2007年10月27日土曜日

万葉集原本の1行文字数

万葉集原本の1行文字数

『万葉集』原本は1行16字詰めであったか

先の記事「万葉集原本のレイアウト」で、『万葉集』の原本が巻物であり、その本文が、界線(かいせん。罫線)に囲まれた枠中に書かれたことを推測しました。

果たして、『万葉集』原本は1行何字で書かれていたのでしょうか。それを推定するいくつかの手がかりがあります。

中国文化圏では、仏教経典・儒教経典・道教経典・法典・歴史書など正式な書物が、1行17字詰めで書かれたことを、まず想起したいと思います。その上で、次のような事実に注目したいと思います。

① 漢詩文集である『文選』の敦煌本では、本文は、1行15字または16字詰めで書かれています。これは、正式な書物の字詰めを意識しながら、最も格の高い経典類と区別をするためのものと思われます。

② 『万葉集』の最古の写本である桂本(平安中期写)の、漢字本文の字詰めも、1行15字から16字となっています(長歌は1行平均15.6字、短歌は1行平均14.6字)。

③ 『万葉集』に吸収された「柿本朝臣人麻呂之歌集」(通称「柿本朝臣人麻呂歌集」)に、「略体歌(りゃくたいか)」という特異な表記形式の歌があります。「略体歌」は、助詞助動詞などの表記を最低限にとどめて、漢文風に歌を記しています。この「略体歌」の最大文字数が、実に16字なのです。

��*上の写真は、『万葉集』巻十一に吸収された「略体歌」を、16字詰めで書いたものです。歌一首が、きれいに1行に収まります。巻11・2369~2380)

④ 万葉仮名を使って、一字一音で、短歌(31音)を書き記すと、1行15字詰めの場合は、3行書きとなり、しかも最後の1行は、1字だけということになります。

  安麻射可流比奈等毛之流久許己太
  久母之気伎孤悲可毛奈具流日毛奈
  久

        天離る 鄙とも著く ここだくも 繁き恋かも 和ぐる日もなく(巻19・4019)大伴家持
        (あまざかる ひなともしるく ここだくも しげきこひかも なぐるひもなく)


以上から、『万葉集』原本の1行の文字数は16字であったと推定できます。

極端に文字数の少ない「略体歌」は、やまと歌を漢詩風に記す、極めて実験的な表記でした。大胆な表記である分、読み下すのは容易ではありません。それは、写真の歌からもわかることと思います。

「略体歌」の表記は、『万葉集』の中でも、最も難しく、しかし魅惑に満ちたものです。その文字数を規定するものの一つに、意外にも、書物の「形式」的側面があったということは、面白いことです。

特異な「略体歌」の表記が、「柿本朝臣人麻呂歌集」という「書物」を作ることと、深く関わっていたことが窺えます。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「『萬葉集』原本のレイアウト―音読から黙読へ―」『青山学院大学文学部紀要』第47号、2006年1月
��.阿蘇瑞枝『増補改訂 柿本人麻呂論考』おうふう、1998年
(*「柿本朝臣人麻呂之歌集」に、「略体歌」「非略体歌」という二つの書式を認めたのが、阿蘇氏です。阿蘇氏は、早くに、「略体歌」と「非略体歌」を見分ける一つの目安として、16字という、一首の文字数に注目していました。阿蘇氏の捉え方は、“機械的”と見られることもありました。しかし、書物の「形式」ということに、注目するならば、この文字数には、意味があったことになります。)


2007年10月26日金曜日

わたつみの豊旗雲に(中大兄)

秋の月

月の美しい季節になりました。『万葉集』の月の歌として、まず思い出されるのは、中大兄(なかのおおえ。後の天智天皇)の歌です。

渡津海乃豊旗雲尓伊理比弥之今夜乃月夜清明己曾(巻1・15)

わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ
(わたつみの とよはたくもに いりひみし こよひのつくよ さやけかりこそ)

