2009年8月12日水曜日

木版印刷の熟練の技(その2)

文字と余白と力:塙保己一史料館

先の記事「木版印刷の熟練の技」で紹介しましたように、毎年、塙保己一史料館で、社団法人・温故学会主催の、《江戸時代の版木を摺ってみよう》の企画が行われています。

2009年も7月25日(土)と8月2日(日)に開催されました。私も8月2日に参加しました。昨年、印刷した『元暦校本万葉集』が、まだまだ不満足なものであったので、もう一度挑戦してみたい、と思っていました。

しかしそれ以上に、文化庁の登録有形文化財ともなっている塙保己一史料館の建物(1927年完成)の、畳敷きの2階講堂で行われる「摺立(すりたて)」の、静かで暖かな雰囲気が、忘れ難いものになっていました。

今年も、日本の木版印刷について、学ぶところがたくさんありました。今回は、①『群書類従』第296の「今川了俊和哥所江不審条々〔今称二言抄〕」、②山崎美成(やまざきよししげ)編『御江戸図説集覧』、③『元暦校本万葉集』巻1の目録、の3枚の版木の印刷を体験させてもらいました。

今年は小学生の子どもたちが、何人も参加していました。まず子どもたちから印刷を始めました。驚いたことに、初めての木版印刷なのに、皆きれいに摺り上げました。参加していた大人たちからは、拍手が起こりました。

木版体験
(初めて木版印刷をした子どもたちと理事長代理の斎藤幸一さん)

温故学会理事長代理・斎藤幸一氏によれば、印刷は5~6秒程度で、手早く刷り上げなければいけません。このお話を考え合わせると、子どもたちの、やさしい手の力が、木版印刷に合っていたのだ、と思いました。

昨年、私はバレンで刷っている途中で、墨を紙から吹き出させてしまうという失敗をしました。今思うと、墨を多く塗りすぎただけではなく、力も入れすぎていたようです。

ところで、①の『群書類従』を今回初めて印刷しましたが、バレンで摺っていると、手に不思議な心地よさを覚えました。それは、『群書類従』の版面の文字の多さと、その性質によるのでしょう。

群書類従の版木

『群書類従』は、1頁あたり10行、上下がきちんと揃っています。1行には、20~25文字ほどが、小さめの文字で彫られています。句読点や改行はありません。文字の彫られた〈区画〉が定まっており、字粒もある程度揃っている版面は、実に整然としたものです。

しかし、文字は漢字・平仮名交じりで変化があります。文字の大きさも決して均一ではありません。さらに文字を連綿させて、流動感もあります。

『群書類従』の版面は、整然としたものでありながら、同時に、適度に変化のあるものとなっているのです。それが、印刷の効率のよさをもたらすとともに、刷り上りの美しさを生み出しているのでしょう。印刷と手書き文字とを調和させた和学講談所の技術に、改めて感銘を受けました。

群書類従と元暦校本
(私の摺った群書類従と元暦校本。まだまだ未熟です)

そのような観点からすると、平安時代の名筆である、『元暦校本万葉集』を版木に彫り、印刷するというのは、極めて大胆な事業であったと思います。

『元暦校本万葉集』は、一定の〈区画〉を、整然と文字で埋めている、というわけではありません。まず『万葉集』の写本そのもののレイアウトが複雑です。その上、平安時代の写本である『元暦校本万葉集』は、文字と余白の調和も充分に配慮しています。また頁によって、書体や字形を自由に変えることも、行っています。

この『元暦校本万葉集』を、忠実に木版印刷で再現することが、どれほど難しいものであったか、想像に余りあります。

そして『元暦校本万葉集』を正式に印刷する場合には、まず本文の周囲の界線(罫線)を摺り、次に墨で本文を摺り、最後に朱の墨で、朱の書入(かきいれ)を摺る、という3段階の印刷を行います。斎藤氏のお話では、朱の書入は、刷毛ではなく、筆で朱の墨を塗って印刷する、とのことです。気の遠くなるような細かい作業です。

