2008年4月25日金曜日

「草仮名の書かれた土器」の発見と展示

草仮名の書かれた土器


「かな」誕生の歴史を知る貴重な資料

2008年4月24日(木)付、読売新聞紙上で、平安時代前期(9世紀後半)の、草仮名(そうがな。漢字の草書体を、日本語の音の表記に用いたもの)が墨書された土器が、富山県射水市一条の「赤田(あかんだ)Ⅰ遺跡」で発見されたことが、報道されました。

9世紀後半は、万葉仮名が、平仮名へと飛躍する重要な時期です。しかし、資料は多くありません。この時期の、仏教経典に書き込まれた訓点や、文書、落書などに、草仮名が見えることは、報告されていました。

しかし、調査を担当した鈴木景二氏(富山大学人文学部教授)によれば、「草仮名が書かれた土器としては、最古かつ唯一の資料である可能性が高い」としています。しかも、鈴木氏は、「なには」があることから、宴会で歌を詠んだ際の、練習用として書き留められたか、と推測しています。

9世紀後半における、草仮名で書くことの広がり、また和歌の表記法を知る上で、重要な資料と思われます。写真で見る限りでは、直径13.1㎝、高さ2.4㎝の皿状の土器の裏側に書かれた文字は、のびやかに書かれており、闊達な印象を与えます。

是非、実物を見てみたいと思い、この土器の発見を発表した、射水市教育委員会に直接問い合わせたところ、以下の要領で展示が行われることを知りましたので、お知らせします。


射水市新湊博物館(〒9340-0049 富山県射水市鏡宮299)
・現在展示中。5月25日(日)まで展示。
・5月11日(日)に、鈴木景二氏による解説が行われます。
※開館日時については、射水市新湊博物館のウェブ・サイトでご確認ください。
※鈴木氏による解説については、直接、博物館にお尋ねください。


竹内源造記念館(〒939-0351 富山県射水郡小杉町戸破2289-1)
5月27日(火)から展示。


【追記】
asahi.com にも、やや異なる角度からの写真と、展示・解説情報が掲載されています(鈴木景二氏による解説は、午後2時からです)。
「最古級の草仮名墨書土器が出土、和歌練習か 富山・射水」

【追記2】(2008年5月7日記)
高岡市万葉歴史館の関隆司氏より、貴重な資料をお寄せいただきました。それによれば、この草仮名墨書土器の、出土日時は、平成14年4月25日で、出土場所は、現在の射水市一条団地内道路敷下(市道)です。

文字数は、17文字。鈴木景二氏によれば、酒杯を意味する「ささつき」、手習い歌「難波津歌」の書き出しの「なには」などが書かれていると見られます。また、「ひつ」「のみ」などは連綿になっているとのことです。

��関隆司氏に心より御礼申し上げます(迂闊にも入力ミスで、敬称を脱したままで【追記2】をアップしてしまっておりました。大変失礼いたしました)。


2008年4月18日金曜日

古筆学者・小松茂美氏の紹介記事(読売新聞):さらに知りたい人のために

2008年4月17日(木)付の『読売新聞』夕刊の、シリーズ「明日へ・書を囲む」に、古筆学者・小松茂美先生の近況を紹介する記事が、掲載されました。

『古筆学大成』の刊行にいたるまでの、情熱と努力が簡潔にまとめられています。そして、83歳になれた今、後白河法皇の研究に没頭され、66年にわたる法皇の生涯を、一日刻みで再現する「日録」を、ほぼ完成されたことが、紹介されています。

王者の風格が備わる、後白河法皇の筆跡も魅力、と小松先生はおっしゃっています。その筆跡の背後にある、激動の人生が、間もなく、小松先生ご自身が独自に開拓された古筆学の、あらゆる方法が駆使されながら、鮮烈に描き出されると思うと、心弾みます(小松先生の古筆学は、書を中心として、国文学・歴史学・美術史・宗教学などを集大成する学問です)。

書斎で撮影された、清い御姿の写真とともに、「書は季節に関係なく、昔は365日の関心事。今も人間錬成の場だと思います」というお言葉が、強く印象に残りました。

なお、先生の被爆のこと、『平家納経』との出会い、古筆学を確立されるまでの格闘、そして学問や、今日の書のあり方についての思いについて、「インタビュー・古筆学に生きる」(『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』所収)で、さらに詳しくお話ししてくださっています。先生の激しい生き様は、私たちに大きな勇気を与えてくれます。