〔訳〕海神の、大空を横切る旗雲に、入日を見た、その夜の月は、さやかであってほしい。

この歌は、斉明天皇7年(661)、天皇自身が軍を率いて、百済救援に向かう途中に立ち寄った播磨国の印南国原(明石から加古川にかけて)で、中大兄が詠んだ歌です。

旗雲は、瑞雲と考えられていました。この歌では、それを、「わたつみの豊旗雲」と、海神の霊威の表れと見ています。その雲に、日が沈むという荘厳な光景を、中大兄たち一行は目にしたのです。

「さやけかりこそ」の「こそ」は、希求を表しますが、この歌の場合、夕方の荘厳な光景に、その夜の月の明るさ、つまり夜の航海での、海神の加護を確信した上で、“さやかであってほしい”と願っています。

ところで、この歌で注目したいのは、漢字本文です。第三句の「入日見之」を、「伊理比弥之」と万葉仮名で書いています。普通ならば「入日見之」と書くところです。

一方、第五句は「清明己曾」と書いています。この表記は、多くの研究者を悩ませて来ました(ここでは「さやけかりこそ」と訓読しましたが、諸説あります)。この歌を文字に起した人は、どうしても「清明」という文字を使いたかったようです。

新日本古典文学大系は「清明」が、月の明るさを表すのに、仏典でしばしば用いられることばであることを指摘しています。また漢語の「清明」には、天下が平和に治まる意味もあります。

月の光の曇りない明るさと、航海の平安が約束されていることを、文字の上でも力強く表現するために、「清明」と書いたのでしょう。

第三句を「伊理比弥之」と万葉仮名で書いたのも、この「清明」という表記と関係していると思われます。もしここを「入日見之」と書いたならば、入日の鮮明なイメージが、月の「清明」なイメージを弱めてしまいます。

一首のイメージの中心が、月の明るさになるように、第三句をわざと万葉仮名にひらいたのでしょう。この歌を文字に起した人の意図に沿うように、訓読文を漢字仮名交じりで書くと、次のようになります。

渡津海の豊旗雲にいりひみし今夜の月夜清明かりこそ

『万葉集』巻一・巻二では、このように、歌一首全体を考えながら、あるところは、思い切って漢語的表記を用い、あるところは万葉仮名にひらくということが行われています。

この歌を文字に記したのは、中大兄自身ではありません。中大兄に頃には、まだ歌を文字で記すということは始まっていませんでした。歌を文字で書くようになる、天武・持統朝に、文字について、非常にセンスある人物が、一首に「文字の歌」としての姿を与えたのでしょう。

2007年10月20日土曜日

「平家納経」を見るために

平家納経
(写真=小松茂美氏『平家納経の研究』)

10月27日(土)から11月25日(日)まで、厳島神社宝物館で展示される予定の「平家納経」(『法華経』二十八品各1巻に、『無量義経』1巻、『観普賢経』1巻、『阿弥陀経』1巻、「紺紙金泥般若心経」1巻、平清盛の「願文」1巻の計33巻)は、日本の巻物(巻子本)文化の最高峰です。

��世紀以来の日本の巻物文化の技術の総決算であるとともに、新興勢力である平家ならではの、大胆な、新しい美への挑戦が行われています。

この「書と紙と色の交響楽」(小松茂美氏)を、さらに深く味わうためのポイントを紹介します。

何よりも大切なことは、写真ではわからない、色の美しさや、線の力強さを味わうことです。そのために、観覧前に、下に挙げた書物(特に1)で、「平家納経」についての知識をある程度得ておくとよいと思います。


(1)巻物の大きさに注目する
① 写真ではわからないのが、巻物の大きさです。特に、縦の寸法に注意してください。写真で見ていた時より、意外に小さいことに気付きます。

(2)見返し絵を見る
① 色の鮮やかさに注目します(写真は原本とかなり違うことがあります)。

② やまと絵では、「線」が命となります。人物を描く「線」の力強さ、柔らかさを十分に味わいましょう。

*羅刹女を女房姿で美しく描く、「涌出品(ゆじゅつほん)」と『観普賢経』との「線」の違いに注目してみても面白いと思います。

③ まとまりある情景を描く「序品(じょほん)」などでは、散る紅葉、流れる水などの細部の自然表現が、画面に時間の流れを作り出しています。中心的な人物を見た後、細部にも目を向けましょう。