それにもかかわらず、塙保己一検校は、何としても『元暦校本万葉集』の“姿”を、当時の人々に伝えたいと思ったのでしょう。

やはり今年も『元暦校本万葉集』の印刷は、容易ではありませんでした。力を少し抑え気味にしましたので、昨年よりは、心なしか、少しはうまく摺れたような気がします(しかし、ご覧の通り、均一に摺るまでにはいたっていません)。

日本の木版印刷の技術の高さについて、ますます興味を覚えています。

*今回も斎藤幸一氏をはじめ、温故学会の皆様に大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。
塙保己一史料館・温故学会ホームページ

2009年7月26日日曜日

国宝・三十帖冊子の修復

三十帖冊子
(写真=2009年6月2日付日本経済新聞の記事、および『花洛・仁和寺』(総本山 仁和寺発行)から)

巻子本から冊子本への変革の歴史の解明を期待

2009年6月2日(火)付の日本経済新聞などで、京都・仁和寺所蔵「三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)」(国宝)が、京都府教育委員会によって修復されることが決まったと報じられました。

私にとって、以前から「三十帖冊子」は大変気になる存在でした。「三十帖冊子」は、実は中国文化圏で、書写・製作年代がわかる、最古の冊子本です。

「三十帖冊子」は、その内容と周辺資料から、空海が唐に留学した、延暦23年〔中国では貞元20年〕(804)から大同元年〔元和元年〕(806)の間に書写・製作されたものであることが、確実と見られています。若き空海が自ら書写した経典も、多数含まれています。

敦煌写本の中に冊子本も見られます。その中に、料紙や筆跡などから8世紀中葉のものと推測されるものがあります(『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』Or.8210/S.5478。池田温氏の推定による)。8世紀の盛唐期(玄宗の時代)には、冊子本が登場していたことが伺えます。

とはいえ、この敦煌写本の冊子本も、残念ながら書写・製作年代を具体的に絞り込むまでの手懸かりはありません。私たちは、中国の、西安(唐の都・長安)などの中心地域に、唐代の冊子本が多く残っているのではないか、と思いがちです。しかし、中心地域では、冊子本はもちろん、巻子本の写本も早くに失われてしまっています。

西域への窓口であった、西の辺境の敦煌と、海隔てた東方の日本に、唐代の写本や、それらに影響を受けた写本が、数多く残ることになりました。

それだけに、書写・製作年代が確実な「三十帖冊子」は、中国文化圏における初期の冊子本の姿を伝える、極めて貴重な書物と言えます。しかも、その分量は30帖、また内容も経典96部168巻、梵字真言・偈頌(げじゅ。詩)・讃・回向文(えこうぶん)など47種に及びます(内容については、『請来美術図録』の算定による)。
*「三十帖冊子」のように「粘葉装(でっちょうそう)」という装丁の冊子本は、1冊を1帖と数えます。
��「三十帖冊子」は、本来38帖でしたが、既に延喜18年(918)には、30帖となっていました。この間に散逸した『十地経(じゅうじきょう)』『十力経(じゅうりっきょう)』の2帖は、その後、幸運なことに仁和寺に納められました(38帖のうち、32帖を仁和寺が所蔵していることになります)。


日本経済新聞の記事によれば、修復は次のように行われるとのことです。
  表紙に使われている絹地が擦り切れ、欠損した部分に裏側から同じ絹の布を当てるほか、
  紙の一部にある虫食い穴を和紙で埋めて補修する。

表紙を中心に修復が行われるようです。

中国文化圏において冊子本が、「正式な」書物である巻子本に対して、個人用の、ノートに近いものであったことは、先の記事「大きさから見た巻物と冊子本」に書きました。「三十帖冊子」も、本紙には界線も引かれず、1頁の行数や1行の字数も一定しておらず、拙い書き手による書も見え、やはりノートに近いものと言えます。

