私たちは、『万葉集』などの古典文学の「本文」を固定的なもの、不変のものと考えがちです。しかし、書物学の立場では、古典文学の「本文」とは、書や版木・活字、そして、「書物」の素材・装丁・レイアウトによって、その都度、姿を与えられるもの、と考えます。「書物」の外形に応じて変化してゆくものが、「本文」であると捉えるのです。
ここでいう“「書物」の外形”とは、単に物質的(フィジカル)なものをさすのではありません。書写者の美意識や、編集者の判断、その「書物」の制作を命じた人の意図、時代の要請、またはもっと漠然とした時代の雰囲気なども含みます。
最近、日本近現代詩の「本文」について調べる機会がありました。最初に発表された雑誌、最初に収められた詩集、再版本、再編成されたその詩人の個人詩集、晩年の全詩集などの間で、「本文」が大きく揺れていることに、驚かされました。
詩のことば自体が、変わっていることもあります。しかし、それだけではなく、句読点、スペース、空行(連分け)、漢字表記(漢字にするか平仮名にするか、どの漢字にするか)、送り仮名、振り仮名などの細かい点にも、変化がありました。
その異同をきちんと記録しようとすると、古典文学の場合よりも難しいと言えます。そして、それらのさまざまな「本文」を見比べていると、どれか一つが“正しい本文”であるとは思えなくなります。その時々の、作者の意図や、編集者・印刷者の意識、さらにその背後にある「時代」を反映したものとして、それぞれ独自の価値を持っているのです。
今回の調査の中で、最も深い感銘を受けたのは、大木惇夫(おおき・あつお1895~1977)の詩集『海原にありて歌へる』の「本文」です。北原白秋に師事して、詩を制作していた大木は、太平洋戦争で海軍報道班員として、ジャワ島攻略戦に従軍しました。その経験を作品化した詩を集めて出版したのが、詩集『海原にありて歌へる』です。
大木はこの詩集によって、日本文学報国会から第一回大東亜文学次賞を受け、一躍、「戦争詩」「愛国詩」の名手として、人気を博することになりました。そのため、戦後には、文学者たちから戦争協力者として烈しく批判され、今日では、詩人としてのその名は忘れられています。
実は、詩集『海原にありて歌へる』には、1942年(昭和17)11月1日にジャカルタのアジヤ・ラヤ出版部が刊行した現地版と、1943年4月10日にアルスが刊行した国内版の二つがあります。日本国内で人気を博したのは、国内版の方です。そして、『大木惇夫全詩集』(金園社、1969、復刻版・1999)に収められているのも国内版だけです。
ところが、現地版と国内版とで「本文」が大きく違っているのです。その典型が、「椰子樹下に立ちて」という作品です(活字の種類・大きさ、細かいレイアウトなどの違いは、省略します。旧漢字は新字体に直しました。行頭の番号は引用者)。
【現地版】
椰子樹下に立ちて
××の宿営にて
1 極まれば死もまたかるし
2 生くること何ぞ重きや、
3 大いなる一つに帰る
4 永遠(とは)の道たゞ明るし。
5 仰ぐ空、青の極みゆ
6 ちり落つる花粉か、あらぬ
7 椰子の芽の黄なる、ほのなる
8 ほろほろとしづこゝろなし。
【国内版】
椰子樹下に立ちて
ラグサウーランの丘にて
1 極まれば、死もまた軽し、
2 生くること何ぞ重きや、
3 大いなる一つに帰る
4 永遠(とは)の道ただに明るし。
5 わが剣(けん)は海に沈めど
6 この心、天をつらぬく。
7 明(あ)かる妙(たへ)、雲湧く下(もと)に
8 散り落つる花粉か、あらぬ
9 椰子の芽の黄なる、ほのなる
10 ほろほろと、しづこころなし。
大木は、ジャワ島バンダム湾で、味方の魚雷の誤射によって乗船していた佐倉丸が沈没し、海に投げ出されました。この「椰子樹下にて」は、九死に一生を得た大木が、ジャワの美しい風景の中で、生きる喜びに満たされ、「死」も永遠に連なるもの、と悟った作品です(国内版の末尾に大木自身による解説が付いています)。
現地版5~6行の、極まりない空の青さと、その中を椰子の黄色い花粉が散り落ちるという情景は、「生と死」と超えたものを感じさせます。
ところが、この情景が国内版では、5~6行のような壮士的述懐のことばと、7行のような
「日本神話」的な情景に、大きく変えられています。
確かに、国内版の「本文」で読むと「椰子樹下に立ちて」は、「戦争詩」であると言えます。しかし、現地版では、南国の明るい自然の中で「生と死」を感得した作品となっています。
大木の詩集『海原にありて歌へる』は、戦争下では、もっぱら国内版で読まれ、また最近の研究も、国内版によって進められているようです。現地版は、私の知る範囲では、現在公共図書館・大学図書館では国立国会図書館(デジタルコレクション)と岐阜県図書館の蔵書があるのみです。
現地版と国内版の「本文」を詳細に比較することで、大木の詩の基層にある高い抒情性、その抒情性を大木が戦時体制とどのように融和させていったか、なぜ国内版がそれほどまでに銃後の人々に訴えかける力を持ったかが、明らかになるように思います。