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2009年7月26日日曜日

国宝・三十帖冊子の修復

三十帖冊子
(写真=2009年6月2日付日本経済新聞の記事、および『花洛・仁和寺』(総本山 仁和寺発行)から)

巻子本から冊子本への変革の歴史の解明を期待

2009年6月2日(火)付の日本経済新聞などで、京都・仁和寺所蔵「三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)」(国宝)が、京都府教育委員会によって修復されることが決まったと報じられました。

私にとって、以前から「三十帖冊子」は大変気になる存在でした。「三十帖冊子」は、実は中国文化圏で、書写・製作年代がわかる、最古の冊子本です。

「三十帖冊子」は、その内容と周辺資料から、空海が唐に留学した、延暦23年〔中国では貞元20年〕(804)から大同元年〔元和元年〕(806)の間に書写・製作されたものであることが、確実と見られています。若き空海が自ら書写した経典も、多数含まれています。

敦煌写本の中に冊子本も見られます。その中に、料紙や筆跡などから8世紀中葉のものと推測されるものがあります(『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』Or.8210/S.5478。池田温氏の推定による)。8世紀の盛唐期(玄宗の時代)には、冊子本が登場していたことが伺えます。

とはいえ、この敦煌写本の冊子本も、残念ながら書写・製作年代を具体的に絞り込むまでの手懸かりはありません。私たちは、中国の、西安(唐の都・長安)などの中心地域に、唐代の冊子本が多く残っているのではないか、と思いがちです。しかし、中心地域では、冊子本はもちろん、巻子本の写本も早くに失われてしまっています。

西域への窓口であった、西の辺境の敦煌と、海隔てた東方の日本に、唐代の写本や、それらに影響を受けた写本が、数多く残ることになりました。

それだけに、書写・製作年代が確実な「三十帖冊子」は、中国文化圏における初期の冊子本の姿を伝える、極めて貴重な書物と言えます。しかも、その分量は30帖、また内容も経典96部168巻、梵字真言・偈頌(げじゅ。詩)・讃・回向文(えこうぶん)など47種に及びます(内容については、『請来美術図録』の算定による)。
*「三十帖冊子」のように「粘葉装(でっちょうそう)」という装丁の冊子本は、1冊を1帖と数えます。
��「三十帖冊子」は、本来38帖でしたが、既に延喜18年(918)には、30帖となっていました。この間に散逸した『十地経(じゅうじきょう)』『十力経(じゅうりっきょう)』の2帖は、その後、幸運なことに仁和寺に納められました(38帖のうち、32帖を仁和寺が所蔵していることになります)。


日本経済新聞の記事によれば、修復は次のように行われるとのことです。
  表紙に使われている絹地が擦り切れ、欠損した部分に裏側から同じ絹の布を当てるほか、
  紙の一部にある虫食い穴を和紙で埋めて補修する。

表紙を中心に修復が行われるようです。

中国文化圏において冊子本が、「正式な」書物である巻子本に対して、個人用の、ノートに近いものであったことは、先の記事「大きさから見た巻物と冊子本」に書きました。「三十帖冊子」も、本紙には界線も引かれず、1頁の行数や1行の字数も一定しておらず、拙い書き手による書も見え、やはりノートに近いものと言えます。

ところが、その一方で、「三十帖冊子」の本紙は、紙の外側に紫に染めた平織(ひらおり)の絹、内側に白絹を貼った表紙(紫の絹を貼った帖もあります)で、包み込まれています。この表紙の右端には発装が取り付けられ、発装の中央にはが結び付けられています。

本紙を左から覆う表紙の上に、右から覆う表紙が重なり、紐で全体を結ぶ体裁となります。そして、多くの帖に、金字で外題が書かれています(もちろん楷書です)。
*藤本孝一氏によれば、この表紙は、2枚を底で貼り継いだものとのことです。

「三十帖冊子」は冊子本でありながら、巻子本に近い装丁となっているのです。この装丁は、長安で施されたものと考えられています(真保龍敞氏、中田勇次郎氏ら)。

表紙の絹の性質(糸の縒り・幅・密度など)、発装の形状、紐の組織やその糸の特徴などについて、詳細なデータが得られたならば、「三十帖冊子」の製作のために、どのような技術が駆使されたかが明らかになるでしょう。当時の中国の造本技術に、新たな光が当たるに相違ありません。