ところが、その一方で、「三十帖冊子」の本紙は、紙の外側に紫に染めた平織(ひらおり)の絹、内側に白絹を貼った表紙(紫の絹を貼った帖もあります)で、包み込まれています。この表紙の右端には発装が取り付けられ、発装の中央にはが結び付けられています。

本紙を左から覆う表紙の上に、右から覆う表紙が重なり、紐で全体を結ぶ体裁となります。そして、多くの帖に、金字で外題が書かれています(もちろん楷書です)。
*藤本孝一氏によれば、この表紙は、2枚を底で貼り継いだものとのことです。

「三十帖冊子」は冊子本でありながら、巻子本に近い装丁となっているのです。この装丁は、長安で施されたものと考えられています(真保龍敞氏、中田勇次郎氏ら)。

表紙の絹の性質(糸の縒り・幅・密度など)、発装の形状、紐の組織やその糸の特徴などについて、詳細なデータが得られたならば、「三十帖冊子」の製作のために、どのような技術が駆使されたかが明らかになるでしょう。当時の中国の造本技術に、新たな光が当たるに相違ありません。

また、それは、なぜ「三十帖冊子」が冊子本でありながら、このような装丁を採ったのか、具体的に解明することにもなるでしょう。

そして、この「三十帖冊子」の装丁は、7・8世紀の中国文化圏における巻子本の装丁を知る重要な手懸かりでもあります。この時期に、巻子本の表紙に絹布が用いられたことは、「正倉院文書」などに記録されています。しかし、実際の遺品は、敦煌写本にも、古代の日本に輸入、または書写された巻子本にも、今のところ見出せないようです。

さらに、巻子本の紐も、記録には、さまざまな種類のものが見えるものの、7・8世紀に製作された実物は、ごくわずかしか現存していません。

今回の修復を機に、中国文化圏における、巻子本から冊子本への変革の歴史が明らかにされることを思うと、期待に心踊ります。
*なお、「三十帖冊子」は、成立当初から、内容・装丁の両方で、安定している部分と不安定な部分とがある上(中田勇次郎氏らによる)、複雑な伝来の歴史を経てきています。「書物」としての「三十帖冊子」の性質や歴史も、今回の修復で明らかになることでしょう。
[主な参考文献]
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年
��.奈良国立博物館編『請来美術図録』奈良国立博物館、1967年
��.藤本孝一『古写本の姿』日本の美術第436号、至文堂、2002年
��.禿氏祐祥『三十帖策子に就て』六大新報社、1950年
��.真保龍敞「『三十帖策子』原型の輪郭について」『印度学仏教学研究』第15巻第1号、1966年12月
��.真保龍敞「三十帖策子の原初形態-伝教大師借覧の策子について-」『印度学仏教学研究』第18巻第1号、1969年12月
��.中田勇次郎「三十帖策子の書について」『国宝 三十帖策子 重要文化財 十地経策子〈原寸複製〉』解説、法蔵館、1977年


2009年7月17日金曜日

「文字でたどる江戸の旅」展(青梅市郷土博物館)

青梅市郷土博物館

江戸時代後期の文字と日記の文化

青梅市を散策した折に、興味深い展示会に出会いました。青梅市郷土博物館で行われている企画展「文字でたどる江戸の旅」です。

久保仙助、柳屋(小林)たみ、小嶋小三郎の道中日記が、翻刻と現代語訳を伴った写真版で展示されています(仙助の道中日記は、一部実物も展示されています)。

特に私の目を引いたのは、柳屋(小林)たみの道中日記です。商家出身の女性で、徳川斉荘(とくがわなりたか。尾張徳川家12代当主)にも仕えたたみの、嘉永2年(1849)4月27日から8月10日までの129日間におよぶ旅の記録です。

たみの旅は、日本橋から長野善光寺、京都・大阪、四国の琴平神社にも足を延ばし、伊勢神宮・名古屋〈主君の墓参〉を経て品川に戻る大旅行でした。記録は大福帳のような帳面に書かれています。

