2008年4月25日金曜日

「草仮名の書かれた土器」の発見と展示

草仮名の書かれた土器


「かな」誕生の歴史を知る貴重な資料

2008年4月24日(木)付、読売新聞紙上で、平安時代前期(9世紀後半)の、草仮名(そうがな。漢字の草書体を、日本語の音の表記に用いたもの)が墨書された土器が、富山県射水市一条の「赤田(あかんだ)Ⅰ遺跡」で発見されたことが、報道されました。

9世紀後半は、万葉仮名が、平仮名へと飛躍する重要な時期です。しかし、資料は多くありません。この時期の、仏教経典に書き込まれた訓点や、文書、落書などに、草仮名が見えることは、報告されていました。

しかし、調査を担当した鈴木景二氏(富山大学人文学部教授)によれば、「草仮名が書かれた土器としては、最古かつ唯一の資料である可能性が高い」としています。しかも、鈴木氏は、「なには」があることから、宴会で歌を詠んだ際の、練習用として書き留められたか、と推測しています。

9世紀後半における、草仮名で書くことの広がり、また和歌の表記法を知る上で、重要な資料と思われます。写真で見る限りでは、直径13.1㎝、高さ2.4㎝の皿状の土器の裏側に書かれた文字は、のびやかに書かれており、闊達な印象を与えます。

是非、実物を見てみたいと思い、この土器の発見を発表した、射水市教育委員会に直接問い合わせたところ、以下の要領で展示が行われることを知りましたので、お知らせします。


射水市新湊博物館(〒9340-0049 富山県射水市鏡宮299)
・現在展示中。5月25日(日)まで展示。
・5月11日(日)に、鈴木景二氏による解説が行われます。
※開館日時については、射水市新湊博物館のウェブ・サイトでご確認ください。
※鈴木氏による解説については、直接、博物館にお尋ねください。


竹内源造記念館(〒939-0351 富山県射水郡小杉町戸破2289-1)
5月27日(火)から展示。


【追記】
asahi.com にも、やや異なる角度からの写真と、展示・解説情報が掲載されています(鈴木景二氏による解説は、午後2時からです)。
「最古級の草仮名墨書土器が出土、和歌練習か 富山・射水」

【追記2】(2008年5月7日記)
高岡市万葉歴史館の関隆司氏より、貴重な資料をお寄せいただきました。それによれば、この草仮名墨書土器の、出土日時は、平成14年4月25日で、出土場所は、現在の射水市一条団地内道路敷下(市道)です。

文字数は、17文字。鈴木景二氏によれば、酒杯を意味する「ささつき」、手習い歌「難波津歌」の書き出しの「なには」などが書かれていると見られます。また、「ひつ」「のみ」などは連綿になっているとのことです。

��関隆司氏に心より御礼申し上げます(迂闊にも入力ミスで、敬称を脱したままで【追記2】をアップしてしまっておりました。大変失礼いたしました)。


2008年4月18日金曜日

古筆学者・小松茂美氏の紹介記事(読売新聞):さらに知りたい人のために

2008年4月17日(木)付の『読売新聞』夕刊の、シリーズ「明日へ・書を囲む」に、古筆学者・小松茂美先生の近況を紹介する記事が、掲載されました。

『古筆学大成』の刊行にいたるまでの、情熱と努力が簡潔にまとめられています。そして、83歳になれた今、後白河法皇の研究に没頭され、66年にわたる法皇の生涯を、一日刻みで再現する「日録」を、ほぼ完成されたことが、紹介されています。

王者の風格が備わる、後白河法皇の筆跡も魅力、と小松先生はおっしゃっています。その筆跡の背後にある、激動の人生が、間もなく、小松先生ご自身が独自に開拓された古筆学の、あらゆる方法が駆使されながら、鮮烈に描き出されると思うと、心弾みます(小松先生の古筆学は、書を中心として、国文学・歴史学・美術史・宗教学などを集大成する学問です)。

