2009年10月21日水曜日

「万葉集」展(早稲田大学日本古典籍研究所・早稲田大学図書館)

「享(う)け継がれる思い」

早稲田展示

先の記事「万葉集1250年の展覧会」で紹介した、「「万葉集」1250年展」(仮称)の詳細がわかりましたので、改めてお知らせします。

柘枝切(つみのえぎれ)を始め、主に早稲田大学図書館の所蔵する、貴重な『万葉集』の写本、万葉学書が出展されています。また、早稲田大学の万葉学の結晶した、窪田空穂の注釈書『万葉集評釈』の原稿も展示されています。『万葉集評釈』は、万葉集歌の心と言葉の本質を、みずみずしく捉えた、必読の注釈書です。

ポスター左上のユーモラスな絵は、洋画家・書家の中村不折(1866~1943)が描いた、「牛飼の左千夫(*歌人の伊藤左千夫)万葉集を繙(ひもと)くの図」です。

 「〈万葉集1250年記念〉万葉集~享け継がれるその思い~」
 会期:2009年10月16日(金)~11月17日(火)
 *日曜・祝日、10月21日(水)・22日(木)は閉室。ただし10月18日(日)は開室。
 時間:10時~18時(10月18日は17時まで)
 会場:早稲田大学総合学術情報センター2階展示室
 主催:早稲田大学日本古典籍研究所
     早稲田大学図書館

〈記念講演会〉
 「古筆切から見た万葉集の伝本研究」
   講演者:田中大士氏(文部科学省)
   入場無料・予約不要
   日時:2009年10月31日(土) 14時~15時30分
   会場:早稲田大学大隈小講堂
   主催:早稲田大学日本古典籍研究所(問合せ先も同じ)
【展示資料一覧】
��*「個人蔵」などの注記のあるもの以外は、全て早稲田大学図書館蔵)

『万葉集』の写本と版本
��1]万葉集断簡  鎌倉時代後期写  〔*柘枝切〕
��2]万葉集  寛永20年(1643)刊  〔*寛永版本〕
��3]万葉集  江戸時代後期写
��4]万葉集  宝永6年(1709)刊  〔*宝永版本〕

『万葉集』と同時代の文献・筆跡
��5]古事記  江戸時代末期写 (飯田武郷写)
��6]日本書紀  江戸時代中期刊 (稲葉通邦・通故校合書入)
��7]肥前国風土記  明治3年(1890)写  個人蔵
��8]続日本紀  明暦3年(1657)刊 (村尾元融手沢本)
��9]百万塔  奈良時代
��10]大宅朝臣賀是万呂奴婢見来帳  天平勝宝元年(749)書  重要文化財
   【原本の展示は10月29日~10月31日、11月13日~14日】
��11]経疏切(『大般涅槃経集解』巻第56断簡)  奈良時代写  個人蔵

『万葉集』に影響を与えた漢籍
��12]文選正文  天明4年(1784)刊  (坪内逍遥旧蔵)
��13]玉篇 巻第9  8世紀写  国宝
  【原本の展示は10月29日~10月31日、11月13日~14日】
��14]藝文類聚  16世紀後半刊
��15]初学記  万暦15年(1587)刊
��16]初唐四傑集  同治12年(1873)刊
��17]敦煌経切(『大般若経』巻第27断簡)  8世紀写  個人蔵

中古・中世の『万葉集』享受と注釈
��18]古今和歌集  正中元年(1324)写か
��19]倭名類聚鈔  寛文7年(1667)刊  (狩谷棭斎書入本)
��20]拾遺和歌集  文明16年(1484)写  (甘露寺親長写)
��21]拾遺和歌集切  14世紀前半写  個人蔵
��22]古今和歌六帖  江戸時代中期写  個人蔵
��23]古今和歌六帖  寛文9年(1669)刊  (伴高渓書入本)
��24]新古今和歌集  江戸時代中期写
��25]柿本人麿像  江戸時代後期写
��26]万葉集註釈  安政5年(1858)写
��27]万葉集目安  天和4年(1684)刊  個人蔵
��28]万葉集抜書  江戸時代中期写  三條西家旧蔵
��29]和歌注釈断簡  江戸時代中期
��30]柿本人麻呂伝記  江戸時代後期写

近世の国学者による『万葉集』研究
��31]万葉代匠記 巻1-20  江戸時代後期写
��32]万葉集類林  江戸時代後期写
��33]万葉考 1-4  明和5年(1768)刊
��34]万葉考巻十六稿本断簡  江戸時代中期書  (賀茂真淵自筆)
��35]本朝水滸伝  明和10年(1773)刊
��36]見処女墓作歌  江戸時代後期写  (荒木田久老自筆)
��37]万葉抄  江戸時代後期写  服部文庫蔵
��38]万葉拾言抄  文政10年(1827)写
��39]万葉集語彙  江戸時代後期写
��40]勢城日記  文政5年(1822)頃写
��41]万葉集略解  安政3年(1856)刊
��42]百氏百人一首  安政4年(1857)写

近代における『万葉集』〈再発見〉
��43]横文字百人一首  明治6年(1873)
��44]万葉集短歌私考  明治38年(1905)  (伊藤左千夫自筆原稿)
��45]牛飼の左千夫万葉集を繙くの図  明治時代  (中村不折画)
��46]短評  明治33年(1900)  (長塚節筆)
��47]恋十首・万葉ニナラフ  明治33年(1900)  (長塚節筆)
��48]万葉集感断片  大正15年(1926)  (斎藤茂吉筆)
��49]斎藤茂吉著『柿本人麿』  1934・1940頃写  (土屋文明筆)
��50]『万葉集評釈』原稿  ~昭和22年(1947)  (窪田空穂筆)


*なお、展示期間中、早稲田大学會津八一記念博物館で、元暦校本万葉集断簡(巻10・2134)が展示されます。元暦校本万葉集巻第10の筆については、書家で書道史研究者の飯島春敬氏は、"細い勁直(けいちょく)な線で漢字の技法などに特に癖がある”と評しています。数多くの書き手からなる、元暦校本のさまざな書風を、実際に目にする良い機会です

*詳細な情報をお伝えくださった早稲田大学教授・松寿夫氏(日本古典籍研究所所長)に、心より御礼申し上げます。この展示は松氏が企画されたものです。

2009年10月20日火曜日

展示情報(2009年10月~12月)

2009年秋の万葉集の展示

先の記事「万葉集1250年の展覧会」で、今秋の展覧会を紹介しました。その後、新たに得た、『万葉集』に関わる展示情報を紹介します。

○特別展「皇室の名宝-日本美の華」
東京国立博物館 2期 2009年11月12日(木)~11月29日(日) 会期中無休
桂本万葉集〔平安中期、源兼行筆。現存最古の万葉集古写本〕  御物
金沢本万葉集〔平安後期、藤原定信筆〕 宮内庁三の丸尚蔵館蔵

