2007年11月30日金曜日

アジサイの学舎にて

アジサイの校章

11月29日(木)に、千葉県立津田沼高等学校で、『万葉集』と書物について、お話する機会を得ました。高校2年生を対象とする、模擬授業・学部説明会に参加しました。

津田沼高校は、アジサイの花を校章としています。アジサイは、『万葉集』にも、2首詠まれています。

 あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ
 (あぢさゐの やへさくごとく やつよにを いませわがせこ みつつしのはむ)
                               (巻20・4448)橘諸兄
 〔訳〕アジサイが重なり合って咲くように、いつまでもいつもでも長生きしてください。
 わが君(宴の主人の、丹比国人〈たじひのくにひと〉)。アジサイを見るたびに、
 わが君のことを思いましょう。

珍しい、センスあふれる校章と思いました。

授業は、『万葉集』巻一巻頭の雄略天皇の歌のことばを、味わい、さらに巻子本という形態を手懸かりに、この歌が巻頭に置かれた意味を考えるものでした。やや欲張りすぎて、高校生には少し難しかったようです。

しかし、110分の間、静かに耳を傾け、私の質問についても、一生懸命考えてくれました。たった17句の歌のなかに、たくさんの意味が込められていることに驚いた、などの深い感想も聞かれました。

それにしても、中学生・高校生などの、若い人々が、古典に接する機会が減っていることを、改めて残念に思いました。

社会の動きが速くなる中、大人は、若い人々に、ついつい、明日の安定や、目に見える技術を、求めがちになっています。若い人々が、古典、文学、ことば、また文化を学ぶことの意義について、じっくり考えることが、できにくくなっているようです。

短い時間でしたが、津田沼高校の皆さんが、すこし立ち止まって、人間やことばについて、考えるきっかけとしてくれたならば、嬉しい限りです。 


2007年11月28日水曜日

万葉集巻一の読み手

持統天皇系皇統系図

声と文字の間
��この記事は「万葉集巻一の書記法(2)」に続きます)

『万葉集』巻1原撰部には、漢字の視覚的印象を大胆に利用した表記が見られます。先の記事「万葉集巻一の書記法(2)」では、筆録者が、その歌を「記憶」していたために、思い切った表記ができたことを、指摘しました。

それでは、「書物」としての巻1原撰部は、巻1原撰部成立まもない頃には、どのように読まれていたのでしょうか。

予備知識を持たずに、いきなり巻1原撰部を読むことは、できなかったと思います。巻1原撰部を読むためには、そこに収められている歌について、知識を持ち、それらの歌をある程度暗記をしていることが、必要であったでしょう。

一方、この頃の歌が、声に出して詠まれ、暗記されるものとしての性格を強く持っていたことも、先の記事「万葉集巻一の書記法(2)」に記しました。

しかし、たとえ、巻1原撰部に収められていた歌を暗記していたとしても、文字に習熟した上、漢字に関する充分な知識がない場合には、読むことは、著しく困難であったと思います。特異な表記を織り交ぜながら、連続していく漢字は、解読不能な暗号のように見えたことでしょう。

さらに、『万葉集』巻1原撰部は、単に秀歌を集めたものではなく、「書物」としての主張と、それを支える、組織立ったフォルム(形式)を持っています。巻1原撰部は、「標目」を立てて、天皇の治世ごとに、歌をまとめています。
(*『万葉集』のフォルムについては、別の記事でわかりやすく解説します。)

しかも、古代の、全ての天皇代を網羅するのではありません。まず、5世紀の雄略天皇の治世を冒頭に据えます。次に、一気に約170年の時間を飛び越え、舒明天皇、そしてその皇后・皇極天皇夫妻の治世を示します。以後、夫妻の血筋を引く、天智天皇、天武天皇、持統天皇の治世下の歌を、掲げてゆきます。

巻1原撰部は、雄略天皇を《始祖》と仰ぎ、舒明天皇を《父祖》として、持統天皇、そしてその皇孫(軽皇子。かるのみこ。後の文武天皇)に至る皇統の、輝かしい《歴史》を、歌によって示す「書物」となっています。

