2008年3月12日水曜日
平仮名の空間構成力:漢字と「かな」(3)
(写真=『万葉集』巻18・4136番歌。「あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かさしつらくは ちとせほくとそ」)
万葉仮名から「かな」への飛躍
��この記事は、「万葉仮名で歌を書き記すこと:漢字と「かな」(2)」に続きます)
“歌(やまと歌・和歌)の表記媒体”としての、「万葉仮名」と平仮名の違いを、具体的に見てみたいと思います。
「万葉仮名」による表記法と、平仮名による表記法は、ともに歌の「ことば」を全て文字化する、という点で共通します。
しかし、上に掲げた図で、二つの表記法で書かれた、同じ歌を、見比べてみてください。図は、次の歌を書いたものです。
あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿くとぞ (巻18・4136)大伴家持
(あしひきの やまのこぬれの ほよとりて かざしつらくは ちとせほくとぞ)
〔訳〕(あしひきの)山の梢の、常緑の「やどりぎ」を折り取って、髪にさしているのは、
私たちの命が、千年も続くことを、祝う心からなのです。
右が、「万葉仮名」で書いた場合です。西本願寺本(鎌倉時代後期の写本)の漢字本文を、トレースしました。当時の「書物」のあり方から、『万葉集』原本では、「万葉仮名」は、楷書で、きちんと書かれていたと推定されます。加えて、句読点も、スペースも置かれていなかったはずです(参照、先の記事「万葉集原本のレイアウト」)。
左が、平仮名で書いた場合です。元暦校本(げんりゃくこうほん。平安時代後期の写本)の読み下し文を、トレースしました。
それでは、両方の表記で、一首を読み下してみてください。
右の「万葉仮名」による表記では、確かに、冒頭から、一文字一文字読み下してゆくことができます。これは、文脈に依存する、『万葉集』の《文字法》との、大きな違いです。
先の記事「万葉集の文字法(1)」で述べましたように、歌の「ことば」全てを表記するのではない、『万葉集』の《文字法》の場合、一度末尾まで、暫定的に読み下し、その上で、読み下し方を確定する、という読み方が、求められました。
「万葉仮名」による表記法では、このような手間はかかりません。しかし、「万葉仮名」を、読み下しながら、また読み下し終えた後で、一首の歌全体の、文の構造をとらえることは、容易ではありません。
例えば、第5句「知等世保久等曽」まで、読み下したところで、この句が、初句とどのような関係にあるのか、考えてみてください。わかりにくいと思います。再度、連続する漢字群の中から、初句を探し出すところから、始めなければなりません。
*なお、『万葉集』原本では、1行16字詰めになっていたと推定されます。歌の意味の切れ目とは、全く無関係のところで、改行されていました。
「万葉仮名」による表記法の場合、これを読む人は、冒頭から、順を追って、漢字を、日本語の「音」に変換してゆくことに専念してしまいがちです。一度で、歌全体を掌握し、その「意味」を理解することは、困難です。
また、少し目を離して、「万葉仮名」で表記された一首を、見てみてください。何か、うるさく感じないでしょうか。それは、「万葉仮名」が、あくまでも漢字の一用法であることによると思います。漢字であるために、どうしても、その漢字の「意味」が、まとわりついてしまいます。
漢字の「意味」を生かした、『万葉集』の《文字法》に馴染んだ、万葉歌人たちは、「万葉仮名」で書かれた一首を読む時、私たち以上に、「万葉仮名」が漢字として発するノイズを、わずらわしく感じたことでしょう。
他方、左の平仮名による表記では、一首全体を捉え、その「意味」を理解することが、はるかに容易になっています。
それは、漢字のノイズがないからだけではないでしょう。もし、次のように、平仮名を、「万葉仮名」による表記の時のように、一文字ずつ書き記していったならば、やはり一首全体を捉えることは、難しいでしょう。
あしひきのやまのこぬれのほよとりてかさしつらくはちとせほくとそ
左の平仮名による表記法では、連綿によって、複数の平仮名を連合させていること、そして、それが文節(文を読む時に、自然な発音によって区切られる、最小の単位。息の切れ目)に、ある程度対応していることが、一首全体を、視覚的に捉え易いものとしています。
例えば、第2句「やまの」は、「まの」が、連綿で繋がっています。全体的に『やまの』という文節に対応しています。〈息〉を視覚化し、空間的に定着するのが、平仮名による表記法と、まず言えるでしょう。
しかも、面白いことに、第2句では、「や」と「ま」を、切り離して書いています(「放書(はなちがき)」と言います)。「や」と「ま」の間には、もちろん、〈息〉の切れ目はありません。しかし、「や」と「ま」の間に置かれた余白は、この部分に、視覚的な、リズムの変化をもたらしています。
「あし」、そして「ひきの」と、続いてきた連綿が、「や」で一度途切れて、また「まの」、そして「こぬれ」という連綿に進みます。
〈息〉の単位に沿いながらも、単純に、「音」を、文字に写すのではなく、時には、〈息〉の単位と矛盾することもある、視覚的なリズムを、これに重ねてゆくところに、平仮名による歌の表記法の、独自な達成があると思います。
連綿と放書(はなちがき)という技術を手に入れ、これを洗練することで、平仮名は、「万葉仮名」から大きく飛躍し、歌を、空間的に定着する、表記媒体となったのです。
��主な参考文献]
��.小川靖彦「萬葉集の文字法」青山学院大学文学部日本文学科編『文字とことば―古代東アジアの文化交流―』青山学院大学文学部日本文学科、2005年
��.関友作・赤堀侃司「テキスト理解に対する箇条型レイアウトの効果」『日本教育工学雑誌』Vol.17 No.3、1994年1月
��.小林芳規『図説 日本の漢字』大修館書店、1998年
��.石川九楊『日本語とはどういう言語か』中央公論新社、2006年
��.矢田勉「かなの字母とその変遷」『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、2007年