��『NHK日めくり万葉集』vol.10で、これらの写本の美しさと見方・味わい方を紹介させていただきました。

「美(うるわ)しの和紙-天平の昔から未来へ-」
東京・サントリー美術館 2009年9月19日(土)~11月3日(火・祝) 火曜日休館
・桂本万葉集巻第四断簡(栂尾切) 滋賀・MIHO美術館蔵 (10月7日~10月19日)
・元暦校本万葉集断簡 滋賀・MIHO美術館蔵(9月19日~10月5日)

��残念ながら、『万葉集』に関わる展示を終わっています。
��天平写経や平安写経が数多く出品されています。
��10月21日から11月3日までの期間には、
高野切古今集第二種断簡(源兼行筆)〔東京・五島美術館蔵〕
和漢朗詠集巻下断簡(藤原定信筆)〔京都国立博物館蔵〕
などが展示されます。

○企画展「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」(冷泉家時雨亭叢書完結記念、朝日新聞創刊130周年記念)
東京・東京都美術館 2009年10月24日(土)~12月20日(日)
毎週月曜日休室(月曜日が祝日の場合は開室、翌日休室)

��和歌に関わる貴重な典籍が、数多く出品されています。
��冷泉家時雨亭文庫には、金沢本万葉集巻第18、万葉集抄(最古の万葉集注釈書)、万時(藤原俊成の、万葉集成立に関する論考)、万葉集註釈巻第1・巻第3(仙覚著)、楢葉(ならのは。肖柏の万葉抄出書)などの、万葉集に関わる貴重な写本があります(「冷泉家時雨亭叢書」第39巻所収)。
��これらが今回の企画展で展示されるかどうかについての情報は、まだ得ていません。


2009年9月20日日曜日

秋の野に咲きたる花を(山上憶良):この世の宝

萩の花
(萩の花)

9月も半ばを過ぎ、日増しに秋の気配が深まっています。秋の花を目にすることも多くなりました。秋の花というと、山上憶良の歌がすぐに思い出されます。

山上臣憶良詠秋野花歌二首
秋野尓咲有花乎指折可伎数者七種花 其一
(巻8・1537)
芽之花乎花葛花瞿麦之花姫部志又藤袴朝皃之花 其二(巻8・1538)

山上臣憶良、秋の野の花を詠む歌二首
(やまのうへのおみおくら、あきのののはなをよむうたにしゆ)
秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花  その一
(あきののに さきたるはなを およびをり かきかぞふれば ななくさのはな)
萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 その二
��はぎのはな をばなくずはな なでしこのはな をみなへし またふぢばかま あさがほのはな)


〔訳〕秋の野に咲いている花を指折り数えてみれば、七種の花。
   萩の花に、尾花に、葛の花に、なでしこの花に、おみなえしに、それから藤袴に、
   朝顔の花。


この一組の歌は、“秋の七草”を初めて詠んだ歌として有名なものです。2009年9月に刊行された『NHK日めくり万葉集』vol.10(講談社)に収める第203回放送分の中でも、東京都世田谷区立船橋小学校2年1組の皆さんが、この憶良の歌について、さまざまな意見を述べています。その柔らかな感性に驚かされています。

その最後に、次のような意見を述べた生徒さんがいました。
「私も秋の野原に行って、こういう短歌を作ってみたくなりました。短歌を作った人のほんとうの気持ちをわかりたいです。」

私なりに考えた、作者憶良の気持ちを、ここに書いてみたいと思います。

何よりもまず、憶良が「七種」の花を挙げたことに注目したいと思います。なぜ「七種」なのでしょうか。現代の私たちの間では、“秋の七草”という考え方は常識になっています。しかし改めてなぜ「七」なのか、と考えると不思議です。

『NHK日めくり万葉集』vol.10の第203回のページのコラムにもあるように、七種の花のうち、葛の花と藤袴は、『万葉集』ではこの憶良の歌にしか詠まれていません。

憶良は、当時歌に詠まれることの少なかった葛の花や藤袴を挙げてまで、どうしても「七種」の花を揃えたかったようです。

憶良が「七」という数にこだわったことについて、中国の文化や思想、また仏教では、「七」を大切な数、めでたい数と考えていたことに影響を受けている、という説があります(斎藤正二氏、有岡利幸氏)。確かに、それも理由であったでしょう。

しかし、それだけではなく、憶良自身が、別の歌で「七種(ななくさ)の宝」ということを詠んでいることに、注意したいと思います。

  世の人の 尊び願ふ 七種の 宝も我は なにせむに 我が中の 生まれ出でたる 白玉の 
  我が子古日は……
(巻5・904)
  (よのひとの たふとびねがふ ななくさの たからもわれは なにせむに わがなかの うまれいでたる しらたまの 
   あがこふるひは……)


これは、「古日」という名の幼子の死を悼む長歌の冒頭です。“世の中の人全てが、尊んで欲しがる「七種の宝」も、私には何になろうか。私たちの、願いに願って生まれた、真珠のように美しく、大切な、わが子古日は”と、憶良は歌っています。

「七種の宝」よりも、子の古日こそが、自分にとっては宝であると言うのです。この「七種の宝」は、仏教の経典に出てくるの「七宝(しちほう、しっぽう)」という言葉を踏まえたものです。

「七宝」は、仏の国を美しく飾る、七つの宝のことを言います。例えば、日本や中国でよく読まれた『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』(「法華経(ほけきょう)」)という経典には、

  金
  銀
  瑠璃(るり。バイカル湖の岸などでとれる青色の玉)
  硨磲(しゃこ。シャコガイの貝殻。内側が白い)
  瑪瑙(めのう。石英が集まった鉱物で、縞模様が美しい)
  真珠
  玫瑰(まいえ。赤色の美しい石)

の「七宝」で、八千億の仏それぞれのために塔を建てる、ということが書かれています。その高さは1000由旬(ゆじゅん。サンスクリットの「ヨージャナ」。1000由旬は約11000~15000km)で、幅は500由旬にもなるということです。その途方もない華やかさと大きさは、すぐには想像がつきません。

「七宝」が具体的に何をさすかについては、仏教経典の間で、多少違いがあります。しかし、この世界で手に入れることのできる、最も貴重で美しい宝であることに、変わりはありません。もちろん、全て高価なものです。この世界では、財力のある人だけが、手にすることのできるものです。

憶良は「七宝」よりも、古日という幼い子が宝であると言います。そういえば憶良は別の歌でも、次のように歌っていました。

  銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子に及かめやも(巻5・803)
  (しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも)

この「銀」「金」「玉」も「七宝」を意識しています。この世を生きる、有限で小さな存在でしかない人間にとって大切なことは、高価な宝を手に入れることや、「さとり」を開いて、その宝で飾られた遠い遠い仏の国に行くことではなく、自然と湧き上がってくる、子どもをかわいいと思う優しい気持ちである、と憶良は言っているのです。

