は、人間というものは執着を捨てることのできない、愚かで小さな存在でしかない、と思います。その人間が人間らしく生きるとは、どういうことかを考えます。そして、憶良は、“身近なものを、いとおしく思うことこそが、人間らしく生きることだ”、という結論にたどり着いたのです。

このように見てくると、憶良は、秋の「七種の花」の歌では、遠い仏の国の、高価な宝ではなく、野に咲くなにげない美しい七種の花こそが、この世を生きる人間にとっての宝である、と言いたかったのではないでしょうか。

「指折りかき数へれば」という言葉からは、秋の花を、ひとつひとつ、いとおしむような心が伝わってきます。

今、身近なところで、たくさんの秋の花が、時を惜しむように美しく咲いています。憶良がこの歌を通して、私たちに教えてくれたことを心に置いて、改めてその花たちを見ると、今まで以上に美しく見えることでしょう。
[主な参考文献]
��.斎藤正二『植物と日本文化』八坂書房、1979年
��.有岡利幸『秋の七草』ものと人間の文化史145、法政大学出版局、2008年
��.中西進『山上憶良』河出書房新社、1973年(『中西進万葉論集』第8巻〈講談社、1996年〉に収録)
��.井村哲夫『憶良と虫麻呂』桜楓社、1973年
��.高木市之助『大伴旅人・山上憶良』日本詩人選4、筑摩書房、1972年 〔*憶良の秋の「七種」の歌の言葉を深く味わった文章があります(102~105ページ)〕


2008年9月9日火曜日

我が心ゆたにたゆたに(作者未詳):「心」の発見

ジュンサイ
(国分寺万葉植物園にて。5月)

私たち人間は、「心」の存在を、いつから意識し始めたのでしょうか。

歌の歴史の中では、「心」というものを見つめるようになるのは、『万葉集』において、それも比較的新しい時代(8世紀)の恋歌においてのようです。

巻7に収められた「出典不明歌」に、次のような歌があります。

吾情湯谷絶谷浮蓴辺毛奥毛依勝益士(巻7・1352)

我が心 ゆたにたゆたに 浮き蓴 辺にも沖にも 寄りかつましじ
(あがこころ ゆたにたゆたに うきぬなは へにもおきにも よりかつましじ)

〔訳〕私の心は、ゆったりとしたり、ゆらゆらと動揺したりする、浮き「ぬなわ」のよう……、岸の方にも、沖の方にも寄りつくことができないでしょう。
��ゆたに=ゆったりと。
��かつ=可能を表す。~できる。
��ましじ=否定的推量を表す。~しないであろう。


相手の男性の誘いを受け入れられず、そうかといって相手を拒絶することもできない自分の心を、沼の中ほどに浮いている「ぬなわ」(スイレン科ジュンサイ)に、たとえています。

この歌が、「我が心」を主語に立てていることに、注目したいと思います。自分の心を、外から見つめている眼が感じられます。そして、この歌は、「ゆたにたゆたに」や「辺にも沖にも」のように、対照的なことばを重ねることで、行くも戻るもできない、恋の心のあり様を鮮やかに描き出しています。

自分の意志の力ではどうすることもできない、「心」というものの不思議さが表現されています。

このように、自分の意志の力を超える「心」、その人の人格から離れて、それ自体で意志を持っているような「心」は、今日私たちの意識する「心」とは微妙に異なっています。あるいは“魂”と言った方が、近いかもしれません。

ところが、このような「心」を詠む歌は、『万葉集』では、初期の歌ではなく、むしろ、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)をはじめ、8世紀の女流歌人たちの歌の中で、登場するようになります。〔巻7・1352〕などの「出典不明歌」も、今日の研究では、8世紀の作と考えられています。

平城京の都市生活の中で育まれた、理知的な眼が、かえって古代的で、非合理な「心」なるものを探り当て、「我が心」「我が心かも」「我が心から」などの表現によって、これに明確な形を与えていったのでしょう。

