2015年7月10日金曜日

第1回上代文学会夏季セミナー「萬葉写本学入門」のお知らせ

『萬葉集』の古写本を基礎から学ぶセミナーです


来る2015年8月21日(金)に、第1回上代文学会夏季セミナー「萬葉写本入門」が開催されます。

上代文学会夏季セミナーは、主に大学院生を対象として、日本上代文学研究を進めるために必要なメソッドを伝えることを目的として、2015年より開催されることのなった、上代文学会の新たな企画です。

また、日本上代文学を専攻する若手研究者だけでなく、平安文学・中世文学・近世文学・近代文学、日本史学・古文書学・日本思想史などを専攻し、『萬葉集』や『古事記』などの研究史や享受史に関心を持っている方々にも、是非参加していただきたいと思っております。

上代文学研究のメソッドや研究成果を伝え、研究情報を共有する機会としたいと考えております。

第1回は「萬葉写本学入門」です。

現在、『萬葉集』の写本研究は、日本上代文学研究の中でも、最も熱い研究分野となりつつあります。
原典にもどることで、新しい研究テーマが見えてきます。

そして、原典である写本を扱うためには、専門的な知識と技術が必要です。それをわかりやすく解説します。

「萬葉写本学」の世界の豊かさを是非体験してみてください。

大学院生に限らず、学部生の皆さんも参加できます。『萬葉集』の古写本に関心のある方ならばどなたでも大歓迎です。

開催要領は下記の通りです。

開催日時・会場
2015821日(金) 13:0017:30
青山学院大学青山キャンパス 総研ビル3階 第11会議室
150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25  
JR山手線、東急線、京王井の頭線「渋谷駅」宮益坂方面出口より徒歩10
東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線「表参道駅」B1出口より徒歩5

プログラム
12:30~    受付
13:0013:05 開催挨拶     上代文学会代表理事 梶川信行(日本大学教授)
13:0513:10 第1回セミナー趣旨説明        小川靖彦(青山学院大学教授)
13:1013:50 講義⑴『萬葉集』の諸本、系統       田中大士(国文学研究資料館教授)
13:5014:30 講義⑵『校本萬葉集』の理念と方法     小川靖彦(青山学院大学教授)
14:3015:10 講義⑶『萬葉集』の受容史         城﨑陽子(國學院大學兼任講師)
15:3016:10 ワークショップ「写本の見方」  新谷秀夫(高岡市万葉歴史館学芸課長)
16:3017:30 ラウンドテーブル(懇談会)
                  総合司会:景井詳雅(洛星中学・高等学校教諭)
18:0020:00 懇親会

参加要領
《参加資格》
・上代文学会夏季セミナーは、主に大学院生を対象にしていますが、学部学生も参加できます。日本上代文学研究のメソッドに関心のある方なら、大学院生・学部学生でなくとも参加を歓迎します。
・上代文学会会員・非会員であるにかかわらず、参加することができます。
《申込方法》
2015731日(金)必着で、下記のメールアドレスに参加者が直接申し込んでください。これは事前に人数を確認するためのものです。当日参加も可能ですが、できるかぎり事前にお申し込みください。
yasuhiko.ogawa122[at]gmail.com
・申込メールは、件名を「上代文学会夏季セミナー申込」として、本文に氏名、所属(大学院生・学部学生の場合は学年)、学会員・会員外の別を明記してください。
《参加費用》
・資料代として、当日お一人500円をいただきます。
《懇親会について》
・懇親会に参加する場合には、メールの本文に「懇親会参加」とお書きください。会場は青山学院大学青山キャンパス周辺の予定です。懇親会費は、4,000円程度と考えていますが、参加人数によって変わります。

《問い合わせ先》yasuhiko.ogawa122[at]gmail.com 


2015年5月5日火曜日

変化する文学作品の「本文」












(大木惇夫詩集『海原にありて歌へる』国内版初版、カバーは再版の際のもの)

ジャカルタ版大木惇夫詩集『海原にありて歌へる』


私たちは、『万葉集』などの古典文学の「本文」を固定的なもの、不変のものと考えがちです。しかし、書物学の立場では、古典文学の「本文」とは、書や版木・活字、そして、「書物」の素材・装丁・レイアウトによって、その都度、姿を与えられるもの、と考えます。「書物」の外形に応じて変化してゆくものが、「本文」であると捉えるのです。

ここでいう“「書物」の外形”とは、単に物質的(フィジカル)なものをさすのではありません。書写者の美意識や、編集者の判断、その「書物」の制作を命じた人の意図、時代の要請、またはもっと漠然とした時代の雰囲気なども含みます。

最近、日本近現代詩の「本文」について調べる機会がありました。最初に発表された雑誌、最初に収められた詩集、再版本、再編成されたその詩人の個人詩集、晩年の全詩集などの間で、「本文」が大きく揺れていることに、驚かされました。

詩のことば自体が、変わっていることもあります。しかし、それだけではなく、句読点、スペース、空行(連分け)、漢字表記(漢字にするか平仮名にするか、どの漢字にするか)、送り仮名、振り仮名などの細かい点にも、変化がありました。