書斎で撮影された、清い御姿の写真とともに、「書は季節に関係なく、昔は365日の関心事。今も人間錬成の場だと思います」というお言葉が、強く印象に残りました。

なお、先生の被爆のこと、『平家納経』との出会い、古筆学を確立されるまでの格闘、そして学問や、今日の書のあり方についての思いについて、「インタビュー・古筆学に生きる」(『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』所収)で、さらに詳しくお話ししてくださっています。先生の激しい生き様は、私たちに大きな勇気を与えてくれます。



「インタビュー・古筆学に生きる(小松茂美)」目次
��『文字のちから』65~82頁(18頁分)=

��.書とのめぐりあい―父と恩師によって
��.書に生かされる―「書は人間の錬成によって立派になる」
��.被爆、そして池田亀鑑博士『古典の批判的処置に関する研究』との縁
��.『平家納経』への思い “生きている間に見たい”
��.池田亀鑑博士との出会い「私は必ずあなたを助ける」
��.二荒山本『後撰集』・今城切からの着想―断片を元の形に復元する
��.古筆学の樹立 “人間錬成の格闘”
��.『平家納経』から後白河法皇へ―美と生と死と
��.文字のいまと古筆学のこれから―“文字性”の喪失

【インタビューから】
・「今になって考えることは、学問であれ何であれ、それが人間錬成の格闘だということです。その中で私は学問を選んだということなのです。商人であれ、作家であれ、画家であれ、歌舞伎役者であれすべて同じです。そういうことで、ありとあらゆることを自分の栄養にしなければいけないなと思いましたね。」(77頁)

・「今現在、私は後白河法皇の六十六年間の生涯を追究していますが、これは古筆の歴史的な研究かというそうではない。しかしこれが究極の古筆学だと私は思っています。私の古筆学の終焉、最後の大事業として進めているこの古筆学は複雑多岐な方法をとっています。ありとあらゆる学問の集大成なのです。」(79頁)

・「そして、何であれ、まずは本物と偽物の見分けが付くように己れの“眼”を養っていただきたいですね。」(インタビューの結びに。82頁)

��『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、全196頁、2007年12月刊、1,800円(本体)

文字のちから(書籍版)


2008年4月8日火曜日

万葉集書物史早わかり(2)

別提訓形式
(写真=漢字本文の次に、平仮名で、その読み下しを書き記す「別提訓形式」の例 〈元暦校本万葉集の複製による〉)

謎の九世紀
��この記事は、「万葉集書物史早わかり(1)」に続きます)

現存する、『万葉集』の写本・刊本を中心に、「書物」として『万葉集』の歴史を見渡すと、次のようになります。
 
 Ⅰ 写本未詳の時代
 Ⅱ 巻子本(写本)の時代
 Ⅲ 冊子本(写本)の時代
 Ⅳ 冊子本(刊本)の時代
 Ⅴ 冊子本(近代的印刷本)の時代

Ⅰ 写本未詳の時代〔9世紀~10世紀末〕

今日、私たちの目にしている、20巻本の『万葉集』の最古の写本は、11世紀中頃に書写された桂本(かつらぼん。皇室御物。巻4のみ)です。10世紀の末頃から、古記録(貴族の日記)にも、本来20巻本と推定される写本の記録が、現れます。

ところが、これ以前に遡ると、史料から、「書物」としての『万葉集』の姿を、直接捉えることが、難しくなります。

『源順集(みなもとのしたごうしゅう)』の詞書に、天暦5年(951)に、村上天皇の宣旨があり、「古万葉集よみときえらばしめ給ふ」た、と記されています。この時、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌が、「よみとかれ」たことがわかります。

平安時代の『万葉集』の写本に記された訓を分析することで、この「よみとく」の内容が、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌(短歌のみ)を、組織的体系的に、《平仮名で書かれた和歌》に置き換えるものであったことが、推定できます。