このような巻1原撰部の、「書物」としての主張にも注目するならば、巻1原撰部は、歌を記憶しているとともに、漢字の知識も充分に持ち、漢字本文を見れば、直ちに、細部まで正確に再生できる、専門的な読み手によって、宮廷の人々の前で、よどみなく、朗々と読み上げられた考えられます。

巧みな朗読者によって、巻1原撰部の歌が連続的に読み上げられてゆく中、聞き手たちは、《歴史》を共有し、舒明天皇から持統天皇・軽皇子に至る皇統の神聖さを、強く心に刻み付けたことでしょう。

そして、思い切った表記によって、中国の詩文集に匹敵するような格の高さを与えられた、「書物」としての巻1原撰部は、内裏の、天皇の文庫に置かれたかと、想像されます。

*文字と声とが重なり合う次元は、古代ローマの詩の場合にも考えられます。アウグストゥス帝時代に、詩人は、作品を秘書に口述筆記させた上で、さらに記憶の助けを借りながら(また秘書にプロンプターの役割もさせながら)、作品を朗誦しつつ、文字テキストを完成されたものに、練り上げてゆきました(ケネス・クィン氏)。

��主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.小川靖彦「書物としての万葉集」『[必携]万葉集を読むための基礎百科』別冊国文学№55、学燈社、2002年11月
��.Quinn, Kenneth. "The Poet and His Audience in the Augustan Age."Aufstieg und Niedergang der römichen Welt Ⅱ, Principat, 30.1 (1981).


2007年11月25日日曜日

万葉集巻一の書記法(2)

阿騎野の歌短歌

大胆な表記を支える「記憶」
��この記事は「万葉集巻一の書記法(1)」に続きます)

『万葉集』巻1原撰部には、漢字の視覚的印象を大胆に利用した表記が、しばしば見られます。

先の記事「万葉集巻一の書記法(1)」では、中大兄の三山歌を例に挙げましたが、柿本人麻呂の、著名な歌である、阿騎野の歌の第三反歌・48番歌もそうです。上にその漢字本文を示しました。今日では、この歌は、


 ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

と、一般に、読み下されています。しかし、実は、この読み下し方も、一案に過ぎず、本当にどのように読み下せばよいのかは、わかっていません。

この歌では、極端なまでに、助詞・助動詞・活用語尾の類の表記を、省略しています。そして、「東野炎」「月西渡」と、東西の情景が、ダイナミックに対照させられ、この歌固有の、空間の広大さが、文字の上で、具体的に示されます。

漢字が、歌の〈ことば〉から大胆に離れているために、今日の万葉学の知識をもってしても、正確には、読み下せないのです。

このような表記が可能であった条件として、巻1原撰部が編集された時期には、歌が、声に出して詠まれるものとしての性格を、なお強く持っていたことが、考えられます。

声に出して詠まれた歌は、その場限りのものとして、消えてしまうのではなく、暗記され、必要な時に、繰り返し、読み上げられたことでしょう。

筆録者も、歌を暗記していたからこそ、安心して、思い切った表記ができたに相違ありません。

さらに、この条件に、「書物」としての巻子本の特徴が、重なりました。当時の「書物」のあり方によれば、巻1原撰部は、草稿として断片のままであったのではなく、巻子本に仕立てられたと思われます。

洋の東西を問わず、巻子本は、句読点も付けず、分かち書きもせずに、連続的に文字を記すものでした。それは、巻子本が、連続したひとまとまりの内容を、連続したままに記録することをめざしたメディア(媒体)であったからです(森縣氏)。

巻子本を読み、その内容を理解するためには、音読することが必要でした。巻子本という「書物」は、「声」と深く関わるものでした。

このような巻子本を、初めて読もうとする時、途中から読むことは、容易ではありません。巻子本は、本来、冒頭から末尾まで読み通さなければならないものです。

しかし、現代の「書物」と異なり、巻子本の数は多くありません。巻子本は、繰り返し読まれ、そこに記された文章は、暗誦できるほとに記憶されたことでしょう。その巻子本に習熟した読み手ならば、途中から読み始めることもできたでしょう。

