2012年11月21日水曜日
『万葉集』誕生の物語
(平山郁夫『やすらぎの風景』と『飛鳥・藤原京展』)
藤原宮にて
「書物」としての『万葉集』が誕生した時の情景は、どのようなものであったでしょうか―。“「書物」としての『万葉集』”というテーマに取り組み始めて間もない年頃に、それを「日本の本の物語・序章」というタイトルで小説めいた文章にしてみたことがあります。『万葉集』の誕生した時を具体的に想像すると、その「書物」としての命が新たに感じられるようです。
藤原宮の内裏の持統天皇の御座所に、宮内官が一軸の巻子本を携えて参内したのは、この会議のあった年の秋頃のことであったろうか。
来る年の早々には、軽皇子(かるのみこ)の立太子が行われることが決していた。女官が天皇に奉ったその巻子本は、天皇が普段見慣れていた経巻に比べれば分量の少ないささやかなものであった。しかしその装丁は極めて美しく、見るものを引きつけてやまない気品を湛えていた。
表紙・軸はもちろん、料紙、さらには巻紐に至るまで、天皇は宮内官に細かい注文を付けた。天武元年(673)三月の飛鳥の川原寺での一切経の書写以来、大規模な写経を次々と手がけて高い造紙・造本の技術を培っていた宮内官管轄下の写経所は、天皇の厳しい注文によく応えた。
この巻子本の装丁を満足な面持ちでしばし眺めた後、持統天皇はこれを手にとって、その紐を静かに解いた。見返しに続いて、当時の最高級の純白の麻紙に、謹直な楷書で書かれた本文が現れた。白地に映える鮮やかな墨の色は、力強い生命力を感じさせた。
冒頭には、「万葉集」という内題が記されている。この題は、天皇と、編集の実務を担当した柿本人麻呂が何度も意見を交換して決定したものであった。続いて「泊瀬朝倉宮治天下天皇代」(雄略天皇代)という標目が書かれ、その次行には「天皇御製歌」と記されている。
籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳尓菜採須兒……
思わず天皇は口ずさんだ。
/komojo mikomoti Fukusimojo mibukusimoti kono?okani natumasuko/
日本語を書き表すために独自な用いられ方をした漢字をリズミカルに読み上げるにつれ、蘇る季節の中、人も自然も喜びに満ちた光景が立ち上がってくる。
巻子本を繙いてゆくと、次々と、左手から皇統の祖で、幼い日よりその存在の大きさを聞かされてきた祖父・舒明天皇、そして若き日の自分を、早く亡くなった母に代わって養育してくれた祖母・皇極・斉明天皇、近江でともに暮らした父・天智天皇、厳しい戦争をともに戦い抜いた夫・天武天皇ら懐かしい人々の治世の歌々が現れては、右手に巻き込まれてゆく。
言葉の力に満ちたこれらの歌々は、舒明天皇から天武天皇までの波乱に富んだ時代に、目映いばかりに光り輝く輪郭を与えていた。あまたの政争の渦、人間の欲望との欲望のぶつかり合いなど個々の歴史的事実は遠景に退けられ、天皇たちの治世の意味が人々の心にはっきりと刻みつけられるのであった。
そして持統天皇自らの時代「藤原宮治天下天皇代」。治世者として立った自身への、聖地天香具山からの祝福の歌に始まり、父の時代への鎮魂、夫への追慕が奏でられた後に、軽皇子を中心とする新しい時代の到来が高らかに宣言される。
このささやかな巻子本において、古代の政治と文化の歴史は、舒明天皇から軽皇子(文武天皇)に至る一筋の系譜に収斂した。舒明天皇・皇極天皇の二代の天皇を即位させ、絶大な権力を誇った蘇我氏の影は見えない。新しい政治を断行した孝徳天皇の姿も、天智天皇の皇子で、近江朝廷を率いて天武天皇と戦った大友皇子の姿もここにはない。皇位は、舒明天皇、皇極・斉明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、そして軽皇子(文武天皇)へと真直ぐに受け継がれてゆくのである。
史書では語り尽くせぬ約70年の「日本」の《歴史》を「やまと歌」によって鮮やかに示したこの巻子本を巻き直して、紐を結んだ持統天皇はつぶやいた。「私たちの真の歴史が今ここに始まった。未来永劫続いてゆく歴史が」と。