その異同をきちんと記録しようとすると、古典文学の場合よりも難しいと言えます。そして、それらのさまざまな「本文」を見比べていると、どれか一つが“正しい本文”であるとは思えなくなります。その時々の、作者の意図や、編集者・印刷者の意識、さらにその背後にある「時代」を反映したものとして、それぞれ独自の価値を持っているのです。

今回の調査の中で、最も深い感銘を受けたのは、大木惇夫(おおき・あつお18951977)の詩集『海原にありて歌へる』の「本文」です。北原白秋に師事して、詩を制作していた大木は、太平洋戦争で海軍報道班員として、ジャワ島攻略戦に従軍しました。その経験を作品化した詩を集めて出版したのが、詩集『海原にありて歌へる』です。

大木はこの詩集によって、日本文学報国会から第一回大東亜文学次賞を受け、一躍、「戦争詩」「愛国詩」の名手として、人気を博することになりました。そのため、戦後には、文学者たちから戦争協力者として烈しく批判され、今日では、詩人としてのその名は忘れられています。

実は、詩集『海原にありて歌へる』には、1942年(昭和17111日にジャカルタのアジヤ・ラヤ出版部が刊行した現地版と、1943410日にアルスが刊行した国内版の二つがあります。日本国内で人気を博したのは、国内版の方です。そして、『大木惇夫全詩集』(金園社、1969、復刻版・1999)に収められているのも国内版だけです。

ところが、現地版と国内版とで「本文」が大きく違っているのです。その典型が、「椰子樹下に立ちて」という作品です(活字の種類・大きさ、細かいレイアウトなどの違いは、省略します。旧漢字は新字体に直しました。行頭の番号は引用者)。

【現地版】

     椰子樹下に立ちて
              ××の宿営にて
1    極まれば死もまたかるし
2    生くること何ぞ重きや、
3    大いなる一つに帰る
4    永遠(とは)の道たゞ明るし。
5    仰ぐ空、青の極みゆ
6    ちり落つる花粉か、あらぬ
7    椰子の芽の黄なる、ほのなる
8    ほろほろとしづこゝろなし。

【国内版】

     椰子樹下に立ちて
                   ラグサウーランの丘にて
1    極まれば、死もまた軽し、
2    生くること何ぞ重きや、
3    大いなる一つに帰る
4    永遠(とは)の道ただに明るし。

5    わが剣(けん)は海に沈めど
6    この心、天をつらぬく。

7    ()かる妙(たへ)、雲湧く下(もと)
8    散り落つる花粉か、あらぬ
9    椰子の芽の黄なる、ほのなる
10   ほろほろと、しづこころなし。

大木は、ジャワ島バンダム湾で、味方の魚雷の誤射によって乗船していた佐倉丸が沈没し、海に投げ出されました。この「椰子樹下にて」は、九死に一生を得た大木が、ジャワの美しい風景の中で、生きる喜びに満たされ、「死」も永遠に連なるもの、と悟った作品です(国内版の末尾に大木自身による解説が付いています)。

現地版56行の、極まりない空の青さと、その中を椰子の黄色い花粉が散り落ちるという情景は、「生と死」と超えたものを感じさせます。

ところが、この情景が国内版では、56行のような壮士的述懐のことばと、7行のような
「日本神話」的な情景に、大きく変えられています。

確かに、国内版の「本文」で読むと「椰子樹下に立ちて」は、「戦争詩」であると言えます。しかし、現地版では、南国の明るい自然の中で「生と死」を感得した作品となっています。

大木の詩集『海原にありて歌へる』は、戦争下では、もっぱら国内版で読まれ、また最近の研究も、国内版によって進められているようです。現地版は、私の知る範囲では、現在公共図書館・大学図書館では国立国会図書館(デジタルコレクション)と岐阜県図書館の蔵書があるのみです。


現地版と国内版の「本文」を詳細に比較することで、大木の詩の基層にある高い抒情性、その抒情性を大木が戦時体制とどのように融和させていったか、なぜ国内版がそれほどまでに銃後の人々に訴えかける力を持ったかが、明らかになるように思います。

2015年5月4日月曜日

ブログの引越しのお知らせ


先にブログの引越しをお知らせしました。

その後、いろいろ調べてみたところ、現状では、このブログがGoogle検索に、ヒットしないことがわかりました。旧URLで、必要な処置を飛ばして、急いで引越しをしたためです。

これを機会に新しいブログを立ち上げることにしました。こちらのブログは「万葉集と古代の巻物」のタイトルをそのまま継承して、『万葉集』と書物学に関わる話題を、書き継いでゆきたいと思います。

6 May 2015

小川靖彦


2015年4月11日土曜日

陸軍特別攻撃隊員・穴沢利夫少尉が婚約者に贈った『萬葉集』

知覧からの手紙
(水口文乃『知覧からの手紙』新潮文庫、新潮社、2010年)

戦争下の『萬葉集』

『萬葉集』の近代

2014年4月に、私は『万葉集と日本人』(角川選書)を上梓しました。平安時代から近代まで、『萬葉集』がどのように読み継がれてきたかを考察した本です。

考察を進める中で胸をしめつけられたのが、近代日本における『萬葉集』の受容でした。明治時代に“『萬葉集』は日本人の祖先が、天皇から庶民に至るまで、素朴な心をありのままに強い調べで歌った「国民的歌集」”とされました。そして、日中戦争・太平洋戦争時には、『萬葉集』は「国民」の心を支える歌集となってゆきました。