実は、仏教の教えでは、子どもをかわいいと思う心も、人間の心を迷わせる執着として、否定されます。すべての執着を捨てなさい、と仏は説きます。

しかし、憶良は、人間というものは執着を捨てることのできない、愚かで小さな存在でしかない、と思います。その人間が人間らしく生きるとは、どういうことかを考えます。そして、憶良は、“身近なものを、いとおしく思うことこそが、人間らしく生きることだ”、という結論にたどり着いたのです。

このように見てくると、憶良は、秋の「七種の花」の歌では、遠い仏の国の、高価な宝ではなく、野に咲くなにげない美しい七種の花こそが、この世を生きる人間にとっての宝である、と言いたかったのではないでしょうか。

「指折りかき数へれば」という言葉からは、秋の花を、ひとつひとつ、いとおしむような心が伝わってきます。

今、身近なところで、たくさんの秋の花が、時を惜しむように美しく咲いています。憶良がこの歌を通して、私たちに教えてくれたことを心に置いて、改めてその花たちを見ると、今まで以上に美しく見えることでしょう。
[主な参考文献]
��.斎藤正二『植物と日本文化』八坂書房、1979年
��.有岡利幸『秋の七草』ものと人間の文化史145、法政大学出版局、2008年
��.中西進『山上憶良』河出書房新社、1973年(『中西進万葉論集』第8巻〈講談社、1996年〉に収録)
��.井村哲夫『憶良と虫麻呂』桜楓社、1973年
��.高木市之助『大伴旅人・山上憶良』日本詩人選4、筑摩書房、1972年 〔*憶良の秋の「七種」の歌の言葉を深く味わった文章があります(102~105ページ)〕


2009年9月18日金曜日

『NHK日めくり万葉集』vol.10(講談社MOOK)

日めくり万葉集10

誌上展覧会への招待
��藤原茂樹・坂本信幸監修『NHK日めくり万葉集』vol.10(講談社MOOK)、講談社、B5判96頁、2009年9月刊、690円〈税込〉)

2009年9月17日(木)に『NHK日めくり万葉集』vol.10が発売となりました。

この号では、「万葉集古写本を味わう」という特集を組んでいます。特集は次のような構成です。

 〈カラー〉 平安時代に極めた美
 〈記 事〉 「装丁、料紙、書」の魅力と鑑賞の手引き
   (*カラーページの編集・解説と記事の執筆を担当させていただきました)

巻頭の5ページからなるカラーページでは、平安時代に調度品として制作された、『万葉集』の4種類の古写本、桂本(かつらぼん)、藍紙本(あいがみぼん)、元暦校本(げんりゃくこうほん)、金沢本(かなざわぼん)の見どころを紹介しました。

桂本や金沢本の「書物」としての姿の写真や、桂本の下絵の鳥や虫の拡大写真を収めるなどの工夫もしてみました(鳥が虫をついばもうとするところを描いた、緊張感のある中にもユーモアを漂わせる絵は必見です)。金沢本を開いたときの状態がわかる貴重な写真もあります。

古写本の所蔵機関のご協力と講談社編集部のご尽力により、さながら誌上展覧会のようなページに仕上がっています。平安時代の『万葉集』の古写本の美を堪能していただければ幸いです。

また記事の方では、『万葉集』の古写本の味わい方を具体的に解説しました。展覧会で『万葉集』の古写本を観覧すると、“美しい”と感動します。その感動をさらに深めるための見方を、私の経験を踏まえて紹介しました。

特に、『万葉集』の古写本を「書物」として、つまり、『万葉集』の中身とも深く関わる、装丁・料紙・書からなる総合芸術として味わうことにこだわりました。

見方を知ると、『万葉集』の古写本が、今までの何倍も面白くなるはずです。

桂本と金沢本は、御即位20年記念特別展「皇室の名宝-日本美の華-」(東京国立博物館)の2期(11月12日(木)~29日(日))に出展されます。実物の迫力を経験するまたとない機会です。この「手引き」を参考に、新しい魅力を発見してください。


日めくり万葉集10巻頭

【御礼】
*掲載されている図版は、宮内庁侍従職、宮内庁三の丸尚蔵館、東京国立博物館、京都国立博物館、MOA美術館からお借りしました。桂本の巻姿については、集英社から図版をお借りしました(複製本を撮影した写真も使っていますが、その旨を明記しています)。ご厚情に心より御礼申し上げます。
【お詫び】
��85ページの図2については、手違いにより、記事のレイアウトのために仮に用いた桂本の複製の写真がそのまま印刷されてしまいました。桂本の所蔵機関である宮内庁に、謹んでお詫び申し上げます。また読者の皆様にも誤った写真をお見せすることになり、申し訳ございません。ご海容のほど、心よりお願い申し上げます。

〔お知らせ〕 2009年10月21日現在、出版社の講談社では、この『NHK日めくり万葉集』Vol.10は、在庫切れとなっています(講談社BOOK倶楽部のウェブサイトによる)。
【追記】
��カラーの3ページ下の藍紙本の解説にて、先行文献に基づき、「巻一・九・十・十八の断簡がある」と記しましたが、その後、調べ直しましたところ、巻一の断簡の所在情報については、不確実なものであることがわかりました。この一文を、「巻九・十・十八の断簡がある」とさせていただきたく存じます。(2009年11月8日)


2009年9月4日金曜日

常設展示「文化の風景」(文京ふるさと歴史館)

文京ふるさと歴史館

草書・平仮名と片仮名

「かな」が発明される以前に編まれた『万葉集』は、すべて漢字で書かれています。しかし、平安時代以後に書写された『万葉集』は、歌に読み下し文(「訓」または「訓点」と言います)を伴うようになります。

その訓は、平仮名で書かれることも、片仮名で書かれることもあります。平仮名と片仮名の違いは何なのか、ということを考えている時に、面白い展示に出会いました。文京ふるさと歴史館の2階の常設展示「文化の風景」です。

展示スペースに足を踏み入れると、文京区にゆかりある文人たちの手紙や書物が目に入ってきます。ひときわ目を引くのが、樋口一葉の手紙(複製)です。流麗でしかも力強い草書と平仮名で書かれています。

小松茂美氏は、一葉を加藤千蔭(かとうちかげ。江戸中期の和学者、著書に『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』など)の書流の優れた書き手であると評しています。複製の手紙からも、一葉の教養基盤に、江戸のかな書道が確かに存在していたことが窺えます。

しかし、それだけに現代の私たちが、この手紙を読むことは容易ではありません。草書を読むためには習練が必要です。また平仮名と言っても、今日私たちが読み書きする、活字の明朝体をベースとする書体ではありません。現代には使わない変体仮名を織り交ぜ、それを連綿して書き記してあります。

さらに進むと『商売往来』という、江戸時代の小型の刊本が展示されています。商売に関わる物品が絵で示され(青、赤の色刷り)、そばにその名称が漢字で「手拭」「風呂敷」「服紗」などと書かれています。その漢字が草書なのです。そして漢字の脇に、平仮名でその読み方が記されています。