といっても、〔巻7・1352〕の作者も、大伴坂上郎女も、孤独の中で、「心」というものについて思索を深めた、ということではなさそうです。

実は、相手を受け入れることと拒否することの間の心情を詠むこと自体は、初期万葉の歌にまで遡ることができます。

  梓弓 引かばまにままに 寄らめども 後の心を 知りかてぬかも(巻1・98)石川郎女
  (あづさゆみ ひかばまにまに よらめども のちのこころを しりかてぬかも)

及び腰で誘った久米禅師の歌に対して、石川郎女は、上の句では、あなたが誘ったならば従い靡きましょう、と禅師に期待を持たせながら、下の句では、禅師の心が本心かどうかわからないと言い、誘いを退けます。翻弄された禅師は、あわてて、「本心からだ」という誓いの歌を返します。

〔巻7・1352〕も、相手の男性の誘いを、たくみに、はぐらかした歌なのでしょう。誘いを退けながらも、相手への好意を伝える歌となっているように思います。

私は、この歌で読まれる「ぬなわ」、つまりジュンサイの葉の様子を、実際に眼にして、一層そう思うようになりました。ジュンサイという水草は、泥中に這う根茎から葉柄(ようへい)が出て、径10㎝ほどの楕円形の葉を水面に浮かべます。

その葉は、上の写真のように、たくさん、まとまって水面に浮かびます。それらは、普段はじっと動かず、静まり返っています。風が吹いたり、波が起こったりすると、一斉に動き始め、風や波が止むと、もとに戻るのでしょう。この情景に、“孤独の中で見つめられた、ひそやかな心象風景”といったものとは異なる力強さを、私は感じます。

自分ではどうすることもできない「心」というものは、8世紀の恋歌の贈答において、男性の歌を切り返すための、発想の一つとして発見されたのでした。


2008年5月8日木曜日

泊瀬川速み早瀬を(作者未詳):恋の思い出

瀬
(とある川の瀬)

全20巻約4500首におよぶ“万葉の森”を散策していると、思いがけず、心打たれる歌に出会います。

泊湍河速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳(巻11・2706)

泊瀬川 速み早瀬を むすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも
(はつせがは はやみはやせを むすびあげて あかずやいもと とひしきみはも)

〔訳〕泊瀬川の流れの速い早瀬の水を、両手ですくい上げて、「もっと飲みたいだろう、お前」と私に尋ねてくださったあなたは、今どうしているのでしょう……。
��速み=「速し」の名詞形。


この歌は、作者未詳歌ばかりを集めた巻11に収められています。その作者未詳歌の中でも、「出典不明歌」と呼ばれているものです。
*作者未詳歌の中でも、『柿本朝臣人麻呂歌集』『古歌集』など、出典が示されていない歌を、万葉集研究では、「出典不明歌」と言います。

「出典不明歌」は、奈良時代(8世紀)の、平城京に住む下級官人や、その縁者の歌と考えられています。巻11には、約330首の「出典不明歌」が収められています。

「出典不明歌」は、名の残る歌人たちの歌と比べるならば、ことばが、十分に練り上げられたものではありません。しかし、これらの中には、人間の喜びと悲しみを、巧むことなく、印象的なことばに結晶させたものが、たくさんあります。この歌も、そのひとつです。

泊瀬(はつせ)の地は、現在の奈良県桜井市初瀬を中心に、宇陀郡榛原町の一部にかけての一帯です。万葉時代には、「泊瀬小国(はつせおぐに)」とも言われ、山に抱かれ、水の豊かな聖地と考えられていました。ここを流れる泊瀬川(今の初瀬川)は、『万葉集』では、水流の激しい、そして瀬音の清らかな川、と歌われました。