たみの道中日記は、旅先での体験やさまざまな人々との出会いを生き生きと記しています。柏餅などがおいしかったことを楽しそうに書いている記事などには、つい微笑してしまいます。

江戸時代後期の、旅の実際を伝える貴重な内容に加えて、その筆の美しさが目を惹きます。堂々とした、しかも柔らかな文字です。漢字もきちんとした崩し方で書いています。

商家の女性が、これほどまでに整った文字で、道中の出来事を丹念に書き記していることに、江戸後期の文字文化の高さを、改めて実感させられました。

加えてその文字に、この道中日記が、単に、その場かぎりの、自分ひとりのための覚書ではないという印象も受けました。他の人々や、後の人も見る「記録」として、この道中日記を綴っている、という意識が働いているように感じました。

青梅市郷土博物館は、青梅への愛情が強く感じられる博物館です。青梅の自然や産業についての展示から新たな知識が得られます。柿渋(かきしぶ。渋柿の実のタンニンから作る茶色の染料)を作る道具を初めて目にしました。

また、第二次世界大戦中に作られた年賀状など、当時の人々の生活や意識を伝える、興味深い資料もあります。近接した場所に保存されている重要文化財・旧宮崎家住宅とともに(古い農家独特の、囲炉裏の火による煤のにおいが懐かしく感じられました)、青梅に行く機会がある時には、必ず訪ねたい博物館です。

 企画展「文字でたどる江戸の旅」
 会場:青梅市郷土博物館
    〒198-0053 東京都青梅市駒木町1-684
 会期:2009年2月21日(土)~8月16日(日)
 開館時間:9時から17時
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
 入場料:無料
 ホームページ:http://www.city.ome.tokyo.jp/index.cfm/43,1351,160,193,html
 チラシ


2009年5月13日水曜日

「『萬葉集』の「野」」(万葉七曜会編『論集上代文学』第三十一冊)

論集上代文学31

文学と環境
��万葉七曜会編『論集上代文学』第三十一冊、笠間書院、A5判 338頁、2009年4月刊、12,800円〈本体〉)

万葉七曜会(まんようしちようかい)が編集する『論集上代文学』第三十一冊が2009年4月末に刊行されました。私もこの書に論文を発表する機会を賜りました。
*万葉七曜会は、万葉学者の故五味智英先生門下の日本上代文学研究者が作られた研究会です。

私の論文は、『万葉集』の歌に詠まれた「野」を、〈文学と環境〉という視点から考察したものです。

  『萬葉集』の「野」―日本古代における自然と文化の境界領域〈文学と環境〉―
    一 〈文学と環境〉という視点
    二 「野(の)」という言葉
    三 「野」をめぐる空間認識
    四 「野」の意識の基底
    五 文化的概念としての「野」の成立
       *付、一覧表「『萬葉集』の「野」に詠まれた植物」
           一覧表「平城京周辺の「野」の植物・動物・天象」

“日本人は自然を愛好する”“それは日本の温和で明確な四季のある気候による”“そして文学にも自然との融合を志向する、豊かな感情表現が見られる”という見方が、日本では広く浸透しています。

しかし本当にそうなのでしょうか。“自然を愛好する”一方で、日本では、古代以来、大規模な開発と景観破壊が進められてきました。また生態学者の吉良竜夫氏によれば、日本列島は、自然科学的には、熱帯気団と寒帯気団が交替する二季の国です。“日本には四季がある”という観念は、文化的に創られ、文学や芸術が洗練してきたものと言えます。

そもそも日本人の“自然愛好”とは何なのでしょうか。この論文では、日本人の、《自然》に関する美意識を育んだ「野」というエリアを、〈環境〉という視点から捉え直すことを試みました。