また、それは、なぜ「三十帖冊子」が冊子本でありながら、このような装丁を採ったのか、具体的に解明することにもなるでしょう。

そして、この「三十帖冊子」の装丁は、7・8世紀の中国文化圏における巻子本の装丁を知る重要な手懸かりでもあります。この時期に、巻子本の表紙に絹布が用いられたことは、「正倉院文書」などに記録されています。しかし、実際の遺品は、敦煌写本にも、古代の日本に輸入、または書写された巻子本にも、今のところ見出せないようです。

さらに、巻子本の紐も、記録には、さまざまな種類のものが見えるものの、7・8世紀に製作された実物は、ごくわずかしか現存していません。

今回の修復を機に、中国文化圏における、巻子本から冊子本への変革の歴史が明らかにされることを思うと、期待に心踊ります。
*なお、「三十帖冊子」は、成立当初から、内容・装丁の両方で、安定している部分と不安定な部分とがある上(中田勇次郎氏らによる)、複雑な伝来の歴史を経てきています。「書物」としての「三十帖冊子」の性質や歴史も、今回の修復で明らかになることでしょう。
[主な参考文献]
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.奈良国立博物館編『請来美術図録』奈良国立博物館、1967年
��.藤本孝一『古写本の姿』日本の美術第436号、至文堂、2002年
��.禿氏祐祥『三十帖策子に就て』六大新報社、1950年
��.真保龍敞「『三十帖策子』原型の輪郭について」『印度学仏教学研究』第15巻第1号、1966年12月
��.真保龍敞「三十帖策子の原初形態-伝教大師借覧の策子について-」『印度学仏教学研究』第18巻第1号、1969年12月
��.中田勇次郎「三十帖策子の書について」『国宝 三十帖策子 重要文化財 十地経策子〈原寸複製〉』解説、法蔵館、1977年


2007年12月20日木曜日

竹の文化と巻物

発装
(写真=現代の巻物の表紙・発装・紐。発装は表紙の布に包まれています)

発装が示す巻物文化の形成と伝播

巻物の表紙の端には、表紙の破れやめくれを防ぐために、「発装(はっそう)」といわれる、細長い竹、または木を、貼り付けます。「」も、「発装」に巻き付けて、固定します。

この、表紙の端の、小さなパーツから、巻物文化に関する興味深い事実を、読み取ることができます。

敦煌写本の発装は、木製と言われていましたが、実際には、数多くの竹製の発装の例を見ることができます。竹を発装に用いることが普通である、日本の巻物を見慣れた目からすると、これは、当たり前のことのように見えます。しかし、そうではありません。

竹が生育できるのは、年間の平均気温が10℃以上で、最寒月の平均温度がマイナス1℃以上の地域です。また竹が、天然更新(無性繁殖)によって生育を維持するためには、年間で1000㎜以上の降水量が必要です。特に温帯地域では、1ヶ月に100㎜以上の降水量が、年間で最低2ヶ月必要となります(以上は、内村悦三氏によります)。

敦煌では、夏の暑さは40℃を越して厳しいものの、冬はマイナス20℃に達し、また、雨は年に1、2回で、年間降水量は40㎜に止まり、さらに、間断なく、激しい西風が吹きつけます(池田温氏・大橋一章氏によります)。このような敦煌では、竹は育ちようもありません。

敦煌で発見された写本に、竹製の発装を数多く見ることができるということは、驚くべきことです。それは、①写本自体が、中国の中央部で製作されたものであること、または②敦煌で製作された写本であるとするならば、発装用の竹を、わざわざ中国南部から入手していたことを示しています。

もちろん、しなやかで強い竹は、発装の素材として、いかにもふさわしいものです。しかし、敦煌、さらに隋・唐の都のあった長安などで、もっと容易に手に入れることができる、適当な木材も、あったかもしれません。竹こそが、巻物の発装としてふさわしい、という意識が、巻物を製作する人々の間に、根強く存在していたように思われます。

(*内村悦三氏の「世界の竹の天然分布と生育型」の図では、長安(現・西安)は竹の生育地域からは、はずれています。)