また、その置き換えは、『万葉集』全20巻に及んだことが、鎌倉時代の学僧・仙覚(せんがく)の校訂した写本に記された符号から、わかります。その歌数を、上田英夫氏は、約4500首の『万葉集』歌のうち、4000首を越えると、算定しています(この時の、読み下しを、「古点」と言います)。

ここで「えらぶ」とあるのは、漢字本文の次の行に、平仮名で、その読み下しを記す、新しい「書物」としての『万葉集』の誕生を示すのでしょう。古語の「えらぶ」には、選び集めて、書物を作る、という意味もありました。『万葉集』の写本の、このスタイルを、「別提訓形式」と言います。
*なお、この「えらぶ」を、良いものを選択する、の意味にとる説もあります。

しかも、この天暦の訓読の時に、巻18の、5箇所の漢字本文が補修されたことも、推定されています(大野晋氏の研究)。

この時に成立したと推定される「天暦古点本」が、村上天皇の権威のもと、以後の、『万葉集』の写本の源流となります。10世紀末以降の、現存する写本、史料からその存在が確実視される写本の本文(「注記」も含めて)は、基本的には、この「天暦古点本」から出ていると考えられます。

ところで、ここで難しい問題があります。『万葉集』の成立の問題です。

天応元年(781)から延暦2年(783)にかけて、大伴家持によって、『万葉集』の末4巻(巻17~巻20)の整備と20巻本としての集大成が、行われたと見る説が、今日では有力です(伊藤博氏説)。

しかし、『万葉集』には、大伴家持以後にも、手が加えられている形跡があることが指摘されています。近時、巻1・巻2の左注が、8世紀末、さらには9世紀まで下る可能性も、考えられています(神野志隆光氏の研究)。

『万葉集』という「書物」を、「注記」も含めたものとして捉えると、その成立時点を確定することは、非常に難しいと言えます。8世紀末から9世紀を通じて、なお『万葉集』という「書物」は、「注記」を積み重ね、変動・生成し続けていたようです。
*大量の、しかも様々の次元からなる「注記」を伴う『万葉集』は、中国文化圏の詩歌集としては、極めて特異なものです。

文献学的に厳密であろうとするならば、「注記」を伴う「書物」としての『万葉集』(20巻本)の成立は、今のところ、「天暦古点本」までしか遡れない、ということになります。「天暦古点本」において、変動・生成する『万葉集』が、固定させられたとも、考えることができます。

とはいえ、その「天暦古点本」も、現存していません。この本は、当時の「書物」のあり方から、少なくとも、巻子本であったことは推測できます。しかし、実際にどのような姿の「書物」であったか―どのような料紙に、どのような書体・書風で書かれていたかなどは、不明です。そして、現存最古の桂本でさえ、「天暦古点本」を、必ずしも、一字一句忠実に書写しているわけではありません(訓について、桂本なりの独自の判断が見られます)。

実は、今日の私たちは、11世紀以降の写本を通して、「天暦古点本」を推測し、さらにその向こうに、7・8世紀の《万葉集の世界》を見ているのです。これらのプリズムを経て、私たちが見ている《万葉集の世界》が、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界そのものであるかどうかは、わからないのです。

「書物」としての『万葉集』の歴史を捉えるために、さらに、どのようにすれば、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界に、より近付けるのかを考えるためにも、この謎に満ちた時期、特に、9世紀における『万葉集』の解明が、今後重要となります。
*なお、9世紀から10世紀末にかけて、ダイジェスト版の『万葉集』が作られていたことが、記録に見えます。また、桂本以前の、ダイジェスト版の断簡である、下絵萬葉集抄切も現存しています(小松茂美氏は、10世紀初~半ば写と推定)。これらについては、別の記事で触れたいと思います。

��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.大野晋「萬葉集巻第十八の本文に就いて」『国語と国文学』第22巻第3号、1945年4月
��.伊藤博『萬葉集釈注 十一』(別巻)、集英社、1999年
��.神野志隆光『複数の「古代」』講談社現代新書、講談社、2007年
��.小川靖彦「『書物』としての『萬葉集』―巻三雑歌における『本文』と注記を通して―」『国語と国文学』第84巻第11号、2007年11月


【追記】
天暦の訓読時に、巻18の本文の5箇所に、大規模な補修が行われた、という大野晋氏の説について、乾善彦氏による批判があることを、看過しておりました。「大規模な補修」と見られたうちの、いつくかの点は、転写の際の誤りと解釈できるというのが、乾氏の見方です。天暦以降、いつかの時期に渡って改変が加えられ、「大規模な補修」のように見えるようになったと、捉えています(乾善彦氏「『万葉集』巻十八補修説の行方」『高岡市萬葉歴史館紀要』第14号、2004年3月)。

今後さらに、検討してみたいと思います。


2008年3月29日土曜日

第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(急告)

古典かなの美展1
(写真=『春敬コレクション名品図録』〈右上に「豆色紙」の写真〉と、「古典かなの美展」パンフレット)

必見、力みなぎる名筆の数々

先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)」で紹介しました、「春敬コレクションによる『古典かなの美展』」が、現在開催されています。

開催初日に観覧に行きました。非常に密度の濃い、展示空間に、深い感銘を受けずにはいられませんでした。4月1日(火)までの展示です。是非、足をお運びください。

この展示会では、「関戸本古今集切」「貫之集切」をはじめ、有名な、平安時代の「かな」の名筆が、出品されています。そして、今までの名筆のイメージが、一新されます。

素紙に書かれた[3]関戸本古今集切の筆線は、鋭く、しかも繊細です。そして、その底に、しなやかな力強さを湛えています。染色紙に、鷹揚に書かれた断簡とは別の、関戸本古今集切の表情を見ることができます。

漢詩を2行書き、和歌を3行書きにして、贅沢な空間の使い方をする、[2]大字和漢朗詠集切では、漢字も「かな」も、おおらかに書かれ、明るい空間を作っています。

『和漢朗詠集』の断簡ということでは、三種類の[4][5][6]伊予切が、一同に集められていることも、注目されます。それぞれの漢字の、清朗な草書の美しさには、感動を覚えます。この草書と「かな」によるコラボレーションには、目が離せません。

一方、この展示会では、[19]カタカナ古今六帖切[20]田歌切などから、いわゆる名筆とは異なる、文字のちからと美しさを知ることができます。濃い墨色で、力強く書かれた、これらの作品は、「かな」の名筆のような、鑑賞のされ方を意識したものではないでしょう。しかし、その内容に、確かな形を与えたいという熱意が伝わってきます。

そして、圧巻は、[24]豆色紙(鎌倉時代)です。縦7.7㎝、横7.0㎝という、実に小さな空間の中が、充実した気で満ち満ちています。力動感のある筆線は、密度の極めて高い空間を、作り上げています。
*なお、先の記事「第43回秀華書展特別資料展示「古典かなの美展」(予告)」では、「豆色紙」を、『拾遺和歌集』断簡としましたが、『春敬コレクション名品図録』によれば、拾遺和歌集歌に限らず、古歌を集めた私撰集です。
��展示されている「豆色紙」は、『拾遺和歌集』の源順(みなもとのしたごう)の歌です。
  恋しきを 何につけてか なぐさめむ 夢だに見えず 寝る夜なければ (恋二・735)
  〔訳〕恋しい思いを、いったい何によって慰めればよいのでしょうか。
     夢であなたに会うことさえもできません。恋しさに、眠ることもできないので。