泊瀬川が奈良盆地に出たところには、大伴家の田庄(たどころ)がありました。紀鹿人(きのかひと)が、都(平城京)からこの地を訪れたりしています。

この歌も、都から訪ねてきた男性との、泊瀬川の地での思い出を詠んだもの、と考えられます。作者は、大伴家の田庄で働く女性であったかもしれません。

つせがは はやはやせを」という、「は」「はや」の、軽快な繰り返しは、泊瀬川の激しい、しかし清冽な流れをイメージさせます。

「むすび上げて」の「むすぶ」は、両手で水をすくうことです。ふたりは、「杯」など持たずに、泊瀬川を訪れたのでしょう。作者の女性の住むところから、泊瀬川が近かったことが窺えます。
*『伊勢物語』に、「杯(つき)など具せざりければ、手にむすびて食はす」〔さかずきなども持ち合わせていなかったので、手ですくって水を飲ませた〕とあるのが、参考になります(「古典日本文学大系」127段〈定家本にはない章段〉)。

そして、男性は、その激しい水流の瀬に手をひたして水を汲み、それを作者に飲ませておいて、「飽(あ)かずや」――もっと飲みたいだろう(おいしいだろう)、と尋ねたのです。

ここで、「飽かずや」とあることが大切です。自分の胸の中でまったくわからないことを表明する助詞「か」に対して、助詞「や」は、話し手の見込みや確信を表明します(大野晋氏の説)。男性は、作者の女性が、きっと「飽かず(おいしい)」と思っているだろうと確信しているのです。

加えて、「飽かず」は、男女の仲についても用いられることばです。この歌の「飽かずや」にも、“きっといやになることはない、もっともっと逢いたいと、あなたは思うだろう”、という男性のメッセージが込められています。

歌の末尾の「はも」は、眼前にないものについて、“今はどうしているのだろうか”、といった述語を省略して、強い愛慕の念を、表明することばです。「飽かずや」ということばとは違って、男性は、その後訪ねてこなくなってしまったのでしょう。

注釈書によっては、この歌に、恨みや悲しみを読み取るものもあります。しかし、「泊瀬川速み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君」という、明るさと親しみに満ちた表現からは、あまり恨みや悲しみを感じ取ることができません。

歌人の窪田空穂は、この歌に、時を経てのなつかしさを直感しています。私も、空穂の意見に共感を覚えます。空穂の言う「なつかしさ」を、私なりに説明するならば、時を経ることで浄化された、暖かな思い出への懐かしさ、ということになるのではないかと思います。

この歌の作者の女性は、ある程度年月を経て(あるいは老齢になっていたかもしれません)、若かりし日を、かけがえのないものとして、想起しているのでしょう。

それにしても、この歌に描き出されている思い出は、決して特別なものではありません。清冽な泊瀬川を、ふたりで訪れたことは、作者にとっては、普段とは違う、心弾む出来事であったでしょう。しかし、それは歴史的に一回的な、また劇的なことではなく、誰もが体験するようなことです。

この歌の魅力は、何気ない、人間生活の一こまに、無限の輝きを見出し、それを生き生きと描き出したところにあります。そして、この名の伝わらぬ作者は、「思い出」というものが、日常の何気ないことのなかにこそあることを、知っていたのでしょう。


【補 記】
この記事は、以前の勤務先で、学生の皆さんが作った冊子『まほろば』に寄せた文章を基にしています。


2008年3月7日金曜日

巨勢山のつらつら椿(坂門人足)

椿

光が明るくなり、暖かさが、少しずつ寒さにまさってゆくこの時期、椿の花を目にするようになります。大きな赤い花と、光を照り返す厚手の葉は、春の到来を、実感させてくれます。

『万葉集』巻1には、椿の歌が収められています。

巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎(巻1・54)

巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を
(こせやまの つらつらつばき つらつらに みつつしのはな こせのはるのを)

