2010年7月29日木曜日
安田靫彦画伯「飛鳥の春の額田王」
命の輝き
このたび上梓しました私の本『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(角川選書、角川学芸出版、2010年7月刊)の表紙には、日本画家・安田靫彦画伯(やすだ・ゆきひこ 1884~1978年)の「飛鳥の春の額田王」(滋賀県立近代美術館蔵)を使わせていただきました。
「飛鳥の春の額田王」は、安田画伯の代表作で、多くの本に取り上げられています。中学生や高校生のための『国語便覧』などにも写真が載せられています。
それだけに既視感を強く持ってしまっていたこともあり、私は写真の絵が感じさせる、やや平面的な印象に飽きたらないものも感じていました。むしろ、安田画伯の歴史画では、最初期の「遣唐使」(1900年、16歳)の力強い筆線に心惹かれていました。
ところが、この印象が全く浅いものに過ぎなかったことを覚りました。2009年春に、千葉市美術館にて開催された「大和(やまと)し美(うるは)し 川端康成と安田靫彦」展で、私は「飛鳥の春の額田王」を初めて目にしました。息を呑みました。
縦131.1、横80.2㎝の大きな紙面の放つ豊かな力に、まず驚かされました。そして、額田王の生き生きとした表情に感動を覚えずには居られませんでした。赤みの差した頬はふっくらと感じられ、しかも清潔な美しさを湛えていました。
『万葉集』の人々は、
あからひく 色(いろ)ぐはし児(こ)(赤く照り輝く美しいあなた) 〔巻11・1999〕
のように女性の美しさを赤い色で表現しました。
赤は命の輝きを示す色でした。大海人皇子(天武天皇)が、額田王を
紫(むらさき)のにほへる妹(いも)(紫のように美しく色映えるあなた) 〔巻1・21〕
と言ったのも、「紫」が赤系統の色と考えられていたからです。大海人皇子は、赤の輝きに加えて、「紫」の高貴さも具えた最高の女性として、額田王を褒め称えたのです。
安田画伯の「飛鳥の春の額田王」は、この額田王の命の輝きと凛とした美しさを鮮やかに表現した作品であったのです。この作品が制作されたのは、1964年、画伯80歳の時です。画伯の命の若々しさと円熟とが、この額田王の姿を生み出したのでしょう。そして、この作品には、額田王への、安田画伯の温かな眼差しがあります。
私の本の表紙を決めるに当たり、編集部から「飛鳥の春の額田王」を強く薦められました。私は『万葉集』の入門書に最もふさわしい絵の一つと思いながらも、躊躇しました。写真では、この作品の命の輝きが失われてしまうことを恐れたからです。
しかし、編集部のご努力によって、作品の命を感じさせる写真に仕上げていただきました。そして今、この作品を使わせていただいたことを、心から感謝しています。
額田王の歌の底には、生きることへの肯定的姿勢があります。それは、『万葉集』全体に通じるものです。安田画伯の「飛鳥の春の額田王」は、そのような『万葉集』の世界へ、私たちを力強く、温かく導いてくれるようです。
「飛鳥の春の額田王」を再び目にする日を、心待ちにしています。
[主な参考文献]
��.『安田靫彦』新潮日本美術文庫34、新潮社、1998
��.財団法人奈良県万葉文化振興財団編『開館一周年記念特別展 図録 歴史画のゆくえ-近代日本絵画の名品でたどる万葉の世界-』奈良県立万葉文化館、2002
��.『大和し美し 川端康成と安田靫彦』求龍堂、2008