「竹海」ということばがふさわしいほどに、竹が繁茂し、竹資源に恵まれた、中国南部では、豊かな竹の文化が育まれました。巻物の発装に竹を用いることも、南北朝時代(5~6世紀)、江南地方に都を置いた南朝において、確立された装丁形式であったのでしょう。

この装丁形式が、北朝に、また北朝から出た隋、これを継いだ唐の都・長安に、さらに、遠く、北方の砂漠地帯のオアシス都市・敦煌にまで及んだのです。

東方の古代日本も、この装丁形式を、意識的に踏襲したと考えられます。日本には、その気候・風土が、竹の生育に適しているという好条件もありました。

敦煌写本に見られる、数多くの竹の発装は、この装丁形式が、規範として、いかに尊重されていたかを示しています。そして、あるいは、竹の発装には、江南地方で花開いた文化への憧憬も、込められているのかもしれません。


*敦煌写本の発装に竹が用いられていることを、その頃、北京で仕事をしていた、かつての勤務先の大学の卒業生に話したところ、「竹の採れない北京では、絵に描いて、建物の壁にかけています。それは竹への強い憧憬を表現したものだと思います」ということでした。

[主な参考文献]
��.内村悦三編『竹の魅力と活用』創森社、2004年
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.大橋一章『【図説】敦煌 仏教美術の宝庫莫高窟』ふくろうの本、河出書房新社、2000年
��.〈DVD〉中国文化交流中心企画・制作『Oriental Bamboo Country 東方竹国』A TV Documentary、コニービジョン発売、コニービデオ販売、2003年


2007年12月16日日曜日

巻物用語事典(1)

巻物用語

巻子本各部の名称

��日本語の用語は、もっともわかりやすいものを掲げました。
��〈  〉は別称、〔  〕は中国語、[  ]は英語。
��#を付けたものは、IDP(国際敦煌プロジェクト)のデータベースで、敦煌写本の検索をする際に用いられている用語。

表 紙(ひょうし) 〈褾紙〉〔褾、首、包頭〕[Cover]
■巻首を保護する紙、または布。
紙の場合は、本紙より厚手の紙、または二枚重ねにした紙を用いた。仏教経典などの正式な書物では、多くの場合は、黄色に染められた。紫、紅、紺、縹、緑などに染めたもの、さらに金銀を散らしたものなど、極めて装飾性の高いものも作られた。布の場合は、羅、綾、錦が用いられ、後には緞子(どんす)も用いられた。

表紙は、当初、本紙を保護する機能的なものであったが、後には、一種の美術工芸品に発達した。
 

発 装(はっそう) 〈八双、押え竹〉〔天杆〕[#Stave, Retaining Rod]
■表紙のめくれや破れを防ぐために、その端に貼り付けられた細長い竹、または木。
敦煌写本では、竹と木の両方の例が見られる。日本では、ほとんどの場合、竹が用いられた。
早い時期の敦煌写本では、発装は、太く、表紙からはみ出していることもあったが、やがて非常に薄く、目立たない、しかし丈夫なものとなった。


(ひも) 〈巻紐、巻緒〉〔帯〕[#Braid, Band, Ribbon]
■巻子本を、くくるもの。
発装の中央付近の、本紙側に、切れ込みを入れて、これを通して発装に巻き付ける。巻き付け方には、いくつかのパターンがあった。

①絹の織紐(細長い織物。さまざまな色の糸で織られたもの、単色のものがある)、②色鮮やかに染めた絹布を袋状にして紐としたもの、③組紐が用いられた。

紐の種類・強度・色などは、その巻子本がどのように扱われていたかを知る、重要な手がかりである。時代を遡るほど、現存する紐の例は少ない。奈良時代の遺品は、ごくわずか。


外 題(げだい) 〔外題〕[Title, Cover Title]
■表紙の外側の端に書いた題(書名と第何巻かを書く)。
本文より大きな文字で書く。正式な書物の場合は、能筆の、「題師」と言われる専門家が書いた。

敦煌写経や奈良朝写経では、多くの場合、外題は、表紙に直接書かれた。後には、小さな細長い紙、または布(これを「題簽(だいせん)」という)に、外題を書いて、貼り付けるものも現れた。敦煌写経にも、紫紙の題簽に、金字で外題を書いた例が見える。


