2009年9月4日金曜日
常設展示「文化の風景」(文京ふるさと歴史館)
草書・平仮名と片仮名
「かな」が発明される以前に編まれた『万葉集』は、すべて漢字で書かれています。しかし、平安時代以後に書写された『万葉集』は、歌に読み下し文(「訓」または「訓点」と言います)を伴うようになります。
その訓は、平仮名で書かれることも、片仮名で書かれることもあります。平仮名と片仮名の違いは何なのか、ということを考えている時に、面白い展示に出会いました。文京ふるさと歴史館の2階の常設展示「文化の風景」です。
展示スペースに足を踏み入れると、文京区にゆかりある文人たちの手紙や書物が目に入ってきます。ひときわ目を引くのが、樋口一葉の手紙(複製)です。流麗でしかも力強い草書と平仮名で書かれています。
小松茂美氏は、一葉を加藤千蔭(かとうちかげ。江戸中期の和学者、著書に『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』など)の書流の優れた書き手であると評しています。複製の手紙からも、一葉の教養基盤に、江戸のかな書道が確かに存在していたことが窺えます。
しかし、それだけに現代の私たちが、この手紙を読むことは容易ではありません。草書を読むためには習練が必要です。また平仮名と言っても、今日私たちが読み書きする、活字の明朝体をベースとする書体ではありません。現代には使わない変体仮名を織り交ぜ、それを連綿して書き記してあります。
さらに進むと『商売往来』という、江戸時代の小型の刊本が展示されています。商売に関わる物品が絵で示され(青、赤の色刷り)、そばにその名称が漢字で「手拭」「風呂敷」「服紗」などと書かれています。その漢字が草書なのです。そして漢字の脇に、平仮名でその読み方が記されています。
江戸の商人たちの初等教育の教科書である『商売往来』が、草書と平仮名を重視していたことがわかります。草書・平仮名の読み書きが出来なければ、一人前の商人にはなれなかったのでしょう。
『商売往来』の先には、近代の小学校の教科書があります。1881年(明治14)刊の『小学校修身書一』は、漢字平仮名交じり文で書かれています。それが1933年(昭和8)刊の文部省編『小学校国語読本 尋常科用巻一』では片仮名書きとなります。
サイタ/サイタ/サクラ/ガ/サイタ
『商売往来』と『小学校国語読本 尋常科用巻一』を見比べていると、単なる用字の違いということに止まらない、「ことば」と「文字」についての考え方の違いが感じられてきます。
『商売往来』は、「文字」(商人として必要な)を修得することを目標にしているようです。それに対して、『小学校国語読本 尋常科用巻一』は、誰もが身に付けるべき、〈日本語〉という「ことば」を学ぶことを目指しているように見えます。
『小学校国語読本 尋常科用巻一』は、現代の私たちももちろんすぐに読むことができます。片仮名書きは、草書・平仮名書きに比べて、「文字」を修得する努力が格段に少なく済みますし、読み誤りも避けることができます。
とはいえ、片仮名書きが優れていることを、主張しようとしているわけではありません。この違いの背景にあるものをもっと見てみたい、そして草書・平仮名書きの文化が途絶えてしまったことの意味を考えてみたい、というのが、この二つの教科書を見ての私の思いです。
ところで、平仮名書き・片仮名書きについては、近年、親鸞の「消息」(書状)について興味深い研究が進められています。親鸞の自筆「消息」は本来漢字・平仮名交じり文で書かれていましたが、広く門徒に読み上げるために、自筆の「消息」の難しい漢字に片仮名で振り仮名が施されたり、また平仮名が片仮名に書き改められたりしています。
この研究を進めている永村眞氏は、本来特定の門徒に宛てられた一過性の親鸞の「消息」が、永続する教説の拠り所に変容する過程で、平易で正確に読み取り易い片仮名に書き換えられていった、と見ています。しかし、それと同時に、親鸞の「消息」が師弟関係の正統性を証し立てるものとして、弟子たちによって平仮名でも書写され続けたことにも、永村氏は注意しています。
活字文化の中では、平仮名と片仮名の違いは、それほど強くは意識されません(もちろん片仮名は欧米由来の外来の語や擬音語などの表記に限定的に使う、という使い分けの意識はありますが)。
しかし、手書きの文化の中では、平仮名と片仮名の機能、芸術性、社会的役割には、想像以上の大きな違いがあったはずです。手書き文化と相性のよかった草書も含めて、手書き文化の文字について、さらに考察を深めたいと思い、文京ふるさと歴史館を後にしました。
*なお、教科書については、印刷博物館で「近代教育をささえた教科書展」が開催されています(2009年7月18日(土)~10月12日(月))。
[主な参考文献]
��.小松茂美『日本書流全史(上)』講談社、1970年
��.小松茂美『展望 日本書道史』中央公論社、1986年
��.永村眞「親鸞聖人の消息と法語-主に高田専修寺所蔵自筆『消息』を通して-」『高田学報』第94輯、2006年3月
文京ふるさと歴史館
〒113-0033 東京都文京区本郷4-9-29
開館時間:10時~17時
休館日:月曜日、第4火曜日(*祝日にあたるときは開館し、翌日休館)
全館くん蒸期間、年末年始
入館料:一般100円、団体(20名以上)70円、中学生以下・65歳以上無料
(*特別展開催中は別に定める)
ホームページ:http://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/
※『文京ふるさと歴史館だより』が発行されています。第16号には、平野恵氏「20世紀前半、文京の園芸文化-菊栽培と温室文化-」などの記事や収蔵品展余話などが掲載されています。