江戸の商人たちの初等教育の教科書である『商売往来』が、草書と平仮名を重視していたことがわかります。草書・平仮名の読み書きが出来なければ、一人前の商人にはなれなかったのでしょう。

『商売往来』の先には、近代の小学校の教科書があります。1881年(明治14)刊の『小学校修身書一』は、漢字平仮名交じり文で書かれています。それが1933年(昭和8)刊の文部省編『小学校国語読本 尋常科用巻一』では片仮名書きとなります。

  サイタ/サイタ/サクラ/ガ/サイタ

『商売往来』と『小学校国語読本 尋常科用巻一』を見比べていると、単なる用字の違いということに止まらない、「ことば」と「文字」についての考え方の違いが感じられてきます。

『商売往来』は、「文字」(商人として必要な)を修得することを目標にしているようです。それに対して、『小学校国語読本 尋常科用巻一』は、誰もが身に付けるべき、〈日本語〉という「ことば」を学ぶことを目指しているように見えます。

『小学校国語読本 尋常科用巻一』は、現代の私たちももちろんすぐに読むことができます。片仮名書きは、草書・平仮名書きに比べて、「文字」を修得する努力が格段に少なく済みますし、読み誤りも避けることができます。

とはいえ、片仮名書きが優れていることを、主張しようとしているわけではありません。この違いの背景にあるものをもっと見てみたい、そして草書・平仮名書きの文化が途絶えてしまったことの意味を考えてみたい、というのが、この二つの教科書を見ての私の思いです。

ところで、平仮名書き・片仮名書きについては、近年、親鸞の「消息」(書状)について興味深い研究が進められています。親鸞の自筆「消息」は本来漢字・平仮名交じり文で書かれていましたが、広く門徒に読み上げるために、自筆の「消息」の難しい漢字に片仮名で振り仮名が施されたり、また平仮名が片仮名に書き改められたりしています。

この研究を進めている永村眞氏は、本来特定の門徒に宛てられた一過性の親鸞の「消息」が、永続する教説の拠り所に変容する過程で、平易で正確に読み取り易い片仮名に書き換えられていった、と見ています。しかし、それと同時に、親鸞の「消息」が師弟関係の正統性を証し立てるものとして、弟子たちによって平仮名でも書写され続けたことにも、永村氏は注意しています。

活字文化の中では、平仮名と片仮名の違いは、それほど強くは意識されません(もちろん片仮名は欧米由来の外来の語や擬音語などの表記に限定的に使う、という使い分けの意識はありますが)。

しかし、手書きの文化の中では、平仮名と片仮名の機能、芸術性、社会的役割には、想像以上の大きな違いがあったはずです。手書き文化と相性のよかった草書も含めて、手書き文化の文字について、さらに考察を深めたいと思い、文京ふるさと歴史館を後にしました。
*なお、教科書については、印刷博物館で「近代教育をささえた教科書展」が開催されています(2009年7月18日(土)~10月12日(月))。
[主な参考文献]
��.小松茂美『日本書流全史(上)』講談社、1970年
��.小松茂美『展望 日本書道史』中央公論社、1986年
��.永村眞「親鸞聖人の消息と法語-主に高田専修寺所蔵自筆『消息』を通して-」『高田学報』第94輯、2006年3月

文京ふるさと歴史館
〒113-0033 東京都文京区本郷4-9-29
 開館時間:10時~17時
 休館日:月曜日、第4火曜日(*祝日にあたるときは開館し、翌日休館)
     全館くん蒸期間、年末年始
 入館料:一般100円、団体(20名以上)70円、中学生以下・65歳以上無料
     (*特別展開催中は別に定める)
 ホームページ:http://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/
※『文京ふるさと歴史館だより』が発行されています。第16号には、平野恵氏「20世紀前半、文京の園芸文化-菊栽培と温室文化-」などの記事や収蔵品展余話などが掲載されています。


2009年8月14日金曜日

展示情報(2009年8月~10月)

万葉集1250年の展覧会

今年は、大伴家持が『万葉集』の巻末歌、巻20・4516を、天平宝字3年(759)に制作してから、1250年になります。来年は、平城遷都1300年ということもあって、この秋から来年にかけて、『万葉集』に関わる展覧会が、多く開催されそうです。

○夏季特別展「春日懐紙・春日本万葉集とふるさとの文芸」(重要文化財指定記念)
石川・石川県立歴史博物館  2009年7月18日(土)~8月31日(月) 会期中無休
春日懐紙・春日本万葉集(春日懐紙として17枚)

*「春日懐紙」は、13世紀前半の奈良の春日社周辺の神官・僧侶の和歌懐紙です。この懐紙の紙背を利用して、春日若宮社神主の中臣祐定(なかとみのすけさだ。後に祐茂〈すけしげ(すけもち)〉)が寛元元年(1243)から2年に書写した、『万葉集』の写本が、「春日本万葉集」です。仙覚と同時代の、「非仙覚本」として、極めて重要な写本です。
��「春日本万葉集」は、漢字本文の右傍に訓を片仮名で書き込む形式(傍訓形式)をとっています。傍訓形式が、平安末期から鎌倉時代にかけて、広く受け入れられていたことがわかります。また漢字本文の書風にも注目したいと思います。
��今回展示されるものをはじめ、「春日懐紙」「春日本万葉集」については、田中大士氏(文部科学省)の研究があります。その精密で献身的な研究が推進力となって、石川県立歴史博物館蔵の「春日懐紙(春日本万葉集)」は、2009年3月19日、重要文化財に指定されました。

〔今回の展示に関わる田中氏の主な論文〕
①「春日本万葉集と春日懐紙」『国文学』第49巻第8号、2004年7月
②「石川県立歴史博物館蔵春日懐紙・春日本解説」『石川県立歴史博物館紀要』第21号、2009年


○常設展「ひむがしの...-万葉集1250年によせて-」
東京・東京大学総合図書館 2009年7月24日(金)~10月16日(金)
��8月27日(木)、9月17日(木)、9月27日(日)休館)
・「東」をキーワードに、東京大学総合図書館の所蔵する関連資料を展示。

「万葉集享受の世界―國學院大學学びへの誘い―(松本)」
長野・松本市時計博物館 2009年9月19日(土)~27日(日)(24日(木)休館)
元暦校本万葉集断簡(有栖川切) 〔平安後期〕
春日本万葉集断簡 〔鎌倉中期〕
『古葉略類聚鈔(こようりゃくるいじゅうしょう)』の写本
仙覚『万葉集註釈』の写本

*9月20日(日)に城崎陽子氏(國學院大學兼任講師)の講演もあります。

○企画展「万葉時代の大宰府」
福岡・財団法人古都大宰府保存協会 大宰府展示館 2009年10月10日(土)~11月17日(火)

「「万葉集」1250年記念展」(仮称)
東京・早稲田大学総合学術センター 2009年10月16日(金)~11月17日(火)
��10月18日以外の日曜・祝日は閉室)
・早稲田大学図書館の所蔵する、『万葉集』関連資料を展示。貴重な「柘枝切(つみのえぎれ)」も展示される予定(2枚しか発見されていないうちの1枚)。