『萬葉集』は政府と軍によって戦意高揚のために政治利用されました。しかし、それだけはでなく、戦争下を生きる人々の心の深いところにまで関わっていたのです。


特攻と『萬葉集』

それを教えてくれたのが、水口文乃(みづぐちふみの)氏の『知覧からの手紙』(新潮文庫、2010)です。昭和18年(1943)10月に志願して陸軍航空隊に入隊し、20年4月の沖縄特攻に出撃して帰らぬ人となった学徒出身の少尉穴沢利夫(あなざわとしお)さんと、婚約者伊達智恵子(だてちえこ)さんの戦争下の生を、智恵子さんのことばをベースに描いた労作です。

ふたりの心を支え、結び付けていたのが『萬葉集』です。穴沢さんは陸軍合格を伝える手紙で、喜びの中にも智恵子さんを想い揺れる心を大伴旅人(おおとものたびと)の「ますらをと 思へる吾や 水(みづ)(くき)の 水城(みづき)の上に 涕(たみた)(のご)はむ」(巻6・968)に託しました。

特攻隊に指名された穴沢さんを訪ねて詠んだ、来世での再会を希(ねが)う智恵子さんの絶唱、

  わかれてもまたもあふべくおもほへ(ママ)ば心充(み)たされてわが恋かなし

                                      (来世への希(ねが)ひ)

は、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌「
別れても 復(また)も逢ふべく 思ほえば 心乱れて 吾(あれ)恋ひめやも」(巻9・1805)を踏まえたものです。

『註解萬葉集』

水口氏のご厚意で、穴沢さんが陸軍航空隊入隊の際に智恵子さんに贈った『萬葉集』を拝見する機会を得ました。

驚いたことに、それは佐野保太郎(やすたろう)(高知高等学校長)・藤井寛『註解萬葉集』(藤井書店、1942、1943〈再版〉)でした。幕末の国学者鹿持雅澄(かもちまさずみ)の『萬葉集古義(こぎ)』の訓を本文に、全歌を一冊に収め、語義や訓の異同も注記する、A5判850頁からなる専門性の高い本です。

この本には智恵子さんによると思われる赤鉛筆の印や、黒の万年筆の印と書き込みがあります(もちろん968番歌には濃い赤鉛筆の印があり、索引で1805番歌の所を万年筆で二重に囲んでいます)。印の付けられた歌は、当時よく読まれた勇壮なものもありますが、その多くは〈待つ恋〉の歌です。

「自分の意志ではない人生」(『知覧からの手紙』)を生きる悲しみを、〈待つ恋〉の歌の嘆きと祈りに重ね合わせたのでしょう。

智恵子さんは2013年に永眠されました。今、戦争下の『萬葉集』を見つめ直すことの大切さを痛切に感じています。


*この記事は、青山学院大学日本文学会会員向けの『会報』第49号(2015年3月19日発行)に「戦争したの『萬葉集』」のタイトルで掲載されたものです。伊達智恵子さん愛蔵の『萬葉集』を拝見する機会を賜りました上、『青山学院大学日本文学会会報』へのその報告の掲載、その記事の、ブログ「万葉集と古代の巻物」への転載をお許しくださった水口文乃氏に、心より御礼申し上げます。
��穴沢利夫少尉は、昭和20年(1945)4月12日に出撃戦死しました。同年4月9日の日記と、16日に伊達智恵子さんのもとに届いた遺書には、出撃を前に読みたい本として、
  『萬葉集』
  『芭蕉句集』
  高村光太郎詩集『道程』(*大正3年〈1914〉10月、感情詩社刊)
  三好達治詩集『一点鐘』(*昭和16年〈1941〉10月、創元社刊)
  大木実詩集『故郷』(*昭和18年〈1943〉3月、桜井書店刊)
    *大木も海軍の兵士として出征しました。
      戦争の時代を、生活者として、自分の心に誠実に生きた詩人の、静かで感動的な作品集です。

が挙げられています(それらは、もはや穴沢少尉の手元から離れていました)。最後まで『萬葉集』を読みたいと願っていた穴沢少尉の心に、胸が痛みます。ご冥福を心よりお祈りします。(2015年4月12日記)

2014年8月3日日曜日

齋藤瀏『万葉名歌鑑賞』と検閲

萬葉名歌鑑賞1
(3種類の『万葉名歌鑑賞』。左から増補改訂版6版、増補改訂版初版、初版)

検閲を受けた額田王の歌の鑑賞

先の記事「1925~1945年の『万葉集』の鑑賞書」で、元陸軍軍人の歌人・齋藤瀏の『万葉名歌鑑賞』のついて、論文をまとめたことを記しました。

その後、歌人の内野光子氏の『短歌と天皇制』(風媒社、1988年)に収められた、昭和発禁歌集に関する精細な調査・研究を目にし、瀏の『万葉名歌鑑賞』も警察による削除処分の対象になっていたことを知りました。

内野氏の調査によれば、『改訂増補 万葉名歌鑑賞』(「増補 万葉名歌鑑賞」とも)は、1942年(昭和17)6月17日に100頁ほか3頁が削除の処分を受けています。

瀏の著書は他にも、歌文集『肉弾は歌ふ』(八雲書林、1939年12月25日刊)も1939年12月30日に削除の処分がなされています。内野氏は、戦時体制の一翼を担っていた瀏の「著書にすら検閲の眼は届き、削除処分に付したほど当局の力は絶対であった」と指摘しています(45頁)。