(3)料紙を見る
① 巻物では、全体の「流れ」が大切になります。料紙の装飾(「引き染め」や「隈ぼかし」など)や下絵が変化してゆく様子に注意します。
*「引き染め」=刷毛で紙の表面を染める方法。刷く回数によって濃淡が出る。
��「隈ぼかし」=ところどころを刷毛で染め、周辺に水をかけてぼかすという技法。


② 金または銀で引かれた界線(罫線)を観察します。その細さ、一定の濃さに驚くと思います。縦の界線が、どこから引かれ、どこで収められているかを観察することも大切です。

③ 巻かれた部分からも貴重な情報が得られます。料紙の裏側の様子がわかります。また巻かれた状態の部分を、下から見ると、その料紙がどのように染められたかが、ある程度わかります。

*白い場合は刷毛染め、色がある場合は浸し染めの可能性があります。

(4)書を見る
① 一行一行の姿を見ます。技術の低い書写者の場合、一行は右へ左へと蛇行してしまいます。「平家納経」では、もちろんまっすぐな線を描いています。

② ひとつひとつの文字が全体でかもし出している雰囲気を味わいます。
*『観普賢経』では、小振りで、右に傾いた文字で書かれています。細い線を用い、繊細な印象を与えます。

巻物は、総合芸術と言えます。細部を丁寧に観察してゆくならば、その技術の高さ、そしてそれに支えられた美を、深く味わうことになるでしょう。

[主な参考文献]
��.小松茂美『図説 平家納経』戎光祥出版、2005(最も親しみやすい入門書。図版多数)
��.小松茂美『平家納経の世界』中公文庫、中央公論社、1995(後半は、小松先生の自伝)
��.小松茂美『平家納経の研究』研究編(上・下)、図録編、講談社、1976〔絶版〕(最も精緻な平家納経研究)
��.白畑よし『やまと絵』河原書店、1967〔絶版〕(136~142ページに、「平家納経」の見返し絵に描かれた情景についてのわかりやすい説明あり)


2007年10月19日金曜日

小川靖彦『萬葉学史の研究』

小川靖彦『萬葉学史の研究』

豊饒な研究分野・万葉学史
��小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年2月刊、636頁、15,750円〈税込〉)

『万葉集』には、平安時代以来1200年近い研究の歴史があります。今日、私たちが『万葉集』を読むことができるのは、この分厚い研究の歴史があるからです。

しかし、『万葉集』の研究の歴史は、素朴な段階から、現代の高度な研究に発展してきたという、単純なものではありません。今日の眼から見て、“誤り”と見えるものにも、実はきちんとした論理があります。

平安時代の古写本のレイアウト、現代とは異なる平安時代や中世における『万葉集』の訓読・注釈の方法などを、ひとつひとつ検討してゆくと、それらが、時代の知の構造や文化に深く根ざしていることがわかります。

また本書では、万葉学史に画期をもたらした、鎌倉時代の学僧仙覚の自筆書状を、新たに紹介しました。この1枚の書状から、北条実時を中心とした鎌倉文化人たちのネットワークの存在が浮かび上がりました。

万葉学史の研究は、歌集と政治との関わり、「古代」像の変貌、古典を取り巻く文化的ネットワーク、「思想」としての学問、「書物」というものが具現する聖性と権力、などの問題を解明する、実に豊饒な研究分野なのです。

��本書は、私の最初の著書です。1年をかけて、本書のもととなった、過去10年に書き継いで来た論文を、全て修訂しました。1冊の本を作ることの難しさと面白さを体験しました。
��貴重な資料の写真も、多数収録しています。