*「柘枝切」は、『万葉集』の鎌倉時代の古写本の断簡です。漢字本文の右傍に片仮名で訓を書き入れた傍訓形式をとっています(左に「仙覚本」の訓を書き入れたところもあります)。この早稲田大学図書館蔵切によって、「柘枝切」が非仙覚本であることが、明らかになりました(田中大士氏「柘枝切万葉集考―片仮名訓本としての性格―」『早稲田大学日本古典籍研究所年報』第2号、2009年3月)。
��鎌倉時代の『万葉集』を知るための貴重な資料です。また濃墨で堂々と書かれた書も、見ごたえがあります。
��展示内容の詳細がわかり次第、このブログで改めて紹介します。


2009年8月12日水曜日

木版印刷の熟練の技(その2)

文字と余白と力:塙保己一史料館

先の記事「木版印刷の熟練の技」で紹介しましたように、毎年、塙保己一史料館で、社団法人・温故学会主催の、《江戸時代の版木を摺ってみよう》の企画が行われています。

2009年も7月25日(土)と8月2日(日)に開催されました。私も8月2日に参加しました。昨年、印刷した『元暦校本万葉集』が、まだまだ不満足なものであったので、もう一度挑戦してみたい、と思っていました。

しかしそれ以上に、文化庁の登録有形文化財ともなっている塙保己一史料館の建物(1927年完成)の、畳敷きの2階講堂で行われる「摺立(すりたて)」の、静かで暖かな雰囲気が、忘れ難いものになっていました。

今年も、日本の木版印刷について、学ぶところがたくさんありました。今回は、①『群書類従』第296の「今川了俊和哥所江不審条々〔今称二言抄〕」、②山崎美成(やまざきよししげ)編『御江戸図説集覧』、③『元暦校本万葉集』巻1の目録、の3枚の版木の印刷を体験させてもらいました。

今年は小学生の子どもたちが、何人も参加していました。まず子どもたちから印刷を始めました。驚いたことに、初めての木版印刷なのに、皆きれいに摺り上げました。参加していた大人たちからは、拍手が起こりました。

木版体験
(初めて木版印刷をした子どもたちと理事長代理の斎藤幸一さん)

温故学会理事長代理・斎藤幸一氏によれば、印刷は5~6秒程度で、手早く刷り上げなければいけません。このお話を考え合わせると、子どもたちの、やさしい手の力が、木版印刷に合っていたのだ、と思いました。

昨年、私はバレンで刷っている途中で、墨を紙から吹き出させてしまうという失敗をしました。今思うと、墨を多く塗りすぎただけではなく、力も入れすぎていたようです。

ところで、①の『群書類従』を今回初めて印刷しましたが、バレンで摺っていると、手に不思議な心地よさを覚えました。それは、『群書類従』の版面の文字の多さと、その性質によるのでしょう。

群書類従の版木

『群書類従』は、1頁あたり10行、上下がきちんと揃っています。1行には、20~25文字ほどが、小さめの文字で彫られています。句読点や改行はありません。文字の彫られた〈区画〉が定まっており、字粒もある程度揃っている版面は、実に整然としたものです。

しかし、文字は漢字・平仮名交じりで変化があります。文字の大きさも決して均一ではありません。さらに文字を連綿させて、流動感もあります。

『群書類従』の版面は、整然としたものでありながら、同時に、適度に変化のあるものとなっているのです。それが、印刷の効率のよさをもたらすとともに、刷り上りの美しさを生み出しているのでしょう。印刷と手書き文字とを調和させた和学講談所の技術に、改めて感銘を受けました。

群書類従と元暦校本
(私の摺った群書類従と元暦校本。まだまだ未熟です)

そのような観点からすると、平安時代の名筆である、『元暦校本万葉集』を版木に彫り、印刷するというのは、極めて大胆な事業であったと思います。

『元暦校本万葉集』は、一定の〈区画〉を、整然と文字で埋めている、というわけではありません。まず『万葉集』の写本そのもののレイアウトが複雑です。その上、平安時代の写本である『元暦校本万葉集』は、文字と余白の調和も充分に配慮しています。また頁によって、書体や字形を自由に変えることも、行っています。

この『元暦校本万葉集』を、忠実に木版印刷で再現することが、どれほど難しいものであったか、想像に余りあります。

そして『元暦校本万葉集』を正式に印刷する場合には、まず本文の周囲の界線(罫線)を摺り、次に墨で本文を摺り、最後に朱の墨で、朱の書入(かきいれ)を摺る、という3段階の印刷を行います。斎藤氏のお話では、朱の書入は、刷毛ではなく、筆で朱の墨を塗って印刷する、とのことです。気の遠くなるような細かい作業です。

それにもかかわらず、塙保己一検校は、何としても『元暦校本万葉集』の“姿”を、当時の人々に伝えたいと思ったのでしょう。

やはり今年も『元暦校本万葉集』の印刷は、容易ではありませんでした。力を少し抑え気味にしましたので、昨年よりは、心なしか、少しはうまく摺れたような気がします(しかし、ご覧の通り、均一に摺るまでにはいたっていません)。

日本の木版印刷の技術の高さについて、ますます興味を覚えています。

*今回も斎藤幸一氏をはじめ、温故学会の皆様に大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。
塙保己一史料館・温故学会ホームページ

2009年7月26日日曜日

国宝・三十帖冊子の修復

三十帖冊子
(写真=2009年6月2日付日本経済新聞の記事、および『花洛・仁和寺』(総本山 仁和寺発行)から)

巻子本から冊子本への変革の歴史の解明を期待

2009年6月2日(火)付の日本経済新聞などで、京都・仁和寺所蔵「三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)」(国宝)が、京都府教育委員会によって修復されることが決まったと報じられました。

私にとって、以前から「三十帖冊子」は大変気になる存在でした。「三十帖冊子」は、実は中国文化圏で、書写・製作年代がわかる、最古の冊子本です。

「三十帖冊子」は、その内容と周辺資料から、空海が唐に留学した、延暦23年〔中国では貞元20年〕(804)から大同元年〔元和元年〕(806)の間に書写・製作されたものであることが、確実と見られています。若き空海が自ら書写した経典も、多数含まれています。

敦煌写本の中に冊子本も見られます。その中に、料紙や筆跡などから8世紀中葉のものと推測されるものがあります(『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』Or.8210/S.5478。池田温氏の推定による)。8世紀の盛唐期(玄宗の時代)には、冊子本が登場していたことが伺えます。

とはいえ、この敦煌写本の冊子本も、残念ながら書写・製作年代を具体的に絞り込むまでの手懸かりはありません。私たちは、中国の、西安(唐の都・長安)などの中心地域に、唐代の冊子本が多く残っているのではないか、と思いがちです。しかし、中心地域では、冊子本はもちろん、巻子本の写本も早くに失われてしまっています。

