2008年8月29日金曜日

木版印刷の熟練の技

塙保己一の情熱を受け継ぐ印刷技術

毎年の夏、渋谷区の塙保己一史料館では、社団法人・温故学会主催の、《江戸時代の版木を摺ってみよう》という企画が催されます。江戸時代後期に実際に使われていた版木で、木版印刷を体験する、という大変貴重な機会を、温故学会が設けてくださっています。

2008年8月2日(土)に、私も初めて参加しました。今まで、木版印刷の和書を読む機会はありましたが、自分で印刷することは初めてです。木版印刷に必要とされる高い技術を実感し、工夫された道具に触れ、深い感銘を受けました。

今回は、山崎美成(やまざき・よししげ)編『御江戸図説集覧』(江戸の絵地図)に加えて、温故学会理事長代理・斎藤幸一氏の特別のご厚意で、塙保己一が刊行した、『元暦校本萬葉集』(げんりゃくこうほんまんようしゅう)巻1の版木の印刷も体験させてもらいました。

印刷の手順は、最初に版木に刷毛で墨を塗り、その上に和紙を載せ、バレンでこすって摺り上げるというもので、基本的には版画と同じです。

しかし、これが簡単ではないのです。特に、文字ばかりで、余白の多い『元暦校本萬葉集』の印刷には、難渋しました。

元暦校本1(写真1)

写真1は、私の失敗例です。右は、墨に濃淡ができています。木版印刷では、手早く刷り上げないと、和紙が水気を含み、皺になりやすくなります。急ぐあまり、全体に均等に墨を行き渡らせる前に、和紙を版木から、はがしてしまいました。

そこで、墨が薄かったのではと思い、たっぷりと墨を刷毛で版木に塗ったところ、今度は多すぎ。写真1の左のようになってしまいました。バレンでこすっているうちに、墨が噴き出してバレンを汚してしまい、慌てました。

このようになったら、墨が安定するために、無駄になる印刷を何回かすることになります。その時にも、多少刷毛で墨を塗ります。というのも、版木が乾いてしまうと、印刷が難しくなるからです。

元暦校本2(写真2)

何回か挑戦をして、ようやく刷り上げたのが、写真2の左です。私が所蔵している、昭和2年(1927)11月に、同じ版木から刊行されたもの(右)と比べると、まだ墨に濃淡があり、汚れも付いてしまっています。

平安時代後期(11世紀)の筆遣いを見事に再現した、保己一の版木の文字のやわらかさと力強さは、まったく表現できていません。同じ版木なのに、こうも違うものかと溜め息がでます。

絵中心の『御江戸図説集覧』が、やや容易でした。版木の全面に絵が細かく彫られて、余白が少ない分、均一に摺りやすくなっています。そして、江戸の印刷本の絵が、比較的単純な線で構成されていることに、以前から疑問を感じていましたが、素早く刷り上げなくてはならない木版には、この線こそがふさわしかったのだと思いました。

当日ご指導くださった斎藤氏を始め、温故学会の方々は、実に手際よく、そして美しく印刷し、見本をお示しくださいました。それは、一日ではまねることのできない、熟練の技であったのです。

また斎藤氏は、その技を支える道具について、興味深いお話もしてくださいました。バレンの竹の皮の表面の山が、印刷の仕上がりにとって重要であることや、木版印刷のバレンにちょうどよい幅の竹の皮を、わざわざ探し求めていることを伺いました。また、麻を紐状にして、固く巻いたバレンの本体も見せていただきました(この麻の堅さ、凹凸が木版印刷に適しているとのことです)。

刷毛や、印刷用の「練り墨(ねりずみ)」(普通の墨よりも濃く、ねばりがあります。普通の墨では印刷できません)も、専用のものを特注しているとのことです。道具についてのこだわりと細心の心配りが、美しい仕上がりを支えていることを知りました。

このような木版印刷の技が、今日まで伝えられてきていることは、大変貴重なことです。かけがえのない文化遺産と言えます。塙保己一の偉業を伝えるべく、この技を守ってこられた温故学会の皆様に、深い敬意を覚えて止みません。

そしてこの技は、《「印刷」とは何か》を考えるための重要な手がかりを、私たちに示してくれものです。
*以前、私は、印刷博物館の活字工房で、西洋の活版印刷の体験をしたことがあります。印刷できるように活字を組むためには、さまざまな微調整が必要で、「手で写した方が早い」と感じたことをよく覚えています。ここでも熟練の技を実感しました。

日本の木版印刷の“技”を、西洋の活版印刷、中国・朝鮮半島の活字印刷と比較しながら、総合的に研究し、その意義を、後世に伝えてゆけたならば、どんなに素晴らしいことでしょう。
*《江戸時代の版木を摺ってみよう》の企画は、7月末と8月初に催されています。7月に入ると募集が始まります。定員は各回とも20名で、無料です。小学生から年配の方まで参加しています。木版印刷の難しさと面白さを、是非多くの人に知ってほしいと思います。
��夏が近付くと、塙保己一史料館・温故学会のホームページに案内が出ます。