2015年4月11日土曜日
陸軍特別攻撃隊員・穴沢利夫少尉が婚約者に贈った『萬葉集』
(水口文乃『知覧からの手紙』新潮文庫、新潮社、2010年)
戦争下の『萬葉集』
『萬葉集』の近代
2014年4月に、私は『万葉集と日本人』(角川選書)を上梓しました。平安時代から近代まで、『萬葉集』がどのように読み継がれてきたかを考察した本です。
考察を進める中で胸をしめつけられたのが、近代日本における『萬葉集』の受容でした。明治時代に“『萬葉集』は日本人の祖先が、天皇から庶民に至るまで、素朴な心をありのままに強い調べで歌った「国民的歌集」”とされました。そして、日中戦争・太平洋戦争時には、『萬葉集』は「国民」の心を支える歌集となってゆきました。
『萬葉集』は政府と軍によって戦意高揚のために政治利用されました。しかし、それだけはでなく、戦争下を生きる人々の心の深いところにまで関わっていたのです。
特攻と『萬葉集』
それを教えてくれたのが、水口文乃(みづぐちふみの)氏の『知覧からの手紙』(新潮文庫、2010)です。昭和18年(1943)10月に志願して陸軍航空隊に入隊し、20年4月の沖縄特攻に出撃して帰らぬ人となった学徒出身の少尉穴沢利夫(あなざわとしお)さんと、婚約者伊達智恵子(だてちえこ)さんの戦争下の生を、智恵子さんのことばをベースに描いた労作です。
ふたりの心を支え、結び付けていたのが『萬葉集』です。穴沢さんは陸軍合格を伝える手紙で、喜びの中にも智恵子さんを想い揺れる心を大伴旅人(おおとものたびと)の「ますらをと 思へる吾や 水(みづ)茎(くき)の 水城(みづき)の上に 涕(たみた)拭(のご)はむ」(巻6・968)に託しました。
特攻隊に指名された穴沢さんを訪ねて詠んだ、来世での再会を希(ねが)う智恵子さんの絶唱、
わかれてもまたもあふべくおもほへ(ママ)ば心充(み)たされてわが恋かなし
(来世への希(ねが)ひ)
は、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌「別れても 復(また)も逢ふべく 思ほえば 心乱れて 吾(あれ)恋ひめやも」(巻9・1805)を踏まえたものです。
『註解萬葉集』
水口氏のご厚意で、穴沢さんが陸軍航空隊入隊の際に智恵子さんに贈った『萬葉集』を拝見する機会を得ました。
驚いたことに、それは佐野保太郎(やすたろう)(高知高等学校長)・藤井寛『註解萬葉集』(藤井書店、1942、1943〈再版〉)でした。幕末の国学者鹿持雅澄(かもちまさずみ)の『萬葉集古義(こぎ)』の訓を本文に、全歌を一冊に収め、語義や訓の異同も注記する、A5判850頁からなる専門性の高い本です。
この本には智恵子さんによると思われる赤鉛筆の印や、黒の万年筆の印と書き込みがあります(もちろん968番歌には濃い赤鉛筆の印があり、索引で1805番歌の所を万年筆で二重に囲んでいます)。印の付けられた歌は、当時よく読まれた勇壮なものもありますが、その多くは〈待つ恋〉の歌です。
「自分の意志ではない人生」(『知覧からの手紙』)を生きる悲しみを、〈待つ恋〉の歌の嘆きと祈りに重ね合わせたのでしょう。
智恵子さんは2013年に永眠されました。今、戦争下の『萬葉集』を見つめ直すことの大切さを痛切に感じています。
*この記事は、青山学院大学日本文学会会員向けの『会報』第49号(2015年3月19日発行)に「戦争したの『萬葉集』」のタイトルで掲載されたものです。伊達智恵子さん愛蔵の『萬葉集』を拝見する機会を賜りました上、『青山学院大学日本文学会会報』へのその報告の掲載、その記事の、ブログ「万葉集と古代の巻物」への転載をお許しくださった水口文乃氏に、心より御礼申し上げます。
��穴沢利夫少尉は、昭和20年(1945)4月12日に出撃戦死しました。同年4月9日の日記と、16日に伊達智恵子さんのもとに届いた遺書には、出撃を前に読みたい本として、
『萬葉集』
『芭蕉句集』
高村光太郎詩集『道程』(*大正3年〈1914〉10月、感情詩社刊)
三好達治詩集『一点鐘』(*昭和16年〈1941〉10月、創元社刊)
大木実詩集『故郷』(*昭和18年〈1943〉3月、桜井書店刊)
*大木も海軍の兵士として出征しました。
戦争の時代を、生活者として、自分の心に誠実に生きた詩人の、静かで感動的な作品集です。
が挙げられています(それらは、もはや穴沢少尉の手元から離れていました)。最後まで『萬葉集』を読みたいと願っていた穴沢少尉の心に、胸が痛みます。ご冥福を心よりお祈りします。(2015年4月12日記)
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