2009年5月13日水曜日
「『萬葉集』の「野」」(万葉七曜会編『論集上代文学』第三十一冊)
文学と環境
��万葉七曜会編『論集上代文学』第三十一冊、笠間書院、A5判 338頁、2009年4月刊、12,800円〈本体〉)
万葉七曜会(まんようしちようかい)が編集する『論集上代文学』第三十一冊が2009年4月末に刊行されました。私もこの書に論文を発表する機会を賜りました。
*万葉七曜会は、万葉学者の故五味智英先生門下の日本上代文学研究者が作られた研究会です。
私の論文は、『万葉集』の歌に詠まれた「野」を、〈文学と環境〉という視点から考察したものです。
『萬葉集』の「野」―日本古代における自然と文化の境界領域〈文学と環境〉―
一 〈文学と環境〉という視点
二 「野(の)」という言葉
三 「野」をめぐる空間認識
四 「野」の意識の基底
五 文化的概念としての「野」の成立
*付、一覧表「『萬葉集』の「野」に詠まれた植物」
一覧表「平城京周辺の「野」の植物・動物・天象」
“日本人は自然を愛好する”“それは日本の温和で明確な四季のある気候による”“そして文学にも自然との融合を志向する、豊かな感情表現が見られる”という見方が、日本では広く浸透しています。
しかし本当にそうなのでしょうか。“自然を愛好する”一方で、日本では、古代以来、大規模な開発と景観破壊が進められてきました。また生態学者の吉良竜夫氏によれば、日本列島は、自然科学的には、熱帯気団と寒帯気団が交替する二季の国です。“日本には四季がある”という観念は、文化的に創られ、文学や芸術が洗練してきたものと言えます。
そもそも日本人の“自然愛好”とは何なのでしょうか。この論文では、日本人の、《自然》に関する美意識を育んだ「野」というエリアを、〈環境〉という視点から捉え直すことを試みました。
〈環境〉は、生物の「主体」の存在や活動に、何らかの影響を与える事物や条件です。自然を〈環境〉として捉えるならば、生存するために、自然に順応するだけでなく、これを積極的に改変(開発・破壊)してゆく独自な生物としての人間の姿が見えてきます。
*〈環境〉の概念については、鷲谷いづみ氏の著書に多くを学びました。
万葉歌人たちは、
春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける
(巻8・1424)山部赤人
(はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける)
のように「野」への強い愛着や、「野」の風・花・鳥の声の美しさを、多くの歌に詠みました。しかし、「野」で詠まれた植物を、草地学・生態学・植生学などの研究成果に基づいて検討すると、「野」が手付かずの原生の自然ではなかったことが判明します。万葉歌人が好んで歌に詠んだ「野」は、人間の手によって管理維持された、「半自然草原」でした。
縄文時代以来、日本では、ススキなどの植物資源を得るために、原生の自然を改変して、二次的な自然を作りだし、これを人間の手で管理維持する歴史を積み重ねてきました。その経験と感覚を基礎にして、8世紀に、万葉歌人たちが、都市・平城京に隣接する「野」に「《自然》の美」を発見したのです。そして、平城京に近接する「野」は、それ以前と比較にならないほど強力に、政府によって管理維持されていました。
万葉歌人の愛好した《自然》は、人間によって管理維持された、人間にとって身近で親しい自然であったのです。この自然との関わり方は、上からの(具体的には時の政府に主導された)、また生活圏の外部からの、強力な開発の動きに対しては、無力な面を持ちます。
しかし、その一方で、field や grassland という語に、単純に置き換えることのできない日本の「野(の)」には、「里山」「里地」同様に、これからの自然と人間の関わり方のヒントも隠されているように思えます(平安時代の百科事典『和名類聚抄』や類題和歌集『古今和歌六帖』は、「野」を、文化と自然を滑らかに繋ぐ境界領域と、明確に位置付けています)。
この論文を最初の一歩として、文学を通じて、自然と人間の未来について今後考察を進めてゆきたいと思っています。ご一読いただければ幸いです。
*このテーマは、古写本の研究とも深く関わっています。成果がまとまりましたら発表します。
��なお、アメリカ合衆国で一つの学問分野にまで成長している「エコクリティシズム(環境文学論)」からも大きな示唆を得ました。「エコクリティシズム」についてはハルオ・シラネ氏からご教示を賜りました。
��校正中に、『万葉集』に詠まれた植物を、植物群落・植生景観という新しい観点から研究を進めていらっしゃる服部保氏から、最新の研究成果についてご教示を賜りました。
【目 次】
『論集上代文学』第三十一冊には、現代の日本上代文学研究を牽引してこられた先生方の論文が収められています。目次をここに紹介します。
『萬葉集』の「野」―日本古代における自然と文化の境界領域〈文学と環境〉―(小川靖彦)
近江二首を読む(多田一臣)
笠金村の「天地の神」(曽倉岑)
山上憶良と大伴旅人―巻五を中心に―(阿蘇瑞枝)
万葉集巻十三挽歌部の反歌について(遠藤宏)
「かづらく」続考(小野寛)
古事記、雄略天皇段の構想―そらみつヤマトの王者形成の物語―(金井清一)
垂仁紀古写本訓点の敬語表現(版本―体言・助詞)(林勉)
上代における〈~カ〉型形容動詞語幹の用法(山口佳紀)
上代文学研究年報二〇〇七年(平成十九年)