内野氏は、『改訂増補 万葉名歌鑑賞』の削除部分について、「額田王の章で、作品に触れて大海人皇子と天智天皇との関係が述べてられいる箇所と思われる」と述べましたが、削除前の版が未見のため、詳細は今後の課題とされました(46頁)。

そこで、私の手元にある『改訂増補 万葉名歌鑑賞』を確認しましたところ、初版と異同はありませんでした。それもそのはず、私の『改訂増補 万葉名歌鑑賞』は、検閲前の1942年5月10日発行の改訂増補版の初版であったからです。

急いで、検閲後の、1943年1月20日発行の改訂増補版の6版を入手しました。これを見て驚きました。

まず、奥付に記された発行部数です。

印刷 昭和17年5月5日
発行 昭和17年5月10日
再版 昭和17年6月25日 〔*検閲後の最初の版〕
��版 昭和17年7月10日(2,000部)
��版 昭和17年8月20日(2,000部)
��版 昭和17年12月1日(2,000部)
��版 昭和18年1月20日(3,000部)

1942年7月から半年の間に9,000部もが印刷されています。この時期には、ミッドウェー海戦での敗戦(6月5日~7日)、ガダルカナル島撤退の決定(12月31日、撤退は翌年2月から)などによって、太平洋戦争の戦局が決定的に変化しました。しかし、日本国民は多くを知らされぬまま、戦争の遂行を支えようとしていました。こうした状況の中で、『増補改訂 万葉名歌鑑賞』が人々の心を強く捉えていたことが窺えました。

そして、検閲による本文の変更は、確かに行われていました。変更箇所は、下に【資料】として示した通りです。変更は、どれも額田王の歌の解釈にかかわるものです(*『万葉集』の読み下しは、『増補改訂 万葉名歌鑑賞』に拠ります)。

あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる(巻1・20)
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠さふべしや(巻1・18)


瀏は、20番歌を、額田王の、大海人皇子を思慕した歌で、「野守」(野の番人)は天智天皇のことを暗示すると解釈しました。また、近江大津宮遷都の旅で、大和の三輪山に別れを告げる18番歌には、大海人皇子への別れを悲しむ心が裏にあると捉えました。三輪山を隠す「雲」は、やはり天智天皇を暗示しているととっています。つまり、瀏はこれらの歌に、額田王をめぐる天智天皇と大海人皇子の三角関係を見ようとしたのです。

検閲後には、三角関係にかかわる直接的な表現が、いちじるしく薄められ、全体的にぼんやりとしたものなっています。検閲した警察は、二人の天皇を巻き込んだ愛情関係をもつれを、はっきりと表現することを禁じたのでしょう。

しかし、検閲後のぼんやりとした6版でも、瀏が三角関係の解釈をとっていることは、明らかに読み取れます。検閲が、内容そのものというより、言い回しや表現の仕方にこだわった、形式主義的なものであったことがわかります。

『増補改訂 万葉名歌鑑賞』の変更箇所からは、「検閲」というものの忌まわしさと、些末さが、生々しく感じられます。そして、その些末さは、決してあなどれるものではないと思います。

萬葉名歌鑑賞2


【資料】齋藤瀏『増補改訂 万葉名歌鑑賞』の検閲による本文の変更
*字体は常用漢字体・通行字体に改めた。「/」は2行からなる注の改行箇所を示す。
��なお、初版の本文は、増補改訂版初版と同じ。


1.100頁7行目(額田王の巻1・20番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 額田王は鏡王女の妹で、大海人皇子の寵を受け、十市皇女を生み、後天智天皇に召された。
〔増補改訂版6版〕
 額田王は鏡王女の妹で、大海人皇子に知られて、十市皇女を生み、後天智天皇に召された。
※画像のように、6版の「知られて」が文字の軸は、行の軸から微妙にずれています。活字を植え直したことがわかります。
萬葉名歌鑑賞検閲前(増補訂正版6版)  萬葉名歌鑑賞検閲後(増補訂正版初版)