〈環境〉は、生物の「主体」の存在や活動に、何らかの影響を与える事物や条件です。自然を〈環境〉として捉えるならば、生存するために、自然に順応するだけでなく、これを積極的に改変(開発・破壊)してゆく独自な生物としての人間の姿が見えてきます。
*〈環境〉の概念については、鷲谷いづみ氏の著書に多くを学びました。

万葉歌人たちは、

  春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ をなつかしみ 一夜寝にける
                                      (巻8・1424)山部赤人

  (はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける)

のように「野」への強い愛着や、「野」の風・花・鳥の声の美しさを、多くの歌に詠みました。しかし、「野」で詠まれた植物を、草地学・生態学・植生学などの研究成果に基づいて検討すると、「野」が手付かずの原生の自然ではなかったことが判明します。万葉歌人が好んで歌に詠んだ「野」は、人間の手によって管理維持された、「半自然草原」でした。

縄文時代以来、日本では、ススキなどの植物資源を得るために、原生の自然を改変して、二次的な自然を作りだし、これを人間の手で管理維持する歴史を積み重ねてきました。その経験と感覚を基礎にして、8世紀に、万葉歌人たちが、都市・平城京に隣接する「野」に「《自然》の美」を発見したのです。そして、平城京に近接する「野」は、それ以前と比較にならないほど強力に、政府によって管理維持されていました。

万葉歌人の愛好した《自然》は、人間によって管理維持された、人間にとって身近で親しい自然であったのです。この自然との関わり方は、上からの(具体的には時の政府に主導された)、また生活圏の外部からの、強力な開発の動きに対しては、無力な面を持ちます。

しかし、その一方で、field や grassland という語に、単純に置き換えることのできない日本の「野(の)」には、「里山」「里地」同様に、これからの自然と人間の関わり方のヒントも隠されているように思えます(平安時代の百科事典『和名類聚抄』や類題和歌集『古今和歌六帖』は、「野」を、文化と自然を滑らかに繋ぐ境界領域と、明確に位置付けています)。

この論文を最初の一歩として、文学を通じて、自然と人間の未来について今後考察を進めてゆきたいと思っています。ご一読いただければ幸いです。

*このテーマは、古写本の研究とも深く関わっています。成果がまとまりましたら発表します。
��なお、アメリカ合衆国で一つの学問分野にまで成長している「エコクリティシズム(環境文学論)」からも大きな示唆を得ました。「エコクリティシズム」についてはハルオ・シラネ氏からご教示を賜りました。
��校正中に、『万葉集』に詠まれた植物を、植物群落・植生景観という新しい観点から研究を進めていらっしゃる服部保氏から、最新の研究成果についてご教示を賜りました。

【目 次】
『論集上代文学』第三十一冊には、現代の日本上代文学研究を牽引してこられた先生方の論文が収められています。目次をここに紹介します。

『萬葉集』の「野」―日本古代における自然と文化の境界領域〈文学と環境〉―(小川靖彦)
近江二首を読む(多田一臣)
笠金村の「天地の神」(曽倉岑)
山上憶良と大伴旅人―巻五を中心に―(阿蘇瑞枝)
万葉集巻十三挽歌部の反歌について(遠藤宏)
「かづらく」続考(小野寛)
古事記、雄略天皇段の構想―そらみつヤマトの王者形成の物語―(金井清一)
垂仁紀古写本訓点の敬語表現(版本―体言・助詞)(林勉)
上代における〈~カ〉型形容動詞語幹の用法(山口佳紀)
上代文学研究年報二〇〇七年(平成十九年)