〔訳〕巨勢山の「つらつら椿」―連なった椿の木々、そして点々と連なって咲く椿の花、つくづくと秋の椿の木々を見て、思い起こそうではありませんか。あの巨勢の春の野を。

題詞(だいし)によれば、この歌が、大宝元年(701)9月(太陽暦10月)に、持統上皇が紀伊国に行幸した時に、詠まれた歌の1首です。

まだ上皇の車駕が、大和国の巨勢(現在の奈良県御所市古瀬)にある時点での歌です。そして、不思議なことに、坂門人足(さかとのひとたり)の、この歌は、今眼前にない、巨勢の野の、春の様子に思いを馳せよう、と歌います。

『万葉集』の旅の歌では、眼前に広がる、美しい情景を讃美するのが、普通です。この歌は、『万葉集』の旅の歌としては、異例と言ってよいでしょう。

この大宝元年の紀伊国行幸では、たくさんの歌が作られています(巻9・1667~1681)。しかし、『万葉集』巻1の編者は、この行幸時の歌を、2首のみ、巻1に取り上げ、しかも、この特異な歌を、最初に挙げました。

それは、巨勢の春野の椿が、持統上皇一行に共通する記憶を、呼び起こすものであったからだと思います。

この歌の第2句の「つらつら椿」は、「列々椿」という文字表記から、直接的には、椿の並木を表すものと言えます。しかし、それだけではないようです。

大宝元年の紀伊国行幸の2首の歌の次に、「或本(あるふみ)の歌」として、次の、春日老(かすがのおゆ)の歌が、後の人の手によって、補われています。

 河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(巻1・56)
 (かはのへの つらつらつばき つらつらに みれどもあかず こせのはるのは)

老の歌は、まさに眼前の、巨勢の春野を、讃美しています。「つらつら椿」という、リズム感あふれることばは、椿の、大きな赤い花が点々と連なって咲くさまと(澤瀉久孝氏『萬葉集注釈』の解釈)、光沢のある葉の繁りを、生き生きと浮かび上がらせるものです。

紀伊国行幸の一行は、老の歌を知っていたことでしょう。そして、人足が、「巨勢山の つらつら椿……」と、一同の前で読み上げた時、これを聞く人々は、老の歌を思い出しながら、つややかな葉の間に、生命力に満ちた、赤い椿の花が、連なり咲くイメージを、心に思い描いたに、相違ありません。

人足の歌の第4句「見つつ偲はな」ということばからは、その椿の花が見られず残念だ、という気持ちは、感じられません。むしろ、巨勢の春野を想像しての、浮き立つような思いが、伝わってきます。

巨勢は、大和から紀伊への通路にある土地ですが、ここから東南に、今木峠(いまきとうげ)を越えると、吉野へ出ることができます。万葉時代には、飛鳥・藤原京方面から、吉野川流域に出るには、5ルートがありました。その中でも、巨勢から今木峠を越え、下市口に出るルートは、距離は最も長いものの、一番負担の少ないものでした(犬養孝氏『万葉の旅』による)。

持統天皇は、在位中に31回、譲位後に2回、吉野に行幸しています。特に、まだ寒さの残る時期の、吉野行幸には、巨勢経由のルートが、選ばれたことと思います。

椿の花の連なり咲く、巨勢の春野は、持統上皇を始めとする、紀伊国行幸の一行が、吉野行幸の時に目にしたことのある風景であったのでしょう。その巨勢の春野に、思いをはせることは、一同が共通に知っている、持統天皇を中心とする吉野行幸の華やぎや、その折の、高揚する心を、思い起こすことでもあったのでしょう。

『万葉集』巻1の編者は、持統天皇の治世の繁栄を想起させる、この歌を、大切な歌と考えたのでしょう。

この大宝元年の紀伊行幸は、大宝令施行後、最初の、そして異例の長期にわたる行幸でした。それは、単なる遊覧ではなく、新しい国家体制の樹立を、紀伊国の神々や、祖先に報告する、重要な行幸であったと思われます。