*本書は、9月末以来、在庫切れとなっていましたが、2008年10月前半に第2刷が刊行されることとなりました。

【目 次】
序章 萬葉学史の研究とは何か
第一部 萬葉集写本史の新しい視点
 第一章 題詞と歌の高下―レイアウトに見る平安時代の政治史・和歌史・文化史の中の古写本―
 第二章 巻子本から冊子本へ―冊子本萬葉集のページネーション―
第二部 日本語史・日本文学史のなかの萬葉集訓読
 第一章 〈訓み〉を踏まえた萬葉集歌の改変―『古今和歌集』の「萬葉歌」をめぐって―
 第二章 天暦古点の詩法
 第三章 かなの文化の中の萬葉集訓読―平安から中世へ―
 第四章 「よみ(訓み・読み)」の整定―『新古今和歌集』の「萬葉歌」をめぐって―
 第五章 統合される「よみ(訓み・読み)」―宗祇『萬葉抄』における萬葉集訓読―
第三部 仙覚の萬葉学―十三世紀における知の変革―
 第一章 仙覚書状(金沢文庫旧蔵名古屋市蓬左文庫蔵『斉民要術』紙背文書)について
      ―萬葉学者仙覚と北条実時との関わり―
 第二章 国文学研究資料館蔵『萬葉集註釈』(第二冊・智仁親王筆)
      ―『萬葉集註釈』の本文整定のための基礎資料―
 第三章 道理と文證―『萬葉集註釈』の知の形式―
 第四章 「心」と「詞」―萬葉集訓読の方法―
 第五章 方法としての「ことわり」―萬葉集歌注釈における理法と詩学―
第四部 仙覚の萬葉学の行方
 第一章 筑後入道寂意(源孝行)
      ―由阿による秘伝の系譜の創出(付、レガリアとしての仙覚寛元本萬葉集)―
 第二章 『萬葉集目安』(正式名称『萬葉集註釈』)―南北朝期に誕生した「新注釈」―
終章 萬葉学史の研究の課題
年表(Ⅰ平安時代の『萬葉集』写本年表、 Ⅱ仙覚略年譜)
原論文一覧
あとがき
索引(1萬葉集諸本、2書名(萬葉学史に関わる)、3人名(萬葉学史に関わる)、4研究者名)


2007年10月18日木曜日

大岡信『古典を読む 万葉集』

大岡信『古典を読む 万葉集』

『万葉集』への良き導き手
��大岡信『古典を読む 万葉集』岩波現代文庫、岩波書店、2007年9月刊、900円〈本体〉)

この10年の間に、『万葉集』についての良質の入門書が、書店の店頭から姿を消してしまいました。大岡信氏の『古典を読む 万葉集』が、岩波現代文庫の1冊として再刊されたことは、本当に喜ばしい出来事です。

『万葉集』の長い研究の歴史、成立、時代背景、文字(漢字)との関わり、『万葉集』の中の文学史など、今日の万葉集研究の基本を学ぶことができます(もちろん、本書の原書が出版された1985年から、万葉集研究はさらに複雑になっています。しかし、その基礎には、1980年代までの研究成果があります)。

その上で、現代詩人の視点から、『万葉集』の歌人たちのことばの森を探ってゆきます。柿本人麻呂の、大胆で、矛盾に満ちた、詩的冒険についての解読は、本書の圧巻です。

今回、本書を読み直して、大岡氏が、歌集(アンソロジー)を編むことの意義を繰り返し説いていることが改めて注意されました。『万葉集』の編者は、歌による物語作者でもあり、すぐれた批評家でもあったのです。

『万葉集』を、一部の「書物」として読むことが、今後ますます重要になるでしょう。


2007年10月16日火曜日

秋山の木の下隠り(鏡王女)

鏡王女墓から見る舒明陵
 (写真=鏡王女の墓から見る舒明陵〈正面奥の森〉)

『万葉集』には、心に残る秋の歌がたくさんあります。

秋山樹下逝水乃吾許益目御念従者(巻2・92)

秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益さめ 思ほすよりは
��あきやまの このしたがくり ゆくみずの あれこそまさめ おもほすよりは)


〔訳〕秋山の木の下をひそかに流れてゆく水が増すように、私はひそやかにあなたのことを思っています。その水の水量が「増す」という言葉ではありませんが、私の思いの方があなたのお思いに“勝る”のです。
(*古代語の「ます」は、“増す”も“勝る”も意味します。)


作者は鏡王女(かがみのおおきみ)。鏡王女は、その墓が舒明天皇陵の領域内に営まれていることなどから、舒明天皇の皇孫と考えられます。

鏡王女は、臣下の藤原鎌足と結婚します。皇族が臣下と結婚することは、この時代では異例中の異例のことです。鏡王女は、天皇家と鎌足家との間に血族的な繋がりを築くという重要な役割を、天智天皇に託されたのでしょう。鏡王女は、天智天皇にとって、最も気の置けない、そして信頼できる親族であったに違いありません。

