2008年1月13日日曜日
消残りの雪にあへ照る(大伴家持)
この季節には、センリョウやマンリョウの、美しい赤い実を、目にします。しかし、古代の人々が好んだ、「山橘」(ヤブコウジ科ヤブコウジ)の実を見る機会は、なかなか得られません。
大伴家持の次の歌を読んで以来、ヤブコウジの実を見たい見たいと思っていました。
気能己里能由伎尓安倍弖流安之比奇乃夜麻多知婆奈乎都刀尓通弥許奈(巻20・4471)
消残りの 雪にあへ照る あしひきの 山橘を つとに摘み来な
(けのこりの ゆきにあへてる あしひきの やまたちばなを つとにつみこな)
〔訳〕消え残った白い雪に合わせて、照り輝やく、(あしひきの)山橘を、みやげに摘んで来たいものです。
この歌は、天平勝宝8歳(756)11月5日の作です。この年の2月に、密告によって、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)が、辞職しました。5月2日には、聖武上皇が崩御しました。
上皇崩御を機に、時の権力者・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と、仲麻呂を打倒しようとする、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ。諸兄の子)を中心とするグループの間の緊張が、一挙に高まりました。崩御から間もない、5月10日には、早くも、大伴一族の長老・古慈斐(こしび。時に69歳)が、淡海三船(おうみのみふね)とともに、朝廷を誹謗した罪で捕らえられるという事件が起こりました。
古慈斐らはすぐに釈放となりましたが、家持の受けた衝撃は大きく、6月17日に、誉ある先祖の名を絶やさぬようにと、大伴一族に諭す長歌とともに、無常を悲しみ、出家に心惹かれ、さらに命の長さを願う痛切な短歌を作りました。この後、家持はしばらく歌を詠まなくなります。
��か月に及ぶ沈黙を破って、久しぶりに詠まれたのが、上の歌です。家持は、冬枯れの季節を彩る、山橘の実の美しさを、残雪の白さと対照させながら、「照る」(光り輝く)ものと、歌いました。
この歌の題詞は、この日(太陽暦では12月5日)に、少しばかり雷鳴がして、雪が庭に積もったこと、そしてこの光景に家持が感興を覚えたことを、記しています。「つとに摘み来な」と歌っていることも考え合わせると、この山橘は、家持が、今現に見ているものではなく、想像しているものなのでしょう。
家持は、越中国司時代の、天平勝宝2年(750)12月に、山橘の歌を詠んでいます。
この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む(巻19・4226)
(このゆきの けのこるときに いざゆかな やまたちばなの みのてるもみむ)
都の、家持の邸宅の庭一面に降り積もった雪は(天平勝宝8歳の初雪であったと思います)、照り輝く山橘の実を想い起こさせ、さらにそれは、越中時代の記憶にも繋がるものであったのでしょう。山橘の実が、家持の傷心を癒すものであったことが窺えます。
『源氏物語』をはじめ、平安時代以後の文献では、山橘の実は、強い生命力の象徴とされています。家持も、この赤い実に、強い「いのち」を感じたことと思います。
��山橘の実は、正月に贈る卯槌(うづち。邪気を払う槌)に添えられたり、童子の髪を肩で切り揃え、その成長を祝う髪そぎの儀式に用いられたりしました。
私は、花屋さんに、山橘(ヤブコウジ)を取り寄せてもらいました。その姿を見て、家持の思いが納得できました。本当に小さな、愛らしい木でした(10~13㎝)。1本がつける実の数も、センリョウやマンリョウに比べれば、はるかに少なく、4、5個程度です。しかし、1個の大きさはセンリョウなどよりやや大きく、何よりも深い赤色が、この植物の芯の強さを感じさせました。
この時取り寄せたヤブコウジは、なかなか地植えができないでいるうちに、この頃住んでいた場所特有の、異常な強風のために枯らしてしまいました。その後、都内に転居しましたが、昨年末に、花屋さんの店頭に置かれたヤブコウジを、偶然見かけ、思わず購入してしまいました。それが、上の写真です。
ところが、室外の寒さを好む植物なので、ベランダに置いたところ、目立たぬようにしたのにもかかわらず、鳥に見つけられてしまいました。今は、白い花と常緑の葉ばかりとなってしまいましたが、深く、清冽な赤色の実を思い出すと、心が洗われるようです。
*古典に見える山橘については、国文学編集部編『知っ得 古典文学植物誌』(学燈社、2007年7月刊)をご参照ください(「橘」「ゑぐ」「山橘」の項目を、私が執筆しています)。
(現在、東京国立博物館で開かれている「宮廷のみやび」展に出品されている、「四季花鳥図屏風」(酒井抱一筆。陽明文庫蔵)[158]の左隻の左下方には、雪の下のヤブコウジが描かれています。是非ご覧になってください。)