藤原京を造営し、そして大宝令を完成させ、古代日本を、律令国家に仕上げたのは、持統天皇でした。その新しい時代の幕開けを告げるのに、最もふさわしい歌として、巻1の編者は、この人足の歌を選び、大宝元年の紀伊国行幸時の歌群の、最初に置いたのだと思います。

今年の冬、私は、椿の開花を、今か今かと、待ちかねていました。2月に見る、赤い花は、山茶花ばかり。椿は、光が増し、春の到来が確実に感じられる時期になって、咲き始めました。暖かな光の中の、色鮮やかな花と、光沢ある葉に、紀伊国行幸の人々の心を、改めて実感したように思います。


2008年1月13日日曜日

消残りの雪にあへ照る(大伴家持)

ヤブコウジ

この季節には、センリョウやマンリョウの、美しい赤い実を、目にします。しかし、古代の人々が好んだ、「山橘」(ヤブコウジ科ヤブコウジ)の実を見る機会は、なかなか得られません。

大伴家持の次の歌を読んで以来、ヤブコウジの実を見たい見たいと思っていました。

気能己里能由伎尓安倍弖流安之比奇乃夜麻多知婆奈乎都刀尓通弥許奈(巻20・4471)

消残りの 雪にあへ照る あしひきの 山橘を つとに摘み来な
(けのこりの ゆきにあへてる あしひきの やまたちばなを つとにつみこな)


〔訳〕消え残った白い雪に合わせて、照り輝やく、(あしひきの)山橘を、みやげに摘んで来たいものです。

この歌は、天平勝宝8歳(756)11月5日の作です。この年の2月に、密告によって、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)が、辞職しました。5月2日には、聖武上皇が崩御しました。

上皇崩御を機に、時の権力者・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と、仲麻呂を打倒しようとする、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ。諸兄の子)を中心とするグループの間の緊張が、一挙に高まりました。崩御から間もない、5月10日には、早くも、大伴一族の長老・古慈斐(こしび。時に69歳)が、淡海三船(おうみのみふね)とともに、朝廷を誹謗した罪で捕らえられるという事件が起こりました。

古慈斐らはすぐに釈放となりましたが、家持の受けた衝撃は大きく、6月17日に、誉ある先祖の名を絶やさぬようにと、大伴一族に諭す長歌とともに、無常を悲しみ、出家に心惹かれ、さらに命の長さを願う痛切な短歌を作りました。この後、家持はしばらく歌を詠まなくなります。

��か月に及ぶ沈黙を破って、久しぶりに詠まれたのが、上の歌です。家持は、冬枯れの季節を彩る、山橘の実の美しさを、残雪の白さと対照させながら、「照る」(光り輝く)ものと、歌いました。

この歌の題詞は、この日(太陽暦では12月5日)に、少しばかり雷鳴がして、雪が庭に積もったこと、そしてこの光景に家持が感興を覚えたことを、記しています。「つとに摘み来な」と歌っていることも考え合わせると、この山橘は、家持が、今現に見ているものではなく、想像しているものなのでしょう。

家持は、越中国司時代の、天平勝宝2年(750)12月に、山橘の歌を詠んでいます。

  この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む(巻19・4226)
  (このゆきの けのこるときに いざゆかな やまたちばなの みのてるもみむ)

都の、家持の邸宅の庭一面に降り積もった雪は(天平勝宝8歳の初雪であったと思います)、照り輝く山橘の実を想い起こさせ、さらにそれは、越中時代の記憶にも繋がるものであったのでしょう。山橘の実が、家持の傷心を癒すものであったことが窺えます。