巻子本は、「記憶」とも深く関わっていました。

巻1原撰部の編者は、このような巻子本の特徴にも支えられながら、大胆な表記を試み、それを歌の「書記法」と言えるものにまで、仕上げてゆきました。

それでは、このような巻1原撰部は、実際に、どのように読まれ、また扱われたのでしょうか。そこには、興味深い、文字と記憶の関わり方があるように思われます。私たちは、口誦と記載、または声と文字を対立的に捉えがちですが、その両方が重なり合う次元というものが、存在したようです。これについては、次の記事に、詳しく書きます。


*古代ギリシアでは、紀元前4世紀第2半期から、文学作品を記すパピルスに、句読点が現れますが、句読法が体系的なものに発達するのは、ローマのハドリアヌス帝時代(76~136)です(ルドルフ・フェイファー氏)。敦煌発見の漢文文献では、民間に通用していた写本には、句点も多く見られます(池田温氏)。しかし、正式な「書物」である仏典は、句点を施さないのが、原則でした。『摩訶般若波羅蜜経』巻第12(S.2133)などは、例外です。

[主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.森縣「書物の構造について」『汲古』第32号、汲古書院、1998年1月
��.Pheiffer, Rudolf. History of Classical Scholarship: From the Beginnig to the End of the Hellenistic Age. Oxford: Oxford University Press, 1968.
��.池田温『敦煌文書の世界』名著刊行会、2003年


2007年11月22日木曜日

万葉集巻一の書記法(1)

中大兄三山歌

漢字の表現力を用いた大胆な表記

『万葉集』は、やまと歌を漢字で書き記しています。『万葉集』の前後から、金石文・木簡などで、漢字を用いて、「日本語」を書き記すことが始まります。これらに比べて、『万葉集』の書記法は、極めて多彩で、複雑なものとなっています。

その中でも、もっとも複雑なものの一つが、巻1の書記法です。巻1は、『万葉集』20巻の中で、まず最初に成立した巻です。さらに、今日見る巻1の原形となった部分(原撰部。1番歌~53番歌)は、持統朝の末期から文武朝の初期に成立したと推定されます。

この巻1原撰部には、漢字と、その漢字が表す歌の〈ことば〉が、単純に対応していない例が、しばしば見られます。

例えば、上に掲げた中大兄(なかのおおえ。後の天智天皇)の三山歌(13~15番歌)の長歌の漢字本文が表している〈ことば〉を、平仮名で示すと次のようになります(上の写真と同じところで、改行してあります)。


 かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひ
 き かむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれ
 こそ うつせみも つまを あらそふらしき

 (香具山は、畝傍山を男らしいと思って、耳成山と争った。神の時代から、こうであるに違いない。
 むかしもこうで あるからこそ、今の世の人も、夫をめぐって、争いをするのに違いない。)


(*なお、この歌を筆録した、巻1原撰部の編者は、畝傍山を「雄男志」と表記していることから、二人の女性が、一人の男性を争ったことを詠んだ歌と解釈していたと考えられます。詳細は別の機会に記します。

上の2行目の「諍競」の2文字が、『あらそふ』(ここでは、連用形「あらそひ」)という1語を表しています。また4行目の「相挌」の2文字も、『あらそふ』の1語を表しています。「相」に対応する〈ことば〉は、ありません。

これらが、ともに「争」の文字で書かれていたならば、誰も迷うことなく、『あらそふ』と読み下すことができます。そうではなく、〈ことば〉と、直ちには対応しない、―一瞬どのように読み下せばよいのか、と戸惑うような漢字で、書き記されていることには、それなりの理由と、それを可能にする条件があったと思われます。

