2007年11月4日日曜日
西本願寺本万葉集の大きさ
(写真=西本願寺本万葉集の複製〈青山学院大学図書館蔵〉)
西本願寺本の特別な大きさと金沢北条氏
今日、私たちが活字本で読む『万葉集』は、西本願寺本万葉集(財団法人石川文化事業団 お茶の水図書館所蔵)の漢字本文に拠っています。西本願寺本は、『万葉集』全20巻約4500首を、完全に保存する現存最古の写本です。
この西本願寺本は、鎌倉後期の書写と推測されています。鎌倉中期の万葉学者・仙覚(せんがく)が、文永3年(1266)に完成した校訂本の系統に属する、善本です。
*仙覚は、東国出身の、天台宗の学僧。建仁3年(1203)~文永10年(1273)頃。万葉集研究史に画期的業績を残しました。
西本願寺本は、20冊からなる冊子本です。その装丁は、「大和綴(やまととじ)」または「結びとじ」と言われるものです。表紙の上から、右端2箇所を、紐で結んで綴じています。昔のアルバムによく見られた装丁です。
ところで、注目したいのは、西本願寺本の大きさです。縦約32.1㎝、横約24.8㎝もあります。以前、この貴重な写本を、実際に見る機会を得ましたが、大きく、堂々としたその姿に、身の引き締まる思いがしたことを、今でも思い出します。
先の記事「大きさから見た巻物と冊子本」で述べましたように、中国文化圏における初期の冊子本は、巻物に比べてかなり小さいものでした。平安後期から、その冊子本の縦の寸法は、25~27㎝と、巻物と肩を並べるようになり、高い装飾性も持つに至ります。
『万葉集』の写本も、平安後期に、巻物から冊子本へと転換します。そして冊子本の『万葉集』は、巻物の『万葉集』の大きさを踏襲していました。
このように見てきますと、西本願寺本の大きさが、特別なものであることがわかります。本来、冊子本はハンディさを、その特徴としていますが、西本願寺本は、もはや机の上に置かなければ、閲読できません。
実は、この西本願寺本と、同じ装丁で、ほぼ同じ大きさの、『源氏物語』の写本が存在することが、山岸徳平氏・川瀬一馬氏によって、指摘されています。尾州家河内本源氏物語です。縦31.8㎝、横25.8㎝という寸法です。
東国で『古今和歌集』『源氏物語』の研究を進めた古典学者・源親行(みなもとのちかゆき)は、『源氏物語』の校訂本を、建長7年(1255)に完成しました。3年後の正嘉2年に、鎌倉幕府随一の文化人・北条(金沢)実時は、早くもこれを書写させました。尾州家河内本源氏物語は、この実時本を、さらに金沢北条氏周辺で書写したもののようです。
(*尾州家河内本源氏物語には、北条実時の奥書があります。通説では、これを実時自筆と見て、尾州家河内本源氏物語を、実時が当時の能書に書写させたものとしています。しかし、この奥書には疑問があり、以上のような書き方をしました。今後の研究が必要です。)
そして、
① 仙覚と源親行と北条実時の間に、学問的文化的な交流があったこと。
② 尾州家河内本源氏物語が北条氏滅亡後、足利義満の手に渡った可能性があり(山岸氏・川瀬氏)、一方、西本願寺本も、一時、足利義満が所持していた、というように、両者の伝来が似ていること。
などの事実を考え合わせると、西本願寺本と尾州家河内本源氏物語が、ともに金沢北条氏が所蔵するものであったことが推測されます。
金沢北条氏の祖・実時は、熱心に古典の書写と研究を行いました。それは、決して個人的な趣味に止まるものではなく、「書物」によって、都の文化を、鎌倉に、体系的に移植することをめざすものでした。
西本願寺本の特別な大きさは、鎌倉における、新たな「古典文化」の誕生を、高らかに宣言するために、意図的に選び取られたものであったのでしょう。
��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.林勉「西本願寺本萬葉集 解題」『西本願寺本萬葉集(普及版) 巻第一』主婦の友社発行・おうふう発売、1993年 (*西本願寺本の原寸影印本で、その大きさを実際に体験できます)
��.山岸徳平『尾州家河内本源氏物語開題』尾張徳川黎明会、1935年
��.川瀬一馬『日本における 書籍蒐蔵の歴史』ぺりかん社、1999年
��.秋山虔・池田利夫「解題」『尾州家河内本源氏物語』第5巻、武蔵野書院、1978年
��.熊原政男「尾州家河内本源氏物語開題を読みて」関靖・熊原政男『金沢文庫本之研究』青裳書房、1981年
【西本願寺本の複製本】
①『西本願寺本萬葉集』主婦の友社、1984年 (*上の写真。原本と同じ装丁。本文はカラー)
②『西本願寺本萬葉集(普及版)』主婦の友社発行・おうふう発売、1993~1996年 (*洋装本。モノクロ)