2009年5月4日月曜日

財団法人石川文化事業財団 お茶の水図書館

お茶の水図書館

万葉集研究の宝蔵、佐佐木信綱収集「竹柏園本」

千代田区神田駿河台に財団法人石川文化事業財団 お茶の水図書館があります。
お茶の水図書館は、日本唯一の女性雑誌専門図書館です。

このお茶の水図書館に、古典学者で歌人の佐佐木信綱(1872~1963)が収集した、貴重な古典籍・古文書・資料の一大コレクション「竹柏園本(ちくはくえんぼん)」が収蔵されています。
*「竹柏(なぎ)」(マキ科の常緑高木)の葉が堅実で、二枚重ねると力士でも裂くことができないことに因んで、師弟共研の意義を表すために、信綱の父・弘綱(国学者・歌人)が「竹柏園(なぎぞの)」と号し、信綱もその遺志を継いで、歌の会を「竹柏会(ちくはくかい)」と名づけた。(佐佐木信綱「加敝里見天(かへりみて)」による)

お茶の水図書館では、1944年(昭和19)に石川弘美氏が「竹柏園本」のうち、主に『万葉集』に関わる典籍や文書を購入しました(お茶の水図書館ホームページによる)。

1944年には、信綱は73歳。この年、アメリカ合衆国の中部太平洋地域軍は、マーシャル諸島、マリアナ諸島と兵を進め、日本軍を破り、東京空爆の前線基地を手中に収めました(11月24日に東京空爆が始まります)。このような状況下で、信綱は空爆の始まる前に、貴重な資料の保存に力を尽くしたのでした。

お茶の水図書館の所蔵する「竹柏園本」は、現代の活字本の『万葉集』の底本として使われている西本願寺本万葉集(20帖。鎌倉後期写)を始めとする写本や、写本の断簡、刊本、さらに中世・近世・近代の万葉学書、約2000冊(661タイトル)に及びます(分量は、お茶の水図書館のホームページによる)。

その目録である佐佐木信綱編『竹柏園蔵書志』、さらに「竹柏園本」を中心とする『万葉集』の写本・刊本、万葉学書の簡単な解説書である、佐佐木信綱著『萬葉集事典』の「典籍篇」(615~801頁)を見ると、その豊富で多彩なタイトルに驚かされます。毎回見るたびに、このような書物があったのかという「発見」があります。
*『萬葉集事典』「典籍篇」の今偶然開いたページには、イングラム『万葉集解説』(『ジャパン・マガジーン』第4巻第5号、1913年〈大正2〉8月)が挙がっていました。

最近、塙保己一検校による元暦校本万葉集の模写・刊行事業について研究するため、「竹柏園本」の貴重な資料の閲覧に、久しぶりでお茶の水図書館を訪れました。

以前は、明治大学駿河台校舎の向かいにありましたが、現在は主婦の友社ビルの隣にあります。新しい瀟洒な図書館の前で、開館時間を待つ間、神田川岸のまばゆいばかりの新緑が目に飛び込んできて、清々しい気持ちになりました。

落ち着いた閲覧室で、塙検校の元暦校本にかける思いを生き生きと伝える文書を、じっくりと閲覧するという、豊かな時を過ごさせていただきました。

お茶の水図書館の所蔵する「竹柏園本」には、詳しい調査・研究が必要な古典籍・古文書・資料がまだまだたくさんあります。多くの人々とともに、「竹柏園本」の調査・研究を通じて、新しい研究テーマを発見していきたいと思っています。
[佐佐木信綱についての基本文献]
��.佐佐木信綱『佐佐木信綱文集』竹柏会、1956年 (*戦前の『小学国語読本』などに採られた「松坂の一夜」などの文章や、1985年までの年譜を収録)
��.鈴鹿市教育委員会編『新訂 佐佐木信綱とふるさと鈴鹿』鈴鹿市教育委員会、1994年 (*小冊子ながら貴重な情報を収める。1990年までの年譜を収録。廣岡義隆先生から賜りました。御礼申し上げます)