この三山歌を、文字に書き記したのは、作者の天智天皇ではありません。天智天皇の時代には、やまと歌を、漢字で書き記すことは、まだ行われていませんでした。

7世紀の末、初めて公的なやまと歌集を編集しようとした、巻1原撰部の編者は、口誦で伝えられて来た三山歌を収録するにあたり、ただ文字に起すのではなく、この歌に“漢字で記された歌”として、ふさわしい姿を与えようとしたのでしょう。

「諍競」は、『大宝積経』『法集経』『瑜伽師地論』などに見える仏典語で、煩悩による争いを表します。「挌」は、小島憲之氏によれば、「闘」と同じ意味です。「相」が添えられることで、互いに闘う意、打ち合う意となります。

これらの漢字は、香具山と耳成山が、ともに譲らず激しく争うさまを、強烈に印象付けるものとなっています。この歌の持っている力強さを、文字の上でも定着することを、編者はめざしたのでしょう。

そして、このような漢語的表記を駆使することで、「書物」としての巻1原撰部に、中国の詩文集と肩を並べるような、格の高さを与えようとしたのでしょう。

さらに、巻1原撰部が編集された時期には、こうした思い切った表記を、可能にするだけの条件がありました。これについては、次の記事で、詳しく記します。


��主な参考文献]
��.小川靖彦「万葉集の文字と書物」『国文学』第48巻第14号、学燈社、2003年12月
��.小島憲之「万葉用字考証実例(一)―原本系『玉篇』との関聯に於て―」『万葉集研究』第2集、塙書房、1973年


2007年11月15日木曜日

湘南の万葉学

湘南の万葉学

湘南の地は、『万葉集』と深い関わりがあります。「仙覚律師の踏みあと」「仙覚の万葉学と由阿」のふたつの記事で、その一端を紹介いたしましたが、この関わりは、あまり広くは知られていません。

是非、神奈川に住む皆さんを中心に、湘南における輝かしい万葉学の歴史を知っていただきたいと思い、3年前に、朝日カルチャーセンター・湘南で「湘南の万葉学を歩く―仙覚と由阿の踏みあとを訪ねて」という公開講座を開きました。

妙本寺、遊行寺の皆様のご協力も得ながら、仙覚と由阿ゆかりの地を、多くの参加者の皆さんとともに散策しました。本当に楽しい、秋の半日でした。

「仙覚律師の踏みあと」「仙覚の万葉学と由阿」のふたつの記事は、この時の印象を下地にしています。実際に、その地を訪ねてみると、たくさんの発見があります。足で歩き、その地の光と空気を感ずることの大切さを、改めて認識しました。

そして、何よりも、熱意あふれる皆さんとともに、先人たちの踏みあとを、生き生きと感じられたのが、最大の収穫でした。

この他、東国には、

 ・埼玉県小川町 (仙覚が『万葉集註釈』を完成)
 ・茨城県行方郡 (『万葉集註釈』に、この地の詳細な情報を記す。なお仙覚は常陸国生まれ)
 ・神奈川県南足柄市関本 (仙覚はこの地で、実地調査を行う)

など、仙覚に関わる土地が、まだまだあります。また、鎌倉には、由阿の歌の師・冷泉為相(れいぜい・ためすけ)ゆかりの地もあります。そして、もちろん、『万葉集』の東歌には多くの土地が詠まれています。

東国の万葉学ゆかりの地に住まう皆さんに、もっともっと万葉学や、『万葉集』について知っていただき、そして『万葉集』のサポーターになっていただきたいという思いを、ますます強くしております。


��湘南のゆかりの東歌から


 まかなしみ さ寝に我は行く 鎌倉の 美奈能瀬川に 潮満つなむか (巻14・3366)
 (まかなしみ さねにわはゆく かまくらの みなのせがはに しほみつなむか)

 *美奈能瀬川=鎌倉大仏の東を流れる稲瀬川。

2007年11月14日水曜日

仙覚の萬葉学と由阿(藤沢・遊行寺)

遊行寺に銀杏
(写真=遊行寺境内の銀杏の大樹)