「インタビュー・古筆学に生きる(小松茂美)」目次
��『文字のちから』65~82頁(18頁分)=

��.書とのめぐりあい―父と恩師によって
��.書に生かされる―「書は人間の錬成によって立派になる」
��.被爆、そして池田亀鑑博士『古典の批判的処置に関する研究』との縁
��.『平家納経』への思い “生きている間に見たい”
��.池田亀鑑博士との出会い「私は必ずあなたを助ける」
��.二荒山本『後撰集』・今城切からの着想―断片を元の形に復元する
��.古筆学の樹立 “人間錬成の格闘”
��.『平家納経』から後白河法皇へ―美と生と死と
��.文字のいまと古筆学のこれから―“文字性”の喪失

【インタビューから】
・「今になって考えることは、学問であれ何であれ、それが人間錬成の格闘だということです。その中で私は学問を選んだということなのです。商人であれ、作家であれ、画家であれ、歌舞伎役者であれすべて同じです。そういうことで、ありとあらゆることを自分の栄養にしなければいけないなと思いましたね。」(77頁)

・「今現在、私は後白河法皇の六十六年間の生涯を追究していますが、これは古筆の歴史的な研究かというそうではない。しかしこれが究極の古筆学だと私は思っています。私の古筆学の終焉、最後の大事業として進めているこの古筆学は複雑多岐な方法をとっています。ありとあらゆる学問の集大成なのです。」(79頁)

・「そして、何であれ、まずは本物と偽物の見分けが付くように己れの“眼”を養っていただきたいですね。」(インタビューの結びに。82頁)

��『文字のちから―写本・デザイン・かな・漢字・修復―』学燈社、全196頁、2007年12月刊、1,800円(本体)

文字のちから(書籍版)


2008年4月8日火曜日

万葉集書物史早わかり(2)

別提訓形式
(写真=漢字本文の次に、平仮名で、その読み下しを書き記す「別提訓形式」の例 〈元暦校本万葉集の複製による〉)

謎の九世紀
��この記事は、「万葉集書物史早わかり(1)」に続きます)

現存する、『万葉集』の写本・刊本を中心に、「書物」として『万葉集』の歴史を見渡すと、次のようになります。
 
 Ⅰ 写本未詳の時代
 Ⅱ 巻子本(写本)の時代
 Ⅲ 冊子本(写本)の時代
 Ⅳ 冊子本(刊本)の時代
 Ⅴ 冊子本(近代的印刷本)の時代

Ⅰ 写本未詳の時代〔9世紀~10世紀末〕

今日、私たちの目にしている、20巻本の『万葉集』の最古の写本は、11世紀中頃に書写された桂本(かつらぼん。皇室御物。巻4のみ)です。10世紀の末頃から、古記録(貴族の日記)にも、本来20巻本と推定される写本の記録が、現れます。

ところが、これ以前に遡ると、史料から、「書物」としての『万葉集』の姿を、直接捉えることが、難しくなります。

『源順集(みなもとのしたごうしゅう)』の詞書に、天暦5年(951)に、村上天皇の宣旨があり、「古万葉集よみときえらばしめ給ふ」た、と記されています。この時、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌が、「よみとかれ」たことがわかります。

平安時代の『万葉集』の写本に記された訓を分析することで、この「よみとく」の内容が、漢字のみで書かれた、『万葉集』の歌(短歌のみ)を、組織的体系的に、《平仮名で書かれた和歌》に置き換えるものであったことが、推定できます。

また、その置き換えは、『万葉集』全20巻に及んだことが、鎌倉時代の学僧・仙覚(せんがく)の校訂した写本に記された符号から、わかります。その歌数を、上田英夫氏は、約4500首の『万葉集』歌のうち、4000首を越えると、算定しています(この時の、読み下しを、「古点」と言います)。

ここで「えらぶ」とあるのは、漢字本文の次の行に、平仮名で、その読み下しを記す、新しい「書物」としての『万葉集』の誕生を示すのでしょう。古語の「えらぶ」には、選び集めて、書物を作る、という意味もありました。『万葉集』の写本の、このスタイルを、「別提訓形式」と言います。
*なお、この「えらぶ」を、良いものを選択する、の意味にとる説もあります。