2.101頁6行目~13行目(6版では~14行目)(額田王の巻1・20番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 扨て此の歌で「君」は誰と言ふか。袂をふつたその君は誰か。それは恐らく天皇でなく、天皇に従つて居られた大海人皇子と見るべきであらう。野守は見ずや――誰か見とがめはせぬかと気遣ふのを見ると、どうしても、大海人皇子と見るのが適当である。従つて、「野守」も此の文字通り野の監視人かどうか、勿論監視人でもよいが、人払ひをした(標野)野である。額田王の心配なのは天皇であり、そのお付きの人々である。今日の此の野守り、――此の野の支配者――天皇――と通ふ所が無いだらうか。とすれば此の歌は益々よく判る。従つて大海人皇子の「むらさきの匂へる妹を憎くあらば人妻故にあれ恋ひめやも」の歌がなくとも、この歌は大海人皇子の愛の表現に対しての心遣ひの歌であることは疑ふ余地はないと思ふ。
〔増補改訂版6版〕
 扨て此の歌で「君」は誰を言ふか、袖をふつたその君は誰か、当時そこには、天皇も在らせられ、又天皇に御伴した、皇弟の大海人皇子も在らせられる。此の袖をふられた君を誰と決ること、そして野守は見ずやと気にかけて居る野守が、そこの標野の看視人か、又他の人かを決めること、その決め方が作者額田王の御心に合する時に、此の歌の生命が把握出来るのであらう。
 萬葉集には、皇太子(天智天皇の皇太子/即大海人皇子)の答へたまふと題して次の歌がある。
    紫(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人嬬(ひとづま)ゆゑに吾(われ)恋ひめやも
 此の歌で、妹とは額田王をさされたのである。当時額田王は 天皇召されて、此の野に御伴をされて居た。紫草のにほへる如き妹が憎いなら、人の嬬であるから恋ひはしないと言ふのである。この歌を以て前歌に答へられたのであるとすれば、前歌の心も自ら判るであらう。
※『増補改訂 万葉名歌鑑賞』は、1頁13行取りです。6版ではこの102頁と、次に挙げる104頁に限り、14行取りとなっています。また、6版では「天皇」の前が「欠字(けつじ)」(高位者への敬意を表すために、その名の上に1文字分程度のスペースを置くこと)となっています。

3.104頁12行目~105頁10行目(額田王の巻1・18番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 此の歌全般のリズムを味ふ時、そして此の歌の作歌動機に就きて思ひを深めると、表面は三輪山に名残を惜しんで居られるが、裏面は大海人皇子に寄する哀別の情がまぎれなく隠されて居(*』104頁)る。単なる三輪山に対しての情としては激切すぎる。「しかも」「隠す」「だにも」「あらなむ」「べしや」等の語の力を味ふとき、どうしてもこれを否定することは出来ぬと思ふ。
 実に此の歌は大海人皇子に対する心を眼前の景によつて表して居るが、私は更に「雲だにも心あらなむ」の句の雲、此の雲、今大海人皇子と額田王との別を余儀なくする雲と、かく思ひを及ぼす時、此の雲の裏には天智天皇が在すのではないかとさへ思ふのである。
 況んや天智天皇もお情ある方だ――さうむげに――だから、また逢ふこともあらう――。此のことは額田王の自慰となり、大海人皇子への慰めとなり、天智天皇への哀願となる。かく思ふことを許されるなら雲、だにもは重大な句である。
 額田王の苦しき立場、その立場から来る深刻複雑な心の動きが底にあつて、かゝる歌と現れたのではなからうか。強く胸に迫る歌である。
〔増補改訂版6版〕
 三輪山は、三輪川と穴師川との間で、今の三輪町の東にあり。穴師川を隔てて人麿の歌で知らるる、弓月嶽、纏向山に対して居る。此等は磯城、山辺両郡に属する大和平野の東部山岳地帯である。此の山岳地帯の根を紆余曲折、畝を越へ、河を渡つて、南北に連なる道が所謂山辺の道で(*』104頁)ある。
 此の道は、四道将軍の大彦の命や、丹波道主命も通り、或は此歌の作者額田王も、その泣きぬれた眼で、三輪山を振り帰り振り帰り眺めつつ、大津の宮へと旅ゆかせられたのではあるまいか。彼の人麿は妹を別を惜しんで
    石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 と詠んで居る。是は対照(ママ)が人であり、額田王の対照(ママ)は三輪山である。三輪山であるが、然し、眼は三輪山に向いて居て、心はどこに向いて居たであらう。此の激切な表現によつて見れば、単純に三輪に対しての情のみとは受け取り難いものがあると思ふ。
 此の歌はそれ故、額田王の苦しき立場、その立場から来る深刻複雑な心の動きが底にあつて、かゝる現表となつたものと思ふ。強く胸に迫る歌である。


2014年7月16日水曜日

小川町観光協会編『万葉うためぐり』

万葉うためぐり

“武蔵の小京都”埼玉県小川町と『万葉集』
��小川町観光協会編、小川靖彦監修・執筆、村永清・新田文子執筆『万葉うためぐり 学僧仙覚ゆかりの武蔵国小川町を歩く』笠間書院、四六判112頁〈オールカラー〉、2014年6月刊、900円〈税別〉)

2014年7月に、私も関わった『万葉うためぐり 学僧仙覚ゆかりの武蔵国小川町を歩く』が発売となりました。

このブログでたびたび紹介してきましたように、埼玉県比企郡小川町は、『万葉集』研究史の巨星である、鎌倉時代の学僧仙覚(せんがく)が、画期的注釈書『万葉集註釈』を完成した地です。

小川町は“武蔵の小京都”と言われ、豊かな自然に恵まれ、歴史がつちかったなつかしい風景があります。江戸時代から、紙漉き、養蚕と絹織物、酒造り、建具、そうめんなどの産業が栄えています。

この小川町で、昭和の初めに、国文学者・歌人の佐佐木信綱と町の人々が一体となって、仙覚の業績の顕彰に努めました。そして、今日では、町を挙げて、仙覚が生涯を捧げた『万葉集』の普及活動も進めています。

その一環として刊行されたのが、『万葉うためぐり 学僧仙覚ゆかりの武蔵国小川町を歩く』です。この本は、オールカラーで『万葉集』の歌73首の魅力と、仙覚の業績を、わかりやすく解説しています。そして、それぞれの歌の解説には、その歌にふさわしい、小川町の情景や花の写真、名産品などの写真や説明を添えています。