湘南の明るさのなかで

JR・小田急藤沢駅から、北東に20分ほど歩くと、時宗総本山・遊行寺(清浄光寺)があります。遊行四代の呑海上人(どんかい・しょうにん)が開いた、この遊行寺の境内には、不思議な解放感があります。それは、海に近い、湘南の地特有の、光の明るさと、踊念仏の弾むような心持ちとが、生み出しているものなのでしょうか。

南北朝時代に、遊行寺に住まった由阿(ゆうあ)が、関東で育まれた、仙覚の万葉学を都に伝えることになります。

由阿が生まれたのは、仙覚が史料から姿を消してから18年後の、正応4年(1291)です。家系・出生地などは不明です。時宗のニ祖他阿真教上人(たあ・しんぎょう・しょうにん)の『他阿上人法語』の中に、青年時代の由阿が姿を見せます。

*高野修氏は、由阿が呑海上人に従って関東に下向し、「客衆」という制約の少ない身分で、和歌の研究に専念したと推測しています。

由阿は、時宗に深く帰依しつつ、和歌・連歌を学び、さらに『万葉集』について、研鑽を積みました。由阿の学芸を導いたのは、関東で過ごすことの多かった歌人・冷泉為相(れいぜい・ためすけ)であったと思われます。

『万葉集』についても、仙覚の注釈書『万葉集註釈』から多くを学ぶ一方、為相を通じて伝えられた仙覚の学説も学んだようです。

貞治5年(1366)、76歳の時に、由阿は、関白・二条良基(よしもと)の招きによって、都に上り、良基に『万葉集』を講義するという、栄えある機会を得ました。由阿は、長年の研究成果を『詞林采葉抄』(しりんさいようしょう)という書物にまとめ、良基に献上しました。

『万葉集』に見える地名・枕詞・難語について、平安後期以来の、都の歌学の成果と、仙覚の研究成果を集大成しつつ、故事を広く尋ね、細密な考証を加えた『詞林采葉抄』は、まさに「万葉ことば百科辞典」と言えるものです。

そして、この書を携えて上洛した由阿は、自分が、仙覚の万葉学の、唯一の正統な後継者であることを宣言しました。以後「仙覚・由阿の万葉学」は、都で燎原の火のように広がってゆきました。

*由阿は、本来、仙覚の万葉学の嫡流ではありませんでした。仙覚の学問や書物を受け継いだ人々は別にいたようです。

しかし、「仙覚・由阿の万葉学」からは、仙覚の万葉学に特徴的な、深遠で厳しく、しかし難解な哲学的性格は、失われてゆくことになりました。学問というものの歩みの不思議さが、思われます。
[主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年
��.小島憲之「由阿・良基とその著書―中世萬葉学の一面―」『萬葉集大成』第2巻〈文献篇〉、1953年、1986年(新装復刊)
��.濱口博章『中世和歌の研究 資料と考証』新典社、1990年
��.祢田修然・高野修『遊行・藤沢歴代上人史―時宗七百年史―』白金叢書、松秀寺、1989年
��.高野修『時宗教団史―時衆の歴史と文化―』岩田書院、2003年

【案 内】
総本山 遊行寺(藤澤山無量光院 清浄光院〈とうたくさん・むりょうこういん・しょうじょうこういん〉)
 〒251-0001 神奈川県藤沢市西富1-8-1


*境内にある宝物館もお訪ねください。開館は日曜日の午前10時から午後4時までです。『詞林采葉抄』の写本が展示されることもあります。
��参道脇の真徳寺もご参拝ください。遊行寺の塔頭(たっちゅう。本寺境内にある小寺院)で、真光院を、真徳院は受け継いでいます。遠山元浩師によれば、真光院では、連歌を中心とする活発な文学活動が行われており、由阿もここに住した可能性があります。


2007年11月8日木曜日

仙覚律師の踏みあと(鎌倉・妙本寺)

万葉集研究遺蹟碑文
(写真=万葉集研究遺蹟碑)