『源氏物語』をはじめ、平安時代以後の文献では、山橘の実は、強い生命力の象徴とされています。家持も、この赤い実に、強い「いのち」を感じたことと思います。

��山橘の実は、正月に贈る卯槌(うづち。邪気を払う槌)に添えられたり、童子の髪を肩で切り揃え、その成長を祝う髪そぎの儀式に用いられたりしました。


私は、花屋さんに、山橘(ヤブコウジ)を取り寄せてもらいました。その姿を見て、家持の思いが納得できました。本当に小さな、愛らしい木でした(10~13㎝)。1本がつける実の数も、センリョウやマンリョウに比べれば、はるかに少なく、4、5個程度です。しかし、1個の大きさはセンリョウなどよりやや大きく、何よりも深い赤色が、この植物の芯の強さを感じさせました。

この時取り寄せたヤブコウジは、なかなか地植えができないでいるうちに、この頃住んでいた場所特有の、異常な強風のために枯らしてしまいました。その後、都内に転居しましたが、昨年末に、花屋さんの店頭に置かれたヤブコウジを、偶然見かけ、思わず購入してしまいました。それが、上の写真です。

ところが、室外の寒さを好む植物なので、ベランダに置いたところ、目立たぬようにしたのにもかかわらず、鳥に見つけられてしまいました。今は、白い花と常緑の葉ばかりとなってしまいましたが、深く、清冽な赤色の実を思い出すと、心が洗われるようです。


*古典に見える山橘については、国文学編集部編『知っ得 古典文学植物誌』(学燈社、2007年7月刊)をご参照ください(「橘」「ゑぐ」「山橘」の項目を、私が執筆しています)。

酒井抱一描くヤブコウジ
(現在、東京国立博物館で開かれている「宮廷のみやび」展に出品されている、「四季花鳥図屏風」(酒井抱一筆。陽明文庫蔵)[158]の左隻の左下方には、雪の下のヤブコウジが描かれています。是非ご覧になってください。)

2007年10月26日金曜日

わたつみの豊旗雲に(中大兄)

秋の月

月の美しい季節になりました。『万葉集』の月の歌として、まず思い出されるのは、中大兄(なかのおおえ。後の天智天皇)の歌です。

渡津海乃豊旗雲尓伊理比弥之今夜乃月夜清明己曾(巻1・15)

わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
(わたつみの とよはたくもに いりひみし こよひのつくよ さやけかりこそ)

〔訳〕海神の、大空を横切る旗雲に、入日を見た、その夜の月は、さやかであってほしい。

この歌は、斉明天皇7年(661)、天皇自身が軍を率いて、百済救援に向かう途中に立ち寄った播磨国の印南国原(明石から加古川にかけて)で、中大兄が詠んだ歌です。

旗雲は、瑞雲と考えられていました。この歌では、それを、「わたつみの豊旗雲」と、海神の霊威の表れと見ています。その雲に、日が沈むという荘厳な光景を、中大兄たち一行は目にしたのです。

「さやけかりこそ」の「こそ」は、希求を表しますが、この歌の場合、夕方の荘厳な光景に、その夜の月の明るさ、つまり夜の航海での、海神の加護を確信した上で、“さやかであってほしい”と願っています。

ところで、この歌で注目したいのは、漢字本文です。第三句の「入日見之」を、「伊理比弥之」と万葉仮名で書いています。普通ならば「入日見之」と書くところです。

一方、第五句は「清明己曾」と書いています。この表記は、多くの研究者を悩ませて来ました(ここでは「さやけかりこそ」と訓読しましたが、諸説あります)。この歌を文字に起した人は、どうしても「清明」という文字を使いたかったようです。

新日本古典文学大系は「清明」が、月の明るさを表すのに、仏典でしばしば用いられることばであることを指摘しています。また漢語の「清明」には、天下が平和に治まる意味もあります。

月の光の曇りない明るさと、航海の平安が約束されていることを、文字の上でも力強く表現するために、「清明」と書いたのでしょう。

第三句を「伊理比弥之」と万葉仮名で書いたのも、この「清明」という表記と関係していると思われます。もしここを「入日見之」と書いたならば、入日の鮮明なイメージが、月の「清明」なイメージを弱めてしまいます。