見返し(みかえし) [Endpaper, 絵: Frontispiece]
■表紙の内側の面。
当初、表紙の内側は、何も手が加えられなかったが、やがて、外側同様に黄色に染められ、さらに、外側の黄色、本紙の黄色との調和も考えられるようになった。

装飾性の高い巻子本では、見返しに、さまざまな装飾が施されたり、絵が描かれたりした。当初、余剰の空間であったものが、美意識を最も発揮させる空間となった。


本 紙(ほんし) [Paper]
■本文を書くために用いる紙。
正式な書物では、黄蘗(きはだ)で染めた麻紙(まし)を用いた。装飾性の強い巻子本では、紫、紅、紺、縹、緑などに染めた紙を用いたり、さまざまな色の紙を継いだり、金銀を散らしたり、下絵を描いたりした。

正式な書物では、紙一枚の縦・横の規格が定まっていた。

紙の継ぎ方は、巻首側を上とする(右手前)。糊代は、2~3mm。また紙数は、奈良朝写経では、20枚を標準としていた。


内 題(ないだい) 〈巻首題〉 〔内題、首題〕[Title of the Chapter]
■本文の最初に書かれた題(完全な書名と、何巻かを記すのが原則)。
本文の最初の1行を空けて書く。

なお、これに対応して、本文を書き終わった後に、1行空けて、「尾題(びだい)」を書く。内題(巻首題)を繰り返すのが、普通であるが、省略した形で記す場合もある。

正式な書物では、内題、尾題ともに、本文と同じ高さで書いた。後に、正式な書物以外では、内題、尾題を、本文よりも高く、または低く書くものも現れた。


界線(かいせん) 〈界〉〔辺または闌(四周の線)、界(中間の線)、辺準、解行、烏絲欄、朱絲欄〕[Guideline]
■本紙に、本文を書くために引かれた罫線。本紙の上部と下部に引いたものを「横界線」、その間に縦に引いたものを「縦界線」という。
上部の界線と下部の界線の間の寸法を、「界高(かいこう)」といい、隣り合った、縦の界線の間の寸法を、「界幅(かいふく)」という。正式な書物では、界高は、20㎝前後、界幅は、1.8~2.0㎝程度となる。この寸法は、木簡1枚の大きさを踏襲していると考えられている。

界高・界幅の寸法は、巻子本の種類や年代によって微妙に変化する。

多くの場合、界線は墨で引く。早い時期の巻子本では、濃い墨で、太く、おおらかに引いているが、後には、薄墨の、極めて細い線で、正確に、しかし目立たぬように引くようになる。

界線は、本紙が継がれた後で引かれた。

正式な書物では、界線を引くのが原則。それ以外の書物では、これを省略することもあった。平安時代以降の、日本の歌集の写本では、界線は次第に引かれなくなる。


(じく) 〔軸〕[Roller]
■表紙・本紙を巻きつけるために、本紙末尾に貼り付けられた木の棒。日本では、多くの場合、杉や檜を用いた。

早い時期の敦煌写本の軸は、1本の棒で、その全体、または両端を、赤、または黒の漆で塗っている(これを「棒軸」という)。小刀で削って、粗く円柱形にしたものもある。

巻子本が装飾性を強めるにつれ、軸棒(軸木)の両端に、「軸端(じくばな)」(「軸頭」(じくがしら、じくとう)とも)を嵌め込んだタイプの軸も現れた。

「軸端」には、紫檀(したん)、黒檀(こくたん)、花櫚(かりん)、白檀(びゃくだん)など、東南アジア産の、表面の美しい木材や、ガラス、瑪瑙(めのう)、水精(すいしょう)、瑠璃(るり)、金銅などが用いられた。奈良朝写経には、油に、赤、または白の絵具をまぜて塗った、「密陀軸(みっだじく)」も見られる。小さな「軸端」に、中国(そして日本)と東南アジアの交易の歴史を窺うこともできるのである。

さらに紫檀に、他の木材や螺鈿(らでん)を嵌め込んで文様を表したもの、草花などの絵を描いたものもある。

「軸端」の形には、撥型(トランペット型)、丸型(「頭切」(ず(ん)ぎり))、角型、八角型などがあった。「平家納経」には、五輪塔型、宝珠型など、それ自体で精緻な工芸品といえる、多彩な形の軸端を見ることができる。