西域への窓口であった、西の辺境の敦煌と、海隔てた東方の日本に、唐代の写本や、それらに影響を受けた写本が、数多く残ることになりました。

それだけに、書写・製作年代が確実な「三十帖冊子」は、中国文化圏における初期の冊子本の姿を伝える、極めて貴重な書物と言えます。しかも、その分量は30帖、また内容も経典96部168巻、梵字真言・偈頌(げじゅ。詩)・讃・回向文(えこうぶん)など47種に及びます(内容については、『請来美術図録』の算定による)。
*「三十帖冊子」のように「粘葉装(でっちょうそう)」という装丁の冊子本は、1冊を1帖と数えます。
��「三十帖冊子」は、本来38帖でしたが、既に延喜18年(918)には、30帖となっていました。この間に散逸した『十地経(じゅうじきょう)』『十力経(じゅうりっきょう)』の2帖は、その後、幸運なことに仁和寺に納められました(38帖のうち、32帖を仁和寺が所蔵していることになります)。


日本経済新聞の記事によれば、修復は次のように行われるとのことです。
  表紙に使われている絹地が擦り切れ、欠損した部分に裏側から同じ絹の布を当てるほか、
  紙の一部にある虫食い穴を和紙で埋めて補修する。

表紙を中心に修復が行われるようです。

中国文化圏において冊子本が、「正式な」書物である巻子本に対して、個人用の、ノートに近いものであったことは、先の記事「大きさから見た巻物と冊子本」に書きました。「三十帖冊子」も、本紙には界線も引かれず、1頁の行数や1行の字数も一定しておらず、拙い書き手による書も見え、やはりノートに近いものと言えます。

ところが、その一方で、「三十帖冊子」の本紙は、紙の外側に紫に染めた平織(ひらおり)の絹、内側に白絹を貼った表紙(紫の絹を貼った帖もあります)で、包み込まれています。この表紙の右端には発装が取り付けられ、発装の中央にはが結び付けられています。

本紙を左から覆う表紙の上に、右から覆う表紙が重なり、紐で全体を結ぶ体裁となります。そして、多くの帖に、金字で外題が書かれています(もちろん楷書です)。
*藤本孝一氏によれば、この表紙は、2枚を底で貼り継いだものとのことです。

「三十帖冊子」は冊子本でありながら、巻子本に近い装丁となっているのです。この装丁は、長安で施されたものと考えられています(真保龍敞氏、中田勇次郎氏ら)。

表紙の絹の性質(糸の縒り・幅・密度など)、発装の形状、紐の組織やその糸の特徴などについて、詳細なデータが得られたならば、「三十帖冊子」の製作のために、どのような技術が駆使されたかが明らかになるでしょう。当時の中国の造本技術に、新たな光が当たるに相違ありません。

また、それは、なぜ「三十帖冊子」が冊子本でありながら、このような装丁を採ったのか、具体的に解明することにもなるでしょう。

そして、この「三十帖冊子」の装丁は、7・8世紀の中国文化圏における巻子本の装丁を知る重要な手懸かりでもあります。この時期に、巻子本の表紙に絹布が用いられたことは、「正倉院文書」などに記録されています。しかし、実際の遺品は、敦煌写本にも、古代の日本に輸入、または書写された巻子本にも、今のところ見出せないようです。

さらに、巻子本の紐も、記録には、さまざまな種類のものが見えるものの、7・8世紀に製作された実物は、ごくわずかしか現存していません。

今回の修復を機に、中国文化圏における、巻子本から冊子本への変革の歴史が明らかにされることを思うと、期待に心踊ります。
*なお、「三十帖冊子」は、成立当初から、内容・装丁の両方で、安定している部分と不安定な部分とがある上(中田勇次郎氏らによる)、複雑な伝来の歴史を経てきています。「書物」としての「三十帖冊子」の性質や歴史も、今回の修復で明らかになることでしょう。
[主な参考文献]
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.奈良国立博物館編『請来美術図録』奈良国立博物館、1967年
��.藤本孝一『古写本の姿』日本の美術第436号、至文堂、2002年
��.禿氏祐祥『三十帖策子に就て』六大新報社、1950年
��.真保龍敞「『三十帖策子』原型の輪郭について」『印度学仏教学研究』第15巻第1号、1966年12月
��.真保龍敞「三十帖策子の原初形態-伝教大師借覧の策子について-」『印度学仏教学研究』第18巻第1号、1969年12月
��.中田勇次郎「三十帖策子の書について」『国宝 三十帖策子 重要文化財 十地経策子〈原寸複製〉』解説、法蔵館、1977年


2009年7月17日金曜日

「文字でたどる江戸の旅」展(青梅市郷土博物館)

青梅市郷土博物館

江戸時代後期の文字と日記の文化

青梅市を散策した折に、興味深い展示会に出会いました。青梅市郷土博物館で行われている企画展「文字でたどる江戸の旅」です。

久保仙助、柳屋(小林)たみ、小嶋小三郎の道中日記が、翻刻と現代語訳を伴った写真版で展示されています(仙助の道中日記は、一部実物も展示されています)。

特に私の目を引いたのは、柳屋(小林)たみの道中日記です。商家出身の女性で、徳川斉荘(とくがわなりたか。尾張徳川家12代当主)にも仕えたたみの、嘉永2年(1849)4月27日から8月10日までの129日間におよぶ旅の記録です。

たみの旅は、日本橋から長野善光寺、京都・大阪、四国の琴平神社にも足を延ばし、伊勢神宮・名古屋〈主君の墓参〉を経て品川に戻る大旅行でした。記録は大福帳のような帳面に書かれています。

たみの道中日記は、旅先での体験やさまざまな人々との出会いを生き生きと記しています。柏餅などがおいしかったことを楽しそうに書いている記事などには、つい微笑してしまいます。

江戸時代後期の、旅の実際を伝える貴重な内容に加えて、その筆の美しさが目を惹きます。堂々とした、しかも柔らかな文字です。漢字もきちんとした崩し方で書いています。

商家の女性が、これほどまでに整った文字で、道中の出来事を丹念に書き記していることに、江戸後期の文字文化の高さを、改めて実感させられました。

加えてその文字に、この道中日記が、単に、その場かぎりの、自分ひとりのための覚書ではないという印象も受けました。他の人々や、後の人も見る「記録」として、この道中日記を綴っている、という意識が働いているように感じました。

青梅市郷土博物館は、青梅への愛情が強く感じられる博物館です。青梅の自然や産業についての展示から新たな知識が得られます。柿渋(かきしぶ。渋柿の実のタンニンから作る茶色の染料)を作る道具を初めて目にしました。

また、第二次世界大戦中に作られた年賀状など、当時の人々の生活や意識を伝える、興味深い資料もあります。近接した場所に保存されている重要文化財・旧宮崎家住宅とともに(古い農家独特の、囲炉裏の火による煤のにおいが懐かしく感じられました)、青梅に行く機会がある時には、必ず訪ねたい博物館です。