鎌倉の都の中の静寂

JR鎌倉駅東口から、ほど近いところに、日蓮宗の寺院・妙本寺(みょうほんじ)があります。緑豊かな、上り坂の、長い参道をしばらく進んでゆくと、視界が開け、祖師堂が目に飛び込んできます。

祖師堂の左の方に、写真のような石碑があることに、気づかれたでしょうか。石碑は、この地で、『万葉集』の研究にいそしんだ仙覚律師(せんがく・りっし)を顕彰するために、昭和5年(1930)に建立されたものです。

この「万葉集研究遺蹟碑」の脇の道を上ってゆくと、鎌倉将軍九条頼経(よりつね)の妻・竹御所(たけのごしょ。第二代将軍源頼家の娘、〔よし〕〈女偏に美〉子)の墓所があります。

この場所には、竹御所の菩提を弔うために、かつて「新釈迦堂」という、天台宗の寺院がありました。仙覚は、この「新釈迦堂」の住僧であったと思われます。

『万葉集』を、現代の私たちが読むことができるのは、『万葉集』が成立してから、1200年にわたって、この歌集を大切に思い、書写をし、また人に伝え、さらに研究に励んできた、たくさんの人々の力によります。

その中でも、最も大きな役割を果たしたのが、鎌倉時代の学僧・仙覚です。仙覚は、『万葉集』の貴重な写本12本を比較検討しつつ、最新の研究成果を盛り込んだ、『万葉集』の校訂本を完成しました。

もしこの校訂本が作られなかったならば、私たちは、『万葉集』の全貌を知ることができなかったかもしれません。というのも、現存する平安時代の写本、また仙覚の手を経ていない、鎌倉時代以後の写本で、20巻約4500首全てを、完全に伝えるものはないからです。

寛元4年(1246)12月22日に、44歳の仙覚は、「相州鎌倉比企谷新釈迦堂」で、最初の校訂本を書写し終えました(翌年に、最終的な点検をし完成)。以後、文永十年(1273)頃に没するまでに(この年、71歳)、より精度を高めた校訂本を何度も作成しました。

*寛元5年完成本の時点では、7本を比較しています。後に合計12本を見ることになります。

仙覚の生きた時代は、独裁体制を敷くことをめざした北条氏によって、政争の嵐が吹き荒れた時代でした。鎌倉の都の中にありながら、ひっそりと静まり返った、「新釈迦堂」の故地に立つと、激しい時代を、学問の道に生きた仙覚の静かな情熱が、今でも感じられるようです。
[主な参考文献]
��.小川靖彦『萬葉学史の研究』おうふう、2007年 (*巻末に仙覚略年譜を付けました)
��.井上通泰『萬葉集雑攷』明治書院、1932年 (*「新釈迦堂」についての詳しい考証がなされています)
��.久保田淳編『岩波日本古典文学辞典』岩波書店、2007年(「仙覚」「万葉集註釈」の項)

【案 内】
日蓮宗本山 比企谷 妙本寺 
 〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1-15-1

*「新釈迦堂」のあった場所は、石碑の脇の道を上ったところです。私は、初めて、妙本寺を訪ねた時、うかつにも、石碑を見ただけで帰ってしまいました。
��参拝を済ませましたら、寺務所を訪ねてみてください。志納金を納めれば、パンフレットをいただけると思います(ただし、最新の情報は未確認です)。


【碑 文】(文・井上通泰、書・菅虎雄)(*旧字体を、新字体に直してあります)


此地ハ比企谷新釈迦堂、即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル竹御所夫人ノ廟ノアリシ処ニテ当堂ノ供僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ実ニ其僧坊ナリ。今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適ニ堂ノ須弥壇ノ直下ニ当レリ。堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム。西方崖下ノ窟ハ仙覚等代々ノ供僧ノ埋骨処ナラザルカ。悉シクハ萬葉集新考附録雑攷ニ言ヘリ。昭和五年二月。宮中顧問官井上通泰撰