見ることのできない「夢」のイメージと、料紙の墨流しが微妙に調和しています。
  

この展示会では、『万葉集』の断簡も、2点、出品されています。平安時代の「かな」の名筆から観覧してくると、特に[11]天治本万葉集が、独自の、書と「書物」の世界を持っていることを、実感しました。『万葉集』の書物史について、大きな示唆を得たように思います。

30点の作品に、書の力強いいのちを、感じました。そして、これらの作品を貫く、飯島春敬氏の審美眼と、書にかけた情熱を思わずにはいられませんでした。
*飯島春敬氏が、芸術としての書を確立するために、また第二次世界大戦後の混乱した状況の中で、いち早く、書の再興と教育のために、力の限りを尽くされたことを、『飯島春敬全集』別巻1(書藝文化新社、1984年)によって、知ることができます

飯島春敬氏の、力強いいのちは、この展示会と隣接した会場で開かれている、第43回秀華書展の作品にも受け継がれています。特別資料展示と作品展を観覧の後、いつまでも、清朗な感動が、揺曳し続けました。

*理事長・飯島春美先生、常務理事・大谷洋峻先生をはじめ、財団法人・日本書道美術院の皆様に、格別のご厚情を賜りました。心より御礼申し上げます。


【出陳目録】
��1]伝藤原行成筆 針切(重之子僧集) 1幅
��2]伝藤原行成筆 大字和漢朗詠集切 1幅
��3]伝藤原行成筆 関戸本古今集切 1幅
��4]伝藤原行成筆 伊予切第一種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��5]伝藤原行成筆 伊予切第二種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��6]伝藤原行成筆 伊予切第三種 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��7]伝藤原行成筆 貫之集切 1幅
��8]伝藤原公任筆 和泉式部続集切 1幅
��9]伝藤原公任筆 中務集(なかつかさしゅう)切 1幅
��10]伝藤原公任筆 太田切 1幅  〔*和漢朗詠集断簡〕
��11]伝御子左忠家筆 天治本万葉集 巻十(仁和寺切) 1幅  〔*巻15・3737~3740〕
��12]伝御子左忠家筆 柏木切(類聚歌合) 1幅
��13]伝御子左俊忠筆 二条切(類聚歌合) 零巻
��14]伝源頼政筆 三井寺切 1幅  〔*頼政集断簡〕
��15]元暦校本万葉集 巻十一(有栖川切) 1幅  〔*巻11・2798~2800〕
��16]伝西行筆 曽丹集枡形本切 1幅  〔*曽禰好忠集断簡〕
��17]伝西行筆 五首切(神祇切) 1幅  〔*「右大臣(九条兼実)家百首」草稿断簡〕
��18]伝寂蓮筆 右衛門切[個人蔵] 1幅  〔*古今和歌集断簡〕
��19]伝寂蓮筆 カタカナ古今六帖切 1幅
��20]伝寂蓮筆 田歌切 1幅
��21]藤原俊成筆 顕広切 1幅
��22]伝坊門局筆 惟成集(これしげしゅう)切 1幅
��23]伝源実朝筆 中院(なかのいん)切 1幅  〔*後拾遺和歌集断簡〕
��24]伝後京極良経筆 豆色紙 1幅  〔*古歌集断簡〕
��25]藤原定家筆 三首詠草懐紙 1幅
��26]伝宗尊親王筆 十巻本歌合 寛平御時后宮歌合 1幅
��27]伝宗尊親王筆 催馬楽切 1幅  〔*鍋島家本催馬楽抄断簡〕
��28]伏見天皇筆 広沢切[個人蔵]  〔*伏見院御集断簡〕
��29]伝藤原行尹筆 新撰朗詠集切 1幅
��30]本阿弥光悦筆 色紙 1幅  〔*木版下絵のある料紙に、「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」〈百人一首・藤原義孝〉を書く〕


