2008年9月9日火曜日

我が心ゆたにたゆたに(作者未詳):「心」の発見

ジュンサイ
(国分寺万葉植物園にて。5月)

私たち人間は、「心」の存在を、いつから意識し始めたのでしょうか。

歌の歴史の中では、「心」というものを見つめるようになるのは、『万葉集』において、それも比較的新しい時代(8世紀)の恋歌においてのようです。

巻7に収められた「出典不明歌」に、次のような歌があります。

吾情湯谷絶谷浮蓴辺毛奥毛依勝益士(巻7・1352)

我が心 ゆたにたゆたに 浮き蓴 辺にも沖にも 寄りかつましじ
(あがこころ ゆたにたゆたに うきぬなは へにもおきにも よりかつましじ)

〔訳〕私の心は、ゆったりとしたり、ゆらゆらと動揺したりする、浮き「ぬなわ」のよう……、岸の方にも、沖の方にも寄りつくことができないでしょう。
��ゆたに=ゆったりと。
��かつ=可能を表す。~できる。
��ましじ=否定的推量を表す。~しないであろう。


相手の男性の誘いを受け入れられず、そうかといって相手を拒絶することもできない自分の心を、沼の中ほどに浮いている「ぬなわ」(スイレン科ジュンサイ)に、たとえています。

この歌が、「我が心」を主語に立てていることに、注目したいと思います。自分の心を、外から見つめている眼が感じられます。そして、この歌は、「ゆたにたゆたに」や「辺にも沖にも」のように、対照的なことばを重ねることで、行くも戻るもできない、恋の心のあり様を鮮やかに描き出しています。

自分の意志の力ではどうすることもできない、「心」というものの不思議さが表現されています。

このように、自分の意志の力を超える「心」、その人の人格から離れて、それ自体で意志を持っているような「心」は、今日私たちの意識する「心」とは微妙に異なっています。あるいは“魂”と言った方が、近いかもしれません。

ところが、このような「心」を詠む歌は、『万葉集』では、初期の歌ではなく、むしろ、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)をはじめ、8世紀の女流歌人たちの歌の中で、登場するようになります。〔巻7・1352〕などの「出典不明歌」も、今日の研究では、8世紀の作と考えられています。

平城京の都市生活の中で育まれた、理知的な眼が、かえって古代的で、非合理な「心」なるものを探り当て、「我が心」「我が心かも」「我が心から」などの表現によって、これに明確な形を与えていったのでしょう。

といっても、〔巻7・1352〕の作者も、大伴坂上郎女も、孤独の中で、「心」というものについて思索を深めた、ということではなさそうです。

実は、相手を受け入れることと拒否することの間の心情を詠むこと自体は、初期万葉の歌にまで遡ることができます。

  梓弓 引かばまにままに 寄らめども 後の心を 知りかてぬかも(巻1・98)石川郎女
  (あづさゆみ ひかばまにまに よらめども のちのこころを しりかてぬかも)

及び腰で誘った久米禅師の歌に対して、石川郎女は、上の句では、あなたが誘ったならば従い靡きましょう、と禅師に期待を持たせながら、下の句では、禅師の心が本心かどうかわからないと言い、誘いを退けます。翻弄された禅師は、あわてて、「本心からだ」という誓いの歌を返します。

〔巻7・1352〕も、相手の男性の誘いを、たくみに、はぐらかした歌なのでしょう。誘いを退けながらも、相手への好意を伝える歌となっているように思います。

私は、この歌で読まれる「ぬなわ」、つまりジュンサイの葉の様子を、実際に眼にして、一層そう思うようになりました。ジュンサイという水草は、泥中に這う根茎から葉柄(ようへい)が出て、径10㎝ほどの楕円形の葉を水面に浮かべます。

その葉は、上の写真のように、たくさん、まとまって水面に浮かびます。それらは、普段はじっと動かず、静まり返っています。風が吹いたり、波が起こったりすると、一斉に動き始め、風や波が止むと、もとに戻るのでしょう。この情景に、“孤独の中で見つめられた、ひそやかな心象風景”といったものとは異なる力強さを、私は感じます。

自分ではどうすることもできない「心」というものは、8世紀の恋歌の贈答において、男性の歌を切り返すための、発想の一つとして発見されたのでした。