一首のイメージの中心が、月の明るさになるように、第三句をわざと万葉仮名にひらいたのでしょう。この歌を文字に起した人の意図に沿うように、訓読文を漢字仮名交じりで書くと、次のようになります。

渡津海の豊旗雲にいりひみし今夜の月夜清明かりこそ

『万葉集』巻一・巻二では、このように、歌一首全体を考えながら、あるところは、思い切って漢語的表記を用い、あるところは万葉仮名にひらくということが行われています。

この歌を文字に記したのは、中大兄自身ではありません。中大兄に頃には、まだ歌を文字で記すということは始まっていませんでした。歌を文字で書くようになる、天武・持統朝に、文字について、非常にセンスある人物が、一首に「文字の歌」としての姿を与えたのでしょう。

2007年10月16日火曜日

秋山の木の下隠り(鏡王女)

鏡王女墓から見る舒明陵
 (写真=鏡王女の墓から見る舒明陵〈正面奥の森〉)

『万葉集』には、心に残る秋の歌がたくさんあります。

秋山樹下逝水乃吾許益目御念従者(巻2・92)

秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益さめ 思ほすよりは
��あきやまの このしたがくり ゆくみずの あれこそまさめ おもほすよりは)


〔訳〕秋山の木の下をひそかに流れてゆく水が増すように、私はひそやかにあなたのことを思っています。その水の水量が「増す」という言葉ではありませんが、私の思いの方があなたのお思いに“勝る”のです。
(*古代語の「ます」は、“増す”も“勝る”も意味します。)


作者は鏡王女(かがみのおおきみ)。鏡王女は、その墓が舒明天皇陵の領域内に営まれていることなどから、舒明天皇の皇孫と考えられます。

鏡王女は、臣下の藤原鎌足と結婚します。皇族が臣下と結婚することは、この時代では異例中の異例のことです。鏡王女は、天皇家と鎌足家との間に血族的な繋がりを築くという重要な役割を、天智天皇に託されたのでしょう。鏡王女は、天智天皇にとって、最も気の置けない、そして信頼できる親族であったに違いありません。

この歌は、皇太子時代の天智天皇の歌、

  妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを
  (いもがいへも つぎてみましを やまとなる おほしまのねに いへもあらましを)

に応じたものです。“いつでも見ることができるように、山の上にあなたの家があってほしい”と、大胆な発想の歌に、鏡王女は、ひそやかな思いで応じました。

「秋山の木の下隠れ行く水の」という序詞は、色づいた山の木々、その下を人知れず流れている水(「忘れ水」)という、静かで、澄み切った秋の情景を、生き生きと浮かび上がらせます。それはまた、鏡王女自身の心に他なりません。相手の歌を、鮮やかに切り返す歌でありながら、この歌には、自己の心を見つめる目が確かに存在しています。

臣下の鎌足と結婚した鏡王女は、やがて古代最大の内乱である壬申の乱に巻き込まれてゆきます。このような歌を詠む鏡王女は、亡き鎌足の正妻として、賢明に、中立の立場を貫き通したのでしょう。乱に勝利した天武天皇は、病を得た鏡王女を見舞い、亡くなった後には、王女の祖父舒明天皇の眠る陵のすぐそばに、鏡王女を手厚く葬りました。

普通ならば、「鏡女王」とあるべきところを、『万葉集』は「鏡王女」と記しています。これは、『万葉集』の編者が、この女性への敬意を表すために特別にあつらえた称号であったのでしょう。

舒明天皇、鏡王女、そして大伴皇女の眠る、奈良県桜井忍阪のこの静かな谷は、まさに日本古代の「王家の谷」と言えます。

私が訪れた時には、この谷の田に、イノシシが遊んだ跡が残っていました(下の写真)。
王家の谷の猪