��引用文献]
��.佐佐木信綱編『竹柏園蔵書志』臨川書店、1988年
��.佐佐木信綱『萬葉集辞典』平凡社、1956年


【図書館情報】
財団法人石川文化事業財団 お茶の水図書館
〒101-0062 東京都千代田区駿河台2-9
閲覧日:木曜日・日曜日・祝日・年末年始・館内整理日等を除く、午前10時から午後5時まで
・古典籍・古文書部門の閲覧は予約制。「閲覧申請書」(ホームページからダウンロードできる)に必要事項を記入して、郵送で申し込み。資料の状態調査等を行って、閲覧日時を調整。
ホームページ:
http://www.ochato.or.jp/

*入館の時から退出まで、図書館の皆様から、暖かなご厚意とさりげないお心遣いを賜りました。心より御礼申し上げます。
【訂 正】
「*女性専用図書館ですが、古典籍・古文書部門については、男性も閲覧できます。」という注記を付けましたが、これは移転以前の知識にもとづく誤りでした。現在は、20歳以上ならば、どなたでも利用できます。


2009年4月29日水曜日

再開します

しばらくこのブログ「万葉集と古代の巻物」は、休止状態でした。ご覧くださっていた皆様には、ご心配をおかけしました。間もなく再開いたします。

2009年1月28日水曜日

卒業論文のこと(2008年度)

書物学への歩み

青山学院大学での、2008年度の授業も無事終わりました。今年度は、私のゼミナールでは、5編の卒業論文が提出されました。

・「雲紙本和漢朗詠集の書の研究」
・「書物における本文と料紙文様の関係」
 (粘葉本和漢朗詠集と近衛本和漢朗詠集を中心に料紙として用いられた唐紙の文様についての研究)
・「巻子本における文字と絵の関係」
 (太田切和漢朗詠集の下絵についての研究)
・「金沢本万葉集研究」
 (同時期の元永本古今和歌集と比較しながらの、レイアウトについての研究)
・「『日本霊異記』の諸本及び伝来と享受の研究」

日本文学研究・書誌学の論文のようにも見え、また美術史・書道史の論文のようにも見えます。実は、その両方を含む、新しい領域に挑戦したものです。

これらの論文の多くは、青山学院大学で所蔵している、平安時代の写本の複製を、3年次の演習で実際に調査したことが、出発点となっています。活字で読む古典とは異なる、「写本」の美に強く魅了されたことが、それぞれの「あとがき」に記されています。

平安時代を中心に、『万葉集』『古今和歌集』『和漢朗詠集』などの美しい写本が、数多く製作されました。従来の日本文学研究では、まずそれらの内容に目が注がれてきました。これらの詩歌集の原本は存在しません。そこで、正しい本文を知るための重要な手懸かりとして、平安時代の写本の本文が、注目されてきたのです。

もちろん、それらの写本の装丁や書なども研究されていますが、それはあくまでも写本の書写年代や書写者を推定することを目的とするものです。

一方、今日、美術史や書道史の分野で、これらの写本の料紙装飾や書の研究が活発に行われています。ただし、料紙は料紙として、書は書として研究されている面が強いようです。

しかし、さまざまな色の料紙も、金泥・銀泥などで書かれた鳥や植物などの下絵も、写本の一部を構成する要素です。「書物」としての効果を考えた上で、これらは利用されています。

また、書も、歌の内容に対する書き手の“解釈”を抜きにしては考えられません。加えて、書き手たちは、さまざまな書体・字体・字形を駆使しながら、一部の写本を全体として、まとまりがあるととともに、変化に富む「書物」に仕立てています。

“「書物」としての写本”の美に迫ろうとしたのが、これらの論文です。

苦心の痕が随所に伺えるとともに、思いがけない発見も含むこれらの論文を読んで、改めて強く感じたことは、写本が、原本の単なるコピーではなく、書写者・製作者の“解釈”のもとに、新たに誕生した「書物」である、ということです。

「書物」とは、書写されるたびに、その都度新たな「書物」として生まれ変わるものなのです。

*2009年度は、内地留学のため、残念ながら、私の授業は開講されません。1年間、今まで残してきた、万葉学史に関わる課題を仕上げ、また、この新たな「書物学」を深めてゆきたいと思っています。