軸の直径は、1㎝前後であった。現代の日本の、巻子本の複製本や、書作品の装丁に用いられるものに比べて、はるかに細く、繊細なものであった。


[主な参考文献]
��.小川靖彦「書物としての万葉集」『[必携]万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、
学燈社、2002年 (*敦煌写本の調査以前のものです。今回、調査結果を踏まえて、新たな情報を加えました。)
��.Fujieda, Akira. "The Tunhuang Manuscripts: A General Description." Zinbun 9(1996).
��.石田茂作『仏教考古学論攷』3(経典編)、思文閣出版、1977年
��.栗原治夫「奈良朝写経の製作手順」日本古文書学会編『日本古文書論集』3、吉川弘文館、1988年
��.頼富本宏・赤尾栄慶『写経の鑑賞基礎知識』至文堂、1994年
��.銭存訓『中国古代書籍史―竹帛に書す―』(宇都木章・沢谷昭次・竹之内信子・廣瀬洋子訳)、法政大学出版局、1980年
��.劉国鈞・劉如斯『中国書物物語』(松原弘道訳)、創林社、1983年
��.Du Weisheng. "A Short Description of Eight Dunhuang Forgeries in the National Library of China."Dunhuang Manuscripts Forgerieis. Ed. Susan Whitfield. London: The British Library, 2002.


2007年12月7日金曜日

総合芸術としての巻子本

『源氏物語』に見える巻物の美

『源氏物語』の「梅枝(うめがえ)」の巻に、美しい巻子本(巻物)が登場します。兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)が、光源氏に贈った、秘蔵の『古今和歌集』は、次のように描写されています。

  延喜帝(えんぎのみかど)の、『古今和歌集』を、唐(から)の浅縹(あさはなだ)の紙を
  継ぎて、同じ色の濃き紋(もん)の綺(き)の表紙、同じき玉(たま)の軸、緂(だん)
  の唐組(からくみ)の紐(ひも)などなまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじ
  う書き尽くさせたまへる、 ……
(新編日本古典文学全集『源氏物語』③、421頁)

 書は、醍醐天皇ご自身。
 料紙は、中国製で、藍で染めた、薄青色の紙。
 表紙は、同じ青色ながら、より濃い色の模様のある、織物製。
 軸は、薄青色の玉の軸。
 (*「正倉院文書」では、「玉軸」は、ガラス製の軸を意味します。)
 紐は、白と、いろいろの色を交互に配した、唐組の組紐。
 (*「唐組」は、今日では、斜行の向きを、定期的に反転させて、菱形を連続させて組まれた
 組紐を言います。)

 そして、巻ごとに、書風が変化してゆきます。

薄青色を基調としながら、華やかな紐でアクセントを付けた、清楚で、優美な巻物の姿が、浮かび上がってきます。光源氏が「尽きせぬものかな(いつまでも興がつきませんね)」と、嘆声を上げたのも、もっともです。

古代の巻物は、①書の技術、②紙の技術(料紙・表紙の抄造と染色・装飾)、③軸の工芸的技術、④紐の染織技術、⑤それらを「書物」に仕上げる造本の技術、の交響楽であると言えます。そして、この交響楽を指揮するのが、その時代の美意識です。

巻物を研究するためには、巻物を構成するもの、ひとつひとつの技術を探究するとともに、それらが、全体として、どのような「書物」の姿を作り上げているのか、を考察することが大切となります。

次の記事では、「書物」としての巻物を構成する、各部分についての、簡単な解説を加えます。 描かれた巻物2



��主な参考文献]
��.河田貞「わが国上代の写経軸」『仏教芸術』162、毎日新聞社、1985年 (*「玉軸」について)
��.木下雅子『日本組紐古技法の研究』京都書院、1994年 (*「唐組」について)

2007年11月1日木曜日

大きさから見た巻物と冊子本

大きさから見た巻物と冊子本
(写真左より、肌色=『三十帖冊子』第一帖の大きさ、灰色=敦煌本『文心雕龍』の大きさ、黄色=敦煌本『大般涅槃経』の大きさ。右は岩波新書)

