2008年7月16日水曜日
「日本語・日本文学研究-これからの百年-」(全国大学国語国文学会)
(当日配布された要旨)
日本文学研究の未来のために
2008年6月7日(土)から8日(日)に、和洋女子大学にて開催された、全国大学国語国文学会夏季大会で、「日本語・日本文学研究-これからの百年-」をテーマとする講演会とシンポジウムが開かれました(7日)。
基調講演 秋山虔氏(東京大学名誉教授)
シンポジウム
「近代国文学成立の光芒に学ぶ-新たな〈学〉への希望のために」
神野藤昭夫氏〔かんのとう・あきお〕(跡見学園大学教授)
「日本語・日本文学研究と国際性の問題」
辻英子氏(聖徳大学教授)
「近代文学研究の現況と今後」
山田有策氏(東京学芸大学名誉教授)
コーディネーター 辰巳正明氏(國學院大學教授)
日本語学・日本文学研究の、これからの100年を見通そう、という思い切った企画でした。
今回の基調講演とシンポジウムは、その第一段階として、今までの100年を検証するものと、私には受け止められました。(以下、敬称は、「氏」で統一します)
秋山氏の基調講演は、国文学が、学問として危機的状況にあるという問題意識のもと、国文学が誕生以来、どう社会と切り結んできたかという歴史を、生々しい証言も交えながら、たどるものでした。
神野藤氏は、新たな資料を開示しながら、大学校・開成学校・東京帝国大学における〈国文学〉が、単線的に「進化」してきたものではないことを、示しました。そして、〈国文学〉がナショナリズムと関わってきたことを踏まえて、今後の〈学〉が、他者性を抱え込む必要があること、を説きました。
辻氏は、ウィーン大学、ライデン大学、イギリスにおける日本研究の歴史を、豊富な資料によって、細密にトレースしました。日本の経済状況の動向が、ヨーロッパでの日本研究の盛衰に大きく影響していることが、浮かび上がってきました。
山田氏は、明治から現代に至る小説が、文語文体から口語文体に、また物語的なもの(伝承・民話)から小説的なものに転換した後も、実は文語文体や物語的なものに補強されていたこと、ところが今や、その支えを失っていることなどを論じました。
コーディネーターの辰巳氏は、以上の基調講演とパネリストの報告を受けて、日本文学研究の現状と課題について、
① 国民国家を基盤とする国文学研究は終焉した
② 戦後体制下の国文学研究も終焉し、日本文学研究の国際性が今や大きな課題となっている
と整理しました。
各氏の論は、全国大学国語国文学会の機関誌『文学・語学』にまとめられることと思います。ここでは、秋山氏の基調講演について、もう少し触れておきたいと思います。
約60年にわたり、国文学に生きてこられた秋山氏の言葉は、大変重いものでした。静かな語り口の中に、どうしても伝えたい、という強い思いが、たたえられていました。
秋山氏は、日清・日露戦争後に、国家意識・民族意識が高まり、国文学もその方向へ組織されてゆく中、あくまでも「文学というもの」に、直に触れることをめざした高木市之助、また戦時下にあって、文学を内部から研究することを主張した岡崎義恵(おかざき・よしえ)、戦争の危機意識に対して、豊かな感受性と強靭な主体性によって、研究の姿勢を作っていこうとした近藤忠義らの研究を紹介されました。
そして、戦後、安保闘争以後、大学で養成された国文学研究者が増大し、さらに研究情報が氾濫してゆく中、研究者が、細分化されたテーマの中に、それをなぜ追究するかがわからないままに、立てこもるという状況になっていることを、指摘されました。
秋山氏は、この状況からは悲観的見通ししか得られない、としながらも、いくつかの処方箋を示されました。
それらの中で、私の心に強く残ったのは、時代と切り結んできた国文学(高木、岡崎、近藤、そして風巻景次郎、西郷信綱ら)の遺産を継承してゆくことの大切さでした。
もちろん、私は、このような国文学の遺産も、歴史的に検証し、批判することが必要であると思っています。しかし、今日では、それ以前に、国文学の遺産に、たどり着くことさえ、容易ではないのです。これらの研究者の著作の多くは、絶版で入手困難となっています。
他の研究分野では、その分野の代表的著作の一部や論文を集めた、リーディングズ(Readings)が出版されています。国文学、あるいは日本文学研究においても、そのようなリーディングズが、編集されなければならない時期に来ていると思います。
国文学の遺産が、容易に読めるようになった時、これについての、本格的な、歴史的検証が始まると思います。そして、その検証を通じて、私たちは、研究者たちを突き動かしていた力の根源にも触れることになるでしょう。
理論の確かさや、方法の精密さ以上に、この力こそが、学問というものを、次の時代に伝えてゆくものではないかと私は考えています。