この歌は、皇太子時代の天智天皇の歌、

  妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを
  (いもがいへも つぎてみましを やまとなる おほしまのねに いへもあらましを)

に応じたものです。“いつでも見ることができるように、山の上にあなたの家があってほしい”と、大胆な発想の歌に、鏡王女は、ひそやかな思いで応じました。

「秋山の木の下隠れ行く水の」という序詞は、色づいた山の木々、その下を人知れず流れている水(「忘れ水」)という、静かで、澄み切った秋の情景を、生き生きと浮かび上がらせます。それはまた、鏡王女自身の心に他なりません。相手の歌を、鮮やかに切り返す歌でありながら、この歌には、自己の心を見つめる目が確かに存在しています。

臣下の鎌足と結婚した鏡王女は、やがて古代最大の内乱である壬申の乱に巻き込まれてゆきます。このような歌を詠む鏡王女は、亡き鎌足の正妻として、賢明に、中立の立場を貫き通したのでしょう。乱に勝利した天武天皇は、病を得た鏡王女を見舞い、亡くなった後には、王女の祖父舒明天皇の眠る陵のすぐそばに、鏡王女を手厚く葬りました。

普通ならば、「鏡女王」とあるべきところを、『万葉集』は「鏡王女」と記しています。これは、『万葉集』の編者が、この女性への敬意を表すために特別にあつらえた称号であったのでしょう。

舒明天皇、鏡王女、そして大伴皇女の眠る、奈良県桜井忍阪のこの静かな谷は、まさに日本古代の「王家の谷」と言えます。

私が訪れた時には、この谷の田に、イノシシが遊んだ跡が残っていました(下の写真)。
王家の谷の猪


2007年10月12日金曜日

万葉集原本のレイアウト

万葉集原本のレイアウト

『万葉集』の成立した、7~8世紀の中国文化圏では、仏教経典・儒教経典・道教経典・法典・歴史書など正式な書物は、巻物に仕立てられました。そして、その巻物には決まりがありました。藤枝晃氏の研究によれば、それは①~⑤のようになります。

①縦1尺(南北朝時代の1尺で約27cm)の麻紙(まし。麻を原料とする紙)を用いる。
②専門の写経生が書写する。
③楷書で書く。
④1行17字詰め。
⑤上下にそれぞれ約3cmの余白をとり、横の界線(罫線のこと)を引く。これに、1.5~1.8cmばかりの間隔で、縦の界線を引く。

そして、敦煌写本や奈良朝写経などを調べると、本文のレイアウトにも次のような規則があったことがわかります。

⑥題と本文は同じ高さで書く。
⑦句読点やスペースは置かない。

『文選』などの詩文集の写本も、玄宗皇帝の時代の前までは、以上の決まりに準じています(ただし、1行の字数が経典とは異なり、15字または16字詰めです)。

��なお仏教関係の韻文では、句ごとにスペースを置くことがあります。しかし、中国古典籍ではスペース置かないことが厳しく守られます〈澁谷譽一郎氏の研究による〉。)

『万葉集』も、正式な書物に準ずる姿で製作されたと考えられます。以上の決まりに従って、『万葉集』原本のレイアウトを復元すると上の写真のようになります。

『万葉集』原本は表情は、活字の冊子本とはまったく異なるものになりました。



[主な参考文献]
��.小川靖彦「『萬葉集』原本のレイアウト―音読から黙読へ―」『青山学院大学文学部紀要』第47号、2006年1月
��.藤枝晃『文字の文化史』講談社学術文庫、1999年
��.藤枝晃『敦煌学とその周辺』対話講座なにわ塾叢書51、ブレーンセンター、1999年
��.澁谷譽一郎「敦煌所見韻文写本の書写形態を通して見た唐五代の一文藝状況」『藝文研究』№65、1994年3月
��*1の小川論文末尾の引用文献一覧から、4の澁谷論文が落ちていました。失礼致しました。)