心癒されるこれらの写真が、不思議なほどに、『万葉集』の世界を身近に感じさせてくれます。そして、関東の小川町の自然を通してでも、万葉の心に触れることができることに、『万葉集』の世界のふところの深さを、改めて感じさせられます。

この本で解説されている73首の歌は、小川町の市街地に立てられた70本の「万葉モニュメント」に取り上げられている歌です。この本を手に、「万葉モニュメント」の立てられた、約2㎞の散歩道「仙覚万葉の里と散策の道」を歩いてみてはいかがでしょうか。ガイドとなる詳細な地図もついています。

なお、この本では、仙覚の和歌と、仙覚研究に関わる重要な研究文献も網羅して、掲載しています。仙覚が『万葉集註釈』を完成した比企郡北方麻師宇郷(ましうごう)政所(まんどころ)についての最新の研究情報も紹介しています。仙覚や和歌史、鎌倉時代の歴史に関心ある方々にも利用していただければ幸いです。


万葉うためぐり1 

【目次】
発刊に寄せて
○地図1 仙覚万葉の里と散策のみち ○地図2 小川町の情景を訪ねて ○主要交通機関からのアクセス


Ⅰ『万葉集』ゆかりの地小川へようこそ
1 小川町と『万葉集』
  (武蔵の小京都・小川 万葉学者仙覚ゆかりの地)
2 『万葉集』の世界
  (古代人の感性の宝庫 画期的書物 読み継がれる歴史)


Ⅱ小川町万葉うためぐり
「小川町・万葉うためぐり」への招待
1 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (巻1・八  額田王)
2 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (巻1・二〇  額田王)
3 紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも (巻1・二一  大海人皇子)
4 春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山 (巻1・二八  持統天皇)
5 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ (巻1・四八  柿本人麻呂)
6 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (巻1・五一  志貴皇子)
7 川の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は (巻1・五六  春日老)
8 葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ (巻1・六四  志貴皇子)
9 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ (巻2・八八  磐姫皇后)
10 我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後 (巻2・一〇三  天武天皇)
   我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ (巻2・一〇四  藤原夫人)
11 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし (巻2・一〇五  大伯皇女)
   百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻3・四一六  大津皇子)
12 人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る (巻2・一一六  但馬皇女)
13 笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば (巻2・一三三  柿本人麻呂)
14 岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む (巻2・一四一  有間皇子)
   家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (巻2・一四二  有間皇子)
15 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (巻2・一五八  高市皇子)
16 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なし (巻2・二三一  笠金村)
17 隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くもわれは 今日見つるかも (巻3・二四八  長田王)
18 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ (巻3・二五五  柿本人麻呂)
19 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ (巻3・二六六  柿本人麻呂)
20 桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る (巻3・二七一  高市黒人)
21 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (巻3・三一八  山部赤人)
22 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (巻3・三二八  小野老)
23 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ (巻3・三三七  山上憶良)
24 験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし (巻3・三三八  大伴旅人
25 君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く (巻4・四八八  額田王)
   風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ (巻4・四八九  鏡王女)
26 相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後方に 額つくごとし (巻4・六〇八  笠女郎
27 夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行ませ我が背子 その間にも見む (巻4・七〇九  大宅女)
28 銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも (巻5・八〇三  山上憶良)
29 梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ (巻5・八五二  大伴旅人)
30 若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (巻6・九一九  山部赤人)
31 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも (巻6・九二四  山部赤人)
   ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く (巻6・九二五  山部赤人)
32 道の辺の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや (巻7・一二五七  作者未詳)
33 月草に 衣は摺らむ 朝露に 濡れての後は うつろひぬとも (巻7・一三五一  作者未詳)
34 石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (巻8・一四一八  志貴皇子)
35 春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける (巻8・一四二四  山部赤人)
36 かはづ鳴く 神なび川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花 (巻8・一四三五  厚見王)
37 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ (巻8・一四六一  紀女郎)
38 夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ (巻8・一五〇〇  大伴坂上郎女)
39 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも (巻8・一五一一  舒明天皇)
40 彦星し 妻迎へ舟 漕ぎ出づらし 天の川原に 霧の立てるは (巻8・一五二七  山上憶良)
41 萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 (巻8・一五三八  山上憶良)
42 夕月夜 心もしのに 白露の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも (巻8・一五五二  湯原王)
43 常世辺に 住むべきものを 剣大刀 汝が心から おそやこの君 (巻9・一七四一  高橋虫麻呂)
44 埼玉の 小崎の沼に 鴨ぞ翼霧る 己が尾に 降り置ける霜を 掃ふとにあらし (巻9・一七四四  高橋虫麻呂)
45 春されば まづさきくさの 幸くあらば 後にも逢はむ な恋ひそ我妹 (巻10・一八九五  柿本人麻呂歌集)
46 道の辺の いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻は (巻11・二四八〇  柿本人麻呂歌集)
47 新室の 壁草刈りに いましたまはね 草のごと 寄り合ふ娘子は 君がまにまに (巻11・二三五一  柿本人麻呂歌集)
48 我が命し 衰へぬれば 白栲の 袖のなれにし 君をしぞ思ふ (巻12・二九五二  作者未詳)
49 磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ (巻13・三二五四  柿本人麻呂歌集)
50 筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも 愛しき子ろが 布乾さるかも (巻14・三三五一  東歌)
51 多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだ愛しき (巻14・三三七三  東歌)
52 君が行く 海辺の宿に 霧立たば 我が立ち嘆く 息と知りませ (巻15・三五八〇  作者未詳)
53 君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも (巻15・三七二四  狭野弟上娘子)
54 食薦敷き 青菜煮て来む 梁に 行縢懸けて 休めこの君 (巻16・三八二五  長意吉麻呂)
55 勝間田の 池は我知る 蓮なし しか言ふ君が 鬚なきごとし (巻16・三八三五  作者未詳)
56 織女し 舟乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ち渡る (巻17・三九〇〇  大伴家持)
57 天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金花咲く (巻18・四〇九七  大伴家持)
58 紅は うつろふものぞ 橡の なれにし衣に なほしかめやも (巻18・四一〇九  大伴家持)
59 春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子 (巻19・四一三九  大伴家持)
60 もののふの 八十娘子らが 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花 (巻19・四一四三  大伴家持)
61 朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人 (巻19・四一五〇  大伴家持)
62 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも (巻19・四二九〇  大伴家持)
63 我がやどの いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも (巻19・四二九一  大伴家持)
64 うらうらに 照れる春日に ひばり上り 心悲しも ひとりし思へば (巻19・四二九二  大伴家持)
65 韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして (巻20・四四〇一  他田舎人大島)
66 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず (巻20・四四二五  防人の妻)
67 あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ (巻20・四四四八  橘諸兄)
68 新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 (巻20・四五一六  大伴家持)