 企画展「文字でたどる江戸の旅」
 会場:青梅市郷土博物館
    〒198-0053 東京都青梅市駒木町1-684
 会期:2009年2月21日(土)~8月16日(日)
 開館時間:9時から17時
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
 入場料:無料
 ホームページ:http://www.city.ome.tokyo.jp/index.cfm/43,1351,160,193,html
 チラシ


2009年5月13日水曜日

「『萬葉集』の「野」」(万葉七曜会編『論集上代文学』第三十一冊)

論集上代文学31

文学と環境
��万葉七曜会編『論集上代文学』第三十一冊、笠間書院、A5判 338頁、2009年4月刊、12,800円〈本体〉)

万葉七曜会(まんようしちようかい)が編集する『論集上代文学』第三十一冊が2009年4月末に刊行されました。私もこの書に論文を発表する機会を賜りました。
*万葉七曜会は、万葉学者の故五味智英先生門下の日本上代文学研究者が作られた研究会です。

私の論文は、『万葉集』の歌に詠まれた「野」を、〈文学と環境〉という視点から考察したものです。

  『萬葉集』の「野」―日本古代における自然と文化の境界領域〈文学と環境〉―
    一 〈文学と環境〉という視点
    二 「野(の)」という言葉
    三 「野」をめぐる空間認識
    四 「野」の意識の基底
    五 文化的概念としての「野」の成立
       *付、一覧表「『萬葉集』の「野」に詠まれた植物」
           一覧表「平城京周辺の「野」の植物・動物・天象」

“日本人は自然を愛好する”“それは日本の温和で明確な四季のある気候による”“そして文学にも自然との融合を志向する、豊かな感情表現が見られる”という見方が、日本では広く浸透しています。

しかし本当にそうなのでしょうか。“自然を愛好する”一方で、日本では、古代以来、大規模な開発と景観破壊が進められてきました。また生態学者の吉良竜夫氏によれば、日本列島は、自然科学的には、熱帯気団と寒帯気団が交替する二季の国です。“日本には四季がある”という観念は、文化的に創られ、文学や芸術が洗練してきたものと言えます。

そもそも日本人の“自然愛好”とは何なのでしょうか。この論文では、日本人の、《自然》に関する美意識を育んだ「野」というエリアを、〈環境〉という視点から捉え直すことを試みました。

〈環境〉は、生物の「主体」の存在や活動に、何らかの影響を与える事物や条件です。自然を〈環境〉として捉えるならば、生存するために、自然に順応するだけでなく、これを積極的に改変(開発・破壊)してゆく独自な生物としての人間の姿が見えてきます。
*〈環境〉の概念については、鷲谷いづみ氏の著書に多くを学びました。

万葉歌人たちは、

  春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ をなつかしみ 一夜寝にける
                                      (巻8・1424)山部赤人

  (はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける)

のように「野」への強い愛着や、「野」の風・花・鳥の声の美しさを、多くの歌に詠みました。しかし、「野」で詠まれた植物を、草地学・生態学・植生学などの研究成果に基づいて検討すると、「野」が手付かずの原生の自然ではなかったことが判明します。万葉歌人が好んで歌に詠んだ「野」は、人間の手によって管理維持された、「半自然草原」でした。

縄文時代以来、日本では、ススキなどの植物資源を得るために、原生の自然を改変して、二次的な自然を作りだし、これを人間の手で管理維持する歴史を積み重ねてきました。その経験と感覚を基礎にして、8世紀に、万葉歌人たちが、都市・平城京に隣接する「野」に「《自然》の美」を発見したのです。そして、平城京に近接する「野」は、それ以前と比較にならないほど強力に、政府によって管理維持されていました。

万葉歌人の愛好した《自然》は、人間によって管理維持された、人間にとって身近で親しい自然であったのです。この自然との関わり方は、上からの(具体的には時の政府に主導された)、また生活圏の外部からの、強力な開発の動きに対しては、無力な面を持ちます。

しかし、その一方で、field や grassland という語に、単純に置き換えることのできない日本の「野(の)」には、「里山」「里地」同様に、これからの自然と人間の関わり方のヒントも隠されているように思えます(平安時代の百科事典『和名類聚抄』や類題和歌集『古今和歌六帖』は、「野」を、文化と自然を滑らかに繋ぐ境界領域と、明確に位置付けています)。

この論文を最初の一歩として、文学を通じて、自然と人間の未来について今後考察を進めてゆきたいと思っています。ご一読いただければ幸いです。

*このテーマは、古写本の研究とも深く関わっています。成果がまとまりましたら発表します。
��なお、アメリカ合衆国で一つの学問分野にまで成長している「エコクリティシズム(環境文学論)」からも大きな示唆を得ました。「エコクリティシズム」についてはハルオ・シラネ氏からご教示を賜りました。
��校正中に、『万葉集』に詠まれた植物を、植物群落・植生景観という新しい観点から研究を進めていらっしゃる服部保氏から、最新の研究成果についてご教示を賜りました。

【目 次】
『論集上代文学』第三十一冊には、現代の日本上代文学研究を牽引してこられた先生方の論文が収められています。目次をここに紹介します。

『萬葉集』の「野」―日本古代における自然と文化の境界領域〈文学と環境〉―(小川靖彦)
近江二首を読む(多田一臣)
笠金村の「天地の神」(曽倉岑)
山上憶良と大伴旅人―巻五を中心に―(阿蘇瑞枝)
万葉集巻十三挽歌部の反歌について(遠藤宏)
「かづらく」続考(小野寛)
古事記、雄略天皇段の構想―そらみつヤマトの王者形成の物語―(金井清一)
垂仁紀古写本訓点の敬語表現(版本―体言・助詞)(林勉)
上代における〈~カ〉型形容動詞語幹の用法(山口佳紀)
上代文学研究年報二〇〇七年(平成十九年)


2009年5月4日月曜日

財団法人石川文化事業財団 お茶の水図書館

お茶の水図書館

万葉集研究の宝蔵、佐佐木信綱収集「竹柏園本」

千代田区神田駿河台に財団法人石川文化事業財団 お茶の水図書館があります。
お茶の水図書館は、日本唯一の女性雑誌専門図書館です。

このお茶の水図書館に、古典学者で歌人の佐佐木信綱(1872~1963)が収集した、貴重な古典籍・古文書・資料の一大コレクション「竹柏園本(ちくはくえんぼん)」が収蔵されています。
*「竹柏(なぎ)」(マキ科の常緑高木)の葉が堅実で、二枚重ねると力士でも裂くことができないことに因んで、師弟共研の意義を表すために、信綱の父・弘綱(国学者・歌人)が「竹柏園(なぎぞの)」と号し、信綱もその遺志を継いで、歌の会を「竹柏会(ちくはくかい)」と名づけた。(佐佐木信綱「加敝里見天(かへりみて)」による)

