2007年11月25日日曜日

万葉集巻一の書記法(2)

阿騎野の歌短歌

大胆な表記を支える「記憶」
��この記事は「万葉集巻一の書記法(1)」に続きます)

『万葉集』巻1原撰部には、漢字の視覚的印象を大胆に利用した表記が、しばしば見られます。

先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」では、中大兄の三山歌を例に挙げましたが、柿本人麻呂の、著名な歌である、阿騎野の歌の第三反歌・48番歌もそうです。上にその漢字本文を示しました。今日では、この歌は、


 ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

と、一般に、読み下されています。しかし、実は、この読み下し方も、一案に過ぎず、本当にどのように読み下せばよいのかは、わかっていません。

この歌では、極端なまでに、助詞・助動詞・活用語尾の類の表記を、省略しています。そして、「東野炎」「月西渡」と、東西の情景が、ダイナミックに対照させられ、この歌固有の、空間の広大さが、文字の上で、具体的に示されます。

漢字が、歌の〈ことば〉から大胆に離れているために、今日の万葉学の知識をもってしても、正確には、読み下せないのです。

このような表記が可能であった条件として、巻1原撰部が編集された時期には、歌が、声に出して詠まれるものとしての性格を、なお強く持っていたことが、考えられます。

声に出して詠まれた歌は、その場限りのものとして、消えてしまうのではなく、暗記され、必要な時に、繰り返し、読み上げられたことでしょう。

筆録者も、歌を暗記していたからこそ、安心して、思い切った表記ができたに相違ありません。

さらに、この条件に、「書物」としての巻子本の特徴が、重なりました。当時の「書物」のあり方によれば、巻1原撰部は、草稿として断片のままであったのではなく、巻子本に仕立てられたと思われます。

洋の東西を問わず、巻子本は、句読点も付けず、分かち書きもせずに、連続的に文字を記すものでした。それは、巻子本が、連続したひとまとまりの内容を、連続したままに記録することをめざしたメディア(媒体)であったからです(森縣氏)。

巻子本を読み、その内容を理解するためには、音読することが必要でした。巻子本という「書物」は、「声」と深く関わるものでした。

このような巻子本を、初めて読もうとする時、途中から読むことは、容易ではありません。巻子本は、本来、冒頭から末尾まで読み通さなければならないものです。

しかし、現代の「書物」と異なり、巻子本の数は多くありません。巻子本は、繰り返し読まれ、そこに記された文章は、暗誦できるほとに記憶されたことでしょう。その巻子本に習熟した読み手ならば、途中から読み始めることもできたでしょう。

巻子本は、「記憶」とも深く関わっていました。

巻1原撰部の編者は、このような巻子本の特徴にも支えられながら、大胆な表記を試み、それを歌の「書記法」と言えるものにまで、仕上げてゆきました。

それでは、このような巻1原撰部は、実際に、どのように読まれ、また扱われたのでしょうか。そこには、興味深い、文字と記憶の関わり方があるように思われます。私たちは、口誦と記載、または声と文字を対立的に捉えがちですが、その両方が重なり合う次元というものが、存在したようです。これについては、次の記事に、詳しく書きます。


*古代ギリシアでは、紀元前4世紀第2半期から、文学作品を記すパピルスに、句読点が現れますが、句読法が体系的なものに発達するのは、ローマのハドリアヌス帝時代(76~136)です(ルドルフ・フェイファー氏)。敦煌発見の漢文文献では、民間に通用していた写本には、句点も多く見られます(池田温氏)。しかし、正式な「書物」である仏典は、句点を施さないのが、原則でした。『摩訶般若波羅蜜経』巻第12(S.2133)などは、例外です。

[主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.森縣「書物の構造について」『汲古』第32号、汲古書院、1998年1月
��.Pheiffer, Rudolf. History of Classical Scholarship: From the Beginnig to the End of the Hellenistic Age. Oxford: Oxford University Press, 1968.
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年