しかも、この天暦の訓読の時に、巻18の、5箇所の漢字本文が補修されたことも、推定されています(大野晋氏の研究)。

この時に成立したと推定される「天暦古点本」が、村上天皇の権威のもと、以後の、『万葉集』の写本の源流となります。10世紀末以降の、現存する写本、史料からその存在が確実視される写本の本文(「注記」も含めて)は、基本的には、この「天暦古点本」から出ていると考えられます。

ところで、ここで難しい問題があります。『万葉集』の成立の問題です。

天応元年(781)から延暦2年(783)にかけて、大伴家持によって、『万葉集』の末4巻(巻17~巻20)の整備と20巻本としての集大成が、行われたと見る説が、今日では有力です(伊藤博氏説)。

しかし、『万葉集』には、大伴家持以後にも、手が加えられている形跡があることが指摘されています。近時、巻1・巻2の左注が、8世紀末、さらには9世紀まで下る可能性も、考えられています(神野志隆光氏の研究)。

『万葉集』という「書物」を、「注記」も含めたものとして捉えると、その成立時点を確定することは、非常に難しいと言えます。8世紀末から9世紀を通じて、なお『万葉集』という「書物」は、「注記」を積み重ね、変動・生成し続けていたようです。
*大量の、しかも様々の次元からなる「注記」を伴う『万葉集』は、中国文化圏の詩歌集としては、極めて特異なものです。

文献学的に厳密であろうとするならば、「注記」を伴う「書物」としての『万葉集』(20巻本)の成立は、今のところ、「天暦古点本」までしか遡れない、ということになります。「天暦古点本」において、変動・生成する『万葉集』が、固定させられたとも、考えることができます。

とはいえ、その「天暦古点本」も、現存していません。この本は、当時の「書物」のあり方から、少なくとも、巻子本であったことは推測できます。しかし、実際にどのような姿の「書物」であったか―どのような料紙に、どのような書体・書風で書かれていたかなどは、不明です。そして、現存最古の桂本でさえ、「天暦古点本」を、必ずしも、一字一句忠実に書写しているわけではありません(訓について、桂本なりの独自の判断が見られます)。

実は、今日の私たちは、11世紀以降の写本を通して、「天暦古点本」を推測し、さらにその向こうに、7・8世紀の《万葉集の世界》を見ているのです。これらのプリズムを経て、私たちが見ている《万葉集の世界》が、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界そのものであるかどうかは、わからないのです。

「書物」としての『万葉集』の歴史を捉えるために、さらに、どのようにすれば、7・8世紀の、実際の、万葉集の世界に、より近付けるのかを考えるためにも、この謎に満ちた時期、特に、9世紀における『万葉集』の解明が、今後重要となります。
*なお、9世紀から10世紀末にかけて、ダイジェスト版の『万葉集』が作られていたことが、記録に見えます。また、桂本以前の、ダイジェスト版の断簡である、下絵萬葉集抄切も現存しています(小松茂美氏は、10世紀初~半ば写と推定)。これらについては、別の記事で触れたいと思います。

��主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.上田英夫『萬葉集訓点の史的研究』塙書房、1956年
��.大野晋「萬葉集巻第十八の本文に就いて」『国語と国文学』第22巻第3号、1945年4月
��.伊藤博『萬葉集釈注 十一』(別巻)、集英社、1999年
��.神野志隆光『複数の「古代」』講談社現代新書、講談社、2007年
��.小川靖彦「『書物』としての『萬葉集』―巻三雑歌における『本文』と注記を通して―」『国語と国文学』第84巻第11号、2007年11月


【追記】
天暦の訓読時に、巻18の本文の5箇所に、大規模な補修が行われた、という大野晋氏の説について、乾善彦氏による批判があることを、看過しておりました。「大規模な補修」と見られたうちの、いつくかの点は、転写の際の誤りと解釈できるというのが、乾氏の見方です。天暦以降、いつかの時期に渡って改変が加えられ、「大規模な補修」のように見えるようになったと、捉えています(乾善彦氏「『万葉集』巻十八補修説の行方」『高岡市萬葉歴史館紀要』第14号、2004年3月)。

今後さらに、検討してみたいと思います。