お茶の水図書館では、1944年(昭和19)に石川弘美氏が「竹柏園本」のうち、主に『万葉集』に関わる典籍や文書を購入しました(お茶の水図書館ホームページによる)。

1944年には、信綱は73歳。この年、アメリカ合衆国の中部太平洋地域軍は、マーシャル諸島、マリアナ諸島と兵を進め、日本軍を破り、東京空爆の前線基地を手中に収めました(11月24日に東京空爆が始まります)。このような状況下で、信綱は空爆の始まる前に、貴重な資料の保存に力を尽くしたのでした。

お茶の水図書館の所蔵する「竹柏園本」は、現代の活字本の『万葉集』の底本として使われている西本願寺本万葉集(20帖。鎌倉後期写)を始めとする写本や、写本の断簡、刊本、さらに中世・近世・近代の万葉学書、約2000冊(661タイトル)に及びます(分量は、お茶の水図書館のホームページによる)。

その目録である佐佐木信綱編『竹柏園蔵書志』、さらに「竹柏園本」を中心とする『万葉集』の写本・刊本、万葉学書の簡単な解説書である、佐佐木信綱著『萬葉集事典』の「典籍篇」(615~801頁)を見ると、その豊富で多彩なタイトルに驚かされます。毎回見るたびに、このような書物があったのかという「発見」があります。
*『萬葉集事典』「典籍篇」の今偶然開いたページには、イングラム『万葉集解説』(『ジャパン・マガジーン』第4巻第5号、1913年〈大正2〉8月)が挙がっていました。

最近、塙保己一検校による元暦校本万葉集の模写・刊行事業について研究するため、「竹柏園本」の貴重な資料の閲覧に、久しぶりでお茶の水図書館を訪れました。

以前は、明治大学駿河台校舎の向かいにありましたが、現在は主婦の友社ビルの隣にあります。新しい瀟洒な図書館の前で、開館時間を待つ間、神田川岸のまばゆいばかりの新緑が目に飛び込んできて、清々しい気持ちになりました。

落ち着いた閲覧室で、塙検校の元暦校本にかける思いを生き生きと伝える文書を、じっくりと閲覧するという、豊かな時を過ごさせていただきました。

お茶の水図書館の所蔵する「竹柏園本」には、詳しい調査・研究が必要な古典籍・古文書・資料がまだまだたくさんあります。多くの人々とともに、「竹柏園本」の調査・研究を通じて、新しい研究テーマを発見していきたいと思っています。
[佐佐木信綱についての基本文献]
��.佐佐木信綱『佐佐木信綱文集』竹柏会、1956年 (*戦前の『小学国語読本』などに採られた「松坂の一夜」などの文章や、1985年までの年譜を収録)
��.鈴鹿市教育委員会編『新訂 佐佐木信綱とふるさと鈴鹿』鈴鹿市教育委員会、1994年 (*小冊子ながら貴重な情報を収める。1990年までの年譜を収録。廣岡義隆先生から賜りました。御礼申し上げます)

��引用文献]
��.佐佐木信綱編『竹柏園蔵書志』臨川書店、1988年
��.佐佐木信綱『萬葉集辞典』平凡社、1956年


【図書館情報】
財団法人石川文化事業財団 お茶の水図書館
〒101-0062 東京都千代田区駿河台2-9
閲覧日:木曜日・日曜日・祝日・年末年始・館内整理日等を除く、午前10時から午後5時まで
・古典籍・古文書部門の閲覧は予約制。「閲覧申請書」(ホームページからダウンロードできる)に必要事項を記入して、郵送で申し込み。資料の状態調査等を行って、閲覧日時を調整。
ホームページ:
http://www.ochato.or.jp/

*入館の時から退出まで、図書館の皆様から、暖かなご厚意とさりげないお心遣いを賜りました。心より御礼申し上げます。
【訂 正】
「*女性専用図書館ですが、古典籍・古文書部門については、男性も閲覧できます。」という注記を付けましたが、これは移転以前の知識にもとづく誤りでした。現在は、20歳以上ならば、どなたでも利用できます。


2009年4月29日水曜日

再開します

しばらくこのブログ「万葉集と古代の巻物」は、休止状態でした。ご覧くださっていた皆様には、ご心配をおかけしました。間もなく再開いたします。

2009年1月28日水曜日

卒業論文のこと(2008年度)

書物学への歩み

青山学院大学での、2008年度の授業も無事終わりました。今年度は、私のゼミナールでは、5編の卒業論文が提出されました。

・「雲紙本和漢朗詠集の書の研究」
・「書物における本文と料紙文様の関係」
 (粘葉本和漢朗詠集と近衛本和漢朗詠集を中心に料紙として用いられた唐紙の文様についての研究)
・「巻子本における文字と絵の関係」
 (太田切和漢朗詠集の下絵についての研究)
・「金沢本万葉集研究」
 (同時期の元永本古今和歌集と比較しながらの、レイアウトについての研究)
・「『日本霊異記』の諸本及び伝来と享受の研究」

日本文学研究・書誌学の論文のようにも見え、また美術史・書道史の論文のようにも見えます。実は、その両方を含む、新しい領域に挑戦したものです。

これらの論文の多くは、青山学院大学で所蔵している、平安時代の写本の複製を、3年次の演習で実際に調査したことが、出発点となっています。活字で読む古典とは異なる、「写本」の美に強く魅了されたことが、それぞれの「あとがき」に記されています。

平安時代を中心に、『万葉集』『古今和歌集』『和漢朗詠集』などの美しい写本が、数多く製作されました。従来の日本文学研究では、まずそれらの内容に目が注がれてきました。これらの詩歌集の原本は存在しません。そこで、正しい本文を知るための重要な手懸かりとして、平安時代の写本の本文が、注目されてきたのです。

もちろん、それらの写本の装丁や書なども研究されていますが、それはあくまでも写本の書写年代や書写者を推定することを目的とするものです。

一方、今日、美術史や書道史の分野で、これらの写本の料紙装飾や書の研究が活発に行われています。ただし、料紙は料紙として、書は書として研究されている面が強いようです。

しかし、さまざまな色の料紙も、金泥・銀泥などで書かれた鳥や植物などの下絵も、写本の一部を構成する要素です。「書物」としての効果を考えた上で、これらは利用されています。

また、書も、歌の内容に対する書き手の“解釈”を抜きにしては考えられません。加えて、書き手たちは、さまざまな書体・字体・字形を駆使しながら、一部の写本を全体として、まとまりがあるととともに、変化に富む「書物」に仕立てています。

“「書物」としての写本”の美に迫ろうとしたのが、これらの論文です。

苦心の痕が随所に伺えるとともに、思いがけない発見も含むこれらの論文を読んで、改めて強く感じたことは、写本が、原本の単なるコピーではなく、書写者・製作者の“解釈”のもとに、新たに誕生した「書物」である、ということです。

「書物」とは、書写されるたびに、その都度新たな「書物」として生まれ変わるものなのです。

*2009年度は、内地留学のため、残念ながら、私の授業は開講されません。1年間、今まで残してきた、万葉学史に関わる課題を仕上げ、また、この新たな「書物学」を深めてゆきたいと思っています。