Ⅲ学僧仙覚と小川町
1 仙覚の生涯
   (幼くして研究を志す 校訂事業に加わる 研究に捧げた生涯)
2 仙覚の業績
   (厳格な本文校訂 漢字本文と緊密に対応した読み下し 初めての本格的注釈書)
3 仙覚の和歌
   仙覚略年譜(年齢は数え年)
4 『万葉集註釈』を完成した地―比企郡北方麻師宇郷政所
   (『万葉集註釈』の完成 比企郡北方麻師宇郷政所 信仰の地・比企郡)
5 小川町と仙覚を結んだ人々―佐佐木信綱が拓いた道
   (佐佐木信綱 石川巌 大塚仲太郎 認められた功績 仙覚への追贈)
6 小川町における仙覚顕彰
   (仙覚律師遺跡保存会と仙覚律師顕彰碑 仙覚律師贈位奉告祭と仙覚遺跡建碑式典
仙覚についての参考文献
監修者あとがき


             万葉うためぐり2

2014年6月24日火曜日

【資料】1925~1945年の『万葉集』鑑賞書

私は、このところ、近代日本における万葉集研究の歴史的検討を少しずつ進めています。万葉学者・歌学者で歌人の佐佐木信綱、その歌の門人で、元陸軍軍人の歌人の齋藤瀏(さいとう・りゅう)の万葉集研究について、いくつかの論文をまとめました。

齋藤瀏の万葉集研究は、「鑑賞」という形で進められました。瀏の「鑑賞」は、歌の〈しらべ〉を細密に読み解くすぐれたものでしたが、日中戦争の勃発後には、極めて国家主義的なものとなってゆきました。

近代的な万葉集研究にとって、「鑑賞」とは何か、という視点から、瀏の研究について検討を加えたのが、私の論文「齋藤瀏『万葉名歌鑑賞』をめぐって―近代的万葉集研究における「鑑賞」の行方―」(『青山学院大学文学部紀要』第55号、2014年3月刊)です。

この論をまとめるために、1925~1945年までに出版された、『万葉集』の「鑑賞」書と、それらと関わるとともに、この時代を色濃く反映する、『万葉集』に関わる書物の一覧表を作成しました。戦争の時代の中で、『万葉集』の「鑑賞」書が数多く出版されてゆくことが、わかります。論文にこの一覧表を掲載しましたが、このブログでも公開したいと思います。

*論文の一覧表を一部訂正したところがあります(配列を正しました。また、瀏の「日本の母名歌鑑賞」、鈴木敏也『萬葉摘英』を一覧表に加え、『増補 萬葉名歌鑑賞』の書名を奥付に従って『改訂増補 萬葉名歌鑑賞』としました)。

近代日本の万葉集研究については、まだ基礎となる情報の整備が十分に進んでいるとは言えません。この一覧表にもまだ見落があるかと思いますが、近代日本の万葉集研究を見渡すための、一助となれば幸いです。


1925~1945年の『万葉集』の「鑑賞」書年表(齋藤瀏『萬葉名歌鑑賞』に関わって)

    ■齋藤瀏の著書  ◆齋藤瀏の雑誌掲載鑑賞文  □その他の『万葉集』の「鑑賞」書
    ◇『万葉集』の「鑑賞」を収めた書物  ◎関連する重要な書物

1925(大正14)
□島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評 前編』岩波書店

1928(昭和3)済南事件
1930(昭和5)世界恐慌が日本にも及ぶ(昭和恐慌)
1931(昭和6)満州事変(柳条湖事件)
1932(昭和7)満州国建国/五・一五事件