古典かなの美展2
(会場では、貴重な、飯島春敬氏蒐集の古筆の写真を収録する『春敬コレクション名品図録』〈書藝文化新社、1992年〉、詳細な解説の付いた「古典かなの美展ポストカード」(カラー)が、販売されています。なお、『春敬コレクション名品図録』に収められていない古筆も、出品されています。詳細な展示解説も、お見逃しないように。)

2008年3月28日金曜日

万葉集書物史早わかり(1)

万葉集の巻子本と冊子本
(写真=左、巻子本の『万葉集』〈桂本の複製〉。右、冊子本の『万葉集』〈元暦校本の複製〉)

「書物」の歴史を生きる『万葉集』

約1200年前に編まれた、日本最古の歌集『万葉集』を、今日私たちが読むことができるのは、多くの人々が、この「書物」を書き写し、また印刷をして、伝えてきたからです。

世界的に、「書物」の歴史には、三つの大きな革命が起こっています。第一は、巻子本(巻物)から冊子本への移行、第二は、写本から印刷本への移行、そして、第三は、まさに現在起こりつつある、紙の「書物」から電子ドキュメントへの移行です。
*但し、紙の「書物」と、電子ドキュメントは、メディアとしての性質が根本的に異なっています。他のふたつの革命とは、同列に捉えられないところがあります。

これらの革命は、一方では、「書物」の読者層を一挙に拡大し、「書物」の新しい可能性を開きながら、他方では、それまでの、「書物」に関わる技術体系(造本の技術から、「読む」技術・「知」の蓄積の技術にまで及ぶ)を破壊してゆく、という進み方をします。

旧来の「書物」は、この革命の中で、一部が新しい「書物」として、生まれ変わるものの、多くは時代から取り残され、やがては忘れられてゆきます。これを、高宮利行氏は、“ボトルネック現象”と言っています。

日本では、これら三つの革命に加えて、漢字から「かな」への移行、刊本(古活字版・整版・近世木活字本など)から近代的な活版印刷本への移行も、“ボトルネック現象”を引き起こす要因となっています。

例えば、江戸時代から明治初期にかけて印刷された、大量の、『万葉集』に関する研究書の多くが、いまだに活字に起こされず、時には、写真撮影さえも行われていません。

『万葉集』という「書物」が、漢字から「かな」へ、巻子本から冊子本へ、写本から刊本へ、刊本から近代的印刷本へ、という日本の書物の歴史上の革命を、全巻欠けることなく、生き抜いてきたことは、稀有なことです。

しかも、『万葉集』の場合、これらの革命を単に後追いするのではなく、常に変革期の比較的早い段階で、その姿を新しい「書物」へと変えてきました。そして、その際に、さまざまな新しい技術開発も、行われました。

また、『万葉集』の、「書物」としての歴史を、細かく見てゆくと、これらの革命の時期に、古い「書物」から新しい「書物」への移行が、決して急激に、「発展史的」に進んだのではないことが、わかります。ふたつのタイプの『万葉集』が、微妙に重なり合いながら並行し、最終的には、政治的・社会的要因によって、新しいタイプへと帰結します。

『万葉集』は、巻子本・冊子本・刊本・近代的印刷本の全てが、ある程度の分量をもって、現存しています。日本の書物の歴史を生き抜いた『万葉集』は、日本の、さらには世界の「書物」が、どのように歴史の中を生きてゆくのかを知るための宝庫と言えます。

*ここでは、「書物」のスタイルの大きな変化を、「革命」と記しました。大きな変革であることには、間違いありません。しかし、単純に、ドラスティックな「革命」と捉えるだけでは、一面的です。ヨーロッパ・アメリカの書誌学においても、口誦から書写へ、書写から印刷への変化を劇的なものと捉える、ウォルター・オング、ジャック・グディ、マーシャル・マクルーハンの見方に対して、1990年代後半から、それらの境界が、流動的で重なり合うものであることが、主張され始めています(フィンケルスタイン氏・マックレリイ氏)。

��*次の記事で、「書物」としての『万葉集』の歴史を概説します。)


��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.Van Sickle, John. "The Book-Roll and Some Conventions of the Poetic Book." Arethusa 13(1980).
��.高宮利行『グーテンベルクの謎 活字メディアの誕生とその後』岩波書店、1998年
��.Finkelstein, David and Alistair McCleery. An Introduction to Book History. New York & Oxon: Routledge, 2005.