巻物と初期冊子本の姿の違い

今日、「書物」と言うと、私たちは、冊子本を思い浮かべます。そして、豪華本から文庫本まで、さまざまなタイプの冊子本を、目にしています。

この“常識”から、古い「書物」である巻物と、私たちが馴染んでいる冊子本とを、なんとなく同じようなものと考えがちです。ところが、冊子本は、洋の東西を問わず、巻物に、はるかに遅れて発明され、しかも初めは、巻物よりも格の低い書物として扱われました。

中国に残る、最も古い、紙の巻物は、3世紀中頃、または4世紀(晋代)に製作されたものと見られています。それに対して、冊子本が登場するのは、8世紀半ば(唐代)からです。

紀元前3000年頃に、エジプトで製作されたパピルスも、「書物」としては、もっぱら巻物に仕立てられました。そして、ギリシア・ローマで冊子本が普及するのは、紀元後3世紀から5世紀にかけてと考えられています。

巻物と冊子本との間の、「書物」としての格の違いを、明瞭に示すものが、それぞれの大きさです。中国の巻物の表紙の規格、そして中国文化圏の最初期の冊子本の大きさを、実際に紙に切ってみたのが、上の写真です。

(*わかりやすくするために、色違いにしましたが、それぞれの色は、原本の色とは関係ありません。)

①〔黄色い紙〕 敦煌写本『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』の表紙の規格 (約25×約15㎝)
・一群の『大般涅槃経』が、この規格に従っています。これは、比較的新しい、中国の巻物の表紙の規格のようです。ライオネル・ジャイルズ氏は、その一本を、7世紀の書写と見ています。

・謹厳な楷書で、1行17字詰めで書かれています。

②〔灰色の紙〕 敦煌写本『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』Or.8210/S.5478 (11.7×16.8㎝)
・『文心雕龍』は、文学評論書です。池田温氏は、この写本を、8世紀中葉に中国の中央で書写されたものと推測しています。現代の新書判と、ほぼ同じ大きさです。

・1頁10行、やわらかな行書・草書で書かれ、余白にはところどころ、習字をした跡があります。

(*詳しくは、国際敦煌プロジェクトの『文心雕龍』の画像をご覧ください。)

③〔肌色の紙〕  空海ら写『三十帖冊子』(国宝、京都・仁和寺蔵)の第一帖 (15.6×18.5㎝)
・『三十帖冊子』は、空海が中国に渡った時(804~806年)に書写した、仏教経典の写本です。中国文化圏で、書写年代の確実にわかる、最古の冊子本です。

・楷書の細字で、紙面を惜しむようにして、経文を書写していたり、行書・草書で力強く、自由に書いていたりします。

・なお、『三十帖冊子』には、第一帖などよりも、さらに小さい一群があります。空海真筆の第二十六帖は、13.6×14.3㎝で、文庫本を横にした大きさになります。

②③は、①に比べてかなり小さくなります。これらは、携帯に便利なサイズであったのでしょう。そして、②③での、本文の書写のされ方からは、これらが、個人用の、ノートに近いものであったことが窺えます。一方、「正式な」書物であった巻物は、謹厳で、堂々とした印象を与えます。

(*是非、御自分で、紙を切ってみて、これらの大きさを実感してください。)

中国文化圏では、唐の玄宗皇帝の時代(712~756年在位)から、僧侶や知識人の間で、冊子本が、個人の書物として普及していったようです。

*面白いことに、古代ローマでも、文学書の巻物の縦の寸法は、25~33㎝でした(ウィリアム・A・ジョンソン氏)。初期の羊皮紙冊子本(2~3世紀)も、14.5×11.5㎝から19×16.5㎝でした。初期の冊子本は、キリスト教の宣教師たちが、伝道のために携帯したものと推測する説もあります(マイケル・マコーミック氏)。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「書物としての萬葉集」『〔必携〕万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、学燈社、2002年11月
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.『国宝 三十帖策子・重要文化財 十地経策子〈原寸複製〉』法蔵館、1977年
��.Jonhson, William A. Bookrolls and Scribes in Oxyrhynchus. Tronto: University of Tronto, 2004. [ウィリアム・A・ジョンソン『オクシュリンコスの巻子本と筆写者』]
��.McCormick, Michael. "The Birth of the Codex and the Apostolic Life-style." Scriptorium 34 (1985). [マイケル・マコーミック「冊子本の誕生と使徒たちの生活スタイル」]