1933(昭和8)国際連盟脱退、「栄光ある孤立へ」
◆齋藤瀏「萬葉名歌鑑賞(一)~(二十四)」「心の花」1月~9年12月
◎佐佐木信綱・藤村作・吉澤義則監修「萬葉集講座」(全六巻)、春陽堂、9月
□高田浪吉『萬葉集の鑑賞』巻第一・巻第二・巻第三、古今書院、8月、9年3月、9月
□丸穂満佐夫『作者別年代順・萬葉集の鑑賞』大久保正夫、11月

1934(昭和9)
◆齋藤瀏「名歌鑑賞(一)~(四)」(短歌初学講座)「日本短歌」9月~12月
□土屋文明『萬葉集名歌評釈』非凡閣、11月

1935(昭和10)国体明徴声明発表
◆齋藤瀏「続萬葉名歌鑑賞」「心の花」2月~5月
◇久松潜一『日本精神歌集』(日本精神叢書、文部省思想局編)、2月
■齋藤瀏『萬葉名歌鑑賞』人文書院、6月

1936(昭和11)二・二六事件/外務省が「大日本帝国」を日本の呼称とする
◎武田祐吉『萬葉集と忠君愛国』(日本精神叢書、文部省思想局編)、日本文化協会出版部、1月

1937(昭和12)盧溝橋事件、日中戦争始まる(7月7日)
◎久松潜一『萬葉集に現れたる日本精神』至文堂、1月
◎文部省『国体の本義』文部省、3月
◎武田祐吉『萬葉集と国民性』(日本精神叢書、文部省思想局編)、3月
□北原白秋・折口信夫編『萬葉恋愛歌読本』(鑑賞短歌大系)、学芸社、7月
◎中河與一『萬葉の精神』(「萬葉名歌解」も収録)、千倉書房、7月
□北原白秋・折口信夫編『東歌・大伴集』(鑑賞短歌大系)、学芸社、8月

1938(昭和13)国家総動員法成立/「東亜新秩序声明」発表
◎鴻巣盛広『萬葉精神』(日本精神叢書、教学局編)、6月
□簗瀬一雄『萬葉集の鑑賞』興文閣、10月
□斎藤茂吉『萬葉秀歌』岩波新書、岩波書店、11月

1939(昭和14)ドイツ、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦勃発/「朝鮮戸籍令改正」(創氏改名)(※この年から日本全体が皇国的に。「国民精神総動員」)
◆齋藤瀏「萬葉名歌鑑賞(一)~(二十一)」「短歌人」4月~16年2月
◎吉澤義則『大和魂と萬葉歌人』平凡社、5月

1940(昭和15)アメリカが屑鉄の日本輸出を禁止/日独伊三国軍事同盟調印/紀元二六〇〇年の大式典挙行

1941(昭和16)ドイツがソ連に侵攻/アメリカが在米日本資産凍結/日本軍、南部仏印進駐/アメリカが対日石油輸出全面禁止を通告/太平洋戦争開戦
□土屋文明『萬葉集小径』三学書房、6月
◆齋藤瀏「萬葉のこゝろ―国民文学としての萬葉集鑑賞」「婦人朝日」7月~17年3月
◇川田順『愛国百人一首』大日本雄弁会講談社、8月

1942(昭和17)日本文学報国会結成/ミッドウェー海戦で日本海軍大敗(6月5日~7日)
□橘宗利『萬葉短歌拾珠』加藤中道館、1月
□佐佐木信綱・今井福治郎『萬葉集防人歌の鑑賞』有精堂、4月
◎実方清・森本治吉他『萬葉集の倫理(皇国文学)』六藝社、4月
■齋藤瀏『改訂増補 萬葉名歌鑑賞』人文書院、5月
■齋藤瀏『萬葉のこゝろ』朝日新聞社、5月
◎保田與重郎『萬葉集の精神 その成立と大伴家持』筑摩書房、6月
■齋藤瀏『防人の歌』東京堂、6月
□武田祐吉『勤皇秀歌・萬葉時代篇』聖紀書房、6月
■齋藤瀏「日本の母名歌鑑賞 一~六」「少国民文化」7月~12月
□小林一郎『萬葉集愛国歌抄』(皇国精神講座)、平凡社、8月
□美夫君志会編『萬葉秀歌鑑賞』正文館、11月
□鈴木敏也『萬葉摘英』弘道館、12月

1943(昭和18)ガダルカナル島の戦いで敗北/「撃してしやまむ」の決戦標語
□森本治吉『萬葉精粋の鑑賞』大日本雄弁会講談社、1月
□澤瀉久孝『萬葉佳品抄』全国書房、3月
◇日本文学報国会編『定本愛国百人一首解説』毎日新聞社、7月
◎武田祐吉『萬葉精神』上巻、湯川弘文社、7月

1944(昭和19)サイパン島陥落/学童疎開始まる
1945(昭和20)東京大空襲/ドイツ降伏/広島・長崎に原子爆弾投下/ソ連、満州に侵攻/ポツダム宣言受諾


*歴史的出来事については、半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー、平凡社、2009〈初版第1刷〉、2011〈初版第10刷〉)、有馬学『帝国の昭和』(日本の歴史23、講談社学術文庫、講談社、2010)などによった。