2008年3月22日土曜日

謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(急告)

日中書法の伝承展1

必見の展示

先の記事「謙慎書道会展70回記念「日中書法の伝承」展(予告)」で紹介しました、「日中書法の伝承」展が、いよいよ明日3月22日(土)で閉幕となります。

実際に観覧し、文字史を学ぶためにも、また日本の書の展示会としても、必見のものと思いました。是非、足をお運びください。

受付は、4階となります。4階は、中国の文字資料と、書の展示となります。甲骨・青銅器・石に刻された文字、木簡に記された文字を、同じフロアで見ることで、いかに文字というものが、その素材と密接な関係にあるかと、実感することができます。

特に、普段は、拓本でしか見ることのない、青銅器に刻された文字の、力強さには、本当に感銘を受けました。
[38][39]小克鼎(しょうこくてい)の文字に注目。

また、4階では、敦煌文書も興味深いものでした。写経の文字が、どのように装飾性を帯びてゆくか、という歴史を、垣間見ることができます。なお、「書物」という点では、小巻子本である『正法華経』巻第17が、大変面白いものです。私的な巻物の、実物を見ることができる、数少ない機会です。なお、縦の寸法が、12.9㎝と、冊子本に多く見られる、縦の寸法と同じことも、目を引きます。
[67]敦煌文書

��階は、まず篆刻です。4階を見た目で、篆刻を見ると、今までと全く違って見えてきます。青銅器や石に文字を刻むような意味を、篆刻が持っていたことが、感じられます。

そして、いよいよ日本の書作品となります。

日本の代表的な書が、一同に会しています。圧巻は、特別室の三色紙です。「継色紙」「寸松庵色紙」「升色紙」が、並んで展示されています。そして、それぞれの書風で、小さな空間に、ドラマを作り上げていることに、深い感銘を受けます。それぞれの、文字の配置、そして、写真では再現できない、墨の濃淡と肥痩を、熟覧してください。
[101]寸松庵色紙
[106]升色紙
[118]継色紙 (*上句と下句が別の料紙に書かれています。下句の、濃淡と肥痩による立体性を目にし、それによる抒情性を感じていると、下句が「心は妹に寄りにけるかも」ではなく、「心は君に寄りにしものを」でなくてはならない、と思われてきます。)

意外な発見は、素紙に書かれた関戸本古今和歌集切の、文字の美しさです。関戸本は、料紙の美しさに、目を奪われがちですが、素紙の書にこそ、その真髄が現れているように思いました。
[98]関戸本古今和歌集切

また枯れた筆の美しさが言われがちな、良寛の対幅は、実物を見ると、実に生き生きとした、力強いものでした。特に、墨継ぎをしたところに、力強さが現れています。枯れているように見える文字の底にある生命力に、驚かされました。
[138]草書五言詩軸

会場は、静かで落ち着いた雰囲気です。観覧の後、たくさんの文字から、清々しい力をもらったような気持ちになります。

*図録は、4,000円です。約350頁の大部なものです。観覧後購入して、会場の椅子に座って、図録の写真を見た上で、再度気になる作品を見るとよいでしょう。

日中書法の伝承展2


2008年3月19日水曜日

塙保己一史料館

塙保己一史料館1
(写真=左は塙保己一史料館パンフレット。中央下はポスト・カード。右は群書類従本竹取物語の第1丁)

今も生きている学術史・出版史の金字塔

青山学院大学からほど近い、渋谷区東2丁目に、社団法人・温故学会の塙保己一史料館があります。

目が不自由であったにもかかわらず、塙保己一(はなわ・ほきいち)が、古代から江戸時代にいたる、わが国の貴重書1,273種を蒐集し、校訂を加え、670冊に仕立てて出版する、という大事業を成し遂げたことは、大変有名です。
*総数、冊数は、史料館の解説パネルによります。なお、現在は、総数は1,277種、冊数は、665冊、目録1冊です。

しかし、その成果である『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の版木が、今なお生きていることを、私は知りませんでした(『群書類従』の版木は、国の重要文化財に指定されています)。

春の一日、青山学院大学の学生の皆さんとともに、塙保己一史料館を訪ねました。『群書類従』の版木と、保己一が出版した、その他の貴重書の版木の膨大な数に、まず圧倒されました。

そして、ご案内くださった、温故学会の斎藤幸一氏(理事長代理)から、これらの版木を使って、現在も『群書類従』の印刷が行われていることを伺い、驚きました。注文を受ければ、1冊でも、印刷をしているとのことです。

『群書類従』は、安永8年(1779)、保己一34歳の時に、編集・開板の祈願が行われ、天明6年(1786)、41歳の時に、見本版『今物語』が刊行され、そして文政2年(1819)、74歳の時に、全冊の刊行が完了しました。

約200年前に作られた、桜の版木が、今も生きていることに、『群書類従』を刊行するために駆使された、木版印刷技術の“力”を、実感せずにはいられませんでした。上の写真の右のように、今日、この版木を使って印刷された『竹取物語』は、美しい紙面を見せています(印刷された文字の流麗さに、魅了されます)。
*版下の浄書者は、屋代弘賢、大田南畝、町田清興、羽州亀田城主岩城伊予守、関口雄助、保己一の妻安養院、娘とせ、他(解説パネル)。

そして、保己一の志に、深い感動と敬意を覚えました。保己一が、歴史上の人物から、一挙に、身近な、大きな存在になったように思いました。

さらに、これらの版木を、今日まで伝えてきた、社団法人・温故学会の方々の、並々ならぬ御努力にも感銘を受けました。

大正12年(1923)には、関東大震災で、版木倉庫が全壊しました。奇跡的に焼失をまぬがれた版木のために、直ちに版木収蔵施設の建造が、企図されます(昭和2年〈1927〉に、温故学会会館建設)。また昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲の時には、会館内に飛び込んだ焼夷弾2発を、温故学会会長・斎藤茂三郎氏が、手づかみで館外に投げ出し、被害を防ぎました。

版木による印刷は、一見簡単そうに思えますが、実は高い技術が必要です。斎藤幸一氏のお話では、1枚の版木に、均等に墨を行き渡らせるだけでも、熟練が必要とのことでした。

さらに斎藤氏の御厚意で、2色刷りの、元暦校本万葉集の版木を見せていただきました。表は、本文を刻し、墨で刷り、裏は、書入注記を刻し、朱で刷ります(上の写真中央)。1枚の和紙に、本文と書入注記がずれないように刷るためには、かなりの習練が必要と思われました。

夏には、版木による印刷を、実際に体験できるワークショップが、開かれると聞きました。

日本の印刷文化の精髄と言える、保己一の版木について、さらに研究を深めながら、これを次代に伝えてゆくことが、『群書類従』から絶大なる恩恵を蒙った私たちひとりひとりの務めであることを、痛感しました。

【展示情報】
社団法人・温故学会 塙保己一史料館
東京都渋谷区東2-9-1
開館日:月曜日~金曜日(午前9時~午後5時)
参観は、要予約(電話またはファックス)
入館料:おとな100円、12歳までのこども無料
��『竹取物語』(『竹取翁物語』)の印刷見本や、『聖徳太子十七条憲法』(『聖徳太子十七箇条憲法』)などが、販売されています。


塙保己一史料館2